僕がストーカーになるまで
築三十年は経っているだろうと思われるアパート。僕はそこの住人だ。
風呂とトイレはかろうじて機能しているが、床は軋むし壁には染みが点々としていた。まさにボロアパートと呼ぶに相応しい建物である。
僕がこのアパートに引っ越してきたのは、大学に入学した頃──。最初は、あまりのボロさに度肝を抜かされたが、家賃が格安なので仕方なく住んでいた。
卒業したら絶対に引っ越してやるという思いで必死に勉強し、就職も内定をもらい、卒業を間近に控えていたのだったが、僕は、その場所から離れるかどうか悩んでいた。
理由は、最近、隣の部屋に引っ越してきた女性のことが、好きになってしまったのだ。
彼女の歳は、二十代前半。おそらく僕と同い年くらいだろう。黒髪で清楚なお嬢様タイプで、透き通るような白い肌。そして何よりも、笑顔が素敵で気さくな女性だった。
アパートの通路で出会った時に「こんにちは」と挨拶をしてくれた。僕はその時の彼女の笑顔に、胸を打ち抜かれたのである。
なぜ、彼女のような人が、こんなボロアパートに越して来たのかは謎だが、僕にとってそんなことはどうでもいい。彼女の隣の部屋、一つ屋根の下で一緒に暮らしているという、揺るぎない事実があれば、僕はそれで満足だ。
僕は決してイケメンではない。恥ずかしながら、女性と一度も付き合ったことがないどころか、口すらも、まともにきいたことがない。そんな僕が出来ることといえば、彼女の生活パターンを把握し、偶然を装って彼女とすれ違い様に挨拶をする。これくらいだった。
そんなある日のこと。ベランダに出て、ふと彼女の部屋の方へ目をやると、部屋の窓の鍵が掛かってないのに気付いた。
このアパートのベランダは、薄っぺらい板が一枚、仕切りにあるだけで、頑張って身体をくねらせれば、彼女の部屋のベランダへ行けないことはない。
僕は悩んだ──。
少しでも彼女のことが知りたい。部屋に入り、彼女がどのような生活を送っているのかが知りたくなったのだ。
幸いなことに、彼女は今、部屋にはいない。しかし、留守中に部屋に侵入するという非人道的な行為が許されるだろうか。いや、許されるわけがない。僕は結局、彼女の部屋に入るのを断腸の思いで諦めた。
そして次の日──。
再びベランダから彼女の部屋の方を覗いて見ると、また窓の鍵が掛かってなかった。また次の日も、その次の日もである。どうやら、あの窓の鍵は掛かることがないらしい。
そういう現状を目の当たりにした僕の理性の箍は簡単に外れてしまい、気付けば、三つ又のコンセント型の盗聴器と、それを受信するレシーバーを購入してしまっていた。
そして、彼女が部屋にいないのを見計らって、僕は自らの部屋のベランダから身体をくねらせ、彼女の部屋のベランダへと侵入してしまっていたのだ。
駄目だ。引き返すならば今だと思った。だが既に僕の手は、自ら意思を持ったかのように、勝手に窓を開けようとしていた。
カラカラと窓が開く音が、向かいの工事現場の騒音より大きく感じた。僕は息を殺し、そろそろと、彼女の部屋へと足を踏み入れた。と同時に、もう後には退けないと思っていた。
彼女の部屋は、アパート部屋だけに、間取りは僕の部屋と同じだった。だけど、やはり女の部屋は違う。ボロいながらもきちんと整理整頓されていた。それに、何ともいえない良い匂いがする。これが女の匂いというやつなのだろうか。僕は、初めての女の部屋に興奮し、おもいっきり深呼吸をした。
──いい匂いだ。鼻の穴から肺に送られた空気で、体中が浄化された気分になる。
僕の行動はだんだんエスカレートしていった。
普段、何を食べているのか気になり、冷蔵庫を開け食材をチェックした。切りかけの野菜がキレイにラップで包んであり、マンゴープリンが入っていた。
洗面所には歯ブラシがあったので、口にくわえてみた。口の中がフレッシュになった気分だ。
ベッドで横になり、枕に顔を埋めてみると、まるで彼女を抱きしめているような錯覚に陥った。
この時の僕は、人生で最高の幸せを味わっていたような気がしていた。
しかし、いつまでものんびりはしていられない。もうすぐ彼女が帰ってきてしまうかもしれないからだ。
と思ったその時──。
部屋のドアの方から、ほんの小さな音が鳴ったような気がした。もしかしたら、彼女が帰って来たかもしれない。
僕はとっさに冷蔵庫を開け、マンゴープリンを手に取った。初めて彼女の部屋に入った記念に、何か持って帰ろうと思っていたのだが、慌てていたために、マンゴープリンしか思い付かなかったからだ。
そして、急いでコンセントに盗聴器を差し込むと、ベランダへ出て、後ろ髪を引かれる思いで自分の部屋へと戻った。
心臓がバクバクと鼓動を打っていた。取り返しのつかないことをしているのではないかと後悔もした。でもやはり、僕は彼女のことが知りたいんだ。彼女の生活する“音”をたよりに、少しでも彼女を近くに感じたいんだ。
僕はレシーバーを電源を入れ、ぎゅっとにぎりしめた。
それから程なくして、レシーバーからバタンというドアの開閉する音が聞こえてきた。彼女だ。彼女が帰って来たんだ。僕はレシーバーを、痛くなるほど耳に押し当てた。
スーパーのレジ袋の音がする。きっと晩御飯の食材か何かを買ってきたのだろう。そして、冷蔵庫を開く音がした時、僕の心臓の鼓動はピークを迎えていた。マンゴープリンが無くなっていることが彼女にバレないかと心配になったのだ。
だが、彼女は買ってきた食材を直しただけで、冷蔵庫を閉めたようだ。僕はホッと胸を撫で下ろした。
そのあと、何か繊維の摩擦音が聞こえてきた。もしかしたら、彼女は着替えを始めたのかもしれない。そう想像するだけで、僕は興奮した。そして、初めて聞く彼女の生活音に、僕の脳内のアドレナリンは、過去最高の量を分泌していたことだろう。
これはもう“病み付き”である──。
それからも、僕の盗聴生活は続いた。もはや部屋の中では、レシーバーを手放すことが出来なくなっていた。
彼女がテレビを見ていれば、僕もテレビで同じ番組を見た。
彼女がご飯を食べれば、僕もご飯を食べ、彼女が何を食べているのか想像した。
電気が消えたら寝る時間だ。僕は“限りなくリアルな”彼女との同棲生活を妄想していた。
ちなみに、マンゴープリンは、まだ僕の冷蔵庫の中に大切にしまってある。食べるのがもったいないからだ。賞味期限ギリギリまで、眺めて楽しむのだ。
一つ気になることがあるとすれば、彼女の部屋には訪問者がいない。ケータイで誰かと話す声も聞こえてこないのだ。
ひょっとしたら、友達がいないのかもしれない。それならそれでいい。なぜならば、彼女は僕だけのものでいてくれるのだから──。
盗聴生活にもマンネリ化してきた頃。僕は、新たな行動をとることにした。彼女の部屋に、隠しカメラを設置するのだ。
それはやり過ぎだとも少しは思ったのだが、盗聴器を仕掛けた以上、隠しカメラを設置しても同じことではないか。
要するに、一人殺すも二人殺すも同じということだ。
僕は盗聴器を仕掛けた時と同じように、彼女の部屋へ侵入し、隠しカメラを設置する場所を探した。
ちょうど、部屋全体を見渡せる所にコンポが置いてあったので、そのスピーカーの中に取り付けることにした。ここならわからないだろう。僕は部屋へ戻ると、早速モニターの電源を入れた。モニターの画面に、彼女の部屋が映し出される。
「よしっ!」
僕はおもわず声に出して喜び、部屋の真ん中で小躍りをしてしまった。
これで、彼女と一緒に生活することが出来る。一つ屋根の下に住み、同じ音を聞き、同じ物を見て、同じ感覚を得ることが出来る。そう、僕は彼女の生活を手に入れたのである。
僕は彼女が帰って来るのを、今か今かと待ちわびた。いつ帰って来てもいいように、モニターからは片時も目を逸らさず、レシーバーは常に耳から離さずにいた。
そしてついに、ドアの開く音が聞こえてきた。彼女が帰って来たのである。
彼女は真っすぐに部屋に入ってきたかと思えば、押し入れを開け、何やらごそごそとしていた。帰って来たので、とりあえず着替えをするのだろうと期待していたが、どうやら違うようだ。
残念に思いながらも、僕は彼女の行動をじっくり観察していた。
すると、彼女は押し入れから見覚えのある物体を取り出した。僕が今まさに見ているのと同じようなモニターであった。
わからない。彼女はいったい何を始めるつもりなのだろうか。
すると今度は、僕が今まさににぎりしめているのと同じようなレシーバーを取り出したのである。
僕は固唾を飲み込み、モニターから目を離せずにいた。
彼女がモニターの電源を入れると、何やらどこかの部屋なようなものが映し出された。そして、彼女は耳にレシーバーを当て、一言こう呟いた。
「私のマンゴープリン。食べたでしょ?」
僕はビックリして、その場で飛び上がり腰を抜かした。彼女の見ているモニターの中の人物も、同じような動きをしているようだった。
彼女は、そんな僕の行動を見透かしたように振り向いて、僕が設置した隠しカメラに顔を近付けてこう言った。
「嬉しいわ。あなたも私を覗いていてくれたなんて」
何が起こっているのかわからず、僕はキョロキョロと、自分の部屋を見回した。
すると──、
コンポのスピーカーの中に、キラリと怪しく何かが光っているのが見えた。
僕は結局、卒業を待たずに、そのアパートを引っ越してしまった。
(了)