5.夕闇の刻(とき) 2
ダートは村長の家に戻った。宴の席についていた精霊の騎士の姿を思い起こす。彼がわずかに微笑んだ時には驚いた。不意に光がさしたようで、目が離せなかった。
「ダート、窓を閉めて」
村長夫妻の娘の一人、リタに言われ、ダートは窓の方に行った。三人いる娘たち、リタ、ハナ、エイダがくすくす笑ってしゃべっている。美人だが気がきついリタ、穏やかで良く気がつくハナ。末娘のエイダは体が弱く、いつも家の中にいる。
三人は三人とも精霊の騎士が気になるらしく、興奮した様子でずっとおしゃべりをしている。あまりにうるさいのでアイラが叱りつけた。戸板を持ち上げているつっかい棒に手をかけつつ、外をのぞく。向こうにルカスと精霊の騎士が立っているのが見えた。何か話している。見ている内に彼らは別れ、ルカスがこちらに向かって来た。
精霊の騎士は一人残っている。
「失礼するよ」
そう言ってルカスが入ってきた。
「ルカス師。精霊の騎士さまは……?」
リタが走り寄る。ルカスは答えた。
「夜の間、見回りをなさる。しばらくは眠る必要がないそうだ。わたしもこれから夜の祈りだ。納屋に行くよ。手燭をもらえるかな」
ルカスの言葉にダートは、盗み聞いた昼間の会話を思い出した。そうだ。精霊の騎士は食事を取らず、眠らなくても平気なのだ。
でも、本当にそうなのだろうか?
(あいつ、細っこかった)
もう一度外を見やる。しかし暗くなった屋外では、騎士の姿はよくわからない。
「ダート! いつまで窓を開けてるんだい」
アイラに怒鳴られ、ダートはつっかい棒を外し、戸板を降ろした。きっと大丈夫だろう。彼は精霊の騎士なのだから。魔物がうろついたとしても、平気なはずだ。
昼間見た、血を吐いていた彼の姿が脳裏を掠める。しかしダートは不安を押し殺した。彼は平気だ。そのはずだ。魔物を倒すのが、精霊の騎士の仕事なのだから……。
暮れなずむ空と大地を眺めながら、クリスは押し寄せてくる闇の気配を感じていた。
「我は呼ばわらん」
昔読んだ詩が口をついて出る。母が持っていた詩集の中にあった。兄妹二人でそれを読み、意味もわからず暗記した。
「誰そ、彼は。薄闇は薄明かりと手をつなぎ、空は大地と混じり合う。
誰そ、彼は。現れし者を何と呼ばん。
夢を現と見紛い、現を夢と見紛う今。こは我の思う相手か、……我を惑わす夢か。
しかして我もまた夢、現に落ちたるひとひらの夢……」
夕闇がやって来ると、物の輪郭がはっきりせず、やって来た者も誰なのかわからない。だから『誰か』と呼びかける。『呼ばわりの時』なのよ……母であるフィオリーナはそう言った。黄昏時には夢や幻が、この世界に紛れて現れる。だからしっかりと相手の名を呼ばないといけないの。やって来た相手を間違えないよう。愛する人を見失わないように、と。
『マリーア! クリース……』
自分たちを呼ぶ母の声。
『わたくしの菫と柘榴石。二人とも、どこにいるの?』
『お母さま!』
『ほら、妖精の鍵の桜草。お母さまにあげる』
『まあ、マリア。クリスも。ありがとう。春がもう、来ているのね……』
銀の髪、紫の瞳の優しい人。生まれた時から側にいた、性別の違うもう一人の自分。かけがえのない人々。彼らは館が炎に包まれた時、永遠に失われた。
「誰そ、彼は」
『マリーア。クリース……』
『どこにいるの?』
胸の奥に穴が開いている。虚ろで冷たく、風が吹いている。この風がやむことはないだろうとクリスは思った。そうして風は、わたしを凍らせる。
「誰そ……我は」
『二人とも、どこにいるの……?』
夢と現を見紛い、取り違える夕闇の刻。
幻でも良いから、もう一度会いたい。
* * *
陽の名残が消えてゆく。頭上に瞬き始めた星を見上げ、ラルフはため息をついた。
「歩いている内に一日が終わる……グレイはどこまで行ったかな」
ぼやくように言う。
「風の加護を持つ同僚が一人いれば、移動はあっという間なんだが。付き合うのに用心がいるけれど」
風の精霊に選ばれた騎士のほとんどは、その能力が高ければ高いほど、常識や分別が欠如していた。協調性も見事にない。『面白そうだから』との理由で命に関わる悪戯を仲間に仕掛け、『面倒だから』との理由で依頼主を抹殺しようとした騎士を、ラルフは少なくとも二人は知っている。
それだけの事をしたと言うのに彼らは、かけらほどの罪悪感も持っていなかった。と言うより、自分がそれをしたという事も覚えていないだろう。彼らにとっては瑣末な事であり、覚えているだけの価値はない出来事だったからだ。
被害に合った者はもちろん、後始末を押しつけられ、依頼主を宥めるのに大汗をかいた者は決して忘れないのだが。
「エイモスどのは偉大だとつくづく思うよ」
ラルフはつぶやいた。風の精霊を持つ騎士はなぜか、地の精霊を持つ騎士を好む傾向にあった。上位十三名には風の精霊を持つ騎士が多い。結果として彼らの気まぐれによる被害は、特定の騎士に集中した。半殺しにされないだけの実力を持つ騎士は、限られていたからだ。
地の貴妖を持つエイモスは、百年以上も暴走しがちな彼らの抑えになっている。ラルフも第三位という位階と地の魅妖を持つ事から、ここ数十年、彼らの抑えに回される事が多かった。
ちなみに地の精霊に好まれる騎士はほとんどが実直で、常識を大切にする。苦労性の者が多いとも言える。
『すまないね。わたしの属性が雷で』
そんな声がして、ラルフの側に青年が現れた。褐色の肌をした美しい男は、しなやかな体つきをし、野性的な風貌を持っていた。ラルフと同じ金色の瞳。白金の髪には、赤や朱色の房がいく筋も混じっている。
「破空」
ラルフが精霊の名を呼ぶと、男は眼差しを柔らかくした。
『わたしの騎士は、何を悩んでいるのかな』
「悩んでいるわけではありません。焦ってはいますが」
『それはわかるが、悩んでもいる。自分でも気づいていないのか?』
この言葉にラルフは眉根を寄せた。
「俺は……悩んでいますか」
『恐れてもいる』
ラルフは自分の精霊を見つめると、息をついた。その場に腰を下ろす。歩き続けるのにはそろそろ飽きていた。
「契約などするものではありませんね。見たくはないと思っている自分の心の奥底まで、暴かれてしまう」
『気づきたくはなかったのか。それはすまない事をしたな』
精霊は笑いを含んだ声で言うと、彼の横に腰を下ろした。ラルフはため息をついた。
「そんな事、思ってもいないくせに」
『思っているよ』
「人間の考えている事や、行動が面白いと思いながらでしょう。不愉快だ」
そう言うと、雷の精霊は人間臭い仕種で肩をすくめた。
『仕方がない。われらと人間は違い過ぎる存在だ。ことにわたしはお前に心を奪われている。ラルフ、我が騎士よ。愛する者の事を知りたいと思う事は人間でも、おかしな事ではないと思うが?』
「六十年も言われ続けるとさすがに慣れますが……人前では言わないで下さい、それ」
『愛する者に愛していると言うのをなぜ、抑えねばならない?』
楽しそうに言う精霊に、ラルフはため息をついた。
「破空。あなたのその姿が仮のものだと言う事を、俺は知っています。男女の区別はあなたがたにはない。あなたたちの愛情がどちらかと言うと、親が子どもに抱くたぐいのそれに近い事もね。
でも普通、人は形を見るんですよ。人間の感覚からするとあなたは立派な男性で、そんなあなたが俺を愛していると言うのは少しばかり妙に見えるんです」
しかしそう言ったラルフに、精霊はあっさりと言った。
『気にするな。わたしは気にしない』
「気にして下さい。俺が気にしてるんです。せめてあなたが女性の姿を取ってくれていれば、ごまかしようもあるんですが」
『わたしは最初の契約者との契約時に、この形に限定されてしまった。変化はできないわけではないが、力がかかる』
精霊が言い、ラルフはうなずいた。
「わかっています。契約するのは俺で二人目だと言っていましたね」
『われらの中には契約者を次々と変える者もいるが、わたしにはできなくてね。だからわたしは人間に不慣れなままだ。すまないね』
「それも知っています。あなたが最初の契約者を、今も大切に思っている事も」
なぐさめるようにラルフは言った。
「多分、そんな不器用な所が俺と合ったのでしょう。俺も自分が不器用な人間だと知っていますから。教えて欲しいのですが、俺は何に対して悩んでいるのですか?」
『お前の心の奥底は探らない。そう約束した。だからわたしには、お前が何を悩んでいるのかはわからないよ』
「何に対して戸惑っているのか、ぐらいはわかるでしょう」
『ああ、お前は戸惑っていたのか』
雷の精霊はわざとらしく言った。
『小さな新しい騎士に対して、お前はあれこれと考えている。お前がその騎士に抱く感情は、われらが各々(おのおの)の騎士に抱く思いに少し似ているよ。その小さな騎士に会った事もないのに、大切にしてやりたいと思っている。それを戸惑いと呼ぶのならば、そうだろう』
ラルフは顔をしかめた。からかわれているような気がしたのだ。
「十五で家族を失い、何も知らぬまま契約したとあれば、気にかけるなと言う方が無理でしょう」
『ラルフ、我が騎士よ。お前は本来、利己的な男だ。違うかね?』
微笑んで精霊は言った。
『多くの者がお前を慕う。誰に対しても分け隔てなく振る舞い、騎士の上位に位置していながら権威を振りかざす事もない。謙虚でそれでいて頼りになる男、信の置ける人物だと誰もが言う。
だがお前が多くに優しさを振りまけるのは、相手の事を何とも思っていないからだ』
その通りだとラルフは思った。精霊の騎士も、元は普通の人間だ。連帯感を抱く事もあれば、反発する事もある。友情を抱く事も。だがラルフはいつも、どこか孤独だった。自分には何かが足りないのではないか。そんな気がしてならなかった。
大切な相手はいる。エイモスの事は信頼している。彼に頼まれれば命がけの仕事にも取りかかるだろう。エストの事も大事だ。彼が危ういと聞けば、どこにいても駆けつける。他にも親しくしてきた騎士たちがいる。彼らが傷を負えば心配もするし、命を落とせば涙を流す。だが。
どこかが。何かが足りない。
「そんな俺と契約したあなたは何なのです、破空……いえ、白輝破空王。高位のあなたが望むなら、どんな騎士でも選べたでしょうに」
称号を持つ貴妖は高位の存在だ。中でも色彩を名の内に持つ者は輝妃に近い実力を持ち、『別格』として扱われる。
『わたしはそんな人間が好きなのだよ』
雷の精霊は言った。
『我が騎士。我が愛しい者よ。お前が自分の事を不器用な人間だと言った事は正しい。お前は不器用な人間だ。まだその小さな騎士には会ってもいないのに、お前は悩み、恐れている。期待があるからだ。その期待を裏切られるのではないかと恐れ、その恐れについてまた悩む』
「俺が何を期待していると?」
『それはお前の考えること』
精霊は言った。
『なぜ期待するのか。なぜ恐れるのか。お前はそれを、自分で考える事を禁じている。だがそろそろ、考えてみるのも良いと思うぞ。会った後にどうなろうとも、それはお前の問題なのだしな』
「まるで俺が、彼に会った途端に我を忘れて暴走するかのように聞こえます」
『その方が良い』
真面目な顔をして精霊は言った。
『我が騎士よ。お前は利己的な人間だ。誰かの為に我を忘れる事すらできない。できるものなら暴走してくれ。馬鹿な事をし、無茶をしてくれ。
わたしはお前を愛している。どれほどお前が馬鹿な真似をしようと、この事実が変わる事はない』
雷の精霊はそこで、悲しげな笑みを浮かべた。
『わたしがこう言った所で、お前の心には届かないのだが』
「破空……?」
『わかっているか? お前を愛する者は多いが、誰もお前の心の奥には入れない。お前が入れようとしないからだ。
お前は愛する事を恐れている』
そう言うなり、精霊は姿を消した。ラルフは眉をしかめた。言いたい事だけ言って消えるとは、少し卑怯ではないか?
「上位の騎士が暴走したとなると、街一つぐらい壊滅するんだけどね……」
そう言うと彼は立ち上がった。
(愛する事を恐れている……?)
馬鹿な事を、とラルフは思った。恐れてなどいない。確かに少し、疲れてはいる。何かを感じる事に。だがそれだけだ。おかしな事は何もない。そう、多分。向けられる好意をわずらわしいと思うようになったのも、誰かに頼られる事を面倒だと思うようになったのも……大した事はない。
クリステア。家族を失い、何も知らぬまま精霊と契約した少年。
(俺が剣の院に放り込まれたのも、十五だった)
長ドーラの弟ベルナルドが気まぐれに手をつけた、酒場女から生まれた子。生きている恥。目障りな存在。それが緑鷹家からラルフが受けた評価の全てだった。
引き取られこそしたものの、優しい言葉をかけてもらった覚えはない。本当にベルナルドの血を引くかどうかも怪しいと、使用人でさえ嘲った。
それでいて、由緒ある緑鷹家が『剣の院』に一人の男子も送らないのは面目が立たないと誰かが言いだした時、真っ先に選ばれたのはラルフだった。他の者は誰も、死ぬかもしれない試練に兄弟や息子を差し出したがらなかったからだ。
死んでも惜しくない者は、彼だけだった。
『おまえがおれの子なら精霊と契約しても生き延びるし、そうでないなら良い厄介払いだ。どちらにせよ、酒場女の子が大した出世だ。喜ぶんだな』
父親であるはずのベルナルドは、そう言って笑った。
誰もラルフが生き延びるとは思っていなかった。ラルフ自身ですら。それでも『剣の院』に行ったのは、姉の事があったからだ。
異父姉のシエラはあのころ、五十近く歳の離れた老人の後添えにされかけていた。だからラルフは、ドーラに取引を持ちかけた。自分は『院』に行く。その代わりにシエラの後見をつとめ、彼女に幸せな結婚をさせて欲しいと。
ドーラは約束を守った。
(シエラ)
彼女は幸福な結婚をし、多くの子や孫に囲まれて生涯を終えた。優しい女性だった。いつも無条件に自分を愛してくれた。
けれど彼女はもういない。
とてつもない疲労を感じ、ラルフは顔を伏せた。時間が急に伸しかかってきたように思えた。あまりの重さに身動きができない。何かを感じる事も、億劫だ。
(破空が言ったのは多分、この事だ)
向けられる好意をわずらわしいと思うようになったのは、いつからだろう。感情が重くて。自分の内で何かが動くのがつらくて。
『愛しているわ、小さなラルフ』
それが彼女の最後の言葉。シエラにとって、ラルフは最後までかばわねばならない弟だった。姉の愛には感謝していたし、ラルフ自身、彼女を愛していた。だが彼女の死にラルフは裏切られたような気がした。普通の人間である彼女が死ぬ事は避けられない。最初からそれはわかっていたのに。
逝ッテシマウノカ。
オレハマダ、生キテイル。
生キ続ケナケレバ、ナラナイノニ。
『精霊の騎士である事は、失い続けるという事だ。愛する事は失う事。誰を愛するにせよ、その相手は必ず先に逝く』
そう言ったのは、エドモンド。ラルフが低位の騎士であったころからの親友だった。その彼が魔物との戦いで命を落としたのは、それからしばらくしてからだった。
『よお、ラルフ。派遣先で美人につきまとわれたって?』
『お前ばかりがなんでモテるんだ。この人畜無害そうな顔がいいのかな』
ロディ。アーサー。同じ時期に院に入った騎士たち。顔を合わせれば軽口を叩き合った。彼らも死んだ。今同期の騎士で生き残っているのは、十一位のケインだけだ。彼が死ねば、少年のころの時間を共有した者は、誰もいなくなってしまう。
(……シエラ)
彼女の顔も、今ではおぼろにしか浮かばない。時が流れれば流れるだけ、自分から熱が奪われる。大切だった思いすら。
生き続ける限り、失い続ける……。
闇が降り立つ。大地を、全てを、懐に包み隠そうとする。
しかし精霊と融合しているラルフには、何もかもが良く見えた。空も。大地も。荒れた大地に点在する小さな緑、そこに息づく様々な命も。彼は再び、歩き出した。クリスがいるオルの村の方角に向かって。
哀れな事だ、とラルフは呟いた。自嘲するように。哀れな事だ、と足音が自分に返す。お前こそがそうだと言いたげに。
クリステア。若くして精霊と契約した少年。いずれ彼も失い続ける事に倦み、何を見ても何も感じなくなるのだろう。かつての騎士が皆、そうなったように。自分がそうなりかけているように。
だが今はまだ、彼の心は人間だ。
それが哀れで、……うらやましい。
彼に会いたいのは憐みからではない、とラルフは思った。俺は十五だった頃の自分を思い出したいのだ。そうしてまだ、何かを感じる事ができると。自分自身に証明したい。俺はまだ、人間の範疇の内に留まっているのだと……。
歩き続けるラルフの頭上には、夜空が黒天鵞繊の天蓋のように広がっていた。瞬く星々は美しかった。悲しいまでに。