4.聖と魔と 1
ルカスに村を案内された後、クリスは一人でもう一度、ゆっくりと歩いた。石を積み上げて土で固めた家が七つ、井戸を囲むようにして建っている。家畜の鳴く声。漂ってくる糞尿の匂い。家の規模はいずれも、大きなものではない。
目に映る風景は、全体的に赤茶けている。風は乾いて埃っぽい。畑を耕す村人の姿が見える。乾いた大地の上で懸命に働いている。井戸が枯れてしまったので、畑にまく水も川から汲んでいるとルカスは言っていた。水を汲むむのは子どもの役目らしい。みんなふうふう言いつつ、水の入った桶を運んでいる。
厳しい暮らしだ、とクリスは思った。けれどここに住む者たちには、これが当たり前なのだ。土を耕し、家畜を育て、食べ物を手に入れる。どんな年齢の者であれ、働ける者は手伝う。そうやって日々を生きる。都の人々がこの村の暮らしを見たなら、貧しくも哀れな人々よと言うだろう。けれどこの村の者たちには、その意味がわからない。確かに貧しくはあるが、毎日を暮らしてゆけるのなら、十分に幸せだと彼らは考えている。畑を耕す事も、重い桶をかつぐ事も、彼らにとってはごく当たり前の事。両親も祖父母も、みなこうやって暮らしてきたのだと彼らは言うだろう。そのどこが、哀れな暮らしなのかと。
そう、十分に満足して暮らしていたのだ。『魔物』という災いさえやって来なければ。
表面には出さなかったものの、クリスは村に入って以来ずっと、神経を尖らせていた。そこかしこに漂う腐臭に。歩くたび、土から悪臭が立ちのぼった。それは空気の流れにすら込められており、彼の体にまとわりついた。
感覚に響いてくる微かな警報。
気ヲツケロ。気ヲツケロ。気ヲツケロ……。
魔物の『刻印』。
土地とそこに住まう生き物は自分のものであるとする、意思表示である。
精霊の騎士にとって魔物の気配は、臭気として感知される事が多い。鼻で感じているわけではなく(鼻をつまんでも遮断できない)、融合している精霊の感情を、匂いとして認識する為らしかった。『刻印』は魔物が自分の所有物につける印なのだが、特定の人間に刻まれる事もあれば、土地そのものに刻まれる事もある。いずれの場合も精霊と融合している者には不快なものとして認識された。
騎士たちの間では単純に、『匂い付け』と呼ばれている。
広範囲の土地に『刻印』が刻まれている場合、騎士にとって状況は芳しくないものとなった。精霊の能力が阻害され、著しく限定されてしまうのだ。ただこれはかなりの力を使う為、魔物にも相当な負担となる。
(妙だな。この感じは怪魔だが)
クリスは眉をひそめた。低位の魔物である怪魔は普通、一つ所に拠点を定め、やって来る人間を餌として食らう。狩りがうまくゆかねば場所を移動するが、餌が逃げても追う事は稀だし、土地全体に刻印するという発想は持たない。食欲が先に立つので、目に入った人間をまず食い尽くそうとする為だ。『刻印』……『匂い付け』をするのは上級の魔だ。それらが低位のものに擬態している可能性も考えたが、それにも違和感があった。
(怪魔がこんな真似をしたなど、聞いた事がない。高位の魔物ならまだわかるが。一体、これは……)
土地は魔物の支配下に落ちている。それは確かだ。だが、なぜこんな事になっているのか、どう対応すれば良いのか、まるでわからない。
自分には経験がない、とクリスは思った。なさすぎる。井戸に向かって少年は、ゆっくりと歩いた。表情は変わらず、傍目には落ちついているように見える。けれど彼は、不安と焦りを覚えていた。
(これが初仕事だと知ったら、村長はもっと不安がっただろう)
指導役の騎士とこの村で合流するようにと、クリスは言われて来た。もう到着しているものと思っていたのに、自分の方が先に着いてしまうとは思わなかった。こういう場合、なりたての自分が先走っても良い結果は出ない。もう一人の到着を待ってから、行動を開始した方が良いのだが……。
立ち止まり、後ろを振り返る。小さな影がさっと隠れるのが見えた。あの子どもだ。村まで案内してくれた。家族が殺され、自分も奴隷として売られるという。
精霊の騎士だと名乗った時から彼はずっと、少し離れた所から自分の方をうかがっている。不安なのだろう。これが本当に自分の望みを叶えてくれる相手なのかと。そうでいながら期待せずにはいられない。
魔物に対して人間は、あまりにも無力だ。
あの子どもが今、何を感じているのか、クリスには手に取るようにわかった。強大な力を持つものを目の前にした時の、恐怖。絶望と無力感。それを毎日、くり返して思い出す。そうして生き延びてしまった罪悪感を味わう。家族を殺した相手を倒したいと、仇を取りたいと願いながらそれもできず。そうしてそれのできるだろう相手に微かな希望を抱き……罪悪感は募り続ける。どうして自分にはそれができないのかと。
(その全てを、わたしは知っている)
そっと目を伏せると、クリスは井戸の方を向いた。そちらに近寄る。
井戸の周辺には濃く重い魔物の『気』が漂っていた。暗く陰って見えるほどだ。手袋の下で、自分の精霊の印が微かにうずくのをクリスは感じた。
(ここが出入口か……)
悪臭に顔をしかめ、クリスは思った。
(地下の水脈に潜み、井戸を通じて村に現れたのだな。水が枯れたのはそのせいか)
クリスの目に、魔物のたどった道筋が赤く浮き上がって見え始めた。融合した精霊が見せてくれているらしい。井戸を中心にして、村中を歩き回っている。
(古いものも新しいものもある。随分前から出入りしていたのだな)
やはり妙だ。そうクリスは思った。本能が全てに優先する怪魔は、獲物を見つけたならただちに襲う。だがこれはまるで、村中を歩いて品定めをしたかのようだ。
(怪魔ではないのか……?)
経験のない自分では判断できない。だがこれを放置しておくわけにもゆかない。
クリスは背負っていた革袋から護符を四つ取り出すと、井戸の周辺を回った。方角を確認した後、東に立つと地面に膝をついた。
「風を司るものありて、ここに立つ」
ささやくように言うと、護符を土に差す。言葉の響きが、護符に込められた力を活性化させた。複雑な紋様が光を放ち、宙に描かれる。同時にぐん、と体を押さえつける圧力を彼は感じた。魔物の『気』が精霊の力に反発しているのだ。
次に彼は井戸の南側に立ち、同じように護符を土に差した。
「炎を司るものありて、ここに立つ」
腕に衝撃があった。強いものではないが、一瞬ためらうほどのものだった。言葉に護符が反応し、宙に光の紋様が描かれる。圧力はさらに増し、立ち上がるのに少し苦労するほどだった。井戸の西に向かうのに、足がもつれそうになる。
「水を司るものありて……ここに、立つ」
土に差そうとした瞬間、大気がずしりと重くなった。思わず言葉が止まりかけたが、最後まで言う。
(息が、苦しい)
腐臭が強まる。大気は重く、ねっとりとまとわりつく。呼吸するたびに体の奥から穢されてゆくようだ。
それでもこの井戸は、封じなければならない。
光の紋様が描かれるのを見届けると、重圧に耐えながらクリスは立ち上がった。強まる腐臭に目まいがする。たよりない足どりで、クリスは井戸の北に向かった。膝をつくと、護符を土に差す。
「地を司るものありて……、ぐっ」
ぐん、と力を増した重みに咳き込んだ。地面に両手をついたまま、クリスは重圧に耐えて言葉を続けた。
「地を、司るものありて、ここに、立つ」
光の紋様が宙に描かれた。これで四つの『力』が発動した事になる。自分の言葉と歩いた道筋は、円を描いている。だがまだ、閉じていない。
体をぎりぎりと締め上げる大気に逆らい、立ち上がるとクリスは、最初に護符を差した場所に向かった。それだけの動きがひどく大変な作業に思えた。自分の体が自分のものではないかのようだ。呼吸はもはや、ほとんどできない状態だった。頭ががんがんと痛み、視界が暗くなる。重くねばつく大気をかきわけるようにして、井戸の東に向かう。
「……しかしてこの輪は、閉じ、いかなるものも、出る事あたわじ」
定められた言葉を言い終わった途端、周囲で大気が裂けるような音がした。重圧が消え、クリスは体勢を崩して地面に膝をついた。井戸を囲み、光の網が張られているのが見える。簡単な『封じ』だが、これがある限り、魔物はここから出入りができなくなる。
(ここまでの反発が来るなんて……土地が支配下にあるからか?)
咳き込むと、地面にぱたぱたと何か落ちた。口をぬぐうと、手袋に血がついた。
(手巾でぬぐえば良かった)
手袋を汚してしまったと顔をしかめ、光の網を見やると、力が増しているのがわかった。おやと思い、地面に目をやると、落ちた血が淡く光っていた。
(ああ。わたしの血を媒体として、精霊の力が発動したのか……)
なぜと思った次の瞬間、融合している精霊から答がよこされた。自分の肉体も、血も、精霊のものとなっている。つまりは力そのものの『かけら』と言って良い。それが術に干渉した事で、結界を強化したらしい。
身の内でふと、融合した精霊が身じろぐような気配を放った。どこか得意気な感情が伝わってくる。言葉にはならないが、どうもこの土地に『刻印』を施した魔物の実力を馬鹿にしているようだ。
(自分に比べたら弱いと言いたいのだろうけれど。『依』にしているわたしの肉体が弱いから、あまり力は発揮できないね。ごめん)
そっと自分の内側に向けてささやくと、宥めるような気配があって、それきり静かになった。表面に出てくるつもりはないらしい。
精霊や魔物は大きな力を持つが、そのままではこの世界で力を発揮できない。彼らが力を使う為には、この世界の何かを媒体にする必要がある。それが『依』と呼ばれる存在だった。彼らは『依』を焦点として己を限定し、力を使う。
精霊の騎士とはつまるところ、精霊の『依』であり、彼らが力を使う為の器だった。
魔物の『依』と違う所は、彼らが人間の意思を尊重している所である。魔物は何かを『依』にする時、相手の思惑は一切構わず、意思を破壊し尽くした後に器とする。だが精霊たちは基本的に、融合した人間の意思を大切にした。ただしそれは、力を発揮するという点では、魔物の『依』に大きく引けをとるという事である。魔物が『依』の肉体を力が発揮しやすいよう改造するのに対し、精霊の騎士の変化・変質は、人間の意識が耐えられる範疇のものに留まったからだ。つまるところ、どれだけ強力な精霊でも、発揮できる力は『依』の人間が持っていた能力や資質に左右されるという事になる。
クリスの場合、十五歳で契約した。肉体も精神も成長しきらない内に融合されたのである。この時点で既に、不利な条件となっている。さらに彼と契約を結んだ精霊は、ことさら慎重に振る舞った。弱い器に強い力を注げば、器が壊れてしまう。それでこの精霊はクリスの奥深くに潜んだまま、自我を現さないといった行動に出た。自身の存在をできうる限り小さく抑え、クリスに負担をかけまいとしたのである。
これがまた、クリスには不利に働いた。精霊の騎士は融合した精霊の属性によって、扱える能力が決まる。契約が成立した時点で、精霊の属性に応じた異能を騎士は備えるようになるのだ。だがその能力も、最初から使えるわけではない。訓練を積み、初めて自分のものになる。クリスの場合、精霊の気配が奥深く沈んでしまっているので、どの種類の精霊なのかすらわからない状態だった。訓練などできようはずもない。
結果としてクリスは精霊の騎士ではあるが、その力は使えないという、中途半端な存在となった。おかげで院では不良品扱いだ。エイモスが『同調がうまくいっていない』と言った理由も、この辺りにある。
さらに彼はもう一つ、致命的な問題を抱えていた。『剣の院』の神官はもちろん、他の騎士にも決して知られてはならない問題を。
喉の奥にあった重苦しいものが消え、クリスは息をついた。立ち上がる。精霊と契約して以来、五感は鋭くなり、肉体も強靱になった。病にかかる事がなくなり、怪我をしてもすぐに回復する。喉の痛みは魔物の『刻印』に反応した挙げ句、大気に混じる力を吸い込んだ事で、喉の奥が切れた為だった。その傷が癒えたのだ。
(こういう事がわかるようになったのも、精霊と融合してからだ)
クリスは思った。融合した精霊は、惜しみなく知識を与えてくれる。不思議に思った事にはすぐに、対応した知識をよこしてくれた。必要とする能力も、その時に応じて使えるようにしてくれている。精霊がどういうものなのかは、融合した今も正直言ってわからない。ただ自分と融合した精霊は、ひどく自分を気づかっていた。それはわかるのだが……。
(なぜ、わたしだったのだろう)
クリスは思った。契約を交わして以来、何度となく思ってきた事だった。自分よりも知恵や力に優れた者は、いくらでもいたはずだ。なのにどうして自分だったのか。
問いに対する答はない。彼の精霊は沈黙している。そこでクリスは自分を見つめる視線に気づいた。そちらを見る。
険しい顔をした少年が、立っていた。
ダートが物陰から見ていると、精霊の騎士と名乗った銀の髪の少年は、ゆっくりと歩いて井戸の方へ向かった。しばらく眺めた後、妙な事をし始める。懐から出した何かを地面に差し、何かつぶやきながら井戸の周囲を回り始めたのだ。
(何してるんだろう)
不審に思ったが近づく事はためらわれた。そのまま見ていると、様子がおかしい事に気づいた。足どりがふらついている。ついには地面に膝をついたまま、咳き込んだ。
(何だあいつ、病気か?)
弱そうな騎士だと思ったけど、病気にまでかかってるのなら、あまり頼りになりそうにない。そう思いつつそっと近づくと、立ち上がった彼の口許に赤いものがついていた。はっと息を飲む。
血だ。
そこで少年がこちらを向いた。ダートはその場に立ちすくんだ。彼の口許の血から目が離せない。
「何か用ですか」
静かに話しかけられて、ようやくダートは自分が突っ立ったまま、相手を見つめていた事に気づいた。眉をしかめ、何か言おうとして失敗してからごくりと唾を飲み込む。そうして言った。
「あんた、どっか悪いのか」
「どこか……?」
「ついてる。口」
銀の髪の少年はまばたいてから、口許に手をやった。
「大した事はありません」
置いてあった革袋から布を出して、口をぬぐう。ダートは少し驚いた。汚れのない、綺麗な白い布だったからだ。なのに血をふくのに使うなんて、と彼は思った。この辺りでは、水鼻やよだれは手でぬぐって終わりが当たり前だ。ちょっとした血も同じだった。布地は貴重品だ。大した事もないのに汚したりするなど、もってのほかだった。
布をじっと見つめていると、向こうも気づいたらしい。「何か?」と尋ねてきた。
「何でもない」
ぶっきらぼうに、ダートは答えた。だが視線は白い布に当てたままだ。正確には、布についた騎士の血に。
精霊の騎士はダートの視線の先をたどり、自分の血に驚いたのだと思ったらしい。
「わたしたちでも血は流します。本当に、大した事はないのですよ……驚かせてしまったようで、すみません」
そう言って、布をしまった。ダートは何か、弁明しなければならないような気になった。
「そうじゃない。そうだけど。驚いたけど……それは。あんたが布を汚したから。変な事をすると思った」
言われたクリスは一瞬、何を言われたのかわからなかったらしい。少しまばたき、それから「ああ」と言った。
「習慣なんです。血や汚れを取る為に、持ち歩いているので」
「だったらぼろ布でいいだろ。もったいない。そんな綺麗なの使わなくても」
「そうですね。でもなるべく綺麗なものを持つようにしているのです。裂いて包帯に使う事もありますから。わたしの母は、薬師でしたので」
付け加えられた言葉に、ダートはまばたいた。
「く、くす……?」
「怪我をした人や病気の人を、薬草を使って助ける人です。花の乙女とは違いますが。傷口に汚い布を当てると、傷が悪くなるのです。だからいつも清潔な布を持ち歩くようにと言われて育ちました」
説明された言葉に、そんなものかとダートは思った。綺麗な布を汚した事には、まだ違和感が残っていたが。
「そうか。騎士だもんな。怪我する事だってあるか。けどあんた、大丈夫なのか。どっか悪いのに戦えるのか」
ぶっきらぼうに言うダートに、クリスは答えた。
「戦えますよ。それより、立てた護符を踏まないよう気をつけて下さい」
「ごふ?」
「そこに」
クリスに言われてダートは地面を見た。何か刺してある。
「魔よけです。魔物はこの井戸から出てきた。だから塞ぎました」
ダートは顔を強張らせた。言われた内容に衝撃を受けたのだ。ここに魔物がいた……ここから出てきた。その言葉に身が竦んだ。恐怖がじわりと足元から這い登る。嫌な汗が流れるのがわかる。息が苦しいと思い、自分が息を止めていた事に気づいた。しっかりしろ。自分で自分にそう言い聞かせる。息をするんだ。ぶっ倒れるような真似はするんじゃない。
ようやく呼吸が元に戻った時、彼は精霊の騎士が何も言わず、自分の方を見ていたのに気づいた。何となく恥ずかしくなり、少年は顔を背けた。