3.銀色の少年
ダートはクリスを村長の家へ案内した。水探し(シーカー)の女は、村の外に留まった。
村長のモースは妻アイラと共に畑仕事に出ていたが、村に滞在中の神官ルカスがいた。ルカスはクリスの若さに驚いたようだったが、礼儀正しく対応し、家の中で待つように告げた。その時点でもう、見慣れないよそ者に気づいた村の子どもや大人たちが遠巻きにし、クリスをじろじろと見、大きな声でああだこうだと言い合っていたからだ。ほどなくしてモースとアイラは、大慌てで戻ってきた。
「これが精霊の騎士? こんな吹けば飛びそうなのが? その辺の子どもの方が、もっとしっかりした体つきをしているぞ」
村長のモースは、家に入ってクリスを見るなり、落胆の表情を浮かべて言った。神官がそれをたしなめる。
「モース。はるばる来て下さった方に失礼ですよ」
「しかし、ルカス師。こんな奴の為にダートは犠牲を払ったんですか。王都のやつらは俺たちを何だと思っとるんだ」
言いたい事を言う村長を、クリスは黙って見つめている。アイラはおろおろしながら、お茶の支度をとか、寝床の準備はとかつぶやいている。
「モース! 精霊の騎士は歳を取りません。彼はあなたより年上かもしれないのですよ」
神官が言い、すまなそうな表情をクリスに向けた。
「騎士さま。この辺りでは精霊の騎士は物語の中のみの存在で、実際に出会った者はいないのです。失礼をお詫びいたします」
そう言うと彼は、床に膝をついて手を組み、その手を上げて頭を下げた。神官が身分の高い相手に行う最高の礼だった。モースもアイラも驚いて押し黙る。
「立って下さい、神官どの。わたしの姿が不安を抱かせるのは、無理のない事」
何を言われても黙っていたクリスはそこで、静かに言った。村長夫妻に目をやる。
「ご婦人。食事と宿の事ですが、わたしには不要です。精霊……フェイと契約した者は、十日に一度食べるだけで十分なのです。ここへ来る前に食事をしましたので、しばらくは何も食べなくとも動けます。宿も、夜にはこの近辺を見回る事になりますので、寝台でやすむ事はないでしょう。気になさいますな。村長どの。この姿では信じきれぬかもしれませんが、魔物は必ず退けます。それと、これを聞けばあなたの不安も少しは解消されるでしょう。騎士はもう一人来ます。わたしの方が先に着いたのです。彼はわたしよりも年長の姿をしています」
「いや、その、別にあんたを不安だと思ったわけじゃなく。つまり」
怒る様子もなく淡々と言われた言葉に、モースはうろうろと視線をさまよわせ、煮え切らない態度でもぐもぐと言ってから、押し黙った。少年の言葉から改めて、相手が普通の人間とは違う存在なのだと気づかされたのだ。十日も食べずに動き回り、夜も眠らず歩き回る存在が普通であるわけがない。そこでようやく気づいたのだが、少年の表情はまるで動いていなかった。モースに弱そうだと言われた時も、魔物を退けると言った時も。白い肌や銀の髪、菫の瞳はこの辺りの農民にはあり得ない色彩で、それもあってこの少年はどこか人間離れして見えた。顔だちが美しい分、不気味に見える。それはそうだ、精霊の騎士は人間ではない……そう思い、まずかったかとモースは焦った。自分の言葉はかなり失礼だった。そこですがるように神官の方を見ると、ルカスは立ち上がった。
「オルの村はあなた方を歓迎いたします。そうですね、モース?」
黙ってうなずいたモースに、ルカスは微笑み、もう一度少年の方を向いた。
「改めて紹介させていただきます。村長のモースと、その妻のアイラです。オルの村の者はみな、騎士どのが魔物を退けてくれると信じております。失礼ですが、お名前をうかがえますか」
「クリステア。クリスです。後から来る者はグレイという名です」
少年は静かに言った。
「この村で何が起きたのか、詳しく話していただけますか」
クリスが村長の家を出ると、外でうろうろしていた村人が一斉に逃げた。クリスの事が気になるが、近づく勇気はないらしい。革袋を背負い、腰に佩いた剣の位置を直していると、ルカスが後からやって来た。
「クリステアさま」
「クリスでかまいません」
そう言うと、「では、クリスさま」と神官は言った。
「この後は、どうされますか」
「村を一回りします。現場となった家も見ておきたい」
「荷物は、この家に置いておいても良いと思いますが。村長夫妻が見てくれるでしょうから」
「あまり触れられたくないのです。疑うわけではありませんが。好奇心の強い者が多いようですし」
「それは……まあ。何か貴重なものでも?」
否定できずにルカスは言い、そう尋ねるとクリスは「防具です」と答えた。それにしては荷物が小さいとルカスは思ったが、「そうですか」と言うに止めた。
「では、村を案内いたしましょう」
うなずきかけたクリスだったが、村の外に幌馬車が止まっているのに気づき、そちらに顔を向けた。
「その前に、彼女に礼を言わなければ」
そう言って歩きだすクリスの後に、ルカスが続いた。
「そう言えば、幌馬車で来られたのですね。精霊の騎士は、風の翼に乗るものだと思っておりましたが」
「それは風の精霊と契約している騎士だけです」
楽しげに言ったルカスに、クリスは静かな調子で言った。神官は立ち止まり、驚きの表情を少年に向けた。
「では本当に空を飛べる方もおられるのですか? 失礼。わたしも精霊の騎士に会うのは初めてなものですから……」
立ち止まったルカスに、少年もまた足を止めた。神官はその目線を受け、はっと息を飲んだ。瞳の色が真紅に染まっていたのだ。しかし彼がまばたき、立つ位置を変えるとすぐに、元の菫色に戻った。今のは見間違いだったのかとルカスは思った。こちらに向けられるまなざしに、居心地が悪くなる。濁った所のない、透徹なまなざし。いやそう言うより……これはまるで。
「どうか?」
静かに少年が尋ね、それでようやくルカスは自分が彼をまじまじと見つめていた事に気づき、顔を赤くした。不作法な事をしてしまった。
「すみません。今、あなたの目が……色が違っていたように見えて……」
すると少年は「ああ」と言った。
「赤く見えたのでしょう。光の当たり方によってそう見えるのです。わたしの一族に良く出る瞳なのですが、知らない方は驚かれるようですね」
「はあ。あの。では、お母上やお父上も?」
へどもどしつつ言うと、「母がそうでした。父は肖像画でしか知りませんが、違っていたと思います」という答が返ってきた。良く考えれば当然である。兄弟や姉妹ならともかく、両親共に同じような珍しい色の瞳である事は普通、あり得ない。羞恥を覚えながらもルカスは少年の答から、それなりに裕福な家の出だったのかと思った。肖像画を家に飾るような人間は、農村や漁村の伜ではない。そこで彼の発音が、上流のものである事にようやく思い当たる。ほとんど話さない上、短い言葉しか発しないので気がつかなかったが、彼の発音は貴族階級のものだ。まさかと思うが、十二貴族の出身だろうか。
「ええとその……風の精霊と契約なさった騎士は、空を飛べるのですか」
しかしさすがに、それを尋ねるのが不作法である事ぐらいはわかっていた。『あなたは貴族ですか』と言えば、本当にそうであった場合は『そうは見えなかった』という意味で侮辱になるし、違っていた場合も気まずいものになる。そこで尋ねかけていた事をもう一度言うと、少年はうなずいた。
「ええ」
「本当に飛べるのですか……鳥のように。素晴らしい。空を飛ぶとはどんな体験なのでしょう。大地を離れて舞い上がる感じは……」
ルカスは興奮で頬を赤くし、憧れるように言った。
「風の精霊、とおっしゃいましたが。精霊には他に、どんな方々がおられるのです? クリスさまの精霊は、どんな」
「それは話せない事なのです、ルカスどの」
静かにクリスは言った。
「契約を交わした精霊については、何も尋ねないのがわたしたちの礼儀です。どの精霊と契約を結んだかによって、その騎士には弱点も生まれるからです。神官どのの質問は、『あなたの弱点はどこですか』と尋ねているのに等しい」
「すみません。失礼な事を」
慌てたルカスにクリスは「いえ」と言った。
「気にしていません。尋ねたくなるのが人間でしょう。ただ騎士の中には、そうした質問をひどく嫌がる者もいます。その場合、腕の一本や二本は折られかねません」
淡々と少年は言い、ルカスは言われた内容に青ざめた。
「わたしに関しては、途中まで『飛んで』来たと言って良いでしょうね。『剣の院』には、王の名の元に盟約を結んでいる精霊たちがいて。彼らは好意でわれわれに力を貸してくれます。わたしが聖王国を出たのは昨日。精霊たちが、エメルまで送ってくれました。そこからは一日歩きましたが。彼女は街道で、わたしを拾ってくれたのです」
「そうですか……」
「あまり快適とは言えませんよ」
静かに少年は言い、ルカスは「え?」という顔になった。すると彼は言った。
「空です。寒いし、風が強い」
少年は表情を全く変えなかった。受け答えは淡々としており、それが何とはなし、ルカスに不安を抱かせた。美しい顔だちをしている分、余計気になる。どうしてこんなにも表情を変えないのだろう、とルカスは思った。機嫌を損ねているのだろうか。
「クリスさまは……その。他の騎士の方々と親しく付き合われたりなさいますか。あの。『閃光のラルフ』をご存じでしょうか。あの方はまだ、ご存命なのでしょうか」
それでもこれだけは尋ねたくて、ルカスは言った。クリスはうなずいた。
「会った事はありませんが、知っています。まだ生きているはずです」
「わたしの祖父が、お会いした事があるのです。命を助けてもらったと言っていました。その話を聞いて、わたしは神官の道を目指したのです。そうか。まだご存命なのか……」
しみじみと言ってから、ルカスは慌てた顔になった。
「すみません。わたしの事ばかり話してしまって。ただ、うれしくて」
「うれしい?」
「ええ。ラルフさまはわたしにとって、人生を変えた方ですからね。お元気であられると聞いて、うれしいですよ。あの方は本当に、金色の瞳をなさっておられるのですか」
「そうだと聞いています」
静かに少年は言った。
「彼は『黒鎖のエイモス』に次いで、人望の高い騎士です」
「『黒鎖のエイモス』。知っています。ガルナ・トリアの英雄だ。そうですか。そうですか」
ルカスは何度もうなずいた。
「では『緑のセイン』は? 彼は」
「存命のはずです」
「『白夜のロレンツォ』は」
「三十年ほど前に亡くなりました」
「『藍牙のフロリアン』は。『氷霧のキアン』は」
「彼らも亡くなりました。随分と詳しいのですね」
「はい、それはそのう……あの。クリスさま。わたしの態度がお気に召しませんか」
相手があまりにも無表情なので、ルカスはついにそう言った。恐怖も少しばかり生じていた。精霊の騎士は普通の人間ではない。彼らからすればわれわれは、道端の石ころのようなものだろう。だからこんな眼差しでこちらを見るのだろうか。表情の動かない美しい少年を前にして、ルカスはそんな思いに捕らわれ始めていた。
「すみません、はしゃいでしまって。不快に思われたのならどうか、お許し下さい」
「不快? なぜ」
クリスは尋ねた。しかしやはり、表情は変わらないままだった。それが何だか責められているようで、ルカスはさらに落ち着きをなくした。
「いえ、あの……お顔が。怒っておられるのかと」
「怒る」
クリスはその言葉を繰り返し、しばらくルカスを見上げていたが、やがて首を振った。
「怒ってなどおりません。お詫びします、ルカスどの。怒っている顔に見えましたか」
「いえ。怒っていると言うより……表情があまり変わられないので気になって」
ルカスはうろたえながら言った。するとクリスは目を伏せた。少女めいた美貌がさらに美しく見え、ルカスはどきりとした。
「あまり、ではなく全く、と言ってもよろしいですよ。わたしは感情が苦手なのです」
「感情が……苦手?」
「何かを感じる事も、それを表現する事も」
そう言うとクリスは手袋をはめた手を片方上げ、自分の頬に触れた。
「努力はしているのですが」
口調はしかし、淡々としている。ルカスは何と言えば良いのかわからず、うろたえた。ただ相手が別に、自分たちを見下げていたのではないという事だけはわかった。
「クリスさまが謝る事は。わたしが勝手にあれこれ言ったのですから。その。冷静な態度で何事にも臨めるのですから、逆に良い資質ではありませんか」
クリスは頬から手を離すと、ルカスを見つめた。言ってしまってから何を間の抜けた事をと思い、ルカスは赤くなった。
「そんな事を言われたのは初めてです」
真面目な顔でクリスが言い、ルカスは穴があったら入りたいような気分になった。
「すみません、わかったような事を……」
「力づけようとして下さったのでしょう。ありがとうございます」
少年の表情はやはり動かない。けれどその言葉には、微かに感情らしきものが込められているようにルカスには思えた。微笑めばもっと美しい表情になるだろうにと彼は思い、少し残念に思った。
「騎士の方は、感情が……表現できなくなったりするのですか。笑ったり、怒ったり」
「良く笑う騎士や、気まぐれな騎士もいます。これはわたしの問題なのです。わたしも以前は笑う事ができました。ですが今は、自分がどうやって笑っていたのかわからない」
ルカスは少年を見つめた。彼には何か、悲劇的な事でもあったのだろうか。大きな悲しみや苦しみに出会った者は、時として感情が擦り切れたようになってしまい、何も感じる事ができなくなる。神官である彼は、そうした人々の相談に乗る事があった。夫や妻、恋人を失った者、子どもを失った母親などは、時としてそのような状態になる。心に受けた深い傷の為にそうなるのだ。そうした人々の話を聞いてあげる事で、彼らの魂を慰めるのも神官の役割だった。目の前にいる少年にも、どこか不安定で危うい雰囲気がある事にルカスは気づいた。話を聞くと言うべきかと思ったが、精霊の騎士に対してただの神官がそんな事を言うのは不遜に思われ、結局ルカスは何も言えなかった。
「サラ」
水探し(シーカー)の女は村の外に幌馬車を止め、野営の準備をしていた。クリスは村の外に出て、驢馬の世話をしている女に声をかけた。二匹の犬がその周囲でうろうろしている。
「あんたか。仕事を断られでもしたかい?」
女は振り向くと、神官に目をやってからクリスに向かってそう言った。
「仕事はします。もう一度、礼を言っておきたくて。馬車に乗せてくれてありがとう」
「大したこっちゃない。行き先が同じだったしね。『女神の愛し子』を助ける機会なんてのは、滅多にないし」
女は笑って言った。ルカスは少し驚いた。『女神の愛し子』とは、精霊の騎士や花の乙女を指す古い言葉だ。だがこの言い回しはもう、聖典の中か、古い詩ぐらいにしか残っていない。異端の民がなぜ、この言葉を知っているのだろう。
「あなたはこれからどうするのですか」
「しばらくここにいるよ。あたしの仕事は水を探す事だけど、あんたの仕事が終わってからの方が安全だしね。早いとこ、魔物を退治しておくれ」
クリスはうなずいた。
「全力を尽くします。ですがどうして村に入らないのですか。あなたもそうですが、驢馬も犬も、屋根のある所で休んだ方が良いように思いますが」
サラが目を丸くし、ルカスも驚いた顔になった。女は探るようにクリスを見たが、やがて言った。
「精霊の騎士さん。あたしは水探し(シーカー)で、教会はあたしたちを異端の民と呼んでいる。村の者は水が必要だからあたしらを呼ぶけど、だからと言ってあたしらを好きなわけじゃない。村の中には入れたくないのさ。あたしらの動物にしたって同じこと。下手に村に入って犬たちを殺されるよりは、村の外で野営をしている方が気が楽なんだよ」
サラはゆっくりと、噛んで含めるように言った。
「この村の者は、そんな事はしませんよ」
ルカスが口をはさむと、サラは目を細めて彼を見た。
「あんたがそう思うのなら、そう思っておけば良いよ、神官さん。でもあたしはこんな話を知っている。昔水を見つけに行った水探し(シーカー)が、村人に犬を殺された。心も行いも正しい人間である村の者が困っている時には、卑しいあたしらは報酬を要求しちゃいけないんだとさ。そんな間違った事をするから、見せしめに殺すんだとその村の者は言った。これは本当に起きた事で、あたしらの間にずっと伝えられてる。あんたたちが忘れても、忘れられる事じゃないからね」
水探し(シーカー)は犬を大切にする。野宿の多い彼らには、感覚が鋭く、危険を察知する能力に長けた犬たちが必要なのだ。彼らは犬を家族同様に扱い、面倒を見る。村人もそれがわかっていて犬を殺したのだ。
「あなたがたの要求する報酬が、大きすぎるせいではないのですか。どの村も貧しい。もう少し彼らを思いやってやれば……」
ルカスは村人をかばって言った。するとサラは肩をすくめた。
「あたしらにも井戸を使わせる。そのどこが大きすぎる報酬なんだい。食料にしたって、根こそぎ持ってくような真似をいつ、あたしらがした? 村に立ち寄った時には井戸を借り、食料を分けてもらう。あたしらの要求はそれだけだ。始終来るわけじゃない。あたしらが村に立ち寄るのなんて、年に一、二度が良い所だ。人数だってそんなにたくさんは来ない。元々が大人数じゃないからね。でも村の者には、その時に渡す食料が惜しい。あたしらの事を程度の低い、強欲な怠け者だと思っているから。そんな奴らにどうして何か渡さなきゃならないんだって思う。ここの井戸を見つけた時、村の者は感謝を込めて、いつ来ても井戸を使わせる事と、三代に渡ってやって来た者に食料を与えると約束した。その約束を信じてやって来たあたしらの仲間が受け取った物は、何だったと思う?」
横目でルカスを見ると、女は言った。
「最初は腐りかけた芋。次にはその芋もなくなって、芋の蔓だけ。しまいには、豚が食べ残した残飯を投げつけられたよ。それでもあたしらは強欲だと言われる。村の者の感謝ってのは、そういう事かい。上等な食べ物とまでは言わないが、せめて腐っていない物を渡してくれても良いのじゃないかね」
ルカスは何も言えず、赤くなった。サラはぼろ布で驢馬の体を擦り始めた。無言のまま作業を続け、やがてぽつりと言った。
「気になっている事があるんだけど」
手を止めないまま、サラは言った。
「精霊の騎士を呼ぶには、報酬がいる。かなりかかるはずだ。どうやって工面した? 誰か子どもを売りでもしたのかい」
ルカスは顔を強張らせた。サラはその顔を見て「ふん」と言った。
「やっぱりそうかい。あたしらには理解できないよ。家族を売るなんてね」
「村の者とて、喜んでそうしたわけでは」
「そりゃそうだろ、正しい行いをする人たちなんだから」
うるさげに言うとサラは、ぼろ布をしまった。
「ま、あたしにはどうでも良い事だ。さて。他に用がないのなら行っておくれ。あたしはこれから夕食の支度をしなきゃならない」
居心地が悪くなっていたルカスはそれでその場を離れようとしたが、クリスは去ろうとはしなかった。
「サラ。ずっとここで寝起きするのですか」
「仕事にかかるまではね。水探し(シーカー)が水を探しに村に入ったら、村人は一応、食事や寝床を提供してくれる事にはなっている」
それを聞いたクリスは、革袋から木片を四つ取り出した。
「では、これを。馬車の周囲に一つずつ、地面に立てて下さい。方角を合わせて」
サラは受け取ると、眉をしかめた。
「何だい、これ」
「魔よけです。一人で野営なさるのなら、必要でしょう。馬車を移動する際には掘り出して持って行き、新しい場所の周囲に立て直して下さい。念の為、これも」
そう言って、はめていた腕輪を外して差し出す。淡い緑色のそれは、香草を編んで乾かしたものらしかった。
「つけていて下さい。身を守ります」
サラは不思議なものを見るような目でクリスを見つめた。
「お偉い精霊の騎士さまが、卑しい水探し(シーカー)なんかにどうして?」
「あなたはわたしに親切にしてくれた。そんな人が魔物に襲われるのは見たくない」
クリスの言葉にサラは、微妙に歪んだ笑みを浮かべた。腕輪を手に取る。
「綺麗だね。あんたが作ったのかい」
「わたしの後見人が作りました」
「精霊の騎士にも後見人なんているんだ?」
そう言ったサラに、クリスは律儀に答えた。
「わたしは十五で精霊と契約した。だからです。精霊の騎士は本来、十八を過ぎた者がなる。彼はそれで、『後見人』という立場を取ってくれました」
サラはまじまじとクリスを見つめ、「色々と大変なんだね」と感想を述べた。
「けどまあ確かに、あんたみたいな子どもを魔物の前に放り出すのは気が咎めるものね」
「わたしたちには子どもも大人もありません。魔物と戦うのが唯一、なすべき事」
サラはその言葉を鼻で笑った。
「そんな事を真面目に言う辺り、あんた十分子どもだよ。ほら」
水探し(シーカー)の女は、腕輪をクリスの方に突き出した。
「これはあんたがつけておきな。あたしよりもあんたに必要な物のはずだ」
クリスはまばたき、腕輪を見下ろした。
「ですが……」
「今くれた魔よけで十分だよ。心配してくれてる人からの贈り物なんだろう。ほいほい人にやるんじゃないよ。大事におし」
クリスは菫色の瞳でサラを見つめた。表情のない顔だったが、ルカスは相手を案じているのだろうと思った。先ほどの会話から、彼が感情を現すのが苦手だという事はわかっている。水探し(シーカー)の女はそうして、ルカスより人の心情を読むのに長けているようだった。クリスに無理やり腕輪を押しつけると、ひょいと手を伸ばして彼を胸に抱き寄せた。
「良い子だね、あんた。心配してくれてありがとうよ」
そう言ってから頬にキスを落とし、「女神さまの幸運があるように」と言って手を離す。
「あなたにもあるよう」
クリスは答えて言うと、腕輪を元通り自分の腕にはめた。
「ではもし身の危険を感じたなら、迷わず村に駆け込んで下さい。犬や驢馬の為にも。村人も、魔物に追われた人を追い返したりはしないでしょう。そうですね、神官どの?」
言われたルカスはどうしようという顔になった。この女にはいらだたせられる。村長も嫌がるだろう。だが彼の言う事にも一理ある。
「モースに言っておきますよ。その時は村の中に入って下さい、水探し(シーカー)のご婦人」
「そうするよ」
返事を聞いたクリスはサラに軽く会釈すると、その場を離れた。村に戻る。ルカスは後に続いた。
「クリスさま。あの護符は、村にもいただけるのですか」
「ええ。村の中を一通り見てから、しかるべき場所に置きます。広い場所を守る場合は、位置を決めるのに時間が少しかかるので」
「そうですか……その護符があれば、魔物は入って来れないのですね?」
「しばらくは。永遠に続くものではありません。それに強い魔物には、あまり効果はない」
クリスは立ち止まると興味津々(きょうみしんしん)といった顔の神官に、革袋から木片を一つ取り出して渡した。渦巻きが三つ、刻まれている。
「何の印ですか」
「精霊の印です。目に見えている模様以外に、空間にも印が刻まれています」
クリスには木片の周囲が微かに光り、刻まれた模様に重なって別の模様が浮いているのが見えた。しかしルカスにはわからなかった。神官はしばらく木片を見つめていたが、やがて首をひねり、クリスに返した。
「良くわかりません。普通の木切れに見えます……精霊の力を受けた者でないと、わからないのでしょうな」
「そうですね。見た目をもう少し、派手にすべきだという意見もあります。あまりに簡素に見えるもので、子どもがおもちゃにしようと掘り出してしまい、魔物を阻めなかった事があるので」
「村人全員に、気をつけるよう言いましょう。魔物がまた入ってきたら大変だ」
クリスは木片をしまった。そうして尋ねる。
「子どもを売ったと言うのは?」
ルカスは押し黙った。クリスも黙って彼が何か言うのを待った。やがてルカスは苦しげな顔になって言った。
「お恥ずかしい限りです。あなた方を呼ぶには大金がかかる。この村に、そんな余裕はありませんでした。あきらめて村を捨てようかという話になった時、……子どもが一人、自分を売ってくれと言いまして」
神官はため息をついた。
「殺された一家の、ただ一人の生き残りです。ロッドとマーサの息子のダート。ここへあなたを案内してきたのがそうです。殺された家族の間に朝まで一人、取り残されていたのです。見つかってからもしばらくは、口もきけないありさまでした。その彼が、村長の家で今後どうするかを話し合っていた時に、やって来て言ったのです。自分を奴隷商人に売って、その金で精霊の騎士を呼んでほしいと」
ダートは物陰から、精霊の騎士と名乗った少年を見つめていた。こうやって見ていても、女の子みたいだ。あんなに弱そうで、本当に魔物と戦えるのだろうか。
でも自分には、彼に期待するしかない。
村長の家での会話は、窓の外に隠れて聞いた。ルカス師は、精霊の騎士は歳を取らないと言っていた。だからこの小さな騎士も、村長より年上かもしれないと。本当だろうか。
ルカスがあれこれと話しかけ、村の案内をし始めた。ルカス師は良い人だ、とダートは思った。精霊の騎士を呼ぶ手順を教えてくれたし、仇が討たれるのが見たいと言ったら、それまで村に残れるようにしてくれた。本当はすぐに連れて行かれるはずだったが、ルカス師は自分が保証人になると言って、仲買人に待ってもらった。悲しそうだったが、泣きそうな顔をしていたが、それでもダートが頼んだら、そうしてくれた。
銀色の髪が日の光をはじく。あんな色の髪は初めて見た。それに不思議な紫の目。
彼が倒してくれる、と祈るようにダートは思った。父さんを、母さんを、ロッティを殺した魔物を。きっと倒してくれる。それが終われば、奴隷として俺は売られる。それでも良い。かまわない。
女神さま。
それさえ見る事ができたなら。俺はもう、後は何もいりません……。