2.騎士(ラ・カヴァリエーロ) 2
しばらく動かなかったラルフだったが、やがて顔を上げた。
「精霊憑きの反応があった。多分、クリスだろう」
「どこにいるんです?」
「彼はもう村に着いている」
「何だって? 羽もはえそろっていないくせして、一人で先走りやがったのか」
グレイは悪態をつきかけたが、ラルフが厳しい顔をしているのに気づいて止めた。
「まさか、これもそのひよっ子を消す為の陰謀だとか言わないでしょうね」
「わからない。手違いがあったのかもしれないな。君はここで待てと聞いたが、クリスには直接村へ行けと連絡があったのかも」
そう言いながら、ラルフ自身もそれを信じていない様子だった。彼は続けた。
「でなければ君が言ったように、手柄を立てようとして先走ったのか」
「そういう性格の男ですか?」
「エイモスどのの話では、慎重な性格だと」
グレイは片手で頭を掻いた。
「その評価に身内の色眼鏡が入ってたとしても、最初の任務ってのは普通、手堅く行くもんです。新人が突っ走るのは二つか三つ仕事をこなして、慣れてくる頃だ」
「だが議会はそう主張するだろう」
「手違いがあったと認めるよりはね。新人が死んだ後なら何とでも言えますし……気に入らねえな」
グレイは眉をしかめた。新人に何か思い入れがあるわけではないし、この場合、その男が死んでも自分が責任を問われる事はないだろう。しかしどうも気に入らない。
「ラルフさま。失礼して先を急がせてもらいます。間に合うかどうかはわかりませんが」
「人間の足ではここから六日はかかるよ」
「人間の足ではね。ですから急ぎます……俺が着くまで何もするなよ、ひよっ子」
そうつぶやくと灰色の髪の男は荷物を放り出し、手早く服を脱いだ。男の体には右手の甲に薄青の、左手の甲にはあずき色の紋様が刻まれ、胸には白い蔓草のような紋様が刻まれている。彼は裸になると地面に手足をつけ、精霊の名を鍵として身の内にある力を解放した。三つの印が熱を帯び、力となって体中を巡り、変化を促す。腕や足の筋肉がさざ波を起こしたように揺れた。ぷちぷちと音を立てて筋肉の繊維が切れ、ねじれ、うごめいて再構成される。骨がたわみ、めきめきと音を立てて形や配置を変えてゆく。
一瞬の後、そこには灰色のたてがみを持つ栗毛の馬が立っていた。
『服と荷物を乗せてもらえますか』
馬が口を開き、ややくぐもった声で言った。ラルフはグレイの服を手早く集めると、荷袋に入れ、彼の背にくくりつけた。
「その姿で行くのが一番だろうね。こんな時には風の精霊との契約があればと思うよ」
『俺は思いませんね。風の精霊持ってる騎士は、どいつもこいつもどっか壊れてるじゃないですか』
グレイは前足で地面を引っかくと、嫌そうに言った。空間を移動する能力が最も長けているのは、風の精霊を持つ騎士だった。しかし風の精霊に選ばれる者は、変わった性格の持ち主である事が多かった。中には奇矯なとしか言いようのない者もいる。
「ローランはまともだと思うが」
『アーディンでお釣りが来ます。あいつがまともだと言う騎士がどこにいますか』
精霊の騎士第四位、『狂気のアーディン』は極端から極端に走りやすく、気に入らなければ仲間も手にかける人物だった。今も生き延びている輝妃との契約者の一人であり、『そろそろ危ない』と言われているのも彼である。ただラルフが騎士になった頃からそう言われているので、まだまだ長生きするのかもしれない。
『ともかく走りますよ。この姿なら四日で着く。ラルフさまはどうします? 良けりゃ、乗って下さい』
変身能力に長けているグレイと違い、ラルフは体を変化させる能力に乏しかった。それ
ゆえの申し出だったが、彼は首を振った。
「俺が乗れば、その分速度が落ちる。かまわないから行ってくれ。……グレイ。君がいてくれて良かったよ」
『何です、急に』
面食らってグレイが言うと、ラルフはちらと笑った。
「君は随分と人間らしさを残している。その新人も、君に助けられて良かったと思うだろう。俺はありがたく思っているんだ、グレイ。君が今も君でいてくれて」
グレイは一瞬、言葉をなくした。ラルフを見つめ、だがすぐに顔をそらす。
『失礼します』
そう言うと走り出す。村の方角に向かい、通常の馬より数段速い速度で。
(あんたの前だからだ)
走りながらグレイは思った。
(俺が人間らしく見えたのだとしたら、それはあんたがいたからだ、ラルフさま)
土を蹴立て、グレイは走った。走れと急かす本能に半ば身を任せながら。
(あんたは『なりたて』だった俺を知っている。自分が人間だと、まだ信じていた頃の俺を)
(だから、思い出す。あんたを見ると)
(人間だった頃の俺を)
(まだ人間らしさを持っていた頃の俺を……)
走れ。走れ。前へ進め。ただひたすらに駆け続けろ。
(ラルフさま)
(あんたは知らない)
(あんたが来なければ俺は、新人を見捨てていた)
走れ。その体に熱がある限り。命の炎が燃えている限り……。
(手違いがあったと知った時に、そいつの事は切り捨てていたよ)
院の上層部も、グレイが新人を見捨てると踏んでいたのだろう。助ける為に駆け出すなど、思ってもみなかったに違いない。だがラルフが来た。そうしてグレイには、彼の前で新人を切り捨てる真似ができなかった。
(茶番だな……我ながら)
走りながらグレイは思った。
(ラルフさま。俺はもうとっくに、人間らしさなんてなくしてるんです……)
* * *
埃っぽい道に、何かの影が見えた。精霊の騎士が来てくれたのかと、ダートは目をこらした。
日は高く、村人はみな畑仕事に精を出している。彼だけが何もせず、村の出入口に続く道に立って、彼方を眺めていた。
ダートの家族が魔物に殺されてから、一巡月近くたつ。精霊の騎士を呼ぶと決まってから彼はずっと村外れに立ち、騎士の到着を待つようになった。本来なら彼のような年齢の子どもが働きもせず、一日中道端に突っ立っているなど許されない。だが村人は誰も何も言わなかった。彼はすでに代償を支払った。それを誰もが知っていたからだ。
近づいて来る影に向かって走る。適当な場所まで来ると、ダートは立ち止まった。驢馬に引かれた幌馬車。ダートは落胆した。水探しの連中が乗る馬車だ。村長の依頼を受けて来たのだろう。あいつらを呼ぶ話をしていた時にはまだ父さんが生きていたと思い、彼は唇を噛んだ。父さん。母さん。ロッティ。あの時にはみんな、まだ生きていた。
それなのに、今は。
太陽に照らされながら道端に突っ立っていると、がたごとと揺れながら幌馬車は近づき、ダートの前で止まった。
「村の子かい」
御者台に座る黒髪の女が声をかけてきた。三十かそこらに見える。陽にやけた肌をした女は長い髪を三つ編みにし、つばの広い帽子をかぶっていた。褪せてはいるが、今も鮮やかな色を残すポンチョの下からは、色とりどりの布をつぎはぎにした服がのぞく。
「こんなとこで何してるんだい。あんたたちは、畑で働かない者は許せないんじゃなかったっけ? 今は働く時間だろ」
ダートは何も言わず、女を見返した。女は首をかしげた。
「言葉が使えないのかい」
「精霊の騎士を見なかった?」
ダートはひび割れたような声で言った。女は眉を上げた。
「何だって?」
「精霊の騎士。ずっと待ってるんだ。見なかった?」
女はしげしげとダートを見つめた。それから何か思い当たったらしい。村の方角を見やると、もう一度ダートに目を向けた。
「魔物が出た事は聞いているよ。やられたのはあんたの家族かい」
ダートは何も言わない。女も答を期待していなかったのだろう。すぐに言葉を継いだ。
「騎士かどうかは知らないが、こっちに向かって歩いていた子は拾ったよ。会うかい」
ダートは女の言葉を聞いて、幌のかかった荷台の方に目をやった。女は振り向くと、そちらに声をかけた。
「聞こえてんだろう、クリス。出といでよ」
ごそりと音がして、誰かが荷台から下りた。こちらに向かって歩いてくる。
女の子?
ダートは目をしばたいた。前に立って自分を見つめているのは、銀色の髪を肩の上で断ち切った少年だった。男物の服を着ているので少年のはずだ。顔だけ見ていると少女にしか見えないが。
肌は白く、日に当たった事がないかのようだ。体つきは華奢で、首筋も細い。ちょっと触ったら壊れそうに見える。菫色の瞳。桜色の唇。ダートの感覚からすると晴れ着としか思えない服を着て(少し古そうだがこの上衣ときたら、鮮やかな青に染められている!)、旅人がよくまとう、灰色のマントを羽織っている。腰にちらりと見えたのは剣だろうか。手には手袋。よっぽどの金持ちしか身につけないものだ。
見た事がないぐらい白くて綺麗な少年は別の世界の生き物のように見え、ダートはぽかんと口を開けた。気を取り直したのは、ふんふんと鼻を鳴らす音に気づいたからだった。湿った感触に下を向くと、けむくじゃらの犬が二匹、ダートの匂いを嗅いでいた。この犬たちも、幌馬車に乗っていたらしい。
これは精霊の騎士じゃない。もう一度少年の方を見て、ダートは思った。失望が胸に広がる。こんな弱そうなのは、騎士じゃない。
「精霊の騎士に、何の用ですか」
静かに少年が言い、ダートはまばたいた。
「待ってるんだ。おまえ、見たのか。こっちに向かってるのか?」
「まだ一人も村に来ていませんか」
「誰も来ない。俺たちの事、忘れちまったのかな」
銀の髪の少年は首をかしげた。その拍子に瞳が赤く染まる。ダートは驚いて立ちすくんだ。しかしすぐ、彼の瞳は菫色に戻った。
「オルの村からの陳情は届いています。依頼はすでに受理されました。議会は精霊の騎士を派遣する事を決めました」
少年の言葉は良くわからないものが多かったが、騎士が来るという所だけはわかった。ダートは相手を見つめた。
「来てくれるのか」
「はい。二人。グレイという名の騎士と、クリスという名の騎士です」
「クリス……」
この少年は、クリスと呼ばれていなかったか。そうダートは思った。その思いが顔に出たのだろう。少年はうなずいた。
「あなたの村に行くよう命じられました。わたしはクリス。精霊の騎士です」