11.緑の丘 2
* * *
「それでどうなったの、ルカスさま」
子どもたちが話の続きをせがむ。辺境の地にあるデールの村で、ルカスは語った。
「美しくも気高いクリスさまは、魔物と戦い、これを倒した。勇敢なグレイさまと共に。それは大変な戦いだった。しかし魔物を倒した時には、オルの村の娘リタは、魔物の犠牲となっていた」
この言葉に集まってきた村人たちから、悲しげな声が漏れた。
「クリスさまは悲しまれ、リタの亡骸を村に連れ戻すと、彼女の両親に謝罪された。力及ばず、申し訳ないと。父親は嘆き、母親も泣いた。けれど誰よりも悲しみを抱いていたのはクリスさまだっただろう」
この物語ではハナは、魔物から村を守ろうとして殺された事になっていた。ルカスはクリスから、密かに真相を聞いていた。けれど彼はそれを公にはしない事を選んだ。ハナも魔物に利用された犠牲者だった。それで良いではないか? これ以上誰かを傷つける事はあるまい、と。
物語ではハナは子どもを亡くした哀れな母親となり、子を思うあまりに魔物に利用される。けれど最後に、精霊の騎士に警告しようとして殺されてしまう。リタは心優しい娘となり、村にやって来た精霊の騎士と恋に落ちた。そのリタを狙って魔物が彼女をさらい、救い出そうとしたクリスの前で殺された事になっていた。
リタ。あの見栄っ張りの娘は、何と言うだろう。
当然だと言うだろうか。それとも扱いが軽すぎると怒るだろうか。
そうして、ハナ。
もう誰も、お前を無視する者はいない。悪し様にののしって、痛めつける者も……。
「クリスさま、おかわいそう」
女の子がべそをかいた。女たちも目を赤くしている。
「精霊の騎士は歳を取らない。リタが生きていたとしても、クリスさまと添い遂げる事はできなかっただろう。クリスさまもそれはわかっていた。だが、人にはどうする事もできない事も、時にはあるからね。
リタとハナの葬儀は、村をあげて行われた。母親のたっての願いで、リタは花嫁衣装をまとって、ハナも綺麗に飾られて葬られた。
村人が花を探してきては彼女たちに投げかけたので、葬儀はまるで婚礼のようだったよ。
クリスさまは葬儀が終わるまで村に留まられ、その後、グレイさまと共に立ち去られた。けれどね。この物語には一つだけ、救いがあるのだよ。何だと思う?」
子どもたちだけではなく、村人全員の視線が集まる。ルカスは微笑んで言った。
「家族の仇を取る為に、自分を売ってくれと頼んだ子どもの事を覚えているかい。そう、ダートだ。彼は人買いの手に渡された。けれど奴隷にはならなかった」
「本当に?」
「本当だ。女神さまは彼を憐れみ、情け深い男をつかわした。男は旅の商人だった。彼はダートを買い取り、自由の身にしてやったんだ。そうとも。ダートは今では、自由だ」
わあっと歓声が上がった。
「良かった!」
「良かったね! じゃあ、ダートはお家に戻ったの?」
「いいや。村にいるのがつらかったんだろうね。ダートは男に弟子入りし、旅に出た。いつか自分の家と畑を見つけたら、そこに落ちつくだろう。それまではきっと、世界中を見て回っているよ」
嘘ではない。『閃光のラルフ』が、ダートを買い取るとルカスに約束してくれた。その時に、村に残していると酷く当たられるかもしれないから、どこか裕福な村で彼が暮らせるようにすると言ってくれたのだ。
精霊の騎士が手配したとは決して言うなと、釘をさした上で。
『何をしても精霊の騎士が尻拭いをしてくれる、そう思う者が増えては困りますからね。ただでいくらでも使えると。われらは村人の小間使いではない』
確かにそうだろう。この話が広まれば、代償なしに騎士を使おうと考える者が必ず出る。人とはそういうものだ。生きんがため強かになり、醜悪と言える行為を為しておのれを省みる事はない。
水探しの女に、彼らは何をした?
それでも。いや、だからこそ。
せめて美しい物語を紡ぎたい。生きて死に、戦う彼らの為に、せめて。
「クリスさまの物語はこれで終わりだ。さて。今度は、これを見てもらおうか」
ルカスは山蓬と干したイラクサを取り出した。
「あれっ、いやだ。気狂い草」
「あっちは……何だろうね」
女たちが口々に言う。ルカスは言った。
「これはクリスさまに教えていただいたのだが。長生きをするのに役に立つ薬草だよ。これは山蓬。気狂いどころか、精霊さまの慈悲の草だ。頭が痛い時にこれで薬が作れる。
こっちは驚いてはいけないよ。イラクサだ。呪い草とも呼ばれていたが、とんでもない。素晴らしい草だよ。春にこの草を茹でて食べれば、長生きができるんだそうだ。生では食べられないが、茹でれば食べられる。干しても大丈夫だ。そうしたらお茶にできる。
根と葉で染料を作ったり、茎から糸を作る事もできるよ。作り方はクリスさまに教わってきたから、教えてあげよう」
本当はクリスではなく、サラに教えてもらった事だった。追放されたサラの後を追い、ルカスは村人の仕打ちを詫びた。その時に薬草の事をあれこれと教えてもらったのだ。水探しに以前ほど偏見を持たなくなっていたルカスは、教えられた事をしっかりと覚え、村人の健康の為に伝えようと決意した。
「クリスさまは、薬草にくわしいの?」
村人の一人が尋ねる。サラの知識と言えない事が何ともつらかったが、ルカスはうなずいた。精霊の騎士の知らせてくれた事なら、村人は聞く耳を持つはずだから。
「そうだよ……あの方は、花の乙女とも親しいからね」
* * *
幌馬車が、がたごとと荒野を行く。
「女神の元での姉妹。平和を願います」
そう言って、一人の女が近づいて来た。サラは驢馬を止めると、彼女を見下ろした。三十ほどに見える彼女は無残な様子をしていた。衣服が焼け焦げ、顔も体もあちこち腫れ上がっている。
「平和は常に、我らと共にある。どうした。随分とくたびれて見えるが、姉妹よ」
「エスカの村に井戸を堀りに行きましたが、突然に焼き討ちをかけられました。馬車を焼かれてしまったので、乗せていただきたいのですが」
ていねいに言う相手にサラは「乗りな」と言った。女は礼を言って、サラの隣に座った。
「犬と驢馬はどうした?」
「驢馬は奪われ、犬は殺されました」
「では、エスカについて警告を発しておこう。先導したのは、神官かい?」
「新任の神官です。名はエリク。それなりの家から出たように見えました」
「お坊っちゃまには、自分の判断で人が死んでも、それが見えないものさ」
苦々(にがにが)しげに言うと、サラは馬車を進めた。
「あたしもオルの村から追い払われた。だが神官がかばってくれてね。焼かれる事は免れた。名はルカスと言う。それなりに道理のわかる男だ。覚えといてやっとくれ」
「はい。オルとは、魔物の出た村では」
「そうさ。精霊の騎士が見たくてね。……そうして出向いた先で、『女神の愛し子』に会った」
この言葉に女の顔が真剣になった。
「賢女さま。それは……」
「その肩書はやめとくれ。こんな荒野のど真ん中じゃ、意味はないだろう」
「あなたは我らを導く最長老です!」
女は言い、サラは苦い笑みを浮かべた。
「たまたまじゃないか。あたし以外に適任者がいたら、とっとと譲ってるよそんな地位。ところで、あたしの言った事を聞いていたのかい。『女神の愛し子』だよ?」
「は、はい。それでは……」
「そうさ。『女の』精霊の騎士だ。何百年ぶりかね?」
微笑むとサラは言った。
「苦労しているようだったよ。女とわかれば殺されるからね。でも、あの子をかばおうとしている者もいるようだ。しばらく様子を見ようじゃないか」
「はい」
「いざとなれば、逃がしてやらないとね。信頼できる者に伝えてもらえるかい。『女神の愛し子が現れた』、と。ただし、慎重にね」
女はうなずいた。
* * *
ダートは荷馬車に乗せられ、長い道のりを揺られて行った。連れて行かれた先でまた別の荷馬車に乗せられ、次には馬車に乗せられた。屋根のある馬車に乗るのは初めてで、変な感じがした。
買い手はもう、決まっているらしい。
あちこちを連れ回されて、自分がどこにいるのかさっぱりわからなくなった頃。緑が美しい丘に連れて行かれた。季節は秋に代わり、見下ろす畑には黄金の波が揺れている。涼しくなった風の中、もう馬車は使わず、ダートと仲買人の男は、自分たちの足で歩いた。
丘の上で休憩を取る。日は傾きかけていた。
物心つく頃から荒れた大地しか見てこなかったダートには、緑の丘や花を敷きつめたような川原は、天国のように見えた。丘の下に広がる風景もまた。広がる小麦畑、小さな家々。流れてゆく川、しげる森。太陽が西の空を赤く染め、風景全てを金色に染め上げる。うっとりして見ていると、「じきだからな」と仲買人が声をかけてきた。
「この丘を越えれば、ミルトの村だ。今夜はそこで一泊する。村からちょっとばかり進めば、お屋敷がある。そこがお前の働く場所だ。言う事を良く聞いて、しっかり働くんだぞ」
ダートはうなずいた。
「どんな……人なの。俺を買った、ご主人」
「さてな。俺は良く知らんのだ。だが悪い評判は聞いてない。まあ、おまえがしっかり働けば、ちゃんと面倒見てくれるさ」
ダートはうなずいた。不安ではあったが、こんなに綺麗な場所にいる人はきっと、優しいだろうと思ったのだ。それに、と胸に下げた破片をそっと握る。これがある限り、俺は大丈夫だ。
「何だ、そりゃ。お守りかい」
仲買人の男がダートの胸元をのぞき込んだ。
「村から持って来れたの、これだけなんだ」
「そうか」
男はダートの事情を多少は知っていた。それが何かはわからなかったが、子どもが握っているのを見て不憫になったのだろう。「なくさないようにしろよ」と言って、丈夫そうな革紐を差し出した。
「これをやるよ。その古い紐じゃ、切れて落ちちまう」
「ありがとう……」
「いいって事さ。お前を連れていけば俺は、賃金が貰えるんだからな」
そう言って笑う仲買人にもう一度礼を述べてから、ダートは紐を付け替えた。鈍い白に光る破片には、小さく穴が開いている。ダートが開けたわけではなく、最初から開いていた。この部分を革に止めていたのが、壊れて落ちたのだ。
クリスの着ていた、鎧の破片。
あの時、クリスの鎧はばらばらになった。女だと知られれば殺される。気を失ったクリスの体を何とかして隠そうと、ラルフからかばった。彼がクリスを助けた後は、グレイが戻ってくるまでに隠さねばと思った。
周囲を見回し、リタの遺体の向こうに置いてあったマントに目を止めた。休憩の間、リタはマントを脱いでいたのだ。そちらに駆けよって取り上げ、ラルフに渡すのに、首をもがれたリタの側を二度も通る事になった。
普通なら怖くてできなかっただろう。
でもその時には、とにかく隠さなければと。そればかりを考えていたのだ。
その時、破片の一つが服に引っかかっていたらしい。後になってから気がついたのだが、何となく手放し難く、ダートは言い出せなかった。
そうしてクリスたちは村を離れ……ダートはこの破片を、お守りにする事に決めた。どこで生きる事になっても、これがある限り。自分は生きてゆける。そう思って。
(クリスさまは、俺がいたから自分は助かったと言ってくれた)
あの精霊の騎士の事は、これからもずっと忘れられないだろう。父の、母の、妹の仇を取ってくれ。ダートの命を助けてくれ。ダートの心まで助けてくれた。綺麗で、勇敢で、優しくて。……とても、綺麗な。女神の御使い。
小さな破片は滑らかでつやつやしている。とても軽いのに、どんな石よりも硬い。
何となく、クリスに似ている気がした。それもまたダートにとって、この破片を手放しがたく思った理由の一つだった。
「行くぞ」と仲買人が声をかけてくる。破片を服の内側に入れると、ダートは歩き出した。
ミルトの村は、穏やかな所だった。辺境の地にいたダートには、村人の暮らしがとても裕福に見えた。大人も子どももみんな、健康で、幸せそうだ。そう言うと、泊めてくれた食堂の女将は、「お館さまが良い方だから」と言って笑った。
旅人が娯楽の種になる事はオルの村と同じらしく、仲買人は夜遅くまで酒をおごられ、村人と話していた。彼はそこでダートの生い立ちを物語のようにして話し、少年はすっかりと悲劇の主人公になっていた。両親と妹を殺された子どもが、自分を売ってその金で精霊の騎士を呼んでくれと頼んだというくだりに、村中の者がもらい泣きをし、気恥ずかしくなったダートは物陰に隠れた。男は翌日二日酔いになり、昼近くまで休んでいた。
二人はそれから村を出た。出立するダートに、女将は飴を握らせてくれた。
「聞いていますよ、この子ですか」
金色の小麦畑をいくつも通り過ぎ、ダートたちは大きな館に着いた。少年は声をなくし、ぽかんと館を見上げた。今まで見てきた中で一番大きな、そうして立派な建物に見えたのだ。信じられない。窓に硝子まではまっている!
そうしていると赤ら顔の女が出てきて仲買人と話し出した。朗らかに話す女はどこか、母親を思わせた。
「名前は? いくつなんだい。随分と痩せてるねえ。今まで何を食べてたんだい?」
矢継ぎ早に言われて目を白黒していると、仲買人が苦笑しながら代わりに答えた。
「名前はダート。歳は確か、十二です。辺境の村出身で、ちょいと苦労してたらしくてね。痩せてんのはそのせいでしょう……でも力はありますよ。良い物食べさせりゃ、すぐ働けるようになるでしょう」
「家族を亡くしたって聞いたけど」
「ええ、魔物にやられちまって。幸い、その魔物は精霊の騎士さまに退治されたそうですけれどね」
女はうなずくと、「可哀相にね」と言ってにじんで来た涙を指でぬぐった。涙もろいたちらしい。
「じゃ、この子は引き受けるよ。ご苦労だったね……支払い済みって聞いているけれど、本当なのかい」
「その通りです。俺は坊主を連れて行きゃ、賃金がもらえるんで」
「裏口に回っとくれ。下働きの娘に言ったら、食べ物と飲み物を出してくれるよ。あたしはちょっと、この子と話があるからね」
「ありがたい」
男は顔をほころばせると、「頑張るんだぞ」と言ってダートの肩をぽんと叩くと立ち去った。残されたダートが不安げに女を見上げると、女は笑いかけた。
「ダートだったね。あたしはマーサ。そう呼んでくれて良いよ……どうしたんだい、変な顔して?」
「あ、すみません、あの。俺の……、母さんと同じ、名前だったんで……」
女の名前に驚いて目を見張っていたのだが、そう言われてダートはもごもごと言った。マーサは「ああ」と言った。
「そうかい。あんたの母親とね……良いお母さんだったんだろ?」
「はい」
「そうだろう。マーサって名前の女は、良く働くしっかり者の母親になるのさ。あんたの事も、ちゃんと見守ってくれてるよ」
そう言われ、ダートはうなずいた。するとマーサはダートの前に屈むと、ぎゅっと抱きしめてくれた。
「大丈夫だ。あんたは健康で、丈夫に育つよ。お母さんと、あたしが見てるんだからね」
ダートはびっくりし、次に恥ずかしくなった。けれどマーサに抱きしめられていると、泣きそうな気分になってきた。我慢していたが涙がこみ上げてきて、小さくすすり泣いた。マーサは黙って背中をぽんぽんと叩いてくれ、そのままダートを泣かせてくれた。
やがてマーサはそっと腕を離した。
「さーて。もう大丈夫だね? お腹はすいていないかい?」
「少し」
泣いた顔を見られるのが気恥ずかしく、顔をこすると、マーサは見ないふりをしてくれた。
「じゃ、まず顔を綺麗にしよう。それから食事だ。洗濯とお風呂もね。あんたちょっと、汚れすぎだよ。ついておいで」
そう言うと、館の方へ歩いて行く。ダートは慌てて後について行った。
「あの……ご主人って、どんな人ですか」
おどおどしながら尋ねると、マーサは「良い方だよ。お若いけどね」と答えた。
「普段はここにはおられない。だから館の采配はあたしともう一人、ウォルトっていうのが振るってる。掃除やら何やら、人手は結構、必要でね。でも立派な方だ。お前もその事はしっかり覚えておくんだよ」
「はい」
「若さま……お館さまも、家族を亡くされたばかりなんだよ。母君と妹君を一度に亡くして……あの、ろくでなしどもが! 二年近く前に、ならず者の一味が館を襲ったんだよ。ここで働いていた者も一緒に殺された。世の中にはひどい事をする者がいる。
この館は一度、燃えちまったんだ。でも立派な方が、若さまの後見について下さってね。建て直すのには時間がかかったけれど、この辺りの者はみんな、お館さまが好きだったから。みんなで働いて元通りにしたんだ。骨惜しみする者なんかいなかったよ」
しゃべりながらマーサは館の裏手に回ると、井戸から水を汲み、ダートの手と顔を洗わせた。ぼろ布を渡され、ぬぐいながら裏口に回る。すると中から、娘たちの高い笑い声が聞こえた。マーサの顔が厳しくなった。
マーサは扉を開けると、つかつかと中に入った。立派な台所に得意気な顔をした仲買人の男がいて、ここで働いているらしい、若い娘たちとふざけあっていた。娘たちはきゃあきゃあと笑っていたが、マーサに気づくと一斉に黙り込んだ。
「あんたたち。こんな所で何をしているんだい。仕事にお戻り!」
一喝され、慌てて台所を飛び出して行く。
「食事は終わったのかい。娘たちに愛想を言う方が忙しかったようだけど」
マーサが次に男を睨むと、仲買人の男はふてぶてしい態度でにやりとした。
「そう怒るなよ」
男が酔っているのにダートは気づいた。自分とマーサが話をしている内に、この男は何杯も飲んでしまったのだ。それで気が大きくなったらしい。赤い顔でにやにやしている。マーサはきっとした顔になった。
「あんた少し、頭を冷やした方が良さそうだね。ここの娘は全員、あたしの監督の元にある。ふざけた真似はさせないし、素振りを見せる事も許さない」
「かたい事言うなよ。どうせ主人のいない館じゃないか。少しぐらい羽目を外した所でわかりっこない……」
マーサの目がつり上がった。
「この不心得者っ!」
怒鳴るや否や、マーサはその場にあっためん棒を手に取ると、男に向かって振り回した。仰天した男は必死の形相で逃げ回った。
「ここはお館さまの帰られる場所なんだ! 若さまの評判を落とすような振る舞いは許さない! 出てお行きっ!」
振り回されるめん棒に、ダートは目を丸くしていたが、慌てて隅の方に逃げた。この怒りっぷりも母さんに似てると思いながら。男はほうほうの体で逃げ出して行った。そこへ騒ぎに気づいたらしい、若い男が駆け込んで来た。
「マーサ、一体何の騒ぎ……ありゃ」
ひょろりとした若者は、逃げて行く仲買人の後ろ姿を見て、呆れたように言った。
「何をやったんだい、あの男」
「チャドかい。あの飲んだくれは娘たちといちゃついた挙げ句、若さまはこの館にいないから、何をしてもわかりっこないって言ったのさ」
「ああ、そりゃ……呼んでくれりゃあ、俺たちが叩き出したのに」
まだ怒り心頭といったマーサに、チャドと呼ばれた若者は真顔で言った。それから台所の隅で、小さくなっているダートに気づく。
「新しい子がびっくりしてるぜ。何か食べさせてやった方が良いんじゃないか?」
「忘れていたよ。悪かったね」
慌ててマーサが言い、パンとチーズの塊、それにミルクを出してきた。それを見ると空腹であった事を思い出し、礼を言うのもそこそこに、ダートは猛然と食べ始めた。
「この子はダートだよ。今度からここで働く。細かい事はウォルトが決めるだろうけど、あんた面倒見てやってくれるかい?」
「いいぜ。ダート。俺はチャドだ。よろしくな」
ダートはぺこりと頭を下げた。マーサは「新しい服とお風呂の用意をしてくるから。しばらくここを頼むね」と言って出て行った。
「ひょっとしてあんたかな。両親を殺されて、仇討ちを精霊の騎士に頼んだ子ってのは」
やがてダートが食べおわったのを見計らい、チャドが言った。ダートが目を丸くすると、「今朝、姉貴がここへ来て散々喋って行ったんだよ」と言って笑った。
「ミルトの村の食堂で話された事は、この屋敷に筒抜けだと思わなきゃ。逆もありだけどな。じゃ、あんたなんだな。精霊の騎士に会ったのかい?」
ダートがうなずくと、チャドは「そうか」と言った。
「何て名前の騎士が来たんだ?」
「三人……、来られて。一人はラルフさまって。それから、グレイ。それから……クリスさま」
「クリス?」
チャドの目が真剣になり、ダートは思わず身を引いた。
「う、うん。クリスさま」
「それって銀色の髪の? 菫色の目の?」
矢継ぎ早に言われ、ダートは面食らいながらうなずいた。どうしてこの人は、クリスさまの事を知っているんだろう。
するとチャドは立ち上がり、ダートの腕をつかむと、館の中をずんずん歩き出した。ダートは慌てふためいた。
「なに? ど、どこに行くの?」
「いいからついてこい、こっちだ」
途中、何人かこの館の使用人らしい人とすれ違った。彼らも驚いた顔をしていた。何が何だかわからなったが、言われるままにチャドの後について行った。すると彼は、壁にかけられた大きな絵の前で立ち止まった。
「先代のお館さまとそのご家族だ。他の絵はみんな燃えてしまったが、この一枚だけ修理に出していて助かった。良く見てくれ。お前が会ったのはこの方か?」
ダートは声をなくした。そこには美しい女性が椅子に腰かけ、左右に同じ顔の少年と少女が立っている絵があった。服装と髪の長さが違うので性別が違うとわかるが、二人は全く同じ顔をしている。
三人はいずれも銀の髪と、菫の瞳をしていた。その面差し。
「クリスさまだ」
涙があふれてきて、ダートは言った。
「クリスさまだ。ここ、クリスさまの……家だったんですか」
涙でぼやけて、絵が見えない。ダートが出会った騎士と良く似た少年はもっと若く、十二、三歳頃に見えた。少女は銀の髪を腰まで伸ばし、裾の長い衣装をまとって微笑んでいる。これがかつてのクリス。あの精霊の騎士とその家族。
ダートは拳で乱暴に目を擦った。それでも涙が止まらない。嗚咽がこみ上げてくる。
「ちょっとチャド、何してるんだい……あんた、この子に何したの!」
マーサの怒鳴り声が響いた。面倒見の良い女はダートがチャドに腕を捕まれ、連れられていたと聞いて、すっ飛んで来たらしい。
「違うんだよ、マーサ! すげえよ! すごい偶然だよ……こいつ、クリスさまに助けられたんだって! こいつの村に来た精霊の騎士、クリスさまだったんだよ!」
興奮気味に言うチャドに、マーサの目が丸くなった。泣いているダートの方へ近寄ると、「本当かい?」と尋ねる。
「はい……この、方です。おれ、俺の村に来て……、魔物、倒してくれて。俺の。俺……助けてくれたのは」
「そう……そうかい。クリスさまが。あの方はお元気だった? ここへは一年に一回ぐらいしか戻って来られないんだよ」
「元気、でした。綺麗で、強くて、でも優しくて、すごい人だなって俺」
「そうだろう。あたしの大叔母は、あの方の乳母をしてたんだ。そうとも。強くて綺麗で優しい方だよ。そうか。クリスさまが」
そう言うと、マーサは感極まったらしい。ダートの隣で泣きだした。
「お元気なんだね。お館さまを亡くして、仲の良かった妹姫さまも亡くなられて。精霊の騎士になってここを離れておしまいになられて。あんなにお若いのに、お気の毒に。ああでも、ちゃんとやっておられるんだ。しっかりお勤めをなさってるんだね……良かった。良かったよ」
何事かと他の人々も集まってくる。チャドから事情を聞くと、皆一様に目を潤ませた。
「クリスさまの……家族の名前。教えてもらえますか」
ためらいがちにダートが言うと、穏やかな風貌の、初老の男が進み出た。
「お母上は、アンナ・フィオリーナさま。先代の氷炎樹侯爵だ。妹姫は、マリア・ヴィオレッタさま。先代ムルトゥサ子爵。生きておいでなら、この方が侯爵位をお継ぎになられるはずだった」
「名前……たくさんあるんですね」
「古い家の方にはそれが普通だよ。クリスさまもね。あの方の正式な御名は、氷炎樹公子ムルトゥサ子爵、クリステア・グラナトゥーロ。いずれ爵位をお継ぎになられる」
「クリステア……グラナトゥーロ」
「水晶と石榴石。氷炎樹家の石だ。この二つの石は、女神の慈悲と魔を払う力を意味する。フィオリーナさまは女神の加護を願い、その名をつけられた。色々とあってな、夫君を早くに亡くされていたから……女神の加護を願わずにはいられなかったのだろう」
魔を払う石。その名をつぶやいてから、ダートは絵を見上げた。優しく微笑む少女を。
「マリアさまの名前も……意味が?」
「一族の有名な姫君、マリア・エレナ姫の名をもらったのだそうだ。夫の一族に領地を奪われた時、軍を指揮し、領地を取り戻した方だよ。ヴィオレッタは菫。女神の息吹から生まれた祝福の花だ。フィオリーナさまのお好きな花だった。あの方はマリアさまの事を、『わたくしの菫』といつも」
祝福の花……女神の。
ダートは胸元をさぐった。白い破片をそっと握る。どちらの名も、あの精霊の騎士には相応しい気がした。魔を払う石も、祝福の花も。
「俺、……いっぱい働きます」
ダートが言うと、チャドが「そうだな」と言って頭をぽんぽんとたたいた。
「しっかり働かにゃ、クリスさまに顔向けできねえもんな。ここはお館さまの家、あの方の帰る場所だ。お前がここで働くのは、お前にとってもクリスさまにとっても良い事だろうよ」
「はい」
神妙にうなずくとダートはもう一度、絵に目をやった。
(あなたが戻ってくる所を守ります……)
絵の中で、銀色の髪の少女は優しく微笑んでいる。
《了》
一日遅れましたが……ハッピーバレンタイン。
喜びと感謝を贈り合う、平和がみなさまにあるように。