10.魔物 4
* * *
『マリア』
呼びかける、懐かしい声。
『マリア・ヴィオレッタ』
クリス。もう一人のわたし。大切な……兄。
『ぼくの半身。君を誰よりも愛している。いつか別々の相手を見つけて、それぞれが家庭を持つだろう。でもそれまでは。ぼくの運命の女性は君だ』
『逃げなさい、二人とも!』
叫ぶ母の声。燃え落ちる、古びた館。
『生きて。お前たちが生きて在りさえすれば、一族は続く……逃げて!』
降り下ろされる剣。
『マリア!』
身代わりに斬られたクリス。
《契約せよ》
あの時、炎の中に現れたのものが何だったのか、わたしは知らない。ただ、怒りがあった。痛みと、悲しみと。
《我と契約せよ。人の娘》
『契約するわ。契約する! 母を、クリスを殺した者を倒して!』
悲鳴のように叫んだ。
それから何があったのか、わからない。炎が踊った。光が全てを焼いた。そうして気がつくと全てが灰になっていた。家も。襲ってきた男たちも。乳母を初めとする家族同然の者たちも。母と、クリスの遺体も……。
エイモスが側にいて、わたしを見下ろしていた。その目には、苦痛の色。
『お前はこれから、クリスとして生きるのだ。良いな?』
どうして。
『ここで死んだのはマリア。精霊と契約したのはクリスだ。さもなければお前は殺される。剣の院からの刺客に』
女は、精霊との契約を許されない。だから……。
契約後の肉体の変容。苦痛をやり過ごしている内に、エイモスが全てを手配した。ようやく起き上がり、動けるようになった時には、葬儀は終わり、二人の墓が建てられていた。
母と、マリア・ヴィオレッタの墓が。
* * *
気がつくと、空が見えた。ひどい頭痛がする。身動きすると体がばらばらになりそうで、クリスは呻いた。
「まだ動かない方が良いよ」
穏やかな声がして、額に手が当てられた。金色の目をした青年が傍らにいて、自分を見下ろしていた。
「危なかったよ。俺の来るのがもう少し遅かったら、君は消滅していた。共生がうまくいっていないとは聞いていたけれど……制御もできていないとは思わなかったから。何とか力を押さえ込んで、君という『形』で封じたけれど」
言われた言葉の意味はほとんどわからなかったが、それでもどこかで納得している自分がいた。自分の精霊の力が暴走しかけたのを、彼が抑えてくれたらしい。
「あな、たは」
「ラルフ。君はクリスだね。氷炎樹の」
「ラルフ……?」
クリスは目を見張った。
「『閃光のラルフ』?」
「そう呼ぶ者もいるね。ああ、まだ起きちゃ駄目だって」
そこで彼はちら、と背後を見てから、ささやいた。
「無茶な力の使い方をしたものだから、燃えてしまったんだよ、君の……その、服。鎧もばらばらになった」
ぎくりとし、クリスは自分の体に目を落とした。見覚えのないマントがかけられている下は裸だ。青ざめると、ラルフが「大丈夫」とささやいた。
「君が安定してから、グレイを遠ざけた。まだ魔物がいるかも知れないから、見回ってくれと言ってね。そうしたらあの村の子が、君にマントを持って来た。機転がきくね。ありがたく受け取って、使わせてもらったよ。だから、グレイにはばれていない」
ダートが。
見ると、かけられているマントには血痕が飛び散っている。視線を巡らせると、川向うに小さく少年の姿が見えた。少女の遺体も。ダートはその前に座り込んでいる。
「慕われたようだね。俺の前に立ちふさがって、近づくなと威嚇してきたよ。君を守ろうとしたんだろう」
彼が、そんな事を。
「でも……あなたには。わかってしまった、の、ですね」
まだ声帯がうまく動かない。たどたどしく言うと、ラルフが気まずげな顔をした。
「うん……まあ。びっくりした。でもエイモスどのとアルティスが、どうしてあそこまで心配するのか納得したよ。破空が……俺の精霊がさ。君に会ってから、妙な事を言うし。変だなとは思ってたんだけど……あ、いや。そんなには見てない」
じっと見つめるクリスの視線をどう誤解したのか、ラルフは顔を赤くして手を振った。
「俺の方が、グレイより先にここに着いたんだ。でも、君の内側から力が体を崩そうとしてたから、抑えるのが先決だったし。その間にあの子がマントを持ってきて、すぐ包んで。だからちらっと見ただけで……大体、グレイをごまかさないといけなかったし! あの子も凄い顔して睨んでたし! だからほとんど見てない。何もしてない。本当」
慌てたようにまくしたてるラルフを見上げていると、「何の事です」という声がした。グレイが戻ってきたのだ。ラルフの肩ごしにのぞきこんでくる。
「気がついたのか。お前、一体何したんだ。いきなり物凄い圧力かまして、そのあげく引っくり返って。心配させんなよ」
そう言うと、ぺし、とクリスの額を叩く。ラルフが「うわ」と言ってその手をつかんだ。
「乱暴だよ。気がついたばかりの子に」
「乱暴って……ラルフさま。これぐらい普通でしょう。女じゃあるまいし」
「そうなんだけどね」
ラルフは困ったような顔をしている。クリスは身じろぐと、マントがずれないよう気をつけながら、上半身を起こした。
「魔物はどうなりました。あれは、何を依にしていたんです」
ため息をつくと、グレイは答えた。
「蛇と人間。なんであんな事になったんだか、見当もつかねえ。ちょっと前に死んだ村の女だってよ。あの坊主が思い出してさ」
「ちょっと前に死んだ……?」
「身ごもったまま死んだ、若い女がいたらしい。赤ん坊も駄目だった。それと蛇。川べりにいて、泳いだりもする小さいヤツな。それが混ざってた」
「混ざってた?」
グレイは頭をがりがりと掻いた。
「これはラルフさまの推測なんだが。最初、蛇に憑いてから、死んだ女に鞍替えしたんじゃねえかって」
グレイの言葉にラルフがうなずいた。
「怪魔程度では人間を依にはできない。人の感情が強すぎて、彼らの方が引きずられてしまうからね。けれど人間は、力を発揮するのには最適の依なんだよ。使えれば、の話だけれど。それでちょっと、やってみたのじゃないかな。死んだ人間なら依にできるのじゃないかって。あくまでも推測だけれど」
「どっちにせよ混ざっちまって、わけのわからん物になってたが。案の定、死んだ人間の感情にも引きずられてたし。『匂い付け』なんて力使うもの、まともな怪魔ならやらねえ。力がほとんどなくなっちまう。何かよっぽど手放したくないものがあったんだろうが……」
グレイの言葉にラルフが「苦しい生活をしていた女性のようだからね」と言った。この言葉にグレイが顔をしかめる。
「村長の娘の暮らしぐらいで、ここまでしますか?」
「君も俺も、他の世界がある事を知っている。けれどここで育ち、ここの価値観でしか生きる術を知らない女性なら、村長の娘としての生活は、……何と引き換えにしても良いぐらいのものに見えたんだろう」
ラルフが言った。その声音にどこか、悼むような響きがあるのをクリスは聞き取り、不思議に思った。彼も、似たような思いを抱いた事があるのだろうか。
「どちらにせよ『食事』に不都合はない。力の弱った怪魔でも、人間にとっては脅威だ」
ラルフは続けた。
「そこへもう一体がやって来た。故意か偶然か、その怪魔も同じ種類の蛇に憑いた。魔物にも縄張り意識はあるが、彼らの場合、どうなっていたのだろうね。ただ協定のようなものはあったのじゃないかな。結果として彼らの気配は重複し、君たちは攪乱された」
ラルフが言い、グレイは何か毒づいた。クリスはダートと、少女の遺体の方を見やった。
「それで……彼女は」
「村長の本物の娘だ。リタとか言ったか」
グレイは疲れたような顔になった。
「よりにもよって、魔物と一緒に俺たちの後をつけてきたらしい」
ハナの遺体は崩れてしまったので、そのまま土に埋めた。リタの遺体はそのままにしておくわけにはゆかず、グレイが連れ帰る事になった。ラルフがリタの首を体につけて手を添えると、娘の首はつながり、何とか見られる姿になった。グレイはリタの体を抱えると、一足先に村に向かって駆けて行った。
クリスはマントを借りたまま歩いた。ラルフが抱えて歩こうと申し出てくれたのだが、さすがにそれは断った。服も靴も燃えてしまったので裸足だったが、精霊と共生している人間は頑丈だ。大した事はない。
ダートは何も言わず、二人の後について歩いた。
しばらく行くと、向こうから幌馬車がやって来るのが見えた。サラが手を振っている。水探しの女は近くまで来ると馬車を下り、クリスの姿を見て眉を寄せると、有無を言わさず馬車の中に引っ張り込んだ。
「そこに服があるよ。何でも良いから着な。ところで……バレちまったのかい」
ささやかれ、ぎくりとする。サラはにやりとした。
「馬鹿な男どもと一緒にしないどくれよ。すぐわかった。女の子だろう、あんた」
無言でうなずくと、サラは「可哀相にね」とつぶやいた。
「誰にも言わないよ。女の騎士が殺される事は、あたしらも知ってる」
「あなたたちも……?」
「水探しを何だと思ってるんだい。あたしらはね。その昔、女の精霊の騎士さまに従った一族なんだよ。そのせいで街を追われ、邪教の徒にされちまった。けど女の精霊の騎士がいた時代、精霊たちはもっと人の身近にいたんだよ。街に住む者は都合の悪い事はすぐに忘れっちまうんだから」
それからサラは付け加えた。
「あたしらがあんたを裏切る事はない。何かあったら水探しをお探し」
「ありがとう、ございます」
クリスは頭を下げた。
「それで、あの様子の良い若いのは大丈夫なのかい?」
「ラルフは……わたしの後見人の友人です。心配して来てくれて」
不安はまだ残っていたが、クリスはそう言った。サラは「そうかい」とつぶやいた。
「不穏な感じのお人ではあるね」
「不穏?」
クリスは眉を上げた。
「あの人は、人格者で通っていますが」
「見る目がないね、あんた。ああいうのが本当の所、危ないんだよ」
サラは言った。
「人当たりは良いだろうさ。けどあれは危険だ。あんまり近づかない方が良い」
* * *
サラの馬車には男物の服が何枚かあった。農民が良く着るたぐいのものだ。何か作業をする時、女物の服が邪魔になるとこれを着るらしい。クリスはつぎのあたったショースをはくと、なるべく裾が長めのコット(シャツ)を探して着、長衣を重ねた。体の線をできるだけ隠す為だ。靴はなかったが、葦を編んだサンダルがあったのでそれを借りる。それから三人は馬車に乗せてもらい、村に向かった。
オルの村に着いたのは夕方近かった。近づくと、騒ぎが起きているのが遠くからもわかった。馬車を止めたサラに礼を言い、村に入る。すると泣きわめくアイラと、立ち尽くすモースの姿が目に入った。
「リタ! リタ! どうしてお前が……何だってこんな事に……!」
リタの遺体が横たえられ、村人が全員集まっている。ルカスがしきりに、村長夫妻を慰めていた。娘の遺体に取りすがるアイラの傍らにグレイがいたが、クリスたちが帰ってきたのに気づいてこちらにやって来た。
「向こうであの女が倒された頃、こっちでも村長の娘のふりをしてたヤツが死んだとよ。いきなり砂になっちまったと。そこでようやく、うちには娘は一人しかいなかったって気がついた」
グレイがクリスにそう言った。それからラルフに目をやる。
「俺たちはこれで、村を出ますが。ラルフさまはこの後、どうします」
「一足先に戻って、エイモスどのに挨拶してくるよ。彼の気にしている氷炎樹の騎士にも会えたしね。村長の娘さんについては気の毒な事をしたけれど……」
「どうしたって間に合いませんでした。魔物のすぐ横にいたんですから。まさか村の者に化けて入り込んでるなんて思わないし……」
グレイは悔しげに言った。それでも彼が、どうして気づけなかったのかと自分を責めているのがクリスにはわかった。何のかのと言いながら、この男は優しい。そう思う。
「匂い付けされてたから、感覚が鈍ってたとは言え……」
「あれは俺でも気がつかないよ。遺体に憑いて記憶を使うなんて事、今までやった魔物はいなかった。今後、増えるかもしれない。その時に今回の経験が役に立つさ」
慰めるように言うと、ラルフはクリスの方を見た。
「クリス。君は……」
何か言いかけてからそれをのみ込み、代わってラルフは微笑んだ。
「俺は、君の味方だから」
それだけ言う。クリスはラルフを見上げてから、顔を逸らした。ラルフは一瞬、残念そうな顔をした。だがその表情をすぐに消す。
(何だ?)
グレイは居心地の悪いものを感じて二人を見比べた。俺の知らない所で何かあったのか?
ダートは泣きわめくアイラと立ち尽くすモースを見つめ、ルカス神官を見つめた。よろよろと近づくと、気がついたアイラが憎しみの籠もった目を向けてきた。
「ダート……お前! どうしてリタを魔物の所へなんか連れて行ったの!」
ぎくりとして少年は足を止めた。自分がリタを連れていったわけではない。けれど母親であるアイラにとって、それはどうでも良い事だった。彼女は悲しみと憎しみに囚われていた。それを目の前の子どもに向け、彼女は駆けだすとダートを捕まえ、平手で殴った。
「疫病神! お前なんか、最初に魔物が襲ってきた時に死ねば良かったのよ。お前がリタを魔物の所へ連れて行ったんだ。魔物と取引をしたんでしょう、根性のひねこびたお前の事だもの。お前が! リタを殺したのよ!」
なおも何か叫びながらダートにつかみかかろうとするアイラを、ルカスが引き剥がした。何か言い聞かせているが、アイラはなおも興奮して叫んでいる。村長であるモースは、何もしない。何かしようという気も起こらないのだろう。ぼんやりとしている。
青ざめた子どもは立ち尽くした。村人の視線が、突き刺さるかのようだった。アイラの憎悪が、恐ろしかった。
俺の、せい……?
リタが死んだのは。家族が死んだのは。俺のせい?
俺が、生き残ったから。死ななかったから。だから、なのか……?
誰もダートに近づかなかった。黙って彼を見ている。恐ろしかった。怖かった。
その時、誰かが後ろから肩に手を置いた。
「君のせいじゃない」
静かな声がした。クリス。精霊の騎士の声だ。
「君は生きている。生きていて良い。わたしは君に助けられた。今日」
「クリス、さま……」
「君が生きていてくれて、良かった」
そう言うと、クリスはダートの前に庇うようにして立った。
「村長夫妻。魔物は倒しました」
静かに言う。
「誰が悪いと言うのなら、罪はわたしたちにあります。彼女がついて来ているのに、気づかなかった」
「いや、誰も悪くないと思うぞ。少なくとも俺たちには、そこまで面倒見る義務はない」
グレイが小さくぼそりと言うのを、ラルフは横目で見やった。それからクリスの背中に目を向ける。クリスは続けた。
「気づいた時には間に合わなくて……けれどこれだけは言えます。彼女は苦しみませんでした。恐ろしいと思う事もなかったでしょう。そのまま、女神さまの元に召されました。今はもう、安らいでいると思います……何の恐れもなく」
訥々(とつとつ)としたクリスの声は、なぜか人の心を静める効果があった。アイラが再び泣き出す。恨み言を言う気力がなくなったらしい。
「彼女の仇は討ちました。どうかそれで、許していただきたい」
そう言って頭を下げたクリスに、モースがそこで初めて涙を見せた。
「うちの……馬鹿娘が……どうせこいつの事だから、浮かれて騎士さまがたの後をつけたんでしょう。でもたった一人の娘です。ありがとうございました」
めっきりと老け込んだように見える村長はそう言ってから、妻の所へ行って肩を抱いた。アイラが泣き声を上げて夫に取りすがる。
ルカスが感謝すると言いたげに、クリスに頭を下げた。それから二人に声をかける。
「さあ。アイラ。リタを綺麗にしてやらないと……この子は女神さまの元へ行くんだから。花嫁みたいに飾ってあげよう。若い娘なんだからね」
そうして慰めながら、他の村人たちに合図をする。女たちが近寄ってきて、リタの遺体を村長の家に運び込むよう、男たちに指図をし始めた。
クリスは黙って、その様子を見ている。
「良い子だね」
ラルフがぽつりと言った。グレイはラルフに目をやった。彼はクリスを見つめていた。
「誰かが傷つくのを見るより、自分が傷つく方を選ぶ。心根が優しいんだろう」
「ええ。でもあのままじゃ、どこかでぽっきり折れちまう。ああいう奴は長生きできません。精霊の騎士には強かさがないと……」
そこまで言ってから、グレイはぎくりとした。ラルフはクリスを見つめながら、微笑んでいた。いつも通り、穏やかに。
それなのに。その穏やかさが恐ろしい。
「気に入ったな……あの子」
ぽつりと言う。グレイはぞっとした。どこか危うく、狂気めいた響きがあるように思えたのだ。
「すごく気に入ってしまったよ」
長年付き合いがあり、良く知っているはずの男の横顔を、グレイはこの時初めて、見知らぬもののように感じた。