10.魔物 2
覚えている。
冷たくて、寒い。
何かが自分を怒鳴りつけている。わめきちらす叫び声が聞こえる。手を伸ばしてくる。その、恐怖。
ずっと自分を守ってくれていた、誰かが。ごめんねとわびた小さな声。
そして、寒くなった。
寒くて、冷たくなった。
嫌だった。もう一度、温かさが欲しかった。守ってくれていた誰かに、もう一度会いたかった。
「エイダ? 大丈夫かい」
かけられた声に、少女はふと、まばたいた。
「うとうとしてたみたい……母さん」
温かな日差し。指に触れる日の光。
欲しかったのは、これだったか?
「姉さんたち、早く戻ると良いのに」
欲しかったものは?
「お前にも、晴れ着を作らないとね。姉さんのお下がりばかりじゃ可哀想だし」
「ううん。良いの」
「おしゃれぐらい、したいだろう」
「どうなのかな。わからない。あたし、こうしてる時が一番好き」
手を伸ばして日の光の中に指をくぐらせる少女を、アイラは微笑んで見つめた。
「おまえは本当に、良い子だね。わがままも言わないし」
「だってもう、欲しいものはみんな、あるんだもの」
エイダは目を閉じた。
「欲しかったもの、みんな。もうあるんだもの……」
本当に、今が一番幸せ。小さく少女はつぶやいた。
* * *
木々が貫かれ、枝が折れた。
襲いかかる黒い槍の群れ。伸び縮みしながら執拗に追いかけてくるそれらを、クリスは必死でかわし続けた。逃げる彼を、槍はさらに追いかける。紙一重でかわし続けていたものの、ついにかわし切れず、クリスの足に一本が巻きついた。凄まじい力で引きずられる。
「……!」
咄嗟に剣を抜いて切りつけたが、魔物の皮膚は剣を弾いた。歯が立たない。
ぐいと引っ張られ、逆さまになって宙に浮いた所で、うねうねと蠢く触手が次々とクリスに絡みつく。ごきりという嫌な音がし、肩の関節が外れた。剣が手から落ちる。みしみしと骨が音を立てる。体中の骨がねじ曲げられ始めたのだ。腕に、足に、力がかかる。背骨が、首が、締め上げられる。このままでは、折れる……!
《……レルナ》
意識が遠のきかけた時。脳裏に響く声があった。
《コノ者ニ触レルナ、下郎!》
怒りに満ちた声。次の瞬間、クリスの体は宙に投げ出された。どどん、という音と共に触手が切り裂かれるのが見える。
地面に落ちる前に彼の体は何かに抱き止められ、そっと下ろされた。
グレイの気配に似ていた。
目を開けると、木の葉や枝が自分を取り巻いている。背には土の感触。遮断されていた感覚を元に戻すと、枝や土にグレイの力が残っているのがわかった。精霊の力を使って、受け止めてくれたのだ。外れた関節にもう一方の手を当て、一気に元に戻す。
ごきっ。
激痛が走ったが、関節は元に戻った。即座に治癒の力が働き、痛みが引く。
黒い触手は、宙を走る幾筋もの槍に切り刻まれている。大地から生まれる槍は、光を帯びて触手に向かい、次々とこれを斬った。
「逃がすか!」
叫ぶとグレイは跳躍した。その体は土の精霊の力によって、鋼のように硬くなっている。裂け目の奥に逃げ込もうとした触手の間に飛び込むと、彼は腕を一閃した。
苦悶の叫びが上がる。地面がぐらぐらと揺れ、岩の奥から水流が迸った。
その中に、影があった。
天に向かってどうどうと噴き上がる流れと共に、黒い蛇が。
* * *
川の近くで休んでいた三人は、突然響いたどおん、という音に驚いて立ち上がった。
「山の方よ。騎士さまに何か……」
三人が岩山の方を見ると、頂上から白くきらめくものが噴き上がっていた。
「あれは何?」
リタが言う。ダートはその中に、黒い影があるのに気づいた。それが一瞬、こちらを見た気がした。
「魔物だ」
「じゃあ、騎士さまたちが」
「今、戦っているのよ」
リタとハナが言う声が聞こえる。ダートは血を流していたクリスを思い出し、ぎゅっと拳を握った。
「クリスさまが戦ってるんだ。すぐ退治されるよ。そしたらもう、村は大丈夫だ」
自分に言い聞かせるようにして言う。ダートはくり返した。
「きっと、大丈夫だ……」
「村が大丈夫?」
そこへ、密やかに言う声がした。はっとなり、振り返る。女の影が、ゆるやかに揺れていた。
「そうかしら」
* * *
一気に蛇の首を斬り飛ばしたグレイは、塵と化して崩れてゆく魔物に背を向け、座り込んでいるクリスに歩み寄った。
「無事か」
「すごいですね」
クリスは微笑んだ。グレイがほっとしたような、いらだたしいような顔になる。立ち上がったクリスは、グレイに頭を下げた。
「ありがとうございました。骨が折れる所だった」
「支えたのは俺だが。最初に斬ったのは俺じゃないぞ」
ぶっきらぼうに言う相手に、クリスが訝しげな顔になる。
「では、誰が……」
そこまで言った時、すっとクリスの血の気が引いた。膝が崩れる。
「おい?」
慌てるグレイの前で、クリスは崩れ落ちた。
体を流れる血の音が、はっきりと聞こえる。心臓の鼓動が、響き渡る。
熱い。体が。内側から、焼ける……!
『……クリスさま!』
悲鳴が聞こえた。ダートの声。
「クリス!」
気がつくと、グレイに支えられていた。その腕を指が食い込むほど強く握っていた。震えが止まらない。力があふれだしそうだ。
『力を使ってはならない。使えばお前の体は崩れる』
エイモス。アルティス。
腕輪が輝いていた。彼らからの餞別が、クリスを人の形に止めようとしている。そうか、とクリスは思った。これはその為のもの。彼らはこれを、案じていた……。
「これ、だけじゃない」
内からの力を抑えようと、必死になりながらクリスは言った。先ほど聞いた悲鳴。あれは現実だ。今、起きている……。
「もう一体いる。ここから近い、川のそば!」
グレイがはっとなった。気配を探る。すぐにクリスの言う通りだと気づく。
「ここにいろ、良いな!」
そう言い置くと彼は、獣のような速さで山を駆け降りて行った。けれどクリスにはわかっていた。彼では間に合わない。
ダート。あの子を助けるのには。
「我が精霊……っ。名も知らず、力も知らぬ庇護者よ。頼む、力を」
《……ラヌ》
同じ痛みを持った者。家族を目の前で奪われた。悲しみと、怒りと。それでも前に進もうとしている少年。
助けたい。
彼を助けたい。
「力を貸せ」
《ナラヌ》
クリスは唇を噛みしめた。
「……命じる!」
腕輪が弾け飛んだ。抗う気配がして、次にクリスの意思がそれを圧倒した。
体が燃え上がる。
光がクリスを包んだ。
* * *
オルの村に向かっていたラルフは、前方で突如発生した力の渦に気づき、足を止めた。
「何だ? 魔物……いや、精霊……」
あまりにも強い力の波。圧倒され、鳥肌が立った。力が異質すぎてどちらとも判別がつかない。敵なら恐ろしい存在だし、味方でも大変な影響が出る。
「こんな存在が地上に現れたのなら、魔物と精霊の勢力図が大きく変わるぞ」
つぶやくと、彼は荷物を下ろした。服を脱ぎ、鎖帷子を身につける。それは精霊の錬銀のみでできており、他の素材は一切使われていなかった。
着終わると足で地面を蹴る。ぼこりと開いた穴に荷物を放り込むと、土がひとりでに動いてそれを隠し、元通り平らな地面になった。
目印に適当な石を置くと、彼は走り始めた。速度は次第に上がり、やがて光の矢のようになる。鎧が熱を帯び、熱くなる。周囲で大気が燃えている。
ラルフは走った。力の渦がある方向に向かって。
* * *
グレイは山を駆け降りた所で、背後からの異様な気配に足を止めた。何かが来る。何か恐ろしい、強大なものが。
(精霊? いや、魔物)
頭上を力が走り、通りすぎる。グレイは咄嗟に地面に伏せた。飛び去るそれを見送る。何だ。これは、何だ。 炎。
雷。
いや、……光?
白く輝く力の渦が川辺に向かったのを確認し、グレイはそちらに急いだ。
* * *
ダートは呆然として、彼女を見つめた。どうして? そんな思いがぐるぐると回る。彼女は微笑むと、優しい声で言った。
「汚れてしまったわ」
体についた血糊を見て、くすりと笑う。
「嫌な子ね、ダート。そんな目で見るものじゃないわよ。すぐに綺麗になるわ。ちゃんと洗えば」
微笑むと彼女は、転がっている姉妹の首のない体を見た。
「駄目ね。あなたってばこんなに散らかして……ああ」
手にした首を見て微笑む。
「そうだったわ。あたしが取り上げてしまったのよね……ごめんなさい。返すわね」
どさりと首を落とすと、驚愕の表情を張りつけたままの娘の首が転がった。ダートは後ずさった。むっとする鉄錆の匂い。まき散らされた血。
怖イ。
アノ夢ト、同ジ。
涙が滲んだ。ダートは彼女を見上げた。嫌いではなかった。優しくしてくれた時もあった。それなのに。
「……ハナ」
ダートはハナだったものを見た。触手を体中に生やして蠢かせ、微笑んでいる魔物を。
「思い出した……村長の家には、娘は一人しかいない。リタ、だけだ」
「そうよ。次女も三女も、最初からいないわ。もう少し遊べると思ったんだけど」
くすくす笑うとハナが言った。
「おまえが、魔物……エイダも」
「失礼ね。あの子は人間よ。ちょっと力を吹き込んだけれど、それだけ。でもその内に、魔物にしても良いわね」
「じゃあ、おれの……家族を殺したのは」
「あたしよ。あんたの父親、好みだったの」
くすりと笑うと、ハナは口を開いた。尖った歯がずらりと並んでいる。
「だから、食べちゃった」
舌が伸びる。涎が地面に落ちて、しゅうしゅうと湯気を立てた。ずるり、ずるりという音がする。ハナの下半身はいつの間にか、濡れた蛇のそれに変わっていた。
「あんたもあの人の一部なのよね。親子だもの……」
どこか陶然とした顔でハナが言った。
「あたしのものになってちょうだい」
「嫌だ」
後ずさりながら、ダートは言った。
「あの人と同じ事を言うのね」
「嫌だ」
手を差し伸べてくる魔物に、ダートは首を振った。
「どうして選んでくれないの?」
魔物の目に、怒りがともる。ダートは首を振り続けた。
「嫌だ。嫌だ。あっちへ行け。すぐにクリスさまが来る」
魔物の触手がうねうねと蠢いた。怒りの形相になる。
「あんな人間。出来損ないの精霊もどき! どうしてあんなのが良いの? どうしてあたしを選んでくれないのぉっ!」
叫ぶと魔物はダートに飛びかかった。ダートは悲鳴を上げた。
その時、視界が真っ白になった。激しい熱と力の風に打ち倒され、ダートは倒れた。叫び声が上がるのが聞こえた。
目を開けると、白く燃える人影がこちらに背を向けて立っていた。輝く人影は女の魔物を足の下に踏みつけている。
『嫌よおっっっ!』
女が叫んだ。
『あたしが死んだら、あの子が……嫌よおおおおおおっ!』
人影は、軽く手を振った。それだけで、女の首が跳ねて落ちた。凄まじい形相を浮かべた首は、それでも抗おうとした。人影に飛びかかり、その体を食いちぎろうとでも言うように牙を剥く。
人影が鋭い光を放った。
女の絶叫が響いた。
* * *
その瞬間、エイダは倒れた。枯れ木のように萎び、縮んでゆく。見る間に少女だったものは消え失せた。
日の光が差し込む。小さく音を立てて、少女の服がくたくたと床にわだかまる。
アイラは悲鳴を上げた。
* * *
叫び声がまださめやらぬ内に、魔物の輪郭が崩れた。全てが崩れ、解け、消えてゆく。
やがてそこには、萎びた女の体が残された。同時に人影の光が薄れる。ゆっくりと光が引くと、見覚えのある華奢な姿が見えてきた。銀色の髪。白い肌。
「クリスさま……?」
声をかけると、人影がゆっくりと地面に膝をついた。そのまま倒れる。
「クリスさまっ?」
慌ててダートは駆け寄った。熱の残る地面に膝をつく。痛みが走ったが構わなかった。クリスを助けなければと、少年はそれだけを念じていた。
倒れた騎士にはもう光はなく、ただ熱だけが、先程の出来事が本当にあった事だと示している。クリスは衣服をつけておらず、鎧だけをかろうじて身につけていた。触れると、熱くなった鎧が指を焼いた。慌てて引っ込めると、肌の上に乗っていた鎧がばらばらになって落ちた。素肌が晒される。
「クリスさま……」
肌は普通の体温だった。このままでは火傷をすると思い、ダートは体に乗っている鎧のかけらを払いのけた。そうして少年を抱き起こそうとし……その目が見開かれる。
意識のない彼の体。
華奢な少年の胸には、あるはずのない膨らみがあった。