1.辺境の村
風が砂を吹き上げる。いじけたような緑が、大地にしがみつくように点在している。
ダナン大陸、エメル地方の大地は、いつも通りに乾いていた。
春が来たものの、風はまだ冷たい。朝にはまだ時折、水瓶に氷が張る。けれど日差しは次第にきつくなってきていた。いずれ嫌になるほど照りつけるようになるだろう。
埃っぽい風に唾をはくと、ダートは桶を抱えなおした。彼は辺境の貧しい村で良く見かけるたぐいの子どもだった。
痩せた体にくすんだような茶色の髪、茶色の瞳。つぎの方が元の布より面積が大きいのではと思われる、くたびれた服。
まだ十二であるはずなのに、彼の表情は痛々しいまでに大人びていた。働かねば生きてゆけず、働いても暮らしは決して楽にならない、そんな状況で生きている為だろう。頬にはまだ丸みと柔らかさがある。だがいずれは風雨にさらされ、厳しい表情になるだろう。村の大方の男たちのように。
数年前まではしかし、彼にも子どもらしい表情が豊かに備わっていた。その頃には祖父と、兄のウォルとグリフがいたからだ。けれど彼らは急な病で死んでしまい、長男としての責任はダートのものになった。家を支える為に彼は必死になって働き、それが彼から最後の子どもらしさを奪っていった。
辺境の村では良くある事だった。
離れた所にある川まで行って、水を汲む。オルの村の井戸が突然枯れてしまったのは、一巡月前。それからずっと、誰もが川まで歩いて水を汲んでいた。驢馬がいればな、と少年は思った。水でいっぱいになった桶は重い。動物に運んでもらえれば、どれだけ楽だろう。でもああした動物が飼えるのは、それなりに裕福な人だけだ。
ずっしりと重い桶を両手で持って歩き出す。するとほどなくして、知り合いが走ってくるのが見えた。
「おおい、ダート。大変だ!」
走って来たのは幼なじみのマットだった。大変だと言いながら、彼の顔は笑っている。何だろうと思いつつ、桶を下ろす。彼の前で立ち止まり、マットは言った。
「巡回神官さまが来たよ! 面白い話が聞けるぞ。みんな広場に集まってる。運ぶの手伝ってやるから、早く来な」
広場には村にある七つの家から、人々が出てきて集まっていた。辺境の村に人が訪れるのは、あまりない出来事なのだ。それが物語りを聞かせてくれる旅人なら、誰であれ歓迎された。
ダートは人々の後ろから首をのばし、中心にいる人物を見ようとがんばった。母親のマーサが、妹のロッティを連れて立っているのが見える。普段は外に出たがらない、文句言いのタラ婆さんまでいる。父親のロッドの姿を探すと、村長のモースと一緒にいるのを見つけた。隣に立っているのは、巡回神官のルカス師だ。
ルカスはダートが小さい頃から、年に数回やって来る神官だった。辺境の村々には聖職者がいない事が多く、その為に彼のような巡回神官がいる。村人は彼がやって来ると、産まれた赤ん坊に祝福をしてもらい、亡くなった者たちの為にまとめて祈ってもらった。彼はまた話上手な人間でもあり、村人たちに多くの物語をしてくれた。大抵は女神の慈悲と聖人たちの話だったが、聖なる都に住む精霊に愛された人々の物語が、子どもたちには人気だった。魔物と戦う精霊の騎士の話は男の子に人気があったし、『癒し人』である花の乙女の物語は、女の子が良く聞きたがった。
驢馬を連れたルカスはつばの広い帽子をかぶっており、襟が高く袖の長い黒い服を着て、神官の身分を示す三つの輪をつなげた印を首から下げていた。それは村の子どもたちにとって、あるいは大人たちにとっても、畏敬の念を起こさせるものであった。神官とは女神につながる者だ。そうではないか? ただルカス自身はあまり、権威ある存在のようには見えなかった。柔和な顔をして、子どもにも親しく声をかけてくる。ダートを含め、子どもたちはみんな彼が好きだった。
ダートは人の間をすり抜けて近寄った。何を話しているのか、聞きたかったのだ。
ルカスは聖王国出身の神官だった。神官位を得たのは若い頃だったが、その後、辺境行きを志願して国を出た。
エメル地方を巡回するようになってから、十年以上がたつ。最初は余所者扱いだった村人たちも、先任の神官だったラズタが亡くなってより、彼を頼るようになった。
ダナン大陸の多くの地では、女神ダーナが信仰されている。三つの顔を持つ女神は生命を生み出すものであり、死を与えるものである。母であると同時に娘であり、平和をもたらすものであると同時に戦をもたらすものでもあった。精霊(民間ではフェイ)はダーナの子どもたちであり、精霊の騎士(民間ではフェイ・カヴァリエ)もまたダーナに属するものと考えられている。
女神の神官の会堂や教会は、各国にある。宗派は幾つか別れているものの、聖王国ミスルティアのダーナ大聖堂がそれらを統括している。
神官の仕事は、大きく分けて二つある。一つは人々の魂を救う為に働く事。もう一つは精霊の騎士や花の乙女を支える事である。巡回神官は辺境の地を回り、女神の言葉を伝える使命を持つ。それと同時に精霊の騎士が妙な偏見を持たれぬよう、彼らが働きやすいような下地を作る任を担っていた。
ルカスの仕事は村々を回り、村人たちの為に祈り、花の乙女たちが作った薬を配り、女神や聖人たちの物語をする事だった。地味な仕事ではあるが、彼は自分の仕事に誇りを抱いていた。生活の苦しい辺境の村では、誰かが気にかけてくれているというそれだけで、人は救われたりするものだ。またそんな苦しい生活の中に、女神の慈悲を思わせる事が転がっていたりする。食べ物にも事欠く生活をしている人が、それ以上に苦しい暮らしをしている隣人に、乏しい食料を与えに行く姿をルカスは何度も見た。彼らは特別な人間ではなく、ごく普通の村人であったが、そのような事をごく当たり前に行っていた。
彼らも間違いを犯す。日々、清廉に生きているわけでもない。けれどそんな中で、自分
にできる精一杯の事をしている。そこにこそ女神がいる、とルカスは思う。最も弱い者、小さくされた者の側にこそ。
「では、三名の方が亡くなったのですね。ロタ、エイメ、ロイ……」
村長のモースから亡くなった人の名を聞いて、ルカスは言った。前にオル村に来たのはエメル地方が雪に閉ざされる前だったから、五巡月ほど前の事になる。
「埋葬はもう終わっとります。いつも通りに後から祈ってもらいたいと。あと、産まれた赤ん坊に祝福が欲しいと、村の女たちが言っとります」
「わかりました。他に急を要する事はありますか。病人がいるとか……」
「今んとこはありません。鍛冶屋のロイがいきなり死んだんで、新しい鍛冶屋を誰か、頼まにゃならんとは思っとりますが。本当に、いきなりでした。けどそれはまだ、何とかなります。ですが井戸が枯れたのは……本当に、こたえます」
村長のモースは額の汗を拭いて言った。
「何が起こったんやらさっぱりで。近くの川まで行って水を汲んでますが、いつまでもつか……」
井戸が干上がった事は、村に来てすぐに聞いた。こうした村ではきつい事態だ。
「水探しを呼びますか?」
「はあ、しばらく様子を見とったんですが、どうにもこうにもならんので、知らせを送りました。いずれ来るはずです。神官さまには申し訳ないんですが……」
モースはすまなそうな顔で言った。『水探し』とは、地下の水脈を見つける、特殊な能力を持つ人々の事である。女神ダーナを奉じてはいるが、教会とは一線を画しており、教会本部は彼らに対し、あまり良い顔をして来なかった。奇跡は教会にのみ所属するものであり、それ以外の所で起きる出来事は邪道という考えが主流だからだ。巡回神官たちも、村人にも関わるなと説く者が大半だ。ただ辺境の村々において、水の有無は命に関わる。新たな井戸を掘る時、また今回のように井戸が枯れてしまった時には、村人は彼らを呼んで水の出る場所を探してもらい、あるいは井戸の枯れた原因を調べてもらうのが常だった。ルカスもそれはわかっていた。
「わかっていますよ。聞かなかった事にしておきますから」
ルカスがそう言うと、村長はほっとした顔になった。そこでロッドが低い声で言う。
「ただどれだけの要求があるか。今の井戸を見つけてもらった時にも、三代にわたって食料を渡した。今回はどれぐらい欲しがるやら」
水探しが水脈を見つけた時に要求する報酬は、井戸から水が沸いている限り水を使わせる事と、彼らが村を訪れた際には食料を分け与える事だった。しかし貧しい村では、分けるほどの食料もない事が多い。負担を感じる村人たちは水探しに、食料を分け与える期間を限定させた。ロッドの言う三代というのは、その期間の事である。
「業突張りの鼠喰い、汚らしい犬野郎が。やつらは人の足元ばかりを見る。わざわざ村に迎えてやろうってのに」
村長は吐き捨てるように言った。『鼠喰い』、『犬野郎』はどちらも水探しの蔑称である。流浪の民である彼らは、普段は村に入る事を許されない。水脈を見つけた時には彼らに感謝しても、代を重ねる内にそんな感情はなくなる。食料を渡す行為を相手の強欲のせいだと恨み、憎むようになってゆく。理由などなく、水探しであるというそれだけで、罪深い者、卑しい、軽蔑すべき者と考えるようになる。自然、対応は邪険なものとなる。そうした人々の態度がまた、水探しの要求を高くしているのだが、彼らはそんな事は考えない。苦しい立場の自分たちに付け込んで報酬を求める、相手が悪いとしか思えないのだ。
第三者の立場に近いルカスには、その辺りの事が少しはわかっていた。何か言うべきかと思ったが、神官である自分が表立って水探しを弁護するわけにもいかない。それでただ、「助けに来てくれる人々に、そうした態度はいけませんよ、モース。彼らも女神を信じる人々です。兄弟に等しいのですから」とだけ述べた。
「腐った肉にたかるハイエナみたいなもんですよ。ルカス師にかばってもらえるようなもんじゃありません」
村長はしかし、憤懣やる方ないといった顔で言った。それを止めたのはロッドだった。
「モース。しかし彼らを怒らせても良い事はない。助けに来てくれるのは確かなんだから、それなりの扱いはした方が良い」
「あんなやつらにか」
「怒らせて報酬が高くなるよりましだ。支払いが四代にもなったらたまらん」
その言葉にモースは黙った。ルカスはなぐさめるように声をかけた。
「女神の慈悲は、行いに宿るもの。どのような相手にも慈悲を見せるのが、女神を信じる者の正しい行いですよ」
「そうですかね」
「広い心で相手をもてなす、あなたの行いを女神は喜ばれるでしょう」
そう言われ、やっとモースは納得した顔になった。ロッドがひそかに感謝のまなざしを向けてくるのに、ルカスはちょっと笑みを向けた。そこで人々の合間をぬって、近寄ってきた少年に気づく。
「おや? ロッド。あなたの息子が来ましたよ。やあ、いたずら小僧くん。元気にしていたかい」
ダートに気づいた村長とロッドは、非難するようなまなざしを彼に向けた。少年は思わず首をすくめたが、「はい」と返事をし、期待のまなざしをルカスに注いだ。
「ルカス師。今日はお話をしてくれるんですか?」
「ダート、ルカス師は疲れておいでだ。無理を言うのじゃない」
ロッドが怖い顔で言ったが、ルカスは微笑んでそれを制した。
「かまいませんよ。みなも集まっている事だし、一つ話をしましょうか」
近くで耳をそばだてていた者たちが、歓声を上げる。「騎士の話!」「花の乙女の話!」などという声が口々に上がり、その場は騒然となった。
村長のモースが静かにするよう身振りをし、騒ぎが納まる。ルカスは前に進み出ると話し始めた。
「みなさん、それでは、古き物語をいたしましょう。ダーナ女神の恩寵たる、この世を護る人々の物語を。ご存じのように精霊の騎士、花の乙女は十二の一族から現れました。男性は精霊の騎士となって魔物と戦い、女性は花の乙女となって、傷ついた者を癒すのです。彼らは不思議な力をもって、人々を救いました」
ルカスはそう言って、人々を見渡した。期待に満ちた顔でこちらを見る村人たち。大人もいれば子どももいる。ダートが頬を紅潮させ、目を一杯に見開いて自分を見ているのに気づき、ルカスは微笑んだ。辺境の村の子どもたちは、大人になるのが早い。絶え間ない労働をしている内に疲れたような、あきらめたような表情が刻まれ、忍耐強い顔になってゆく。ダートもそうだ。まだ十二のはずなのに、兄たちが死んでから、大人びた表情をするようになった。けれどこうして物語を聞いている時は。その時だけは、子どもの顔になる……。
物語を語るのが、ルカスは好きだった。話を聞いている人たちがその時だけは辛い事を忘れ、喜びに満ちた輝きを顔に昇らせる。それを見るのが好きだった。かつての自分もそうだったのだろう。かつて。まだ小さな子どもだった頃。彼は胸踊らせながら、精霊の騎士の物語を聞いた。何度も何度も彼は、祖父にその物語をねだった。それは祖父を救ってくれた騎士の物語であり、彼が神官となる事を決めたのも、元をたどればその物語を聞いたからだった。
そうして物語は伝えられてゆく。様々に姿を変えながら。
ルカスは、何度も繰り返された物語の始まりの言葉を述べた。
「女神の恩寵深き一族、麗しき方々は、精霊に愛されし者。翡翠と鷹を紋章とする一族より出でし者に、『閃光のラルフ』あり。雷の精霊に愛されし若者は黄金の髪に黄金の眼持ち、魔を滅ぼす力をその身に秘める。サフィアの地にて妖魔現れし時に剣を取り……」
ルカスの物語は面白く、不思議に満ちていた。旅の行商人も面白い話をするが、ルカスの物語はまた特別なのだ。ダートは夕食を食べている間中、昼間聞いた話を思い出していた。その時ロッティが、麦粥を入れた鉢を引っくり返す。マーサに叱られ、大声で泣き出した。ダートは思い出していた物語を中断させられ、妹の甲高い泣き声にいらいらした。可愛いと思う時もあるが、こんな時は妹なんてうっとうしいばかりだ。
「マーサ。うるさいぞ」
ロッドがじろりと妻をにらんで言う。マーサは疲れた顔をしていたが、ロッティをぴしゃりとぶった。泣き声が大きくなる。ああ、うるさいとダートは思った。妹なんかいなければいいのに。
その時、扉を叩く音がした。機嫌の悪くなっていたロッドは無視した。だが執拗に扉は叩かれ、ついには大きな音を立てて破れた。
ロッドも、マーサも、そちらを見た。泣いていたロッティも。
扉の方を向いたダートは、そこに闇を見た。扉があったはずの場所には何もなく、木の破片が床に散乱している。そうしてねっとりとした黒い影が、立っていた。そこに。
次の瞬間、その場が真っ赤に染まった。
気がつくと、ダートは一人闇の中にいた。妙な匂いがする。
周囲は濡れていて、ダートの頬にも何かぬるぬるするものがかかっていた。どうしてこんなに暗いのだろうと思う。
起き上がると、暖炉の火が消えていた。けれど小さな澳火が残っている。這うようにしてそちらに行くと、火を熾した。そうして何とか立つと振り返り、
その惨状を見た。
家の中は血まみれだった。むっとする鉄錆の匂いの中に、転がっているものがある。人間の腕や足。スカートをまとう、母親らしき残骸。妹の首。
ダートはしばらくその場に立ち尽くしていた。自分の見ているものが何なのか、わからなかった。これは何だろう。どうしてロッティは首から下がないんだろう。
ふと視線を落とすと、自分の手が見えた。血で濡れていた。手だけではない。体中が血まみれだった。見ているうちに震えてきた。もう一度、視線を戻す。床に転がる人間の一部たちに。
父さんはどこだ。
ぼんやりした頭で思う。父さんは。
そこで落ちている腕に、父親の腕にあった傷を見つけた。朝晩見ていた火傷の跡。なじみ深いそれに気づいて、ダートは食い入るようにそれを見た。どうしてあの腕に、父さんと同じ傷があるんだ。あれは父さんじゃない。だって、父さんにはちゃんと、体があるはずだ。腕が体についてるはずなんだ。
母さん。ロッティ。
体から力が抜け、その場にへたりこんでいる事に、ダートは気づかなかった。そのまま彼は朝になるまで、座り込んで家族の残骸を見つめ続けていた。
* * *
「エメルの辺境で魔が出た。水の怪魔らしい。退治の依頼が村長から来ている」
聖王国の『剣の院』でその話を聞いた時、ラルフはさして興味を抱かなかった。『閃光のラルフ』の呼び名を持つ彼は精霊の騎士上位十三名の一人であり、第三位の騎士である。
騎士の強さは、契約を結んだ精霊の強さによって決まる。精霊の属性は、雷、氷、炎、風、水、土、花の七種に分けられ、力の強いものほど人間と関わる事を嫌がる傾向にあった。また属性によっても、人間に対する態度は違っている。雷と氷は最高の攻撃力を誇るが気難しく、人間にほとんど興味を持たない。炎は雷、氷に次いで強い攻撃力を持ち、風は特殊な能力を発現しやすく、水は防御と回復に優れる。この三種は特定の性質、資質を持つ人間とのみ契約を結んだ。土は比較的穏やかな性質を持ち、最初の契約はこの属性のものが望ましいとされている。花は人懐こく、契約者以外にも気に入ればまとわりつくのが常で、しかし特記すべき能力を持たず、この属性の精霊を持つ騎士の位階はどうしても低くなった。上位の騎士とは強い精霊をその身に宿す存在に他ならない。
『上位十三名』は中でも、契約が難しく稀な精霊に選ばれた存在だった。
怪魔は魔物としては弱い存在で、上位の騎士が相手をする事はまずない。そういう訳で、ラルフもその魔物の話は聞いた端から忘れていた。だから第十二位のエイモスから内々に会って話がしたいと言われ、その事件の解決に一役買って欲しいと頼まれた時にはかなり、面食らった。
「その魔には何か裏でもあるのですか、エイモスどの」
ラルフは尋ねた。彼の位階はエイモスよりも上だったが、エイモスは彼よりも年長の存在だったので、彼はいつも礼儀正しく相手に接していた。
「特には」
言葉少なにエイモスは答えた。
「ではどういう事でしょう。下級の魔に上位の騎士が動くなど、常にはない事ですが」
ラルフは二十代半ば頃に見える、若々しい青年だった。十二貴族の一つである緑鷹侯爵家の出身だが、庶出の出であり、現在の当主とは縁が薄い。背が高いので細身に見えるが、体は鍛えられており、引き締まっている。髪はやや暗い金色で、所々に栗色の縞が混じる。目鼻立ちは整っており、美しいと言っても差し支えない顔立ちをしている。けれど気安い笑顔を持っている為、親しみのある雰囲気がまず目についた。人がついその姿を探してしまうような、そんな魅力を持つ青年である。そうして何より、見た者に強烈な印象を残すもの。
金色に輝く両の眼。
元は良くある茶色の瞳だった。だが雷の貴妖と契約した時、ラルフの瞳はこの色に変わってしまった。
「敬語を使う必要はないと言ったはずだが、ラルフ。わたしは十二位。三位の君がへりくだる必要はない」
対するエイモスは三十がらみの外見を持つ男だった。黒髪に灰色の瞳をし、厳しい表情と鍛えられた体を持っている。その落ち着きと貫祿には、歴戦の兵といった風情があった。
彼もまた十二貴族の一つ、氷炎樹侯爵家の出身である。何事にも筋を通す律儀さと同時に懐の広い鷹揚さも持ち合わせており、さりげない人情味も時に見せた。その人柄と経験の長さから『親父どの』と呼ばれ、多くの精霊の騎士たちから信頼されていた。
「『黒鎖のエイモス』は俺が院に入った当初より、騎士たちを支える存在でした。あなたがいてくれたから、俺は心を折らずにすんだ」
微笑んでラルフは言った。
「俺たちの運命は過酷です。愛した者、親しい者を次々と失い、それでも戦い続けなければならない。あなたは二百年以上、騎士として生きている。それでいて今も、人としての感性を保っておいでだ。あなたという存在がある限り、俺にも希望が残される。自分は人だと、人であり続けられるのだと思う事ができるのです。どうして敬意を表さずにいられますか」
「君はまだ八十ほどだろう」
「それでいてもう、自分の人間性が疑わしいのです。毎日何かが欠けてゆく。『精霊憑き(騎士)』になった時点で、本当の意味での人間ではなくなっているのでしょうが」
ラルフはため息をつくと、自分自身の腕を見下ろした。彼の右手の甲には白の、左手の甲にはあずき色の紋様が刻まれている。布地に包まれて見えないが、両の腕から肩にかけては渦巻く金色の紋様があった。彼がこの印を身に受けたのは、六十年近く前の事だ。彼を選んだ三体の精霊が、己の騎士と示す為に刻んだのである。以来、彼は歳を取れなくなった。他の騎士たちと同じように。
祝福であり呪い。かつてある騎士は、この印をそう評した。
その通りだとラルフは思う。精霊の印は異能の力を与え、長寿を約束する。しかし同時に苦痛と悲しみをも与える。頑健な体と旺盛な回復力は、騎士たちを終わるあてのない戦いに送り出し続ける。愛する者を守る為の契約で得た長寿は、その全てを失った後も生き続ける重荷を背負わせる。人ならぬ存在の力を受け、それに準じる存在となった者。それでいて、心は人間のままなのだ。
百年を過ぎて生きる精霊の騎士たちは、次第に感情を失い、魔を倒すだけの存在となってゆく。そうしていつか、魔物に倒されてその生涯を終えるのだ。さもなければ狂気に囚われて自滅する。精霊たちの約束する長寿は千年を越えるものであるが、ミスルティアが建国されて以来、二百年以上生きた騎士は数えるほどしかいない。みな、戦いの日々の中で磨耗され、死んでゆく。
エイモスはしかしそんな中で、希有な存在だった。彼は二百五十歳になるが、今も人間らしさを失わず、第一線に立ち続けている。
「わたしは君が思っているほど、まともなわけではない。深く沈んだ所がねじれている。そうでもなければこれほどに長い間、戦い続けられたわけもない」
エイモスは淡々とした口調で言った。
「だが、それはよそう。今は君に頼みたい。この件に、何とかして介入できないか」
「理由は何なのです?」
「議会がこの任務に選んだのは『なりたて』だ」
「そうでしょうね。新人の騎士向きだ。年長の者をつけて送り出されるはずです。ものになるかどうかを確認する意味でも」
「わたしの家の者なのだ」
ラルフはほう、と言った。
「ではこれで、氷炎樹の騎士は三名になったわけですね。アルティスもそうでしたでしょう」
「詳しいな」
「エストが彼とは同期なので」
ラルフは親しくしている騎士の名を上げた。『白のエスト』と呼ばれる彼は、ラルフと同じ緑鷹家出身である。
「しかし氷炎樹の者なら期待できる。案ずるほどの事はないのでは?」
「位階は三十七位だ」
ラルフは軽く眉を上げた。騎士の人数は現在三十七人。つまり最下位である。
「そうですか。しかしなりたてなら、仕方がありません。最初の魅妖が弱くとも、次が強力な貴妖なら、位階はすぐに上がりますよ。エストの例もありますし」
精霊にも位階がある。最も弱い存在は魅妖と呼ばれ、その上に高位の精霊、貴妖が存在する(民間では伝承と相まって、フェアリ、フェイと呼ばれる)。その上に輝妃、さらに上に霊王と呼ばれる存在がいるが、この階級になると人間とはほとんど関わろうとしない。
彼の言うエストの例とは、三体の魅妖と契約し、二十五位だったエストがその後、貴妖と契約して七位になった事を指している。四体もの精霊と契約した騎士はこの千年他におらず、彼の件は稀な例として院の記録に残る事となった。
エイモスはしかし、苦い顔になった。
「あれと契約した精霊は一体だ。そうしてこれ以上数が増える事はないだろう」
この言葉にラルフは目を丸くした。
「氷炎樹の者でしょう。十二貴族は彼らに好まれる血筋です。放っておくわけがない。それとも傍系の出なのですか」
自分自身が庶出だった事を思い出して問うと、エイモスは首を振った。
「本家の直系だ。だからこそ、面倒な事になった」
「面倒?」
ため息をつくと、エイモスは言った。
「君も知っての通り、『精霊憑き』となる者は最初、低い位階の精霊……魅妖と契約を結び、次に力の強いものと契約を結ぶ。一人の騎士に精霊、は三体が普通。つまり三体とも魅妖だったなら、その騎士の能力は低くなる。エストが最初そう判断されたようにな。
一体でもその上の階級である貴妖だったなら、強い力を得る。その上の輝妃だと、すさまじい力を持つ騎士となる。最もその場合、契約時に狂ったり死んだりする可能性も高くなるが」
「はい」
エイモスが何を言いたいのかわからず、ラルフは神妙な様子でうなずいた。精霊との契約時には、心身共にとてつもない負荷がかかる。彼らとの契約は、『共生』と呼ぶべきものだからだ。精霊たちは契約により、騎士の命と自らの存在を重ね、融合する。そうして彼らを内側から、別の生き物へと変化させる。これは人には試練と言えた。圧倒的な力を持つ者に肉体はもちろん、精神もいじくられる事になるからだ。人は普通、人ならぬ存在の精神や感性に耐えられない。その為契約時には、発狂する者や死者が出る。
『剣の院』はその為に創設された。ダーナ女神教会から別れたここは、精霊の騎士を管理し、育成する場所である。教会から派遣された神官たちによる『議会』が全てを取り仕切っており、騎士たちの任務は彼らが請け負い、割り振っていた。
ここでは常時、若い男性が精霊の騎士候補者として訓練を受けている。心構えをさせ、契約時の衝撃を出来うる限り減らす為である。ラルフ自身もここで訓練を受けた。
これにより、『なりそこない』……契約をし損なった犠牲者の数は減った。
だが危険がなくなったわけではない。何年も訓練を受けた候補者であっても、契約時には命を落とす者が出る。相手が強力な精霊であればあるほど、その危険は増した。
輝妃と契約した者は、この千年で六名いる。その内一名は契約時に死亡し、二名は契約後に狂死した。残る三名はまだ生き残っているが、一人はそろそろ危ないと言われている。
エイモスは続けた。
「強い精霊が憑いた場合、それより弱いものが次に来る事はあり得ない。人間と彼らは違いすぎている。彼らもそれはわかっていて、気に入った騎士に依り憑く際には、慎重になる。知っているか? 院に候補者が来た時点で、貴妖たちは選ぶ相手を決めているのだそうだ」
「そうなのですか?」
驚いたようにラルフが言うと、腕にある金色の紋様が一瞬、熱くなった。なだめられているような、からかわれているような感覚が内をかすめる。それはエイモスも同じだったらしく、彼は左腕を軽くさすった。そちらに彼の精霊の印があるのだ。
「いきなり貴妖が憑けば、人は狂う。この千年で、彼らもそれはわかるようになった。だから彼らは、候補者が力の弱い同族と契約を結ぶまで待つ。その上でなら、契約時に狂いにくくなる。慣れのようなものができるからだろう。例外はアルティスだが」
エイモスはそう言って、眉をひそめた。
「あれに憑いたのは、貴妖が二体同時だった。本家の血筋で訓練を受けていた事もあり、生き延びたが……騎士になった今も、あれは少しばかり不安定だ。知っているだろう?」
ラルフはうなずいた。『火刃のアルティス』は第十三位の騎士だが、本来はもっと上位にいても良い実力の持ち主である。しかし彼は情緒が不安定になりやすく、任務を終えた後はしばらく人事不省になるのが常だった。使い所が限られる騎士として、結局十三位に落ちついた。彼が騎士になって以来、エイモスがあれこれと面倒を見ている事をラルフは知っている。
腕の紋様は沈黙を保っている。
「それでも彼は十三位です。十二貴族の血筋の者は彼らに選ばれやすく、生き延びやすい。それだけ相性が良い。この千年で出された結論が、そうだったはず」
ラルフは言った。かつてとは違い、現在は十二貴族から出た騎士は少ない。国の寿命が長くなり、歴史が積み重なるにつれ、王家も十二貴族も生臭い権力争いと無縁ではいられなくなった。それぞれの家は勢力を弱める事を嫌い、男子を剣の院にやる事をしなくなった。死の危険がある試練に息子や兄弟を差し出したがる者はいないし、精霊の騎士になった者は、家との関わりを捨てねばならないからだ。
一時期はそれで、騎士の数が激減した。『剣の院』は新たな騎士を平民以下の民の子弟に求め、報奨金を与える事で候補者を確保した。以来それは慣例となり、貧しい家の者が家族の生活を助ける為に院に来るようになった。今では騎士のほとんどが、十二貴族とは関係のない家の出身者ばかりだ。
だが十二貴族の血を引かぬ候補者は、契約時に死ぬ事が多い。
「本家直系なら恰好の契約者になったはず。その男にどうして一体しか憑かないのです」
「男ではない。少年だ。今年で十六になる。契約したのは十五の時だったから、死ぬまで少年の姿のままという事になるが」
「まさか! 契約が許されるのは、十八を過ぎてからですよ。それでも早いと言われるぐらいだ。体も心も出来上がっていない状態で契約をしても、ろくな事にならない。院ではそんな事は認めていない……」
そこまで言ってから、ラルフは言葉を止めた。エイモスがうなずく。
「院に入って正式な手順で契約したわけではないのだ。彼はいわゆる『外れ』、想定外の契約者だ。何も知らぬまま精霊と出会って契約してしまったらしい。しかも相手は魅妖ではなかった」
ラルフの顔が強張った。『外れ』とは院での訓練も予備知識もなしに、民間で突然、精霊に憑かれる者の事だ。院が創立される前は良くあったらしいが、彼らの大半はほどなくして発狂し、周囲に甚大な被害をもたらした。
代々の精霊の騎士は、そうした相手をも倒さねばならなかった。
自分と同じような存在を倒すのは、楽しい作業ではない。また相手が狂っているからと言って力が弱いわけでもなく、気を抜けば返り討ちにあう。『外れ』という言葉はそれで、騎士たちの間では禁忌に似た扱いとなっている。またエイモスの言葉から推測するに、契約の相手は貴妖だったらしい。生き残れた事は奇跡に等しいと彼は思った。
「気の毒に。良く無事でいられたものだ」
そう言った彼の言葉には、おざなりではない同情が込められていた。エイモスも同意するようにうなずいた。
「幸運が重なった。あるいは不運が、かもしれんが。他にも色々と問題があって、議会は彼の生存を望んでいない。最初の任務で死んでくれれば良いと思っている。あれはまだ、共生がうまくいっておらん。任務のこなせる状態ではないのだ」
ラルフは眉を上げた。精霊との契約の後、騎士はしばらく不安定になる。変化した肉体に精神がなじむまで、時がかかるからだ。この時期に無理をすれば、後々大きな傷になる。新たな契約をした騎士はしばらく前線に出さない。院ではそれが暗黙の了解になっていた。それなのになぜと思いかけ、『本家直系』という言葉に思い当たる。
「政治がらみですか?」
「本家の血筋は彼で最後だ。分家の者が本家の権利を望んで襲撃した。証拠はないが。彼は母親と妹を失い、その状態で契約した。わたしが見つけた時には衰弱が激しく、そのまま死ぬかと思ったが」
エイモス自身がその少年を発見したのか、とラルフは思った。それもあって案じているのだろう。エイモスは続けた。
「分家が反対しているので、爵位こそ継いではいないが。現在彼は精霊の騎士であると同時にムルトゥサ子爵の地位にある」
これを聞いて、あり得ない、とラルフは思った。『剣の院』には様々な掟があるが、その中でも最たるものは、ここに入った時点で家とのつながりが断たれるというものだ。『ムルトゥサ子爵』は氷炎樹侯の後継ぎに贈られる称号。つまり彼は次代侯爵の身分を保証されたまま、騎士になった事になる。
「そんな話は聞いた事がありません。騎士になった時点で、それまでの身分は捨てねばならないはず」
「普通はな」
エイモスもそれを認めた。
「だが彼の場合、全てが普通ではなかった。院に入る前に契約した事もそうだし、本家の血筋で生き残った者が彼一人であった事もそうだ。他に誰か生き残っていれば、別の方法もあったのだろうが……知っての通り、十二貴族の内、三つの家が既に絶えている。この上、氷炎樹家を廃するわけにはゆかぬとの王の判断があってな。院に入る前に契約した事もあり、特例という事で、世俗の地位を持つ事が許された」
「『精霊憑き』には子がなせないとわかった上でですか?」
呆れたようにラルフが言った。十二貴族は女性が長となるのが普通であるが、男性が当主の地位に就く事もないわけではない。
しかしその場合、娘が産まれた時点で地位を譲る。繋ぎの当主の意味合いが濃いのだ。
だが精霊の騎士たちは、いずれも子をなすことができない。精霊と融合した時点で、人としての何かが変わってしまう為らしかった。その少年が当主の座に就いても、彼には子を残せない。当然、次の長となるべき娘を望めるわけもない。
「当座はしのげる。適当な時期に、当主となるべき女性を選べば良いと言うのが、王の判断だった」
エイモスは答えた。
「しかしこの決定は、教会の意向を無視した形で行われたのでな。神官たちは、面子を潰されたと思ったらしい。教会本部はもちろん、『剣の院』議会を構成する神官たちもな」
「それで、本調子でもない者を送り出すわけですか。まだ十六の子どもを。死なせる為に」
ラルフは言った。義憤にかられたのか、目が金色に光っている。まだ見もしない相手に対しての扱いに憤る彼に、エイモスは感謝の念を抱いた。ラルフは、本人は気づいていないだろうが、とても人間らしい部分を残す騎士なのだ。
「わたしが補佐をするつもりだったが、許可が下りなかった。他の任務を回されてな。アルティスに頼んだが、彼にも任務があてがわれていた。彼らは氷炎樹の者が結束する事も嫌がっているようだ」
「それで俺ですか……わかりました。何とかしてみましょう」
ラルフはそう言った。請け負ってくれた彼に、エイモスはほっと息をついた。彼なら大丈夫だ。信頼できる。
「彼の名を教えて下さい。契約した精霊はどのような存在です?」
そうではあったが、そう尋ねてきたラルフにそこで、エイモスは答えるのをためらった。
「名は、クリステア。クリスと呼ばれている。精霊は……良くわからん」
やがて彼は、そう答えた。ラルフが妙な顔になる。
「わからない?」
「契約した時以来、現れない。院で訓練している期間中も、現れた事はなかったらしい。魅妖より上である事は確かなのだが。それ以外は何もわからん。院と盟約を結んでいる精霊たちも、何も言おうとしないのだ。それどころか、彼に近づきもせん」
「花の魅妖たちもですか。彼らはかなり気安いはずですが」
「どの精霊も近づかん」
ラルフは目を丸くした。それは異常だ。花の属性を持つ魅妖たちは人懐こく、気に入った相手には、候補者以外にもまとわりつくのが常なのに。
「彼の精霊が高位だからでしょうか」
ラルフは言った。精霊は概して独占欲が強く、契約を交わした相手に他の同族が近づく事を嫌がる。少年に憑いたものが高位のものなら、低位のものを追い払うぐらいはするだろう。エイモスは、小さく息をついた。
「おそらくは。だがそれもこの場合、悪い方に働いた。われわれには彼の精霊が高位のものだとわかる。魅妖など近寄れない存在だとな。だが、わからない者もいる」
ラルフは目を細めた。精霊の騎士は剣の院に所属する。それは確かだ。しかし院を運営する者は騎士ではなく、その為に教育を受けた普通の人間だ。彼らには、精霊がどのような存在かわからない。
淡々とした口調でエイモスが続ける。
「クリスに憑いたものは高位のものだと説明したが、同じ家から出た者だからかばっているのだろうと言われた。はっきりと口に出しては言わないが、魔物に汚染されたのではないかと疑っているようだ」
「あり得ません。院には我々がいる。そんな存在が入り込めば、誰だって気づく」
呆れてラルフが言った。精霊が近づきたがらない存在はいる。魔性の力を受けた、あるいは憑依された者だ。クリスはそうした存在ではないかと疑われているらしい。だが精霊と共生する存在である騎士たちが、そんな存在に気がつかないはずがない。
「我々にはわかる。だが彼らにはわからない」
もう一度、エイモスが言った。
「それもあって彼は、議会の神官たちに疎まれている。全てが異例続きだからな。契約相手が精霊であったとしても、いずれ狂うと言うのが彼らの見解だ。そうなる前に、さっさと死んでくれれば良いというのが本音だろう。ひどい目に会って、やっと生き延びた子だと言うのに」
エイモスは、しっかりとした眼差しでラルフを見つめた。
「頼む、ラルフ。あの子には今、一人でも味方が必要だ。助けてやって欲しい」