9.闇に潜むもの 2
静寂が、その場に戻った。息をついて地面に膝をついたクリスに、グレイは近寄った。
「無事か?」
「何とか」
「これを毎晩やってたのか。お前、目茶苦茶、力の配分悪いぞ」
「配分?」
顔を上げたクリスの傍らに屈み込み、グレイは曲がった腕をつかんだ。身を竦ませる少年に構わず、骨の位置を直してやる。ほどなくして治癒能力が働き始め、骨がつながった。それを確認してから彼は、少年の頬に散った血を指でぬぐった。
「肩に力が入りすぎだ。新人だし、仕方ないけどな」
井戸の方に目をやる。
「こっちの反応もちょっと変だったし」
「魔物がですか」
「いや、結界。訓練中の候補生に見せたいぐらい綺麗な発動だった。教科書通りのな。けどそれにしちゃ、……違和感がある」
「違和感?」
「悪く言ってるんじゃねえぜ。構成がまずいわけでもない。けどなんか、……形は確かに新人が良くやる風なんだけどな」
それにしては頑丈すぎる。そう思ってグレイは眉をしかめた。隙がないわけでもないし、ひねりがあるわけでもない。不安定な印象も見受けられる。それなのに、妙に圧倒される。百年以上生きた騎士が力を使ったような、そんな気配があるのだ。
(面白え)
グレイは思った。こんな不安定な、印象が一つに留まらない新人は初めて見た。同時に、こいつは下手をすると潰されるかもしれないとも思った。人間に限らず精霊の騎士たちにも、常識で判断しきれない相手に嫌悪を抱く者は多い。寿命が長い分、頭が固くなりやすいのだ。そういう者たちは厄介だ。目障りな相手を叩き潰す事を正義だと思い込む。
それにしても、ここまで頑丈な結界があるのにどこからか力を及ぼすことが、普通の怪魔にできるのか?
(やっぱ、もう一体どこかに隠れてやがったりするのかな)
自分の精霊が起きていてくれれば、適切な助言をしてくれるのだが。何だって『眠る』なんて選択をしてくれたんだろう。ここに近づくのをとにかく嫌がって……。
(匂い付けじゃないって言ってたな。まさかと思うが、こいつか?)
立ち上がりつつ、クリスを見下ろす。少年はまだ地面に膝をついていた。
(力を借りてる状態の俺にも圧力があった。それだけこいつの精霊が上位だって事なんだろうが……俺のと相性がとことん悪かったとかそういう……?)
「いつまで座ってる。足も折れてたのか?」
「あ、いえ」
声をかけるとクリスは、慌てたように立ち上がろうとした。グレイは気まぐれで手を差し出し、腕をつかんで立たせてやった。だが力を入れすぎたらしく、少年はつんのめるようにしてグレイの懐に飛び込んで来、結果として彼は相手を抱き留める事になった。クリスも驚いたが、グレイはもっと驚いた。
「軽っ! すまん、子どもの体重の事忘れてたわ。いつももっと重い野郎を相手してる、から……?」
鼻を掠める香りに眉を上げる。花?
「子どもではありません」
「あー、悪ぃ。いやお前、ちっこいし可愛いからさあ」
何となく体を離しがたかったが、グレイは腕を開いた。クリスが数歩、後ずさる。
「その『小さい』と『可愛い』をくり返すのをやめて下さい」
さすがに気分を害したらしく、そう言う。グレイはぽんぽんと相手の肩を叩いた。
「だってホントの事だし……いや、悪い。機嫌直せや。な?」
それから身を乗り出して相手に顔を寄せる。ぎょっとしたらしく、クリスが身を引こうとした。腕をつかんでそれを止め、グレイは相手の首の辺りに顔をうずめ、匂いをかいだ。汗と埃。それとこれは何だろう。花に似た甘い香りがする。
「んー? 何だこれ。香水つけてんのか、お前」
いきなり匂いをかがれたクリスは硬直していたが、この言葉にもがいた。
「何もつけていません。放して下さい」
「花の精霊持ってる奴がこんな匂いさせる事あるが……それとも違う」
首をかしげてから腕を放すと、クリスは大きく距離を取ってグレイから離れた。危ない先輩だと思われたらしい。
「そんな警戒しなくても」
「いきなり抱きつかれて匂いをかがれたら、誰だって警戒します」
「その言い方だと俺は変態のよう……いや変態ぽかったな、今のは確かに」
自分で言って自分で納得し、グレイはクリスを見つめた。
「けど本当に男か、お前? 雄の匂いがしねえ」
「雄の、匂い……?」
「髭も生えねえ歳で契約したんなら、仕方ねえかもしれんが。それにしたってもう少し、何かあるはずなんだが」
不審そうに言われ、クリスは息をついた。
「女性ばかりの家族の中で育ちましたので。そのせいでしょう。妹とは双子でした」
グレイはそれで納得したらしく、うなずいた。
「ああ、なるほど。身近な女が影響したか。お前の妹なら美人だろう。今、どうしてる?」
「……。亡くなりました」
「そうか。残念だったな」
あっさりと言ったグレイにクリスは尖った目線を向けたが、何も言わずに目を伏せた。
「すまねえな。それらしく気の毒がる事ができなくて」
そんなクリスにグレイは言った。
「騎士はみんな、家族を亡くしてる。俺もな。何か反応する事もできねえんだよ。どうにもならねえし」
「はい……」
「ラルフさまや親父どのは別だがな。あの二人は相手を思いやる事ができるから……あんなに長く生きているのに、人間をやめてない。人間であり続けている。見てるとつらくもあるんだが」
グレイはそう言ってから、クリスに目をやった。
「お前にゃわからんだろう、ひよっ子。けど覚えとけ。いつかあの二人の生き方が、お前の救いになる時が来る」
クリスはグレイを見つめた。何か大切な事を言われた気がしたが、わからなかった。それでもこの言葉は忘れてはならない。そんな気がした。
「できればその『ひよっ子』もやめていただきたいのですが」
何か言いたかったが何も言えず、代わりにクリスはそう言った。するとグレイは肩をすくめた。
「それもホントじゃん」
「村人の前では名前で呼んでいただきたいのです。やっと来た精霊の騎士が半人前では、彼らが不安を抱きます」
「別に村のやつらなんかどうでも……ああ、わかったよ。じゃあ『小さいの』と『可愛いの』のどっちが良い?」
「名前で呼んで下さい。どちらも嫌です」
「面倒なんだよ。新人は良く死ぬし。次に会ったら死体になってたりするしさ。覚えるだけ無駄だろ。お前が生き延びる奴なら、その内名前で呼んでやるよ」
クリスはため息をついた。結局、自分を名で呼ぶ気はないらしい。
「新人を指導する先輩騎士はみな、あなたのような感じなのでしょうか」
「いや? ガチガチの奴もいるし、相手を無視しまくるような奴もいるけど。何で?」
「他の騎士にも『小さい』だの『可愛い』だのと言われたら、嫌だと思っただけです」
「大丈夫だよ。大抵の奴は思ってても言わないだけの礼儀は持ってるから」
あっけらかんと言われた言葉は、さり気なく失礼だった。
「だって珍しいだろう。お前ぐらいの歳で契約するなんて」
グレイはクリスに近寄ると手を伸ばし、クリスの髪をぐしゃぐしゃとした。また匂いをかがれるのかとクリスは身を強張らせた。それをなだめるかのように、穏やかな口調でグレイは言った。
「体は歳を取らないが、心はどうしようもねえ。俺たちは、なくす方が多いからな。お前みたいに若い奴見ると、色々思い出す事があるんだよ。感傷だがな。お前見てると、ラルフさまの気持ちが少しわかる」
「『閃光のラルフ』……の気持ち?」
「同じ家から出た騎士は、歳の離れた弟のようだと言っていた。気にかかるんだと。お前は俺とは出自が違うが、……俺が普通に人間してたら、孫か曾孫ぐらいだろう」
どこか遠い目をしてから、グレイは手を引いた。それから妙な顔になる。
「変だな。なんでこんな話に」
クリスが黙って見上げていると、グレイは言った。
「その目だな」
「目?」
「でっかくてつい見ちまう。昔……俺を見送った弟や妹たちがそんな目を」
そこで彼は気まずい顔をして口をつぐんだ。
「悪い。忘れてくれ」
「離れていた方が、良いですか」
良くわからないが、自分はグレイの触れられたくない部分に触れてしまったらしい。そう思い、クリスは顔を伏せた。するとグレイは眉を上げた。
「何でだ」
「わたしが近くにいては、気が散るのでは」
言葉を選びながら言うとグレイは目を丸くし、息をついた。
「新人に気づかわれるようになっちゃ、俺も終わりだな。あのな、ひよっ子。お前がやらにゃーならねえ事は何よ。俺にくっついて、仕事覚える事だろうが。変な気遣いやら遠慮やら、すんな」
「すみません」
「謝るな」
うつむくクリスに、これだと俺がいじめてるみたいだなとグレイは思った。もう一度手を伸ばして、少年の髪をくしゃっとする。今度はクリスも、身を強張らせはしなかった。細くて柔らかい感触は、はるか昔に腕に抱いた、弟妹の髪をグレイに思い起こさせた。
『下の子の面倒、ちゃんと見るんだよ。兄ちゃんなんだからね』
母親の声が甦る。何十年と、思い出す事もなかったのに。さすがに顔は思い出せない。思い出せるのはぼんやりとした輪郭と声だけ。
『兄ちゃん、どこ行くの』
『行っちゃやだ。兄ちゃん……』
飢饉が起きた年だった。支度金と引き換えに、売られるように院に入った。連れて行かれる自分の後を、小さな弟妹は、いつまでも泣きながら追いかけていた。
五十年以上も昔。
「お前が気にする事じゃねえんだよ。どうしても気になるって言うんなら、俺の前では死なないでくれ。寝覚めが悪くなる」
新人の相手はしたくない。名前を覚えてもすぐに死ぬ。そんな思いが脳裏をかすめた。あいつは何て名前だったか。たった五年で命を落とした……。
『グレイさん。また会えましたね! 俺、がんばってますよ!』
ランディ。笑った顔が、弟に似ていた。
「グレイ?」
黙ってしまった相手にクリスが不審に思ったらしい。顔を上げてこちらを見た。
「何でもない。お前の精霊、風じゃねえな」
「わかるのですか?」
クリスが目を見張った。
「だってお前、嫌がるじゃねえか。可愛いって言ったら。風の精霊持ってる騎士だったら、『美しいと言え!』ぐらいは平気で言うぜ」
「……そういう事を言う騎士が……? いえ、それは判断の基準になるのですか」
「俺は地属性寄りなんだ。精霊の内二体が地と花だ。風には妙に好かれる」
あっさりと言われた言葉にクリスは目を見開いた。精霊の騎士は普通、自分の精霊の事を他者に話したがらないものなのに。
「だから傾向がわかる。風じゃねえ、お前」
「そう、ですか。あの。話して良かったのですか」
「何をだ」
「自分の精霊の事を……」
「構わねえさ。長く生きてりゃ、あちこちでバレてる。けど他の騎士にべらべら喋んなよ? 微妙な話題だからな。お前から先輩騎士に尋ねるのもダメ。普通は組む相手と顔を合わせた時、自発的に話すんだ。連携とか、役割分担とか、考えにゃーならんから。上の位階の者が仕切るから、そいつの反応見てからになるが」
「はい」
ふざけた言動の割に、押さえるべき所はきちんと押さえて教えてくれている。クリスは思った。信頼して良い騎士だ。そう思っているとグレイは続けた。
「属性もわからねえって言ったな。さっき」
「はい」
「風じゃねえ。土でもない」
真面目な顔をしたグレイに、クリスはまばたいた。
「微妙に引っかかる感じはするが、俺と同じ属性のものは持ってない。と、思う。だから二つは除外できるぞ。お前の精霊は、それ以外だ」
「ありがとう……ございます」
半ば呆然とした顔で、クリスは言った。
「ありがとうございます、グレイ」
もう一度くり返す。自分の精霊がどのような存在が分からない。その事実はクリスに負担を強いていた。彼を毛嫌いする者は常にそれを思い出させようとしたし、そうでない者もその事実ゆえに彼を避けたからだ。自分は精霊の騎士として、相応しくない存在。クリスの頭からは、そんな思いがいつも離れなかった。グレイの言葉はそうした重圧を、わずかなりと軽減してくれたのだ。
胸の奥が軽く弾けたように思った。ああ、とクリスは思った。これは、喜び。うれしいという感情だ。
意図していなかったが、沸き上がってきた感情は、クリスの瞳を輝かせていた。唇の端が自然と上がり、表情が微笑みを形作る。
グレイは少年の笑顔に、目が釘付けになった。さっき見た笑顔も衝撃だったが、今度のはさらに衝撃だった。目が離せない。まるで花が開くようだと思い、慌ててそれを打ち消す。男相手に使う表現じゃない。
「グレイ?」
そのまま見つめていると、少年がいぶかしげな顔になった。グレイは我に返った。
「ああ。いや。とりあえず、どれぐらい戦えるのか、見せてもらいたいんだが。武器が使えねえわけでもないんだろ」
「はい」
「じゃ、適当な場所に移動しよう。ここの怪魔をどう倒すかは、その後決める。護符が限界だろう、もう」
クリスは井戸の周囲の護符に目をやった。グレイの言う通りだ。エイモスとアルティスの力を練りこんだ護符は、わずか数日で、何年も風雨に晒されたかのような様を呈していた。細かな亀裂が幾つも走っている。瘴気に当てられ、『物』としての形を崩しつつあるのだ。まだ一日二日はもつだろうが、早晩、朽ちてしまうだろう。
「でな。ちょっと考えたんだが……」
彼の言葉に目線を戻す。少年の顔を見つめ、真面目な顔でグレイは言った。
「『銀色のお花ちゃん』って呼んじゃダメ?」
「そういう事を考えるより、名前を呼んだ方がもう、早いのではないですか……?」
「新しく来られた騎士さまは、豪胆な方のようだね」
ルカスは夜の祈りを終えると、ダートに言った。ダートはむっとした顔になった。
「嫌な奴です」
「ダート。彼は村の為に来てくれたんだよ」
「だって、クリスさまに失礼です!」
彼らの会話はほとんど意味がわからなかった。それでもグレイと呼ばれる騎士が、クリスを子ども扱いしていたのはわかった。『ひよっ子』と呼び、あからさまに目下の者として扱っていた。それを見ただけで、ダートは腹が立った。
「あの方は、クリスさまより位階が上のようだからね」
本当に色々な感情を出すようになったな、とルカスは感慨深く思った。
「あの方々の事は、あの方々に任せておくより他はないよ。我々とは違うのだから」
「でも……」
「お前がクリスさまを慕うのはわかる。けれどだからと言って、村の為に命の危険を犯し、魔物を退治しに来られた今一方の精霊の騎士を、貶めて良い理由にはならないよ」
やや強い口調で言うと、ダートはうなだれた。
「あの方々は、魔物がいなくなれば去られる。そうなればもう、二度とお会いする事もないだろう」
残酷だと思ったが、ルカスは言った。ダートは唇を噛みしめた。
「だがね。祈りが消えるわけでもないよ。クリスさまの事を思うのなら、あの方の為に祈り続けなさい。いつかそれはクリスさまに届く。あの方がいつか、つらい時に。その時、支える力にきっとなる」
「そうなんですか」
「そうだよ」
「わかりました」
うなずいてから、ダートは言った。
「でもやっぱり、あの騎士は嫌いです」
サラは夜空を見上げた。魔物の気配は押さえ込まれた。今夜もクリスは力を尽くしたらしい。
「ああいう子どもに任せっきりってのも、嫌なもんだね」
つぶやくと彼女は、周囲に目をやった。クリスのくれた護符は、彼女の幌馬車を今も守りつづけている。柔らかく、それでいて強い力を彼女は感じていた。魔物の気配に怯えていた二頭の犬がくん、と鼻をならしてサラの手に頭を突っ込む。
「大丈夫だ。終わったよ」
なでてやってから、村の方に目を向ける。
「良い子なのに、可哀相に。ろくでもないのに見込まれたおかげで、苦労ばかりを背負いこむ」
ふう、と息をつく。
それから彼女は二頭の犬と共に、幌馬車の中に戻った。