9.闇に潜むもの 1
その精霊の騎士は、太陽が高く登った頃にやって来た。
エイダとルカスの騒ぎが納まった後、ダートは煉瓦を焼いたり、ハナを手伝ったりしていたが、やがてクリスが何をしているのか気になってきた。それでハナから、畑で働いている村長夫妻とリタに弁当を届けに行くよう言われたのを良い事に、弁当を渡した後、幌馬車の方へ来ていた。
クリスは何やら考え込んでいる様子だったが、ルカスとエイダの様子を尋ね、二人とも顔色が普通になったと聞いて安堵したようだった。それからサラも交えて少し雑談をしたが、突然、彼は言葉を止めた。顔を上げ、街道の方を見る。
「騎士さま?」
「来た」
静かに言う彼に、ダートはまばたいた。何が来たのだろう。その疑問に答えたのはサラだった。
「お仲間かい。ようやっと到着するんだね」
「仲間って……もう一人の精霊の騎士?」
思わず声が大きくなる。ダートはクリスの見ている方に顔を向けたが、そこには埃っぽい道があるだけで、特に何も見えなかった。
「何も見えないけど……」
「グレイだ」
そう言い置くと、クリスは街道に向かって歩き出した。どうしようかと迷ってから、ダートはその後について行った。しばらく行くと、クリスは立ち止まった。
太陽が、大地を照りつけている。
何も見えないけどなと思った時、砂ぼこりが見えた。何だろうと目を凝らし、それがこちらに向かって来るのに気づく。ほどなくして灰色のたてがみの、栗毛の馬の姿が見えた。こちらに向かって走ってくる。すごい速さだ。こんなに速く走る馬を見るのは初めてだった。しかしダートは顔をしかめた。馬の背に誰も乗っていない。どうして馬だけが走っているのだろう。
精霊の騎士はどこだ……?
そう思っていると、馬はどんどん近づいてきた。クリスの方に向かって。このままでは踏み潰される。そう思ってダートは慌ててクリスに駆け寄った。腕をつかんで引っ張る。
「危ないです。こっちに……」
「大丈夫。あなたはさがっていなさい」
そう言うと、クリスはそっとダートを押しやった。けれどダートは首を振った。クリスがここに残るのなら、自分も一緒にいようと思ったのだ。
砂ぼこりが巻き上がる。大地を蹴る音が轟く。馬の姿がどんどん大きくなって、こちらに迫ってくる。
今にも蹄にかけられるのではと恐怖を覚えた時、馬は速度を落として止まった。クリスとダートのすぐ前で。ずっと走ってきたからだろう、鼻息が荒い。首を振ると、汗が飛び散った。その体の大きさに、ダートは改めてぞっとした。
『よう、ひよっ子。無事でいたか』
その時突然男の声が聞こえ、ダートは周囲を見回した。誰だ?
「何とか無事です」
クリスは声に答えた。
「わたしはクリス、位階は三十七位です。あなたは」
『グレイ。十七位だ』
再び男の声がした。
『俺がいない内に何かやらかしたな、お前』
「井戸から出入りしていたようなので、封じました。村人に危害が加えられる危険があったので」
『余計な事を』
ダートは息を飲んだ。馬だ。馬がしゃべっている。
『事情はわかるけどよ。今後は俺の指示に従ってもらうぞ』
「はい」
クリスの返事に馬は鼻を鳴らし、地面を足で掻いた。
『まあいい。しかし何なんだ、ここは? 匂いづけされてるのはわかるが、俺の精霊が嫌がり倒すほどじゃねえぞ』
クリスと比べて口が悪い。痺れたようになった頭でダートは思った。
「あなたの精霊が、ですか」
『ああ、出られないと抜かして引っ込んじまいやがった。眠るとよ。心当たりあるか?』
クリスは目を伏せた。
「わたしが原因だと思います。わたしの周囲では精霊が姿を現さないので……」
『あん?』
ぶるる、と鼻を鳴らすと馬はクリスを見た。
『そういやちらっと聞いたような。お前の事か? 『精霊殺し』』
クリスが眉をひそめる。構わず馬は続けた。
『いや、『精霊泣かせ』だっけ? 嫌がって精霊が逃げちまう騎士がいるって聞いたぞ。十二貴族だろ、お前。精霊には好かれるのが普通だ。なのに何でだ』
「わたしにもわからない事を尋ねられても困ります」
静かにクリスは言った。ダートは『十二貴族』の一言に目を丸くしてクリスを見つめた。クリスさまは、聖なる一族の一人だったのか?
『そりゃそうだ。しかしお前、可愛いな』
いきなりの一言に、ダートは呆気に取られた。クリスは無表情だ。馬は顔をクリスの方に寄せると、鼻息を吹きかけた。
『小さくて可愛い。なるほど。ラルフさまの精霊、語彙に問題があるんじゃないかと思ってたが』
「一体なんの……ラルフ? まさかと思いますが、『閃光のラルフ』、ですか?」
『途中で会った。ここの様子を知らせてくれてな。お前が村にいる事もそれでわかった。感謝しとけよ。ラルフさまがいなけりゃ、俺はまだ街道にいるとこだ。俺に来た指令は中継地点でお前を待て、だったからな』
「連絡に行き違いが……?」
『あー、多分そうなんだろうよ』
投げやりな感じで言うと、馬は前足で地面を掻いた。
『何にせよ、やれやれだ。ここまでぶっ通しで走り続けたからな』
「あ、あの、クリスさま」
ダートはそこで、クリスの袖を引いた。
「この馬、何……何でしゃべれるの? 精霊の騎士は?」
『何だこのちびっこいのは』
馬はそこでようやく、ダートに気づいたらしい。ぐいと顔を寄せてきた。ダートはクリスにしがみついた。
「村の子どもです。脅かさないでやって下さい。ダート。彼がグレイです。精霊の騎士ですよ」
「だって、馬だよ!」
『馬が騎士じゃ悪いかよ。お前らの為にここまで走ってきたんだぞ』
不機嫌そうに言う馬を制するように、クリスが「グレイ」と声をかけた。
「その姿では、驚くのが普通です。そろそろ姿を戻しては」
『疲れてんだ。今戻したら、どっと来る……ってか、何でお前に命令されなきゃならねえんだよ。俺の方が立場上だぞ』
「命じたわけでは」
『その喋り方だな。なんか気取ってるよな。もちっと砕けた言い方できねえか? できねえんだろうな、貴族だし』
「貴族、貴族と連呼しないで下さい。どなたかに食事を頼みましょうか?」
『あ? 悪ぃな。けどちっと休めば何とかなるから』
へらりと馬が笑みを浮かべ、それからぶるぶる頭を振った。
『何言ってんだ、俺。違うだろ』
「何がですか」
『女を相手にしてるつもりになってた』
無表情のままクリスは沈黙した。だが空気が緊張したので、何も考えていないわけではないらしい。いくら何でもこれは怒るだろうとダートも思った。けれど馬はそんな相手に頓着しなかった。
『怒ったか? 悪ぃ。けどお前、親父どのが心配するわけだわ。男所帯だろ、院は。小さくて可愛いのが混じったら、そらヤバいわ色んな意味で』
声を上げて馬が笑った。馬が笑い声を上げるのを、ダートは初めて見た。
結局グレイはサラの幌馬車の所まで、馬の姿のまま歩いてきた。面倒だったらしい。幌馬車を見て『水探しか』とつぶやいた後、ここで人の姿に戻ると言った。背にくくりつけてあった荷物をクリスが下ろしてやると、体を震わせ、姿を変える。ダートが目を丸くして見ている前で、馬はその形を崩した。
輪郭がぶれ、あちこちが縮み、肉が、皮が、あり得ない動きを見せ……そうして瞬きを幾つか終えた時には、そこには灰色の髪をした、褐色の肌の男がうずくまっていた。若い男だ。痩せてはいるが鍛えた体つきで、粗削りだがそう悪くない顔だちをしている。右手の甲に薄青の、左手の甲にあずき色の紋様が刻まれ、胸には白い紋様がある。
まだ少し動物くさい動きで頭を振ると、男は地面から立ち上がった。髪をがしがし掻くと、「だっりぃ」とつぶやく。
「腕、重っ。背中ばきばきいってるし。馬でいるのも楽じゃねえ。でまた、ごんごん匂い付けされてるし。結界張ったわけか、それで。半人前にしちゃ良くやったよな」
村を見てぶつぶつ言うと、クリスに目をやり、横柄な感じで言った。
「報告しろ、ひよっ子」
「行ったのは『封じ』のみで、他は何もしていません。井戸を封じてから毎晩、破ろうと圧力をかけてきています。今の所、侵入経路は井戸以外に考えていないようです」
静かにクリスが言う。目線は微妙にグレイから外していた。これを聞いたグレイは「あんまり頭良くねえな」とつぶやいた。
「ま、怪魔ならそれもアリか」
「おそらく怪魔でしょうが……妙です」
「まあな。普通、匂い付けなんかしねえし」
「その部分もですが、他にも。封じはしましたが、どこからか力を及ぼす経路があるようです。今もわずかですが、力が及ぼされている。それに動いた痕跡を視たのですが。相手を『選んでいる』ように見えました」
グレイは眉を上げた。
「あり得ねえ」
「事実です」
そう言うとクリスは続けた。
「一体とは限らない」
グレイはほう、という顔をした。
「隠れてるか? そういうのが視えたか」
「いえ。ですがわたしの精霊が」
一瞬、クリスはためらうような顔になったが、すぐに続けた。
「その一言を送って寄越しました」
「お前の精霊か……そう言や、お前に関する情報はほとんどもらってなくてな。どんな能力があるかも聞いてねえんだ。お前、何ができる?」
クリスは少し、沈黙した。それから尋ねた。
「どの程度まで聞いていますか」
「院からは全然。ラルフさまが情報回してくれたんで、問題があるって事は聞いてる。共生がうまくいってないって聞いた。だがこの結界見た感じじゃ、それなりに使えるようにも思えるが?」
思わずという風にクリスは顔を上げ、グレイを見たが、すぐに目をそらした。
「位階が三十七位という所から、見当がつくと思いましたが。わたしはおそらく、ほとんど何の役にも立ちません。この結界は、エイモスとアルティスの力を借りています。わたしはそれに、方向を与えただけ」
「まだ不安定なのか?」
グレイはずかずかとクリスに近寄ると、顎をつかんで自分の方を向かせた。至近距離で相手の目をのぞき込む。
「見た感じじゃ、不具合があるとは思えねえが。歪みもないし、淀みもない。綺麗に安定している風に見えるがな。妙な圧力は感じるが……お前の精霊がそれだけ優秀って事だろう。どこがうまくいってない?」
クリスは傍目にもそれとわかるほどたじろいだ。慌てたようにグレイの手を払い、後ろに下がる。この反応にグレイが眉を上げた。何か言おうと口を開きかけたが、その前に割り込んだ者がいた。
「兄さん。仲間に会えてうれしいのはわかるけど、ちっとは恥じらってもらえないか。ここにゃ一応、あたしという女がいるんだけど。そのぶらぶらしてるモンを、とっとと隠してもらいたいんだがね」
サラが呆れた調子で言った。グレイはそちらを見ると、初めて自分が裸のままであると気づいたらしい。己の姿を見下ろし、「ああ」と言った。
「悪ぃな。この三日、馬だったもんでね」
そう言いつつ、服を着る気配はない。
「『水探し』だろ、あんた。この村に呼ばれたのか?」
「一応ね」
「豪気なもんだな。精霊の騎士は呼ぶわ、水探しは呼ぶわ。どこからそれだけの対価を引きずり出したんだか。どう見ても寂れた村だが、特産品でもあるのか」
グレイの言葉にダートは身を固くした。クリスが気づかわしげにそちらを見、グレイに声をかける。
「グレイ。その話は……」
「クリスさま。俺、村長にそちらの方の事を伝えてきます」
クリスが自分を気づかってくれるのがなぜかつらくて、ダートはそう言った。こちらを見るクリスに、微笑んでみせる。
「大丈夫ですから、俺」
それからグレイに目をやり、刺のある口調になった。
「でも精霊の騎士って言っても、上品な方ばっかりじゃないんですね」
「何だと?」
けなされたと思ったのか、グレイが顔をしかめる。ダートは相手を睨み付けた。
「クリスさまはずっと、村の者を守ってくれてた。みんな怖かったけど、クリスさまがいてくれたから安心できたんだ。遅れてきたあんたにはわからないだろうけど」
「生意気なガキだな。喧嘩売ってんのか?」
思わずすごんだグレイにクリスが割って入り、ダートに「早く行きなさい」と言った。
ダートはもう一度グレイを睨んでから村の方へ駆けていった。
「何なんだ、あのガキ。俺のどこが下品だってんだ、ああ?」
「あんたがそうやって大事なモンを丸出しにしてる限り、口が裂けても上品とは言えないだろうさ」
ため息をついてサラが言った。
「クリスは確かに、村人を落ちつかせていたんだよ。あの子もそれで、この子に感謝している。あんたの態度はなのに、この子を軽んじてるように見えたんだろうよ」
「ひよっ子をひよっ子扱いして何が悪い」
「それと、あの子の前で対価について話したのはまずかったね。あんたは知らなかったから仕方がないけれど。今回の事件で一番の被害を受けたのはあの子だ。家族を全員殺されてる。一人残ったあの子はそれで、自分を売ってその金で精霊の騎士を呼んでくれって言ったんだよ」
グレイが黙った。クリスの方を見る。クリスがうなずくと、無言で自分の髪をがしがしと掻いた。
「服、着るわ」
そう言うと、地面に置きっぱなしの荷物を探す。服を取り出し、適当に頭から被る。
「なんか人間に戻ったって感じするな……めんどくせえ」
ぶつぶつ言いつつ身支度を終えると、クリスの方を向く。そこへ村から、ダートに知らされた村長を始めとする村人たちが大汗をかきながらやって来るのが見えた。
その夜。グレイは井戸の前に立った。傍らにはクリスがいる。クリスと同様、彼も精霊の錬銀でできた防具を身につけていた。とは言えそれは、胸と腹だけを護る、クリスよりも更に簡素なものだった。籠手すらつけていない。
「何なんだここの奴らの歓迎っぷりは……お前、あいつらに付き合ってやってたの?」
「一度だけです。村人には気晴らしが必要でした。断る理由もありませんでしたし」
「ご苦労なこった。食えもしないのに」
グレイは呆れたように言った。もう一人の精霊の騎士の到着に、村長のモースが宴を開くと申し出たのだ。だが彼はそれを「面倒くせえ」の一言であっさり断った。村人に必要以上に関わりたくなかったのである。三日の間走り続けた疲労で不機嫌な顔をしていたグレイに村人は怯え、クリスとはまるで違う彼の態度に戸惑っていた。
「あんまり俺たちを頼るような真似、させるなよ。面倒だろ」
「頼る真似……ですか」
「勘違いして、付け上がるやつらが出るんだよ。そういうのはその内、自分たちが困っている時には何かするのが当たり前だと言いだす。その権利があるってな。何の権利だ? 自分たちは指一本動かさず、誰かが何とかしてくれる上にあぐらをかく権利なんてのが、本当にあると思ってんのか。こちとら命を張ってるってのに」
ぼやいてからグレイはクリスを見やった。
「昼間の続きだが。お前、何ができる?」
精霊の騎士としての能力を尋ねているのだ、とクリスは思った。真実を告げるのはつらかったが、言わなければならない事もわかっていた。共闘して魔物を狩り出す騎士たちは、互いの能力がある程度わかっていなければ、作戦を立てる事もできない。
「何も」
クリスは言った。グレイが眉を上げる。
「どういうこった」
「わたしは……精霊の騎士としては半端者なのです。騎士としての能力は使えません。普通の人間よりは力が強く、治癒能力も高い。ですが、わたしにあるのはそれだけです」
グレイはまじまじとクリスを見つめた。
「冗談だろう」
「事実です」
「精霊がいるだろう。共生してるやつが。何かできるはずだ」
「わたしの周りでは、ほとんどの精霊が姿を現せません。わたしの精霊も表に出る事がないのです。契約して以来ずっと」
「ずっと?」
「属性すらもわかりません。訓練のしようがないと言われました」
グレイは唖然とした顔を晒した後、両手を上に上げた。
「なんでこんなのを任務に送り出したりするんだ、議会も!」
「すみません」
「お前に謝ってもらってもな」
ふーとため息をつくとグレイは片手で髪をぐしゃぐしゃとした。
「よっぽどお前に生きててもらっちゃ困る奴がいるみたいだな……っと。言って良い事か、これ?」
「構いません。院での訓練中にも何度か、あり得ない事故が起きましたから」
淡々とクリスは言った。
「初耳だぞ。あり得ない事故?」
「候補生が巻き込まれて一名死亡、一名が資格を失って院を去りました」
クリスの表情は変わらない。だがグレイは眉をひそめた。訓練中の候補生は、それなりの絆を互いに築く。その中での死亡事故となると、本人も周囲の者も、相当な打撃を受けているはずだ。それが仕組まれたものだとすると、なおの事。
それにしても、どうしてこいつの表情はこうまで変わらないのだろう。
「で、次には初仕事で事故死するようにってか。嘗められてんなー、お前」
とりあえずそう言う。
「ま、新人の初仕事は役に立たないのが普通だ。お前がお荷物になるだろうってのは最初からわかってた。俺は俺の任務を果たすさ」
「すみません」
「だから、お前に謝ってもらう事じゃねえよ。これがごつい大男だったら、さすがに嫌気がさしたと思うが。お前、ちっこくて可愛いんだもんな」
何か反応が欲しくてそう言ってみるが、クリスの表情は変わらなかった。
「えーとその、……普通はここで怒るなり何なりするんじゃねえの?」
「怒って欲しかったのですか」
「いや、ちっと場をほぐそうとして冗談をだなあ……なんでそう無表情なの」
「共生の不具合から顔の筋肉が固まってしまったのです。動かそうにも動きません」
グレイは口を開けた。そんな話は初めて聞く。だが共生がうまくいっていない騎士の場合は、そんな事もあるのかもしれない。
「そうか。すまねえ。悪い事……」
「冗談です」
真面目な顔でクリスが言い、グレイは言葉を飲み込んだ。しばらく間抜けな顔をしてから思わず怒鳴る。
「思わず信じちまったじゃねえか! 先輩をからかうとはどういうつもりだ、てめえ!」
だがその腹立ちは、長く続かなかった。闇の中、少年がふと微笑んだのだ。綺麗な顔が笑みを浮かべるのは思いも寄らない衝撃で、グレイは言葉をなくした。相手をまじまじと見ていると、不審に思われたらしい。クリスは笑みを消した。
「グレイ?」
「あ、いや。何話してたっけ」
相手に見とれていた自分に気がつき、グレイは慌てて言った。
「お前ホントに顔いいな。ああ、お前の能力についてか。まあ、何だ。あんまり無理せず、できる事をやりゃあ良いと思うぞ、俺は。お前にしかできない事だってあるだろうし。それを見つけるのが一番だな」
あたふたしつつそう言うと、クリスが頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどの事じゃ」
「指導の騎士があなたで良かったと思っています。わたしの事がわかったら、邪魔をせず、どこかに隠れていろと言われるかと思っていましたから」
グレイはむ、と言って黙り込んだ。自分の言葉を反芻する。
「いや場合によっちゃ、それ言うかもなんだけどよ。足手まといは困るし」
「けれどわたしはできうる限り、力を尽くしたいのです」
騎士になれなかった二人の為にも。そんな言葉が語られなかった言葉の内にあった気がした。似たような思いを抱いた事もあった……昔。はるか昔。記憶の底で風化しつつある友人たちの面影が胸をよぎり、グレイはふ、と息をついた。若い者には熱があるなと年寄りめいた感慨を覚える。
「やる気があるのは結構だが、手に余る事態にまで手出しすんじゃねえ。俺が外れろと言ったらその時には外れろ。わかったか」
「はい」
「やれるとこまではやらしてやる」
そう言うと、クリスの眼差しが和らいだのがわかった。一所懸命だな、こいつ。そう思った。
「ありがとうございます」
「気まぐれだ。俺がこんなまともな、先輩みてえな忠告を言うのは珍しいんだぞ」
「そう……なのですか?」
「二、三十年ぶりだ。お前、運が良いわ」
そう言った所で、井戸から立ち昇る気配が変わった。グレイが目をすがめる。クリスも表情を引き締めた。
「ぶち破る気ばりばりだな。こういう力押しはやっぱり怪魔だよなあ。村ん中の痕見たら変なんだけどよ」
「はい」
「でも二体いるかどうかはわかんねえな。変異体……ってわけでもなさそうだし」
「わかるのですか」
「何度か相手したからな。増えてきてるんだ、最近。今までの枠組みに入らないやつが。理由はわからんが、確実に増えてる。で? 今までどうやってたんだ。見せてみろ」
クリスは「はい」と答え、火花を散らす護符の方に手を向けた。結界の補強を始める。
「風を司るもの、陽の出る方より来たれ。
炎を司るもの、南より来たれ。
水を司るもの、陽の沈む方より来たれ。
地を司るもの、北より来たれ。
世界を支える四つの力。現れ出でよ。来たれ。この場に出でて手をつなぎ、この場を支えよ。その手を離すことなかれ。その力、揺るぎなし」
静かに言う。
「しかしてこの輪は閉じ、いかなるものも出る事あたわじ」
井戸から凄まじい圧力が押し寄せる。護符の周囲で火花が散った。腕がねじれる感覚にクリスは顔を歪めた。前より力が強まっている……?
「その力、揺るぎなし」
地が揺れた。井戸の縁から小石や砂が、からころと落ちる。同時にクリスの手から血が吹き出した。細かな切り傷が腕を、足を、走り始める。
「揺るぎ……ぐっ」
護符に亀裂が走る。井戸の縁が割れ、いくつかの石が崩れて落ちた。どん、という衝撃がクリスの胸に走り、一瞬、呼吸が止まった。殴られたかのようなそれに体が吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。ごき、という音が聞こえ、腕があり得ない方向に曲がった。一拍おいて、激痛がやって来る。だが悲鳴を上げている暇などない。術はまだ、完成していない。ここでやめれば、結界に穴があく。村の中に大きな侵入経路が開いてしまう。
クリスは立ち上がった。唇を開くと、はっきりした発音で最後の言葉を告げる。
「揺るぎ、なし」
全ての動きが止まった。
次の瞬間、井戸の底から怒りと憎悪を込めた叫びが上がる。叫びは尾を引いて長々と轟き、そうして唐突に、ぷつりと途切れた。