7.影と鏡 2
残された二人は黙って少年の後ろ姿を見送った。
「きつい事を言う」
やがてサラが言った。クリスは彼女の方を見やった。
「あの子なんだろう、魔物に家族を殺されたのは。手加減しておやりよ」
「侮辱されたのはあなたですよ、サラ」
「いつもの事さ。一々気にしていたら、やってけないよ」
二匹の犬をなだめ、水探しの女は言った。
「あたしらは、村の掟に縛られない。自分の知ってる常識の範囲でしか生きられない人間には、その常識で判断できない相手ってのは怖いもんさ。だから嫌う。馬鹿にする。そうしないと怖いから。仕方ない。人間はそういうもんだ」
「彼の言いようは、限度を越えていました」
『女神も顔を背ける者』とは、女神を信じる者の間では、最もひどい侮辱に入る。『魔物と畜生の間の子』も同様だ。『犬と寝る』、『犬から生まれた』は言わずもがなである。
「それも仕方ない。あたしたちは鏡だから」
サラはしかし、あっさりと言った。
「人間は、自分と違うものに自分を映すものさ。誰だって自分の中に、影の獣を飼ってる。恨みつらみや妬みの獣。そいつを自由にして村の中でいさかいを起こせば、共倒れだ。誰も相手にしてくれなくなる。だから我慢する。けどいなくなったわけじゃない」
犬を抱きしめて頭をなでると、水探しの女は続けた。
「同じ村の者相手には駄目だ。でも流れ者になら? 遠慮はいらない。ずっと付き合ってく相手じゃないからね。相手はすぐにどこかへ行ってしまう。何を遠慮する事がある?
だからぶつける。今まで我慢してきた恨みつらみや妬みをね。関係ない者の分まで、あたしらはぶつけられる。反撃される恐れはないし、そうした所で誰に咎められる事もないと村の者は思っているからね。だから自分たちのしている事は許される。そう思ってる。
案外あたしらは、村の平和に貢献しているのかもしれないね?」
サラは小さく笑った。二匹の犬が鼻を押しつけ、サラの手をなめる。
「あたしらを見て腹を立てる者は、その怒りようが度外れていればいるほど、自分を見ているんだよ。自分が隠してきた真っ黒な心を、暴かれてしまうと思って怒る。それを隠す為なら何でもしようと思ってきたものだもの。そりゃ尋常じゃない怒り方になるさ」
「それがわかっていてあなた方は、侮辱に耐えて水を探してあげるのですか。なぜです」
水探しの女は微笑んだ。
「女神さまは全てをご存じだ」
犬をなだめ終わると、向こうに行くように指示してサラは立ち上がった。
「人間がどれだけ隠したって、女神さまに隠せるもんかね。そこにあるのに見ないようにしてきたツケは、いつか自分で払う事になる。蒔いた種を人に押しつけたって、結局は自分で刈り取るんだ。そうだろ?
あたしらは別に、耐えてるわけじゃない。知ってるだけさ。あたしらに唾を吐きかけ、石を投げる者はいつか、そうしてきた自分と出くわす事になるってね。自分で自分の頭の上に焼けた石を積んでるようなもんだ。
水を探すのにしたって、それはあたしらの仕事なんだよ。どうして村の者に何か言われたぐらいでうろうろしなきゃならない? 馬鹿馬鹿しい」
腰に手を当てて、サラは言った。
「女神さまはあたしらに、水を探す力を授けてくれた。だからその仕事をする。それのどこがおかしい?」
「おかしくありません」
誇り高く言う女に対し、クリスは静かにそう答えた。
「なら、そういう事さ。あたしらは自分が何であるかを知ってる。女神さまがあたしらと一緒にいて下さる事もね。それさえわかっているんなら、うろたえる事はないさ」
言い切ってからサラは付け加えた。
「それにあたしらだって、何されても黙ってるわけでもない。された事は一部始終、仲間に伝えているからね。あんまりひどい事をされた時には、次から仲間はその村には行かなくなる。仲間がみんな、水を探しているわけじゃない。鋳掛け屋や行商人をしている者もいる。こうした話は仲間以外にもすぐ広まるからね。するとどうなると思う? その村には行商人も鋳掛け屋も行かなくなるのさ。よっぽど恥を知らない者じゃない限り」
それは辺境の村にとっては致命的だろう。クリスにもそれぐらいはわかった。外からの情報や品物を持ってきてくれる人間がいなくなるのだ。
「ダートの場合は、そこまでするほどではなかったと?」
「あれぐらいは子どもの癇癪さ。第一、あたしが何か言う前に、あんたがひっぱたいちまったじゃないか」
サラは肩をすくめた。
「それにあの子のあれは、自分に腹を立ててたんだよ。可哀相に。家族を殺されて、でも相手が本物の魔物じゃどうにもならない。きっと自分を責め続けてたんだろう。だから手加減しておやりと言ったんだ」
「八つ当たりである事は知っていました。わたしの言いようが厳しかった事も知っています。だがあれは、目に余った」
「相手は子どもだよ」
「それでもです。あなたも言ったではありませんか。腹を立てた村人が犬を殺したと。そんな事をした自分を、正しいと言ったと。どこに正しさがあるのです? 命を奪う行為のどこに」
サラはクリスを見た。
「あんた、怒ってるのかい」
「多分」
「ならもっと怒ってる顔をしなよ。無表情にそんな事言われても、どんな反応すりゃいいのかわからないじゃないか」
「わからないのです。怒っているとは思うのですが。わたしの場合、不快を感じる程度なので」
そう言ったクリスを、サラはまじまじと見つめた。
「あんたにも色々とあるみたいだね。何があったか尋ねて良いかい」
「わたしも目の前で、家族を殺されたのです」
言われた言葉にサラは眉根を寄せた。それから静かに「そうかい」と言った。
「それ以来、良くわからなくなりました。いえ……助け出されてからしばらくは普通だったのですが。泣いたり、わめいたりした覚えがありますから。でもその後、こうなっていた。うれしいとか悲しいとか、そういう感じがなくなった。何も感じないわけではありません。何かを感じてはいる。でもそれが遠くて。全て膜を通して見ているようだ」
淡々と、クリスは言った。表情の変わらない彼を『剣の院』の者たちは気味悪がり、遠巻きにしていた。中にはあからさまに嫌悪を示す者もいたが、彼にはどうでも良かった。何も感じなかったからだ。
「ダートの気持ちは、ある程度理解できる」
クリスは言った。
「だからこそ不快なのですが。八つ当たりで他の者を悪しざまに言う姿が、こうまで恥ずかしいとは思いませんでした。だから、そう……わたしは怒っているのだと思います。恥じてもいる。彼に対してもですが……自分自身にも」
「あんたも誰かにやったのかい」
「わたしの後見人に。彼がわたしの命を助けてくれたのですが。なぜ助けたりしたのかと……随分、文句を言った」
なぜ死なせてくれなかった。そう叫んだ。助けてくれたエイモスに。なぜ放っておいてくれなかった。死なせてくれなかったのだと。あなたにはわたしのつらさがわからない。優しさのかけらもない人間だと。そう叫び、泣いて罵った。彼の胸中など考えもしないで。
母、フィオリーナは彼にとって、娘も同然の存在だったのに……。
「あなたに敬意を捧げます。サラ」
唐突に言われた言葉に、サラは目を丸くした。
「珍しい言葉を聞くね。良いのかい? あたしは水探しで、おまけに女だよ」
「敬意を払うべき人物に敬意を表して、何の問題が?」
「立場があるだろうって話さ。精霊の騎士は女神の正当なる信者には、司祭と同じようなもんだろ。そういう立場の人は、正当なる教えから外れた水探しは虫でも見るような目で見て、男より劣った存在である女が自分の考えをしゃべったりしようなら、けしからんと怒鳴りつけるもんだ」
あっけらかんと言われた言葉に、クリスはまばたいた。つまり彼女は今までそういう扱いを受けてきたのか。
「ルカス神官は、そういう事をしそうにありませんが」
「だからこそ、出世はできないだろうよ」
サラはそう言うと、碗を取り上げた。「さめちまった」とぶつぶつ言いつつ中身をすすり、綺麗に平らげると、鍋の中身をこそげるようにして、碗に新しく入れ直した。
「あたしらの部族でもそうだけど。男ってのは、自分が一番じゃなきゃ我慢ならない生き物だろ。特に村や町に住む『偉い男』ってのは、女は馬鹿だと思ってなきゃやってけない。自分が馬鹿なもんで、もっと馬鹿がいると思わないと、怖くて生きてゆけないのさ」
「そうですか」
「そうさ。馬鹿じゃない男がもうちっといれば、世界はもっと住みやすくなってただろうよ。でも期待はできそうにないやね」
そう言いつつ、「飲むかい」と言って碗クリスの方に差し出す。
「よろしいのですか。わたしもあなたの基準からすれば、馬鹿な人間に入ると思うのですが」
「自分が愚かで何も知らないと知ってる人間は、本当の意味で馬鹿じゃない。ましになる可能性を持ってる。それにあんたはまだ子どもだ」
言われてクリスはまばたいた。それからカップを受け取った。飲み食いをそう必要としない体ではあったが、それでもサラの好意をうれしく感じた。
「感謝します」
そう言うと、サラは微笑んだ。
ダートは村の中を走っていた。腹立ちのあまり涙が出そうだった。肩にかけているマントがばさばさと鳴った。
(俺は正しいのに!)
村外れまで走って立ち止まると、少年はぐいと腕で目元を拭った。
(汚らしい鼠喰いなんか、死んじまえばいいんだ。あの精霊の騎士も!)
お前がそうして憂さを晴らしても、お前の家族は戻らない。
どうしてあんな事を言われなければならないんだ。あんな騎士なんかに。
(間違ってる!)
怒りと共にダートは思った。
(あの精霊の騎士は間違ってる!)
(あんな女をかばうなんて……あんな女を)
(みんな死んじまえばいい。あんな間違った事を言う騎士なんか、どうせろくなやつじゃない。あいつが悪い。みんなあいつが悪い……)
ぐるぐると渦巻く思いを中断したのは、マントから漂う、微かな香りだった。鼻孔をつくそれに、ふと気が逸れる。何だろうと思い、甘い香りを意識する。
精霊の騎士が寄越したマント。
怒りが再燃し、ダートは乱暴にそれを脱いだ。腹立ちまぎれに地面に叩きつけると、足で踏みつける。
(畜生。畜生)
マントはすぐに土と泥で汚れ、ぐしゃぐしゃになった。涙がこみ上げてきて、ダートはさらにマントを蹴飛ばし、何度も何度も踏みつけた。
(あいつなんかに、俺の気持ちがわかるもんか!)
泣きながらマントを踏みつける。蹴飛ばし、踏みつけ、また蹴飛ばす。
やがて布地が裂け、マントは無残な有り様になった。それでもダートは踏みつけるのをやめなかった。
(あんなやつ! あんなやつ……)
「死んじまえばいいんだ」
そう言うと涙をぬぐい、ダートは村長の家に戻った。ぼろと化したマントをその場に残して。
陽が昇ると、家々では起き出した人々が立ち働き始める。目を覚まして鳴き声を上げる家畜や、子どもに指図する母親の声、返事をする父親、泣き出す子どもの声などが響き、すぐににぎやかになる。竈には火が入れられ、煮炊きをする煙が上がる。
ルカスは朝の祈りを捧げに村外れに向かった。朝日に向かって祈りたかったのだ。水探しの女と顔を合わせるのが気まずかったので、反対側の外れに向かう。そこで彼は、妙なものを見つけた。
「布地……?」
泥にまみれていたが、衣服だったらしい布が落ちていた。あちこち破れているが、質が良いのは見ただけでわかる。この辺りの村人が着ているような荒い織り目の布ではなく、しっかりと目の詰まった、長い旅にも耐えられる毛織の布だ。拾い上げ、つくづくと眺めてから、精霊の騎士の着ていたものではないかと思い当たった。変わり果ててはいたが、彼の羽織っていたマントに似ている。
「なぜこんな有り様に」
ルカスは周囲を見回した。精霊の騎士の姿はない。もしや怪我でもしたのか?
あちこち見回してから、最後に水探しの女の幌馬車に目をやる。意を決して彼は、そちらに向かった。
「おやおや。良い品なのにもったいない」
サラは、ルカスが手にしたマントの残骸を見るなりそう言った。
「クリスさま。これが落ちていたのは村外れですが……夜に何かあったのですか」
精霊の騎士は案の定、水探しの女と共にいた。白い金属の小片を縫いとめた鎧を身につけている。それが様々な歌で歌われた、『精霊の錬銀』である事をルカスは疑わなかった。畏怖の念と実物を見た感激が心に沸き起こるが、水探しの女の前で感情を露にするのが嫌で、抑えた。ルカスはサラの方を見ないようにしながら、クリスにマントを差し出した。クリスは受け取って少し息をついたが、ルカスの言葉に「特には何も」と答えた。
「何もなくてマントがこんな風になるはずがないでしょう。昨夜、祈っていた時に凄まじい気配を感じました。すぐに消えましたが……魔物がこんな真似を?」
「子どもの癇癪だよ」
サラが口をはさみ、ルカスは嫌々ながらそちらを見た。どうもこの女は苦手だ。
「この子がマントを貸してやったんだよ。夜明けは寒いから。そうだろ、クリス?」
敬称をつけずに呼びすてたサラに、ルカスは眉をしかめた。クリスはしかし、気にしていないらしい。表情を変えることなく、「そうです」と答えた。
「早くに起きた子どもに、貸していただいたのですか。でもなぜこんな事に」
訝しげに言う神官に、サラが言った。
「言っただろ、癇癪だよ。その子がマントを踏んづけて破いたんだ」
ルカスは愕然とし、青ざめた。精霊の騎士のマントを、この村の子どもが踏みつけて破いた?
「そんな不遜な事をするような子は、この村にはおりません! 女神さまの従者を、精霊に愛された者に借り受けたものを、どうして踏みつけたりできましょうか」
一般の人々の間では、精霊の騎士は半ば人、半ば精霊で、女神に人間の事を取りなしてくれる存在である。神官や司祭への敬意とはまた違って、神聖なものという認識を持っている。礼を失した振る舞いをするなど、考えられない。
「でもやったんだよ」
サラはあっさりと言った。ルカスは首を振った。
「一体誰がやったと」
「ダートです」
クリスの言葉にルカスは続ける言葉を失った。かろうじて「あの子が?」と言うと、精霊の騎士はうなずいた。
「しかし一体……一体、なぜ。あの子はずっと精霊の騎士を待っていた。それがこんな事をするなんて……」
「だから言っただろ、癇癪だよ。あたしとこの子が話をしてたら、それが気に入らなかったらしい。やきもちを焼いた」
サラが言った。ルカスはきっとした顔になった。
「ダートはそんな、子どもじみた振る舞いをする子ではない。家族を失った後直後は脱け殻のようでしたが、立ち直りました。あの子は気丈にも、泣き言一つ言わなかった。魔物を退治する為に、自分を売れとまで言った子なのですよ」
サラは哀れむような目で相手を見やった。
「泣き言一つ言わなかった? 馬鹿をお言いでないよ。言えなかったんだよ。言うだけの余裕もなかったんだ。立ち直っただって? あんたの目はどこについてる。あれが立ち直った人間かい。あんな絶望した目をして、それでいてぎりぎりに張り詰めてる子どもが」
腰に手を当てると女はルカスを見上げた。
「神官さま。目の前で家族を殺されたりしたら、大の大人でも泣きわめいて当然なんだよ。なのにあの子を見る限り、それをやってないように見えた。それすらできなかったのか、単に自分に許さなかったのかはわからないけど。泣いたりわめいたりしたなら、人間は楽になるからさ。
あの子はそれをしなかった。その分、内側でたまりまくってた。で、それが爆発した。
でなきゃ、借りたマントをそこまでにする理由がないだろう」
ルカスはむっとした顔で眉をしかめた。彼は長年、多くの村人たちの相談相手をしてきた。サラの言う事が最もだと思えるぐらいには、人間の心について理解と経験があった。だが水探しの女の言う事を素直に認めるのは癪だった。
「まだダートがやったとは決まっていないでしょう」
「なら誰がやったんだい。あの子が癇癪を起こして走ってった時にはマントはちゃんとしていたよ。その後、あんたが持ってきた時にはこうなってた。あの子がやったんじゃなかったら誰がやった? マントが勝手に土の上を転げ回ったとでも?」
「そんな事は言っていません」
「なら何なのさ。言っとくけど、魔物がやったわけでもないよ」
「あなたに魔物の何がわかるのです」
サラは、この男は本当に馬鹿だねという顔をした。
「賢くてお偉い神官さま。無知で無学な水探しの女には、これをやったのは人間だとしか思えないんですがね。精霊の騎士さまがここにいる。魔物がやったんならこんなとこでぶらぶらせずに、とっとと退治に行ってるよ。第一、この子は夜の間中、魔物が出ないよう見張ってた。その上でこれをやったのが魔物だって言うんなら、そりゃこの子を侮辱する事になると思うけどね。手を抜いたって」
ルカスは押し黙った。言い負かされたようで気分が悪かったが、自分が理屈に合わない事を言っている自覚はあったからだ。これ以上何か言えば、自分が馬鹿に見えるだろうという事も。
「侮辱するつもりは……」
クリスの方を見てもごもごと言うと、精霊の騎士はかまわないという風に首を振った。
「少し手加減してくれませんか、サラ。彼はこの村に良く来ている。その子の事も良く知っていて、気にかけてきた。かばいたくなるのが普通ですよ」
「してるじゃないか。無知で無学な水探しの女なんかと、口をきくのも嫌だって顔でこっちを見ている相手とちゃんと話をしてるよ。あたしの言う事なんか、一言たりと信用できないって思っている相手とね」
ふんと鼻をならしてサラが言った。ルカスが眉をひそめた時、クリスが言った。
「サラの言い分も最もですよ、ルカス神官。この場所は言ってみれば、サラの家の中のようなもの。あなたはここへ来た時、彼女に挨拶もせず、顔を向けもしなかった。彼女が何か言った時には、嫌な顔をしていました。それは失礼な態度ではありませんか」
「そんなつもりは……嫌な顔などしておりません」
ぎょっとしてルカスが言うと、クリスは首を振った。
「わたしにもわかるほど、嫌な顔をしていましたよ。正直なのは良い事ですが、わたしは彼女を尊重してもらいたい。彼女も女神によってこの世に送られた、一人の人間、一つの命です。理解できないものを恐れるのは人の常ですが、それは相手を侮辱したり、傷つけて良い理由にはなりません」
淡々とクリスは言った。ルカスはこの言葉に素直に恥じいり、うつむいた。水探しの女を苦手に思い、できれば避けたいと思っていたのは確かなのだ。嫌な顔をした覚えはないが、そんな思いが顔に出たのかもしれない。
「わたしにはそのつもりはなかったのですが……褒められた行いではありませんね。もうしわけ……」
「詫びるのであれば、わたしにではなくサラに」
クリスが言い、ルカスは息を飲み込んだ。渋いものをかじったような顔でサラを見る。サラはふーと息をつくとクリスに言った。
「やめとくれ。自分の自尊心を傷つけた相手を、人間は忘れないもんだ。あたしを火あぶりにさせたいのかい。あんたがいなくなった途端、物を盗んだとか魔術を使ったとか言われてつかまっちまうよ。第一こちらは神官さまだ。水探しの女なんかに下げる頭は持ってらっしゃらないよ。そうだろ?」
「そんな、事はありません」
歯を食いしばってそう言うと、ルカスは決死の覚悟という顔をして、サラの方に向き直ると頭を下げた。
「水探しのご婦人には礼を失した事をした。すまない」
「詫びってのは、歯を食いしばって言うものなのかい?」
呆れたようにサラは言った。
「顔を上げとくれ、神官さま。あんたがあたしを汚いもんだと思ってるのはわかってるし、口をききたくないのも知ってる。それが普通だ。あんたにとってこれが、どれほどの屈辱かも見当がつく。それ以上されると、あたしは間違いなく火あぶりだ」
「そんな事は!」
「しないって言ってても、掌返してつかまえに来るのが、町や村に住む者のやり方」
歌うように言うと、咎めるような眼差しでこちらを見ているクリスに気づき、サラは肩をすくめた。
「わかってるよ、クリス。これ以上やったらいじめになる。真実でもね」
ルカスの方に向き直り、サラは言った。
「あんたは『留まって暮らす者』の中では、ましな方だ。だから教えておいてあげよう。あんたたちの世界では、まともな事を言う人間は嫌われる。正しい事より、偉い人間の言う事を正しいと言う方が、楽に生きてゆけるから。
真実を尊ぶ者は石を投げられ、遠ざけられる。気をおつけ。水探しの女なんぞに詫びる神官は、危険に晒されるよ」
ルカスは反感の籠もった目でサラを見ていたが、途中から困惑した顔になった。
「あなたが何を言いたいのかわからないのだが、水探しのご婦人」
「詫びの礼だよ。村人の前ではあたしに石を投げておけって事さ」
何でもない事のように言うと、サラはこの話題は終わったと言う風に手を振った。クリスの傍らに歩み寄る。
「さて。あんた、それをどうするんだい」
「洗ってから縫い直します。これでダートの気が済んだのなら良いのですが」
「どうだろうね。感情が出せるようになったのは良い事だと思うけど」
サラはルカスの方を見た。
「探して声をかけてやった方が良いよ。まだ怒ってるにせよ、やった事に震え上がってるにせよ。あんたの助けがその子にはいる」
『詫びの礼』というサラの言葉にぼんやりしていたルカスだが、この言葉にはっとした顔になった。
「そうだ、ダート。こんな事を仕出かして。捜し出して、きつく言わねば」
「そうじゃないって。叱りつけたりなんか、するんじゃない」
厳しい顔でサラが言った。
「やっとの思いで生き延びた子どもが、ようやっと感情を出せるようになったんだ。気をつけて相手してやらにゃ、取り返しのつかない事になるだろ」
「わたしからもお願いします、ルカス神官。ダートを叱らないでやって下さい。マントは針と糸があれば直ります」
クリスが言った。
「ですが人の心は……傷つけば、容易には治らない。ダートには、話を聞いてくれる人が必要です。彼が抱えている重たいものを、受け止めてくれる誰かが。それは今ここでは、あなたにしかできない事です」
ルカスはクリスを見た。サラを見た。それからもう一度クリスを見つめ、息をつくと深く二人に頭を下げた。
「己の浅慮が恥ずかしい。知り合ったばかりのあなた方が、これほどまでにあの子を案じていると言うのに。わたしときたら、あの子のしでかした事におののき、叱りつける事しか頭になかった。これで人々を導く神官だと言うのですから……恥じ入るばかりです」
「良いから、早く探しておやり」
「はい。では」
サラの言葉にルカスはもう一度二人に頭を下げると、その場を辞した。