7.影と鏡 1
明け方、ダートは夢を見た。
胸苦しく、体が動かない。それは悪夢の始まりを知らせるものだ。ああ、またあの夢だ、とダートは思った。
あの魔物が現れる。
家族が殺された家で見つかって以来、彼は眠るたびに悪夢に囚われた。恐ろしい影がどこまでも自分を追いかけてくる。生々しい血の匂い。こみあげる恐怖。逃げても逃げても影は追いかけて来る。そうしてつかまる。つかまって切り刻まれる。そんな夢を見て、声の限りに叫びつつ目を覚ます。
恐怖で眠れなくなるほどだった。
引き取ってくれた村長夫妻も、同じ家にいる三人の娘たちも、夜毎悲鳴を上げるダートには、辟易したようだ。
そんな彼を助けてくれたのは、ルカス神官だった。神官は村々を巡回する予定を変更し、しばらく村に残った。そうしてダートの側について、夜になるとしっかり抱き寄せて眠らせてくれた。彼がいなければダートは早晩、狂っていただろう。
今では悲鳴を上げる事もなくなった。しかし悪夢が消えたわけではない。少年にはわかっていた。あの魔物が倒されたという知らせを聞かない限り、この夢は終わらない。
自分を売って、精霊の騎士を呼んでくれと村長夫妻に頼んだ時。村のみんなは驚き、やめさせようとわずかに説得し、最後にはダートを家族を想う孝行息子、村を救う少年だと讃えた。そんなものではなかった。ダートはただ逃げたかっただけだ。あの魔物の恐怖から。
夢は続いた。魔物はダートを追いかけてきた。辺りには血の匂いが立ち込めている。
助けて。助けて。
そう思いながら、ダートは走る。逃げて逃げて、走り続ける。
助けて。
むっとする鉄錆の匂い。あの時と同じ。溢れる真っ赤な色。ぬめる大地に足がもつれる。押し寄せてくる、黒い影。追いかけてくる腕。腕。腕。泣きながら、無様に転びそうになりながら、必死になってダートは逃げた。怖い。嫌だ。怖い。怖い怖い怖い怖い……。
……タスケテ。
追いついた腕がダートに絡みつく。世界がぐるぐる回る。ダートは宙に引きずり上げられ、体をばらばらに引きちぎられた。衝撃と痛みが走り、そうして、落ちる。落ちる。落ちる。
……コ・ワ・イ。
全身汗まみれになって、ダートは目覚めた。体が強張っている。恐怖で心臓が早鐘を打っていた。
荒い息を整えながら、暗い家の中、ちくちくする藁布団の寝床にじっと横たわる。しばらくしてやっと息が整ってくると、少年は震える手で顔に触れ、首に触れた。大丈夫だ。悲鳴は上げなかった。首も取れてない。あれは夢だ。
体が震えていた。怖かった。泣きそうになってダートは、その涙をこらえた。精霊の騎士が来てくれたんだから。きっと、すぐに魔物を倒してくれる……。
しばらくじっとしていたが、ふと、あの弱そうな騎士の事が頭に浮かんだ。夜の間、村を守っているはずだ。今何をしてるんだろう。
(あいつ、弱そうだったけど……)
魔物にやられたりしていないかと不安になり、少年はごそごそと起き出した。家の中では村長夫妻と三人の娘がいびきをかいている。ダートはそっと動いて戸口に移動した。暗くてほとんど何も見えないが、どこに何があるのかはわかっていた。眠っている人たちを起こさないよう、静かに扉を開ける。
冷たい空気が入りこむ。首筋に触れた冷気に、ダートはぶるっと震えた。
少年は外に出ると、急いで扉を閉めた。明け方が近づきつつあるが、夜の闇はまだ色濃い。自分の足元も良く見えない。空には女神の夜の衣が大きく広がり、星が瞬いている。東の方がうっすらと明るく、女神の従者が暁の衣を広げる準備をしている。だが何かが見えるようになるには、まだかかるだろう。ルカス神官がいるはずの納屋の方に目を向けたが、灯は見えなかった。夜通しの祈りを終えて、眠りについたのだろうか。
ダートはしばらく、扉の側に立っていた。自分は何をしているのだろうと思った。こんなに暗くては、あの騎士がいてもわからない。物の輪郭もわからないのだ。第一、自分が外に出た所で何の役に立つ。
そう思った時金属のこすれあう音と、土を踏みしめる音に気づいて、少年はぎくりとした。何かがこちらに近づいてくる。
「ダート? どうしたのですか、こんな朝早く」
聞き覚えのある騎士の声が、闇の中からした。
「目が覚めた」
安堵を覚えつつ言うと、ダートは相手の姿を確認しようとし、目をしばたいた。けれども顔はおろか、姿もわからない。
「あんた……大丈夫だったのか、夜中」
「平気ですよ」
静かな声になぜだか少し、安心する。
「こんな暗いのに良く歩き回れるな。どこにいるんだ?」
自分が安心した事が少し恥ずかしくなって、ぶっきらぼうに言うと、土を踏みしめる音が近づいてきて、すぐ側で止まった。
「ここに」
肩に触れる手の感触。一瞬、身を強張らせてから少年は、力を抜いた。
「あんた、弱っちそうだもんな。また怪我でもしてるんじゃないかと思った」
怯んだ事を隠そうとしてそう言い、見当で相手の腕をつかむ。固い物が触れ、おやと思う。戸惑っていると、指を温かいものが包んだ。精霊の騎士がダートの手を握ってくれたのだ。その温かさにほっとしたが、指の細さに驚いた。こんな細い指をしていたのか。
そこでダートは、微かな香りに気づいた。見えない分、鼻が敏感になったらしい。ほのかに甘い香り。
精霊の騎士の方からだ。
そう思った途端、相手の体温を彼は意識した。なぜか心臓が跳ね、慌てて彼は相手の手を振り払った。
「精霊の騎士は、みんなこうなのか?」
困惑しながら言うと、不思議そうな声がした。
「こう?」
「いや、つまり。あんた、何か持ってるのか。花? みたいな匂いがする」
少し沈黙があった。
「虫よけの香草でしょう。服を洗ってしまう時にはさみましたから。マントはしばらく使っていませんでしたし」
精霊の騎士も、服を洗ったりしまったりするんだなとダートは思った。変な感じだった。少年は何となく、彼らの服は天から与えられ、汚れたら新しい物が降ってくると思っていたのだ。村の女たちのように何人もが集まって、大きな釜で服をぐつぐつ煮て洗ったりもするのだろうか。
「俺たちのと違うな。母さんは服を洗ってしまう時、きれえ草を使ってた」
「クリン……?」
「きれえ草。すっとする、いい匂いのヤツだ。怪我した時にも使う。ひりひりするけど」
答えてからダートは、そうしていた母親はもういない事に気づいた。何とはなしに、胸塞ぐ思いをする。
「家の側に生えてるだろ」
それでもそんな思いを相手に見せるのが嫌で、ぶっきらぼうに言う。すると相手が「ヒソプですか」と言った。その名前は良くわからなかった。「きれえ草だ」とくり返す。
相手が動く気配がした。彼は自分と距離を置こうとしている。そう気づいた途端、ダートはなぜか不安になり、離れようとする腕を捕まえようとした。だが間に合わず、姿勢を崩す結果となる。良く見えない事もあって慌て、少年はつんのめった。
とん、と何かにぶつかる。ダートはしがみついた。固い感触。甘い香りに目をしばたく。
「ダート?」
すぐ側から精霊の騎士の声がして、少年は転びかけた自分を相手が支えてくれたのだという事に、おそまきながら気がついた。その相手に、自分はしがみついてしまったらしい。恥ずかしさに顔を赤くして、ダートは急いで離れようとした。
「落ちついて。地面をしっかり踏んで、背筋をのばして。大丈夫ですから」
静かな声がして、両腕に手が添えられる。精霊の騎士はダートをまっすぐに立たせてくれた。何とか一人で立つと、相手は腕を引いた。
「くそ。こんなに暗くちゃ何も……あんた、何で平気なんだ」
恥ずかしさを堪えて言うと、相手の声がした。
「わたしたちには、闇が降りていても昼と同じように見える。精霊が力を貸してくれますからね。でもあなたには見えないだろうから、家の中に入った方が良いですよ」
「じきに明るくなるだろ。ここにいるよ」
そう言うと少し間があってから、布がこすれあう音がした。何かが肩にかけられる。
「では、これを預かっていてもらえますか」
厚手の布が垂れ下がる。マントだ、とダートは思った。
「あんたが困るんじゃないか?」
「少し身軽になりたいのですよ。だからあなたが持っていてくれると助かります。わたしはもう少し、村の中を見回りますから」
そう言うと精霊の騎士は、立ち去った。土を踏む音がゆっくりと遠ざかってゆく。
マントは暖かかった。ダートは肩にかけられた布地に手をやると、鼻の方に持っていった。微かに甘い香りがする。
空はまだ暗い。村の中も。
(変なやつ)
村の男はいつも、泥と埃にまみれている。汗や家畜の糞尿の匂いならお馴染みだ。女神の祝いや新しい年の祝いには、さすがに衣服を綺麗にするが。垢もできるだけ擦り落とす。その時だけは『きれえ草』のすっきりした匂いを、誰も彼もがさせている。
でもあんな風に普段から綺麗な恰好をして、良い匂いをさせている男はいない。
変なやつ、ともう一度思い、あれは精霊の騎士だからと思い直す。何かあるのかもしれない。この匂いが魔物を遠ざけるとか、苦しめるとか。いきなりこんな匂いをさせられたら、俺だってどんな顔すればいいのかわからないし。手をつかんだ時にも……。
(なんか小さくてふにゃっとしてたな、あいつの手。精霊の騎士はものをあんまり食べないって言ってたけど、それでかな?)
自分を支えてくれた事からして、力がないわけではないだろう。剣だって持っている。夜通し魔物が出ないように見張ったり、色々やっている。弱いわけではない。そう思いたいのだが……。
(本当にあれで大丈夫なのかな)
東の空が次第に明るくなってくる。広場の方を見ると、ほっそりとした騎士の後ろ姿がぼんやりと見えた。見慣れない白い鎧を青い服の上につけている。だが。
(やっぱ、弱そうだ)
小さな頃から畑仕事や水汲みといったきつい労働をするこの村の人間は、十五にもなれば骨太で、がっしりとした体つきになる。男ならなおの事、骨ばって固い体になる。それと比べると彼の体は、頼りない感じがした。村の男たちのごつい体を見慣れている少年の目には、ちょっと強い風が吹いただけで吹き飛びそうに見える。
ダートは不安になった。
サラはいつも通り、まだ暗い内に起き出した。忍び足で歩き、しかけておいた罠を見に行く。
残念ながら、何もかかっていなかった。
罠をしかけなおし、馬車の側に戻る。
火を熾すと、食事の支度を始める。夜明け前に食事をすませるのは、水探しの習慣だ。村人が起きた後に食事を作ろうものなら、悪童どもに石や動物の糞を投げつけられ、台無しにされかねない。
馬車に積んだ樽に入れてある水は、昨日補充したものだ。まだ十分に余裕がある。携帯用の食料もまだあるが、節約した方が良い。村人から何かもらえるとは思えないし、いつ彼らの気が変わって追い立てられるかわかったものではない。逃げ出せる準備はいつもしておくべきだ。
昨夜は幸運にも針鼠を捕らえる事ができた。それを鍋で煮た残りがある。サラはそれに水と焼いたカラス麦を少し加え、火にかけた。
東の空は明るくなっているが、太陽はまだ昇らない。肌寒い空気の中、熾した火はわずかなりと体を温める。村はまだ寝静まっているが、いずれ村人も起き出してくるだろう。
火の側で鍋をかき混ぜていると、白い胴鎧をつけた少年がやって来た。サラは目を細めた。
『精霊の錬銀』。聖王国の鋼、聖なる銀。
あれは金属よりも固い。なまじな防具より頼りになる。
後ろから村の子どもがついて来るのが見えた。子どもは借りたらしいマントを羽織っている。おやおや、とサラは思った。この精霊の騎士さまは、随分と優しいようだ。
銀の髪の少年は、サラの側まで来ると挨拶をした。動きに合わせて鎧に止められた小片が、微かな音を立てる。
「お早うございます、サラ」
「お早う、クリス。そっちの坊やもね」
手を止めずに答える。彼女に対するクリスの態度に変わった所はなかったが、ダートの方は何となく、居心地の悪そうな顔をしていた。
「昨夜はちょっとした騒ぎだったみたいじゃないか。クゥイ、ダーダ。おとなしくおし」
尻尾を振ってクリスの方に行こうとした犬たちをしかると、サラは言った。ダートはきょとんとした顔になった。この女、何を言ってるんだと、ありありと顔に書いてある。
「わかりましたか」
クリスが言うと、サラは「あれだけ大騒ぎされちゃね」と答えた。
「うなじの毛がちりちりしたよ。怪我はなかったのかい」
「大丈夫です」
「無理するんじゃないよ。それで、どれぐらいかかりそうだい?」
「もう一人が来るまで、しばらくかかります。それからですから」
「あれだけ怒らせたんだから、きつくなるよ。連れが来るまで、あんたの身が心配だ」
サラは鼻の上に皺を寄せると、火にかけている手鍋の中身をかき混ぜた。碗によそう。ダートはむっとした顔になってサラに言った。
「一体、何の話してるんだよ。それにこいつは精霊の騎士さまだぞ。心配なんて」
サラはダートの方を見た。
「精霊の騎士さまでも、怪我ぐらいはするさ。誰だって、知ってる相手が危ない時には心配するものじゃないかい。それにあたしは水探しの女だよ」
「何の事だよ」
何となく不安になったが、虚勢を張って彼が言うと、サラは物分かりの悪い子どもを見るような顔をして口の端を上げて笑った。
「水探しがどうやって水のある場所を探すか、知らないのかい。どうやって大地の底に流れる川を見つけるのか。
あたしらはね。世界とそこで起きている事についちゃ、少しばかり見えてるし、わかりもするのさ。村の者は気づきもしないんだろうけど」
サラはクリスに目をやると、微笑んだ。
「あんたが昨夜、井戸から出てこようとした魔物を押さえて戦ってたこと、誰が知らなくてもあたしが知ってるよ。良く頑張ったね」
クリスの表情は変わらなかったが、彼は一瞬、言葉に詰まったように見えた。
「つとめですから」
けれどすぐにそう言う。サラは皮肉な笑みを浮かべた。
「人がせっかく感謝してるんだ。黙って受け取るぐらいできないのかい?」
からかうような調子で言うと、サラは驚いた顔になったダートを見やった。
「そういう事さ、坊や。この騎士さまは謙虚で、自分のした事を吹聴したりはしないようだ。だがやるべき事はやっている。危険もないわけじゃない。そういう相手に感謝したり、敬意を払ったりするのは当然としても、心配したくなるのは人情だろ。違うかい?」
「知らねえよ」
自分の知らない事を目の前の女が知っていると思うのが嫌で、ダートはぶっきらぼうに言うと顔を背けた。こいつは鼠喰いだ。軽蔑するのが当たり前の相手から、なんで何かを教えてもらわなけりゃならないんだ。
「感謝いたします」
けれどクリスはサラに頭を下げた。ダートは目を剥いた。鼠喰いなんかに頭を下げる人間がいるなんて!
「何に対する感謝だい?」
面白そうに言うサラに、クリスは答えた。
「人として扱ってくれた事に対して。水探しの方々はみな、あなたのように良く見える目をお持ちなのですか」
「持つ者もいれば、持たない者もいる。なくても経験から水は探せるからね」
サラは答えてからクリスを見つめた。
「ただ、持つと苦労する事もある。実を言えばあたしはずっと、ここから逃げ出したくてたまらない。持たない者なら気づきもしなかっただろう……あんたが頑張っているのを見届けたい気持ちもあるが」
「あなたがそう感じるのは、正しいですよ」
「手に負いかねるのかい? あたしは逃げた方が良いかね」
サラの問いかけにダートはぎくりとし、クリスを見た。この騎士は、何と答えるのか。
「思っていたよりも大物です。わたし一人では難しい」
静かな口調でクリスは答えた。
「封じているばかりじゃ、何もできないよ」
「その通りです。ですが後三日で仲間が来ます」
「確実かい?」
「はい。昨夜、連絡が」
「なら、あたしも留まろうかね。魔物退治を見逃しちゃ損だ」
サラは微笑んだ。ダートは二人の会話に苦虫を噛みつぶしたような顔になった。二人はお互いにだけわかる言葉で話しているようだった。苛立ちを覚える。疎外感はすぐに、サラに対する嫌悪に変わった。
「なんで鼠喰いなんかに頭下げるんだ」
ダートはサラを睨み付けると、顔を歪めて言った。精霊の騎士は少年の方を見た。
「こんなやつ、追っ払われるのが当然だ。鼠なんかを捕まえて食べる、汚らしい犬野郎なんだから。なのに、なんであんたは頭を下げたりする。こんなやつに。精霊の騎士なのに!」
クリスはわずかに眉をひそめた。
「彼女があなたに、何かしたのですか」
「そこにいるだけで悪いんだ、こいつらは!」
怒鳴るように言うと、ダートは地面に唾を吐いた。腹が立って仕方がなかった。怒りは苦く、さらに強くなる。腸が煮えくり返るようだった。目の前に水探しの女がいるというそれだけで、体が震えるほどの怒りを覚える。
彼の自尊心は傷ついていた。水探しは汚らしい存在。それは村での常識で、疑った事もなかった。だというのにこの精霊の騎士は、そんな存在に頭を下げた。もっと尊重すべき自分たち、村人を差し置いて。
これは侮辱だと少年は思った。自分への、村への。侮辱は許せない。精霊の騎士であっても。だが彼に直接怒りをぶつける事はできない。それゆえ、怒りは水探しの女に向いた。この女さえいなければ、という訳である。村の人間であれば誰であれ、考えただろう事だった。
とは言え彼の怒りは、それだけにしては度を越していた。
クリスが村に来るまでの数巡月にわたり、ダートは静かだった。夢でうなされる時をのぞいて表情はほとんど動かず、口数も少なかった。村人たちはそんな彼を見て、あの子は感情をなくしてしまったと噂した。それぐらい少年から、感情らしきものは失せていたのだ。
だが目の前で家族を殺された少年の、怒りや悲しみが激しくないわけがない。
彼が静かにしていたのは、あまりの絶望に表現する事ができなかっただけだった。そうして表に出す事ができなかった分、それらは深く潜伏し、積もり続け、膨れ上がって彼を内側から苛んだ。
それらは消えたわけではなかった。ただ外へ飛び出すきっかけを待っていただけだったのである。
これまではそのきっかけがなかった。しかし精霊の騎士が来た事実は、少年に希望を与えた。希望は感情を蘇らせ、押し殺していた感情に突破口を与えた。さながら水嵩の増えた川が、堤が切れた途端に溢れ出すように。
サラの事はその感情に、方向性を与えた。要は八つ当たりである。だがその時のダートには、そんな事はわからなかった。ただただ怒りがあり、その怒りに我を忘れていた。
どす黒い憎しみが沸き上がる。腹の底から。どろどろと溶けた炎のように、体を膨れ上がらせる怒り。サラを殺してやりたいとまで、その時のダートは思っていた。
「汚らしい、鼠喰い……っ!」
二匹の犬が唸り始めた。主人に危害が加えられると思ったのだ。サラはしかし、静かな面持ちでこちらを見ていた。ダートは動じない相手の様子にさらに逆上した。
「知ってるぞ。こいつらは犬と寝るんだ。まともな人間なら、相手をしようなんて思わない。だから犬と寝て、犬の子を産むのさ。こいつはだから、犬の血を引いてんだ。そんな女が、まともなはずがない。魔物とだって寝るだろうさ。鼠喰いは魔物と畜生の間の子だ。誰だって知ってる! 女神も顔を背ける、呪われた者。生まれてきた事が呪いだ。お前なんか……っ」
衝撃があった。毒の込められた言葉が止まる。一瞬、何が起きたかわからなかった。自分の顔が横を向いており、頬にじわじわと熱が昇ってきた事で、ようやくダートは自分が平手で殴られたと気づいた。
「その辺りで止めておけ」
静かな声音がした。少年の姿をした精霊の騎士が、片手を上げ、表情を変えぬままダートを見ていた。
「これ以上は許さない」
「なんでっ……あんたは精霊の騎士のくせして、こんな奴をっ」
ダートは叫んだ。どうしてという思いが渦巻いていた。どうして。精霊の騎士は、正しい者の味方じゃなかったのか?
「彼女は村を助ける為に来た。水を探してくれと頼んだのはお前たちだ。魔物が出るとわかっていながら、留まり続けている。見捨てて逃げても良いのにそれをしない。彼女に敬意を抱きこそすれ、非難する所は何もない」
「こいつは鼠喰いだっ!」
「水探しだ」
訂正した後、クリスは続けた。
「尊敬するに足る、立派なご婦人だ。自分たちと違う人間になら、何をしても良いと思っているのか。ここで今、彼女が死ねば満足か。だがお前がそうして憂さを晴らしても、お前の家族は戻らない」
はっきりと言われた言葉に、少年は真っ青になった。ぶるぶると全身を震わせる。それから彼は顔を歪ませると、「お前たちなんか魔物に食われて死んじまえ!」と叫んだ。あらゆる感情を込めた叫びだった。
それから彼はくるりと背を向けると、その場から走り去った。