6.夜 2
闇の中、馬の姿で荒野を疾走していたグレイは、身の内で香姫が何かささやいたのに気づき、速度をゆるめた。足を止めると金色の影が目の前にわだかまり、男の姿を取った。
『ラルフさまんとこの、精霊?』
荒い息をついてグレイが言うと、野性的な風貌をした男はにっと笑った。
『頑張っているな、灰色の坊や』
『坊やはよしてくれ。何の用だ』
金色の輝きが男を彩っている。鋭く大気を貫く気配。雷の精霊だ、とグレイは思った。ラルフさまと最後に契約を交わした高位の貴妖。精霊はたくましい胸の前で腕を組むと、難しい顔になった。
『我が騎士からの伝言だ。村は刻印されている。魔物は一体以上いる。急げ。以上だ』
『匂い付けっ? しかも複数? 下級のヤツじゃなかったのかよ』
ぎょっとしてグレイが言うと、精霊は肩をすくめた。
『気配は下級だった』
『見てきたのか、あんた?』
『少し前に。見てきたものを我が騎士に伝えた所、お前の所に行って話せと言われた。質問はあるか?』
そりゃあるよ、ありまくりだよ、と馬の姿のままでグレイは思った。何だって下級の魔物が匂い付けなんかしてやがるんだよ。
『刻印ってのは確かなのか』
とりあえずそう尋ねてみると、『確かだ』という返事が返ってきた。
『で、気配が下級だったって?』
『怪魔だな』
『あり得ねえ! あいつらにそんな頭あるか。剛魔でも後ろに隠れてんじゃねえのか』
上級の魔物を挙げると、『わからん』と精霊は答えた。
『我が騎士はお前よりさらに村から離れている。しかもあの場は刻印されていた。詳しく見る事は不可能だった』
『そりゃわかっちゃいるが。じゃ、その可能性もあるわけだな……』
やばそうな仕事になって来たじゃないか、とグレイは思った。
『ひよっ子が無茶してなけりゃいいが。なあ……まさか、これも院が仕組んだ罠とか言わないよな。あいつを殺す為に』
『魔物そのものとは関係なかろう。多少の悪意はあったと思うが』
『悪意?』
『必要な情報をわざと与えず、ろくに戦う術も持たぬ者を戦場に送り出す。これを悪意と言わずして何と言う?』
グレイはおや、と思った。精霊は機嫌をそこねているようだった。
『なんであんたが怒るんだ。自分の騎士以外には興味を示さないものだろう、あんたら。ひよっ子が気に入ったのか?』
そう言うと、精霊は真面目な顔で『うむ』と答えた。
『わたしが我が騎士と契約をしておらねば、あの者と契約を結ぼうとしただろう』
『そいつは……』
グレイは驚いた。件の騎士は相当に、精霊好きする体質の持ち主らしい。
『そりゃ今後が楽しみだな。あんた、会ったのかい。ひよっ子に』
『会った』
『どんな奴だった』
何気なく尋ねると、雷の精霊は困ったような顔になった。しばし沈思黙考し、それから一言、『小さい』と答えた。
『あんたと比べりゃ、大概の奴は小さかろうよ……』
丈高くたくましい精霊を見て、グレイは言った。
『俺が言ってるのはそういう事でなく。知ってるだろうが俺は、そいつと会った事がないんだ。見かけとか、性格とか、そういう事ちょっと教えてもらえねえかな』
雷の精霊は再度、沈思黙考した。それから一言、『可愛い』と答えた。
『何だそりゃー!』
『うむ。小さくて可愛い』
愛玩動物か? とグレイは思った。すると続けて雷の精霊は言った。
『だが我が騎士は、もっと可愛い』
『はあ? ラルフさま? 可愛いってあんた……あの人の場合はカッコいいだろ!』
『複雑怪奇で純粋な所が可愛いぞ』
真面目な顔をして言う精霊に、グレイは馬の姿ながら頭を抱えたくなった。ラルフの精霊は語彙に問題があるようだ。
『それ本人には言うなよ絶対。情けなさのあまり憤死するぞ』
『なぜだ?』
『立派に成人してる男が『可愛い』なんて言われてうれしいわけないだろが! 半人前って言われてんのと一緒だろ!』
『可愛いのだがなあ……』
残念そうに言う精霊は無視して、グレイは続けた。
『で。そのひよっ子、おとなしく待ってるか? 無茶な事してないだろうな』
『小さな騎士か? あれは気が強い』
精霊は小さく笑った。
『ろくに力も使えぬあれでは、魔物の相手は荷が重すぎる。そう思って隠れるように言ったのだが、断られた。村人を見捨てる訳にはゆかぬそうだ』
『へえ。そりゃ肝が据わってる。無謀とも言うが』
投げやりな調子でグレイは言った。
『真面目なこった。最初の任務ってのもあるんだろうが。けど抜けるとこの手は抜かねえと、この先もたねえぞ。で、何もしてないんだろうな?』
『怪魔の通り道を封じたようだ』
『匂い付けされてる土地で?』
『そうだ』
『喧嘩売りやがったのか。俺の仕事、増やさねえでくれよ』
グレイは足で地面を引っかいた。
『どうすんだよ警戒させて。どっかに隠れちまったら炙りだすのが面倒だろうが。放っておきゃ村ん中に出てくれたのに』
『あれはお前や、我が騎士よりもはるかに若い。あまり責めてやるな』
『若けりゃ何でも許されるってわけでもなかろう。見当はつくがな。村のモンを食われちゃならないって、それだけ考えて道を塞いだんだろう。だが手前勝手な正義感振り回すばっかりじゃ、取り逃がす羽目になりかねん。大体『なりたて』が先輩に従わねえで、何勝手にやってるんだか』
『繰り返すが、あまり責めてやるな。自分にできる最良の事をしようとしたのだろう。魔物の居場所が特定できない場合は、我が騎士も手を貸すはずだ』
『だから、ラルフさまが出てきたら洒落にならないんだよ……どう転んでも大事になっちまうだろが』
グレイは首を振ると『とりあえず、俺は急ぐ』と言って足踏みをした。
『情報に感謝する。ラルフさまにもそう伝えておいてくれ』
『わかった』
そう言うと、精霊の姿はかき消えた。グレイは身震いをすると、再び走り始めた。闇の落ちる荒野を、オルの村に向かって。
* * *
「グレイと話ができたのですか。彼は何と言っていました?」
荒野を歩いていたラルフは、戻ってきた自分の精霊に向かって言った。金色に輝く雷の精霊は答えた。
『お前に感謝すると』
「これがあの二人の助けになれば良いが」
つぶやくように言うと、ラルフは精霊に言った。
「感謝します。ですがあなたがクリスをそこまで気に入るとは思いませんでした」
『一番はお前だ、我が騎士よ』
「俺がいなければ契約していた相手、でしょう?」
からかうように言うと、雷の精霊は悲しげな顔になった。
『あの小さな騎士は、昔知っていた者に少し似ているのだ』
「どなたです?」
『最初の契約者』
雷の精霊は自分自身の手を見つめた。
『わたしにこの形を与え、地上につなぎ止めた者に。美しくも気高い人間だった』
ラルフは驚いた。破空は以前の契約者について今まで、ほとんど何も語らなかったからだ。ただ彼が、その相手をとても愛していた事は知っていた。その相手に似ているとすれば……それは好意を持つだろう。
「そうですか。ではなおのこと、クリスを助けてやらねばなりませんね」
『うむ』
「どんな男性だったのですか。あなたの……最初の契約者は」
尋ねてみると、雷の精霊はしばらく答えなかった。それから侘しげな表情を浮かべ、ラルフから目を逸らした。
『男性ではない』
「え」
『わたしの契約者は女性だった。誇り高く、強く、美しい……そして哀しい人間だった。誰よりもわたしは、彼女を愛した』
それだけ言うと、精霊は姿を消した。
ラルフは胸に手をやった。心臓が熱く、鼓動を速めた気がした。痛みが鈍く感じられ……それが消える。これは破空の感じた事だ、とラルフは思った。最初の契約者を思い出した事で、傷ついた彼の痛みだ……。
女性の騎士も、かつては何人かいた。記録に残っているのは三名のみだが、他にも数名の女性騎士がいたと言われている。ただ彼女たちの名は抹消され、後世に伝えられる事はなかった。いずれも狂い、災厄をもたらす魔女となったからだ。そうして同僚に討たれ、命を落とした。
(彼が話さないはずだ……話せるはずがない。彼は、最後まで共にいた。彼女が狩られ、死ぬまで)
長らく新たな契約者を持ちたがらなかったのも当たり前だ。相手が女性だったのなら、契約からほどなくして狂ったと考えるのが妥当だ。そうして彼は愛する者が狂い、殺されてゆくのを傍らで見続けた。どうする事もできず。そんな苦しみを味わっていたのなら。すぐに次の契約が結べるはずがない。
精霊と契約した人間は皆、狂うのだから。
(それだけ人間には、精霊の命は重い)
ラルフは息をついた。
(女性だからという訳ではない。俺もいずれは狂う)
それは騎士たちの間で暗黙の了解となっている事だった。精霊と命を重ねた人間はいずれ狂う。人は長すぎる命には耐えられない。それが戦い続けるだけの日々であるなら、なおのこと。
(男の騎士はただ、女よりも長く『持つ』だけだ)
最後には、同じ結末が待っている。
(だが、それでも人間には……)
「必要なのだよ、破空」
声に出してラルフはささやいた。
「精霊が。魔物に抗える存在が。だからわれわれはあなたがたの愛情を逆手にとって、あなたがたをこの世に縛る。あなたがたに、愛する者の最後を味合わせ続ける……」
許してくれ。ラルフはひっそりと、その言葉を唇に乗せた。
最も残酷な存在は、人間なのかもしれない。