泉鏡花『縷紅新草』と昔話
『縷紅新草』は、昭和14年(1939年)に発表された鏡花の遺作。
青空文庫
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金沢にある泉鏡花記念館を訪れたのは、設立後まもない年の秋だったと思う。そのころ刊行されていたちくま文庫の「泉鏡花集成」を発売されるたびに読んでいたので、いちおうは愛読者のつもりだったのだが、正直いって、よくわかっていなかった。展示物そのものよりも、記念館の周辺に怖ろしいくらいに赤蜻蛉が飛んでいたことのほうが記憶に生々しく、兼六園を散策していてもすっかり群に囲まれて何度も顔をかすめるほどで、柵に止まって上に合わせていた羽を試しに指でつまんでみると暴れもせずに静かに捕まって、指を離すとほとんど落ちもせずに、ブンと飛んでいくのだった。
それだから『縷紅新草』はそのときの想い出と切り離せない小説として、赤蜻蛉のことばかり記憶に残っていたのだけれど、改めて読み返すと、まるで遺作として書かれるべくして書かれたような作品であることに驚かされた。三十数年前に入水自殺をした女工によせる哀歌であると同時に、不思議なことに鏡花がこれまでに書いてきた小説全般に対する惜別の詩でもあるような印象を受ける。
遺作であることを知ったうえで読むからだという自明な理由はとりあえず差し置くとして、それでも鏡花の小説の全般にかかわる何かが示されているという印象は棄てきれない。作家生活のどの時期にも書かれてきた帰郷小説、墓参小説の系譜にあること、童唄、手鞠唄に類似する戯れ歌をモティーフにしていること、いつものように怪異が描かれ、生者と死者、彼岸と此岸の境が描かれることなど、典型的な鏡花作品ではあるのだが、かといってとりわけ過剰なものがあるわけでもない。もう一歩踏みこんで、ちょっとした手応えのようなものを感じてみたいのだけれど。
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鏡花にかんしては、日露戦争以降に自然主義文学が台頭して、日本文学が古典との断絶に近い状態におかれるなかで、ほとんどただ独り、古典の水脈とのつながりを保ち続けることによって、日本文学史上に「鏡花 vs 日本近代文学全体」ともいうべき独自の地位を占めることになった作家だという定説がある。この「ほとんどただ独り」というのがクセモノで、あまりにも独自すぎる小説技法が読みにくさの要因となる場合がないわけではない。古典とのつながりという目に見える部分はまだしも、韜晦な文体の奥には、文学以前のつかみどころのない古層が隠されているような感触もある。とりわけ民話的、民俗学的なモティーフにいたっては、見え隠れしかしていないことがほとんどであるし、古典といわれるものよりも古い時代に属するのかもしれないそれらが思いがけない飛躍をもたらすことで、逆に斬新な、あるいは破天荒な印象を与えることもしばしばである。
この、つかみどころのないものを、いくらかでもつかむために参考にしたいのは、スイス出身のヨーロッパ民間伝承文学研究者、マックス・リュティ(1909-1991)の『ヨーロッパの昔話』という、昔話の様式分析をおこなった書物である。
この本で論じられた昔話の特色と鏡花作品を比較することで、見え隠れしかしていない何かを、すこしは可視化できるのではないかという気がしている。『縷紅新草』についてだけではなく、先に書いた「己が命の早使い」についての話で、鏡花が作品に民話の構造を取りこんでいることに触れて、そのままにしてしまった問題も、もうすこし掘りさげられるかもしれない。
昔話の分析にかんしては、ウラジミール・プロップの構造分析『昔話の形態学』のほうが有名かもしれない。しかしこちらはリュティにいわせれば「定義」が「広すぎ」て、鏡花作品が作家個人のものに限らない小説一般に共通する記号にまで還元されてしまいそうである。とりあえず今は、視界の端にとどめるだけにしておこう。
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まず最初に断っておきたいのは、リュティがいう昔話は原語で "Volksmärchen" であって、これには日本語でいう民間伝承や民話ということばも含まれる、それどころか童唄や手鞠唄の一部もその範疇に入るのではないかという、大雑把な推測で話を進めるつもりなので、学問的には求められるだろう精度はまったく放棄している。そもそも、以下でふれる民話的な要素が鏡花独自のものなのか、あるいは江戸以前の文学にも含まれていたのかという検証にはまるで手が届かない。いい加減で場当たり的な、たんなる比較である。
ただし、なんとなくフォークロアっぽい要素だと感じたものが、どういった種類のものなのか、どこにどのくらいどうやって隠されているのかを、やや具体的にすることはできると思う。あるいは、柳田国男や折口信夫に還元できない鏡花の独創にも、たまたま目が届いたりするかもしれない。そういった、鏡花作品に隠蔽されたものに対する嗅覚を増進する効果が期待できます、というサプリメント的なものだと思ってください。
さて、昔話とは何か、について、リュティはこう言っている。
「昔話の神秘は、そこにあつかわれているモティーフにあるのではなくて、そのモティーフがどのようにあつかわれているかという、そのあつかわれ方にある。すなわちその神秘は昔話の形態のなかにひそんでいる。」
つまり昔話は、おじいさん、おばあさん、お姫様、いじめられる娘、魔法使い、ことばを話す動物、城、宝物、不思議な道具などといった、いかにもそれらしいモティーフが語られるから昔話だ、というわけではない。特殊な形態(様式、構造、語り口)が昔話を昔話たらしめているのである。
ではその、特殊な形態とはどういうものなのかというと、「目に見える孤立性、目に見えない普遍的結合の可能性、これが昔話という形の根本的標識」である。
かんたんに言えば、昔話に登場するすべての要素(人、動物、物、行為、地域、時間)は、あらゆる具体性から切り離されて孤立している。たとえばおじいさんは、どこの人でも、どの時代のどの年齢の人でもなく、だれとかかわっているわけでもないおじいさんそのものでしかない。それゆえに、世俗の因果や時代的なつながりなどのすべてを断ち切って、あらゆる現象と違和感なく結びつくことが可能である、というのである。
もちろん昔話にも、語り手によっては、地域や時代が特定できる記述が加えられることがある。あるいは共同体との関わりや、個性をきわだたせる修飾が施されることもある。しかしそれらは聞き手によって違和感として感知されて、いつのまにか原型と近い形態に差し戻されてしまう。
リュティは『ヨーロッパの昔話』という書名のとおり、ヨーロッパの昔話に限った分析を行ったのだが、同時に「ひとつの民俗の発展の過程で、ある段階になるとかならず昔話というタイプがあらわれる」とも言っている。なるほど、民衆の間で語り継がれる自然発生文学としては当然のことに思える。
ところが、驚くことにリュティは、昔話は自然発生的な伝承などではなく、原初的な作者が存在していて、運搬者たる民衆が口承で伝えて研磨するのにふさわしい形で原型的な文学形式を提供したのだという考えに傾いている。
民話、昔話というものに原作者がいるというのは意外な気がする。しかしよく考えてみると、『平家物語』や『説経節』といった、昔話に類縁性のある文学作品に口承を前提とした原作者がいたことを想像するのは容易だし、同様に偉大な口承文学は世界各地に存在する。あるいは現代にも、「博士」や「ロボット」といったモティーフに「目に見える孤立性」をあたえることで、どのような突飛な発想にも「普遍的結合」しやすい語り口を整えた星新一のような作家がいたことを考えると、もしかするとリュティの言うとおり昔話にも原作者はいたのかもしれない。
もう一つ、リュティの記述のなかで目をひくのは、純粋に独立しつつ互いに補いあう形式として、昔話、伝説、聖者伝を比較しながら論を進めていることである。このことは先にあげた『平家物語』や『説経節』と昔話の関係にもかかわってくるだろう。
伝説も聖者伝も本来的には昔話と同じ口承文学なのだが、まず聖者伝にはあらゆるものごとに意義をあたえ、あらゆる要素をキリスト教の教義に還元するという特殊な目的がある。日本でいえば、仏教の唱導がルーツにある『説経節』は、それに近いものだろう。昔話という形態の文学は、そのようなイデオロギー的目的や地域性、民族性を持たない。アジアで作られた昔話が、モティーフとなる一般名詞を交換するだけで、ヨーロッパに流布することも容易である。
伝説の場合は、そこで語られることが真実であること、偉大であることを伝えることを目的とするので、人、動物、物、行為、地域、民俗、時間、あるいは個性や感情など、そしてそれらすべての間の相互関係の詳述がつねに増大傾向にある。たとえモティーフが共通したとしても、昔話とは正反対の指向性を持つ形式だといえる。また、その性質からして伝説は、科学的な記述との親和性が高い。
ここからは個人的な想像も混じってくるのだが、小説というものは、伝説の延長にあるのではないだろうか。
最初は、たとえばオデュッセウスのような神話的、英雄的人物を讃える目的を持った素朴な伝説という文学形態であったものが、近代に入って科学と結びつき、書簡形式や詭弁術や決疑論などを取りいれることで、独自の洗練を遂げたものが小説なのではないか。英雄を英雄として扱うのは歴史書、評伝といったさらに科学的なジャンルに移行し、伝説の複合的進化形態である近代小説は、ロビンソン・クルーソーやトム・ジョウンズ、紳士トリストラム・シャンディ、エマ・ボヴァリーなど、市井の人物の人生を語るようになった、などと膨らむ空想を抑えるのは容易ではない。
キリのない妄想にはさっさとケリをつけるとして、さて、ここからは予告したように、リュティが定義するヨーロッパの昔話と、日本の民話、わらべ唄、手鞠唄(あくまでも原型的なもの)を一緒くたにするという乱暴狼藉をはたらきながら、鏡花の小説から「昔話的な特徴」を拾いだしてみたい。上にあげた大前提を具体例に則してのべた各論として、リュティが示した昔話の様式的特徴を(鏡花作品と比較するという恣意的な目的をもって)列挙すると、次のようになる。
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( 「・」以下はリュティの主張、「→」以下はそれに該当する鏡花作品の例。鏡花作品の事例は、全作品からまんべんなく採取したわけではなく、自分の記憶に新しいものから取っただけなので、都度、書き加えることになるかもしれません。)
・昔話は一次元性(彼岸と此岸が一つであるという性質)をもつ。彼岸の住人である超越的な者との接触は人間に異常な戦慄をあたえるが、昔話では自分と彼岸者の隔絶はない。
→『春昼』や『草迷宮』を挙げるまでもなく、彼岸との接触(少なくともその気配)は、鏡花作品に必須のモティーフである。また主人公が平静にその状況を受け入れる例も多い。
・昔話は精神的に区別されたものを一本の線の上に投影し、内的なへだたりを外的な距離によって暗示する。
→たとえば『由縁の女』では、求める女性との内的なへだたりが川を遡る距離に置きかえられる。
・昔話では登場者の内面性が欠如し、空間、時間が平面化した語りをもつ。
→多くの鏡花作品では、空間・時間が細かく分断され、それらを自由に往来する語りによって、現実の意図的な平面化が進められる。
・昔話は登場者の肉体についても、ただ表面だけを見ているだけである。
→鏡花作品では内面描写よりも衣服、外面的特徴、細かい挙動の描写がはなはだしく優先される。
・昔話では、たとえ肉体の一部が欠損したとしても、次の瞬間にはもうふたたび回復している。
→『幻の絵馬』では、ヒロインは指を噛み切られて多量の血を流すが、その後指の欠損について語られることはない。
・昔話では登場者の感情や性質が直接語られることはまれである。彼らの性質は、その行為によって語られる。あるいは、彼らの特質は、その反応の仕方が次の筋につながる場合のみ示される。
→たとえば『草迷宮』に登場する狂人、嘉吉のエピソードなど、個人の性格悲劇がストーリーをつなぐためだけに置かれることもある。
・人間内部の豊かな分化が、昔話のなかではとけてなくなってしまっている。一人について一つの行動だけが行われ、複数の行動は同一平面上に並ぶ他の登場者に分与される。
→鏡花の作品中でも、登場人物はそれぞれ、ただ一つの行動原理を振りわけられ、べつの局面では新たな人物が登場する。
・決定的な話のすじの主導権は、主人公の「情熱」ではない。外的刺激のみが登場者を前に押し進める。
→鏡花作品が最後に主人公の性根が明らかになるといった構成をとる場合、そこに至る直前まで、主人公の行動の理由は外的刺激(たとえば『天守物語』では主君への忠義)にあることが強調される。
・昔話は感情の世界をのべることはしない。昔話はそれを物語のすじのなかにおきかえ、内的世界を外的事件の平面へと移しかえる。
→鏡花作品の普遍的特徴である。たとえば『註文帳』では、叔母が主人公を心配する気持ちは心理描写によってではなく、鏡というモノに託され、さらに鏡の来歴を語るエピソードに分岐する。
・昔話は内的世界をもっていないばかりではなく、周囲の世界ももっていない。
→そもそもこれがなければ小説は小説たり得ないのだが、遺作の『縷紅新草』が指し示す鏡花作品の行き着く先は、このような境地なのかもしれない。
・昔話の主人公は、肉親関係のなかに深く埋められることがない。また、登場人物相互のあいだには、固定した永続的関係は存在しない。
→他者との関係によってプロットが組まれた小説である以上、鏡花作品の、此岸の側の登場者にとっては、まさに対極的な特徴である。しかし多くの物語では最終的に、主人公は周囲との関係性を断ち切って、完全な己の世界への没入、あるいはヒロインとの一体化へと向かう傾向にある。
・昔話に登場する魔法の贈りものは、主人公に快適さや満足をあたえたり、職業上の助けとなるような役目はしていない。そもそも主人公は職業の名があがっているときにも、じつはその職業をしてはいない。
→たしかに、鏡花作品の主人公が肩書きの仕事にはげむ様子はめったに描写されない。また、呪物に類するものを手に入れても、また誘いをかけられても、それを私欲のために活用することはない。むしろ活用できなかった悲劇(『註文帳』)が好まれる。
・昔話では時間的な奥行きの欠如が顕著である。たとえば魔法から目覚めても同じ年齢、姿であり、目覚めてのちも、言動や衣服の古さが問題にされることはない。
→『由縁の女』のお楊に顕著なように、主人公が母に重ねるヒロインは、時間が経過してもつねにかつてのままの容色を保っている。
・ドイツの昔話は彼岸者を好んで「老人」あるいは「老婆」として主人公のゆくてに登場させる。
→鏡花作品ではしばしば、超越的な力をもった老人、魔界に属する醜い悪婆が登場する。
・昔話は固形物を好むという性質をもつ。そこには物質的な固形だけではなく、制止した老い、永遠の青春といった時間的な固形も含まれる。
→鏡花作品では気体、液体などの流体や、やわらかな草花が好んで描かれるが、怪異の象徴となるモノは、鐘(『夜叉ヶ池』)、剃刀(『註文帳』)、碁石(『紫障子』)、茱萸(『朱日記』)などなど、固体化の傾向が著しい。
・昔話ではあらゆる形態変化は機械的に突如としておこなわれる。それは発展と加成性、成長、衰微、総じて時間が経過したという感情を起こさせない。
→鏡花作品では倒叙や時間の飛躍によって、登場者の死、発狂、けがや病気、あるいは彼岸者としての見顕しは、すでにそうなったものとして、読者にいきなり示されることが多い。
・昔話では、精神的、霊魂的意味においても奥行きのある構成が放棄される。まるで魔法をかけたように、相互に内的関係をもっていたもの、または前後関係であったものが並列の関係にならべかえられる。
→たとえば『ピストルの使い方』では、叙述の奥行き深く縦列していた登場者たちが、終幕において一気に並列する。
・昔話は話のすじの発展を楽しむものであって、図形的登場人物をある点から次の点へと導いていくばかりで、描写のためにどこかに立ち止まることはしない。
→鏡花作品での点(その場の情景)の描写は執拗に停滞するが、それを点ととらえた場合の点から点への場面転換は魔法のように素早い。
・昔話は、金・銀・銅など、高貴でまれなものを好む。あるいは、澄んだ超原色、ことに白・黒・赤を好む。
→鏡花作品の文飾全般に当てはまることであるが、ことに彼岸との接触では赤(朱、紅、血)が強調される。
・昔話であたえられる課題は、しばしば三つである。成功は二度失敗したあとの三度目におとずれる。
→『草迷宮』に登場する葉越明の三人の幼なじみの娘、『由縁の女』のお光、露野、お楊の三人の女にみられるように、鏡花もまた、三度くり返して核心にいたるというパターンの語りを好む。ただし昔話に現れるほどそれに縛られるわけでもないのは、あまりにも素朴であからさまな昔話的ファクターとして、故意に避けているのかもしれない。
・主人公はいつも、当面する課題の解決ができる彼岸的人物か、あるいはその解決に必要なものを知っている彼岸的人物にぴたりと出くわす。彼岸的人物は、話のすじの当面する場面で知っていなければならないことはかならず知っている。
→目立つところでは『天守物語』の名工桃六、『由縁の女』の隠亡の親方前塚権九郎だが、主人公が困難な状況を打開する人物と出会うべくして出会うように話が仕組まれる例はとても多い。
・昔話に登場する魔法の道具は、しばしば包括的な力をもたない。それは、それ自体としてはなんの興味もひきおこさないたんなる援助道具でしかなく、話のすじのなかの、まったく特定な場面を克服するためだけに使われる。
→興味をひきおこさない対象ではないが、『幻の絵馬』の木菟の使われ方などは、最もそれに該当する。『註文帳』の鏡のように、せっかくの魔法の道具が使われない、というひねりが加えられることもある。
・魔術は、霊魂の緊張と不可分に結びついている。魔法は呪術でよびだすことによって、すなわち意志の活動によって実現される。ところが昔話では、ほかならぬその意志の活動が感じられない。
→たとえば『幻の絵馬』では質屋の手代の佐兵衛が傘でヘチマを突くことが一寸法師登場の合図になる。『草迷宮』では西瓜を割る行為が怪異現象を呼びおこす。呪文の代わりになるのは、いつもなにげない(しかし歌舞伎のツケの音を伴うような)日常動作である。
・昔話では、同じことが起きたら、同じことばでくりかえす。また、くり返しのことばやできごとは、関節的結合機能をもつ。構造全体の特性が構造の各部分に反映し、最終的には個々のことばの使い方にまでおよんでいる。
→近・現代に属する文芸小説において、さすがにあからさまな地の文のくりかえしは多用されない。しかしたとえば『縷紅新草』では、赤蜻蛉の囃し唄が関節的結合機能をになっているのだし、そこで使われることばや連想が小説全体を循環するのは、鏡花の小説の常道である。
・昔話では、あらゆる極端、ことに極端な対称が好まれる。また、あらゆる極端なものの真髄、抽象的様式の究極の頂点は奇跡である。
→聖と賎の対称的な並列と、そこから導かれる怪異は、鏡花作品全般に見られる。
・昔話のすじは、はっきり見ることのできる線を一本もっているだけである。この単線性は必然的相対概念としてのすじの多岐性にいたる。昔話のすじの細い線は、多数のエピソードによって生命を得る。登場人物相互のあいだの内的関係や共同関係はいずれも分解され孤立化されて、話のすじに投影されて前後関係となる。
→多くの鏡花作品の前半部分は、エピソードの多岐化、時間の分断化に費やされる。後半では孤立したそれらが、驚異的な語りによって一本の線に整列する。
・昔話のなかの登場者やものは、固い、形を変えることのできない、孤立的な物質でできている。それは貴金属、ひとり子や末っ子、親なし子などによっても表される。
→鏡花作品の登場者、とくに主人公は、母を失った子、肉親との縁が切れた子、社会から隔絶された者など、なんらかの孤立的特徴をおびており、そこから派生する性質は最後まで固定される。
・昔話の登場人物は体験を蓄積しない。いくら同じ質問をくり返されても、推理・比較などをしない。これは、稚拙さや不器用さのためではなく、昔話のあらゆるものに浸透する孤立的様式の高度な洗練のためである。
→鏡花作品においては、たとえば『草迷宮』の手鞠唄に対する執着、『幻の絵馬』の人形愛、あるいは初期の観念小説にみられる職務的正義感や封建的因習への盲従など、あまりにも不自然な情熱がこれにあたるのかもしれない。
・昔話は偶然を知らない文学である。機械的にぴたりとタイミングを合わせる精密さをつねに備えている。われわれは、偶然に起こったそれを「仕組まれた」とも感じないし「偶然」とも感じない。なぜならそれは、昔話全体を一貫して流れている様式に完全に一致するからである。
→初期の『琵琶伝』で示されたような、機械的精密さと堅固な対称性によって偶然を必然とする作品構成は、後年のより豊かな語りにむけて馴致されながらも、基本的な小説作法として一貫して採用されている。
・昔話では、すべてがおなじように近く、おなじように遠い。すべては孤立していて、それだからこそ普遍的に結合する能力がある。
→鏡花の小説では、主人公の孤立、エピソードの分岐、時間軸の錯綜、などが意図的に、ことばの細部にまで至る力を借りておこなわれることで、終幕のあり得ないものの普遍的結合が実現している感がある。
・昔話の主人公が贈物や、彼岸者の忠告などを受けられる理由は、主人公だから、でしかない。あたかも主人公は、世界と運命を形成している秘められた力やメカニズムと、目に見えない接触をたもっているかのようである。
→鏡花作品に限らず、ファンタジーが隆盛する現代では、むしろ一般的に思える傾向である。
・昔話ではしばしば、口承の欠陥から、ひとつのエピソード、個々の部分が忘れられた結果として、完全に見えなくなったモティーフが存在する。しかも見えなくなったモティーフは、新たな目的をあたえられることも、削除されることもなく口承され続ける。固定した形式的な様式が、その余計なものを捉まえて離さず、自由に宙に浮いたまま、ひそかに働いている合法則性を暗示する。
→これはまさしく『高野聖』で一つ屋の美女が僧に向かって、けっして都の話をしないようにと誓わせるモティーフに該当する。もともとは民話に典型的な、禁止事項を破るという「鶴女房」のような原構想が執筆時に破棄された結果、変更前の設定の一部が残ってしまった作品のキズのようにいわれる部分である。鏡花の不注意だったのか、意図的なものだったのかは不明だが、結果的には「ひそかに働いている合法則性を暗示する」魅力的なモティーフとして機能している。
・昔話のモティーフは、それ自体としての輪郭のはっきりしたものであるが、常にある世界を指示している。その世界とは、全体としての叙述がなされることのけっしてない世界である。
→鏡花作品においてもまさに同様に、ある世界(異界、彼岸)の全体は示されることがなく、その一端が垣間見えるだけである。いや、むしろ民話的な様式感そのものが彼岸の暗示として使われているのかもしれない。
・昔話の主人公は、孤立性と、普遍的・潜在的結合、および潜在的結合解除能力をもつ。多くの線の交点に立ち、全体から課された要求を、盲目的にみたす。
→多くの怪談的な趣向をもった鏡花作品(たとえば『袖屏風』)では、からみあった因果の交点として主人公と異界の悪との対決が最後に置かれることになる。その時点ではもはや、勧善懲悪的な意図は消滅しているように見える。
・昔話はあらゆる領域から、その役割や意味を解放し純化することでモティーフをとりうる。
→じっさいに鏡花作品では、たとえば『風流線』でみられる執筆当時の三面記事的な時事など、想像を越えた幅広い要素が鏡花的なモティーフとして取りいれられている。
・昔話は世界のあらゆるものや現象を自己のなかに包含できる含世界性をもつ。そればかりか、人間の目には見えないこの世界の原理をも示している。
→まさに『草迷宮』での、秋谷悪左衛門の主張である。
・昔話では、超越的なものはすべて消滅してしまっている。超越者があたえるような恐怖・不気味さ・漠然とした暴力のつかみどころのなさはよびおこされない。
→鏡花の描くものが怪談である以上、これはまったくあてはまらない。しかし、主人公が彼岸の側に片足を踏み入れている場合(たとえば『紫障子』)、無気力に怪異を受け入れることもある。
・性的またはエロティックな素材も、昔話においてはおなじように非現実化されている。エロティックな問いかけも、正しく理解されず、無邪気に受けとられる。
→『湯島詣』『註文帳』『草迷宮』『日本橋』など、男性主人公に超俗的な性質が付与される場合、エロティックな誘惑は不自然なほどに無視される。
・昔話では刺激的なセンセーションも、他のモティーフとおなじように落ちついて叙述される。
→鏡花作品でも彼岸的な状況が加速した局面では(たとえば『山吹』や『鷭狩』)、アブノーマルな状況が淡々と記述される傾向にある。
・昔話では善は同時に美しく、悪は同時にみにくく、かつ成功しないという通俗的観念は、条件つきでなければ通用しない。
→『天守物語』や『海神別荘』など、彼岸の世界に主軸を置いた作品ではとりわけ、美醜の逆転、モラルの無効化が強調される。
・昔話ではあらゆるモティーフが中身を抜かれる。その結果として、具象性や現実性、体験と関係の奥行き、微妙な変化や内容の重みが失われ、形の固定性や清澄さ、中身を抜かれたことによる純化が得られる。
→鏡花作品ではモノが呪物としての性質を顕すとき、本来の機能からの逸脱が記されることがある(たとえば『紫障子』で、碁石が試金石として使われた痕跡を発見したとき)。それ以降、モノは本来の役割を果たさず、純粋な呪物となる。
・昔話は主人公の脇に、コントラストのための人物をおくのを好む。
→鏡花作品のほぼすべてにみられる、典型的な人物配置である。
・彼岸モティーフは昔話のなかにおいて優遇されている。超越的なものが現実の人生のなかで演じている、まったく別な世界との葛藤によって、存在の決定的両極(狭さと広さ、制止と運動、規範と自由、単一性と多様性)を調和させるという役目にぴたりと相応する。
→別世界での葛藤が、現実世界で直面する問題にぴたりと相応する状況も、『註文帳』や『天守物語』『夜叉ヶ池』など、多くの作品でくり返し描かれている。
・昔話には残酷な犠牲儀式へのぼんやりとした回想も残っている。
→これを、鏡花生来の被虐・加虐嗜好と分化するのはむずかしい。
・昔話は魔法について語るばかりでなく、昔話自身が魔法をかける。それは現実が精神やことばに対して要求しているようにみえる解放をなしとげる。昔話は世界を浄化し、霊化する。
→すなわち、鏡花作品すべてのことでもある。
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鏡花作品は、自然主義の勃興と対立した浪曼主義という文学史的な立ち位置から、近代小説の圧力に対して近代が切り捨てた日本文学の伝統を対置させたものだととらえられることが多い。
だが、鏡花作品全般にまんべんなくちりばめられた「昔話的な特徴」に注目すると、むしろ鏡花の小説は、近代と前近代の絶妙な複合物と、民俗学が取り扱うような文芸の古層に属する要素との対立から成り立っているのではないか、「近代 vs 前近代」ではなくて、リュティの用語でいえば「伝説 vs 昔話」という、一回り大きなスケールで眺めなければ見えてこないものがあるのではないか、という気がしてならない。
たとえば鏡花の小説の常である、前半部分の執拗なエピソードの分節化、時間軸の錯乱、古代から現代までにいたる語彙や比喩を駆使した文飾は、読者からすればやっかいきわまりない代物である。しかしこれを、人物、モティーフの昔話化のための布石だと考えると、後半部分で発揮される一気呵成なストーリーの疾走感は、手間をかけて昔話化された要素の、根源的な様式回帰に向けた結合の力によるものだと理解できる。
そして多くの鏡花作品では、最後の最後に、昔話から伝説への再反転がなしとげられる。夢見心地なテンポで軽快に進展するストーリーが必然的な結末を迎えた瞬間に、主人公たちの死や心中など、残酷な現実が突きつけられる。あるいは再転換をわざとらしく放棄することで、あっけにとられるデウス・エクス・マキナ的なハッピーエンドが出現する。
つまり鏡花は、物語の昔話化を目指しているわけではなく、伝説と昔話のはげしい落差を利用したドラマを組み立てているのではないか(念押しをしておくと、ここでいう昔話とはリュティの定義による昔話の様式や構造のことであり、伝説とは、伝説から複合的に進化した近代小説までを含む概念だと考えたものである)。
鏡花との活動が重なる時期に近代文学の旗手であった芥川龍之介が『鼻』や『羅生門』といった作品で、あるいは少しあとの世代に属する太宰治が『お伽草紙』や『新諸国物語』といった作品で試みたのは、前近代的な物語に近代的な心理や自我、合理性を肉づけすることで、昔話から伝説を削り出す、あるいは伝説を近代小説に進化させるという、いずれも単線的な創作だったことを考えると、鏡花の天才ぶりとその方法の独創性があらためて際立つように思う。
じっさいに鏡花の小説を読んでみると、そのほとんどは、土地や自然環境の特殊化、登場者の履歴、事物の由来、地域との結びつきなどを詳述する、反昔話的な、むしろ伝説の語り口そのものである記述で埋めつくされている。その圧倒的な量と質によってほとんど目立たなくなってはいるが、リュティがいうような「そのあつかわれ方」のきわめて昔話的な特徴は、どの作品にも巧妙に隠されている。
いったい鏡花はどこから、そのような昔話にかかわる特殊な感覚を習得したのか。幼少期に母親から草双紙の絵解きをしてもらった記憶と、「小学校に入る頃……町内には娘たちが多く、そんな娘たちから、土地の口碑伝説などの話をしてもらうことが多かった」(巌谷大四『人間 泉鏡花』)という経験が重なりあった結果なのかもしれない。物語にかかわる、忘れがたい二種類の経験を比較することで、記憶のなかで何度も反芻しただろう近世的な物語から昔話的な特徴を帯びた語りを峻別する能力が磨かれ、昔話的な様式を示すトリガーに敏感な性質がはぐくまれたのかもしれない。
そして、鏡花がつねに深刻に受けとめ続けた、年齢を重ねるたびに次々と迎えた近親者の死は、作家自身を昔話の最も重要な様式である「目に見える孤立性」に追いこむことになり、その影は作中の主人公に色濃く反映されていく。
鏡花の初期には、いわゆる「観念小説」という、どうにも扱いに困る小作品群があるのだけれど、これらは潜在的には、近代小説をどこまで昔話化できるかという試みだったと考えると、得心できるものがある。以後の鏡花作品の円熟への道程は、『琵琶伝』や『海城発電』のような作品でギリギリまでさらけ出した昔話的な様式を、作品に埋めこみ、包み隠す技巧の洗練と歩みを一つにしているのではないか。
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最後に『縷紅新草』についていえば、そもそも題名の縷紅新草とは、ヒルガオ科の草花、縷紅草の新種を意味する鏡花の造語らしい。作中で亡くなっている女たちを縷紅草にたとえたがそれを題名とせず、生きている女であるお米を縷紅新草だとして、不在の彼女らを暗示する、という心持ちだろうか。
さて、作中の主人公の辻町糸七とその従姉の娘であるお米は、終始彼岸の世界になかば埋没している。幽霊蜻蛉がでたと騒いでいる寺男の老人に対しても、「何だい、今のは、あれは。」という程度の軽い関心しか示さない。
彼岸の側もまた、東京の都会に赤蜻蛉の群を飛ばしたり、遠くの空にふたりの女の幽かな幻影を浮かばせたりと、静かな気配を漂わせるだけである。先に挙げたような、伝説と昔話の落差を利用したドラマはほとんど消滅している。
その結果として、小説の冒頭に置かれ、全体のちょうど中央でくり返された赤蜻蛉の戯れ唄は、一人の女工の命を奪ったいじめ事件の証拠品として、構成的な機能を失ったまま、宙に浮いている。しかもこの戯れ唄には、二、三行の欠落があるのだという。
ドラマの枠組みが整然と整えられ、ドラマの要となる定位置に昔話的なファクターが設置されているにもかかわらず、ドラマ作りは放棄され、重要なファクターは機能せず、しかもその中央には欠落がある。読者の視線は必然的に、しかし静かにぼんやりと、戯れ唄の欠落部分に、すなわち、女工を入水自殺に追いこんだ最も酷いことばが書かれていたのだという部分に誘導される。
謎めいたという印象さえ感じられないほどに、それ以上のことはほとんど何も示されていない、静謐そのものの作品に対して、その先に思いを馳せるには、多少の穿った見かたをするしかない。
『縷紅新草』という小説はもちろん、そこで描かれた女工によせた哀歌である。しかしそれと同時に、これまで鏡花が奪ってきた多くの登場人物の命に向けた鎮魂の詩のようにも思える。いつものように鋭く的を絞ることなく、ピントをぼやかしたままの結末が、どこに向けられているでもなく、全体を照らしているからだろう。
いや、そもそもその命は、此岸の法則に背いたドラマ作りによって、あるいは二、三行ほど書き添えたことばによって奪われたのだから、鎮魂の対象と考えるべきは、これまで作品中で使いつくしてきた技法や文飾そのものだといってもいいかもしれない。ちょうど、妙にひねって、そこにないものを示した題名と同じように、いつも通りになすべきことをなさないことによって、それらが暗示されているのだとすれば、この遺作は、真の意味で鏡花にしか書けなかった作品だといえる。
鏡花が書いてきた、彼岸と此岸の激烈なドラマをしばらくふり返ってみたあとでは、なおさらそう思えてしまうのである。
マックス・リュティ『ヨーロッパの昔話 その形と本質』(2017、岩波文庫)
巌谷大四『人間 泉鏡花』(1988、福武文庫)