第七話 中学校
帰って来たのだ。
私の思い出の中の、中学校に。
私は手のひらを眼前にかざし、まじまじと眺めた。
高校生になった今も、あの頃と、そこまで身長も体重も変わっていない。だからさほど違和感なく、すんなりと中学時代の自分を受け入れられた。
やった。胸の奥からゾクゾクとした喜びが湧き上がって来た。成功だ。夢の中とはいえ、楽しかった中学時代に無事戻ることができた。まるで秘密基地ができたかのような高揚感。姉にも内緒の、私だけの秘密基地だ。
油断すると空まで飛んで行きそうになる心を押さえつけ、私は足早に教室に急いだ。自転車小屋に並ぶたくさんのママチャリ。泥臭い靴箱の匂い。『清く正しく美しく』と大きく書かれた、誰も見てない啓蒙ポスター。何もかもが懐かしくて、私は首を伸ばし辺りを何度も何度も見渡した。
「宏美ちゃん!?」
教室の扉を開けると、今は懐かしき旧友の面々が、熱烈に私を迎え入れてくれた。
「宏美、久しぶり!」
「うわあぁあっ、宏美ちゃんだぁ〜!」
私はその中に飛び込み、みんなと抱き合い、思わず頬を緩めた。
……もちろん、現実ではこうはいかない。
彼女達はあくまで私の夢の中、思い出の中のヴァーチャルな存在だ。みんな、私に都合よく存在しているし、だからこそ、涙を流さんばかりに歓迎してくれる訳だ。それがこの『中学校』が流行っている理由でもある。
『ヴァーチャルリアリティ』。
この『VR思い出補正』シリーズには『中学校』以外も、『一家団らん』だとか、『南国リゾート』なんてのもある。暖かく迎え入れてくれる居場所、理想の友人、恋人に家族まで……『ヴァーチャルリアリティ』の技術で補おうという人気シリーズだった。傷つけ合うことの多い現代では、誰もが癒しを求めていた。
私はしばらく、再開した理想の友人達とたわいもない話で盛り上がった。そう、これが私の求めていたものだったのだ。群れの中、みんなの輪の中に居られるという安心感。思春期独特の横社会で、フラフラとはぐれそうになっていた私を、『VR』は見事に救ってくれた。
「宏美ちゃん」
不意に後ろから声をかけられ、私は思わず背筋を伸ばした。
「おぉ……!」
振り返ると、中学時代私が好きだった南くんが、私に爽やかな笑顔を向けていた。『思い出補正』のせいか、当時よりもうんと背が高く、顔も数十倍(失礼)カッコよく見える。彼の姿を見た途端、心臓が金魚みたいに跳ねる音が聞こえた。
「宏美ちゃん、久しぶりだね」
南くんがさりげなく私の頬に手を添えた。私の目は思わず彼の瞳に吸い寄せられた。
「あのさ、良かったら、今日一緒に帰らない?」
そう言って、南くんはつぶらな瞳をキラキラと光らせた。
え? 「そんなバカな」って?
登校初日から好きな人に誘われるって、そんな都合のいいことは起こらない?
そんなことないよ。だってここは夢の中、全て私の都合のいいようにできているんだから。
「ちょ……っ、宏美、大丈夫!?」
危うく腰が抜けそうになった私を、南くんがぎゅっと抱きとめる。その瞬間、時が止まった気がした。あぁ……神様。私を今日まで生かしてくれてどうもありがとうございます。この喜び、ぬくもり。私はこれから生きとし生ける全てのものに感謝をこめ「帰ろうか」南くんがそっと私の耳元で囁いた。私は顔を赤らめながら小さく頷いた。それから私達は手を繋ぎ、踊るようにして学校を後にして……。
「しまった……!」
……そこで突然目が覚めた。
そうだった。
『VR中学校』はあくまで校舎内での出来事だから、学校の外に出ると夢から覚めてしまうのだ。『VR』から抜けると、現実はもう明け方近くだった。夢の中では楽しすぎて、一瞬のように感じられたのだが。まだ気分が昂まって、胸がドキドキしている。こんなに笑ったのはいつ以来だろう。こんなに良いものを独り占めしている姉が、少し意地悪に思えて来た。少し生暖かくなった『中学校』を、私は冷蔵庫ではなく、自分の枕の下にそっと戻した。
□□□
「どうしたの宏美、最近ぼーっとしちゃってぇ」
「え? うぅん……なんでもない」
不意に母から声をかけられ、リビングにいた私は上の空で生返事した。母が少し心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫? 熱でもあるんじゃないの?」
「なんでもないってば」
「そういえば、高校の先生から手紙来てたわよ。それから友達からも……宏美?」
私は返事しなかった。母の視線を振り切り、急いで自室へと逃げ込んだ。
「宏美? ねえ、宏美?」
「放っといて!」
母が追って来て扉を叩いた。思わず怒鳴り返してしまう。入ってこれないようにしっかりと鍵をかけた。暗がりの部屋の中に佇み、息をひそめる。
「宏美……」
しばらくして、叩く音が止んだ。悲しげな母の顔が頭に浮かぶ。少し胸が痛んだ。
だけど正直言って、鬱陶しかった。母も、姉も、私に現実を振りかざす何もかもが。最近は現実の高校なんかより、『VR中学校』のことしか考えられない。全てが自分に都合よく進む空想の世界に比べると、私以外の大勢がひしめく現実はちょっと世知辛い。無理して戻る必要もないんじゃないかと思えてくる。だって誰もが私を暖かく迎え入れてくれるとは限らないし、何なら傷つくことの方が多い。一昔前、ゲームやらネットやらに夢中になっていた古代人達の気持ちが、少し分かる気もする。
ごめんなさい、お母さん。でも私、勉強よりも大事なものを見つけたの。
私は充電しておいた『中学校』を取り出し、何もかも投げ捨てて、急いでその中へとダイヴした。
□□□
「宏美ちゃん」
「宏美ちゃん、元気?」
「宏美ちゃん、今日も可愛いね」
「ずっとここにいていいからね、宏美ちゃん」
教室に駆け込むなり、あっという間に友達に囲まれた。途端に顔が綻んだ。
ここでは誰もが、私の言って欲しい言葉を湯水のように注いでくれる。ずっとチヤホヤしてもらえる。『中学校』にいる時、私は現実のどこで誰といる時よりも上機嫌だった。いっそ本当に、ずっとこの中にいようかなとも思う。この中なら、私は永遠に若いままだし。スパコンのサーバールームみたいに、常時中学校を冷やしてもらって、食事は母に運んでもらって……。大富豪の中には、きっと一日中『VR』の中で暮らしている人もいるんだろうな。私ならそうする。だって現実なんて、忘れたいことだらけだもん。
それから季節は夏から秋になった。
時間はどんどん前へ前へと進んで行く。だけど私はまだ、高校よりも中学に夢中になっていた。
変化が起きたのは、九月も中頃になった辺りだろうか。
その日も私は、思う存分『中学校』しようと浮き足立っていた。スーパーで業務用のドライアイスを買い込んで、厳戒態勢で妄想に臨む。起動すると、いつも通り夢の中で校庭に降り立った。空は青く、私を歓迎するかのように晴れ渡っている。はやる気持ちを抑えきれず、急いで教室まで駆けて行った。
「あれ……?」
扉を開ける。
そこで私は異変に気付いた。
いつもなら、暖かく迎えに来てくれる友人達がいない。教室の中はシン……と静まり返っていた。
その代わり、私の席に見知らぬ人が座っていた。私は眉をひそめた。
「貴方、だれ……?」
妙な格好をした人物だった。
古代人みたいな着物に、ヘンテコな帽子と黒いマスク。それに教室の中だと言うのに、ブーツを履いたままになっている。こんな変な人は、私の知り合いにも、思い出の中にもいない。変人が私の方を見た。目元が前髪で隠れ、人相もよく分からなかった。もしかしたら、プログラム上の欠陥か何かだろうか? 私は思わず目をこすった。
「これって、演出……? 貴方、本物の人間なの?」
「私が本物なのか? 偽物なのか?」
黒いマスクの変人が、ゆっくりと席を立つ。私は扉の前で体を強張らせた。
「そもそも人物なのか? それとも如何物なのか? よく聞かれますですがいいえ、どちらも違います。えぇ、違いますとも。私は……」
黒マスクがニィィ……と頬を釣り上げるのが分かった。私は息を飲んだ。突然目の前に現れた異物から、目が離せなかった。
「私は『考え物』です」