第五話 如雨露
「未来が視えないってどんな感じなの?」
明日佳ちゃんが転校してきて、およそ一週間が過ぎた。
その日、明日佳ちゃんはクラスの誰とも喋らず、放課後になるとさっさと席を立って教室を出て行ってしまった。気がつくと、私は明日佳ちゃんの動きを目で追っていた。定規のようにまっすぐ伸びた背中は、凛々しくもあり、だけど誰も寄せ付けないような険しさもあった。
明日佳ちゃんの行き先を探すまでもなかった。私には彼女が中庭の花壇にいる未来が視えたからだ。
中庭では数名の生徒がベンチに腰掛けたり、ふざけ合ったりして、和気藹々とした雰囲気だった。その和気藹々とした雰囲気から一人遠く離れて、右端の日陰になった部分に、明日佳ちゃんがかがんでいるのが見えた。私は彼女の背中に近づき、そっと声をかけた。
「明日佳ちゃん」
「……何?」
明日佳ちゃんはこっちを振り向きもせず、つっけんどんに答えた。私たちはしばらく無言で、会話が続かなかった。それで、私は明日佳ちゃんに「未来が視えない」のがどんな感じなのか聞いてみたのだった。
「未来が視えないってどんな感じなの?」
「別に……視えないからって、困ったことなんか無いわ」
冷たい声が中庭の片隅に転がった。
明日佳ちゃんは小さな赤い如雨露を右手に持ち、まだ芽の出ていない花壇に水をやっていた。こちらを見ようともしない。ツンと澄ました横顔は、どこか怒りすら感じさせる。
話しかけないで欲しい。
一人きりにして。
そんな空気が嫌というほど伝わってくる。私は恐る恐る彼女のそばに腰を下ろした。同じ目線になりたかったのだ。日陰に晒されたコンクリートから、ひんやりとした冷気が足元を撫でる。
「でも、明日何が起こるか分からないって、不安じゃないの?」
「いいえ。何にも不安なんかじゃない」
「だって、分かってた方が楽しいじゃない? 嫌なことなら、ショックも少ないし……ねえ」
私は明日佳ちゃんの横顔を覗き見た。自分では、とびっきりの好意のつもりだった。
「何なら教えてあげようか? その花も、来年には……」
「やめて!」
その瞬間、明日佳ちゃんは大きな声で叫んでいた。盛り上がっていた中庭が急にシン……と静まり返った。明日佳ちゃんは立ち上がった。
「……知りたくもないわ。そんなこと」
「ごめ……」
私が謝る前に、明日佳ちゃんはさっさと私に背を向けて中庭から出て行った。一人取り残された私は、ただ呆然と彼女の背中を見つめるしかなかった。しばらくしてからやっと、私は彼女を傷つけてしまったのだと気がついた。
そんなつもりはなかった。
本当に、自分では好意のつもりだった。
未来が視えない人は、未来を視たがるものだと勝手に思っていた。
目が見えない人は、目が見えるようになりたいのだと。
生まれつき足がない人は、歩けるようになりたいに違いない、と。
可哀想だ、と。
そんなよくある憐れみが、明日佳ちゃんの心を傷つけた。
視たいとか、視たくないとかじゃなく。
私の軽率な同情が、明日佳ちゃんにとってはきっと鬱陶しかったに違いない。私は明日佳ちゃんと同じ目線になりたかったけれど、気づかないうちに、自然と上から目線になっていたのかもしれなかった。明日佳ちゃんはそんな私を嫌った。彼女は気高かったのだ。
私は明日佳ちゃんが今までどんな気持ちで、どんな風に生きてきたのか、想像もしていなかった。たとえ未来が視えたって、人の過去までは覗けない。
やがて中庭には何事もなかったかのように活気が戻った。私はしばらくその場にうずくまっていた。私の手元には、小さな赤い如雨露だけが残された。
次の日。
またその次の日。
そしてその次の日も、明日佳ちゃんは勉強の合間をぬって中庭に通っていた。
私もそれからずっと、明日佳ちゃんのそばに付きまとった。雨の日も風の日も、明日佳ちゃんが芽が出ない花壇に水をやるのを、隣で見守っていた。ある時は傘を差し、またある時は鼻歌を唄ったりして。迷惑だったかもしれない。だけど私は、彼女の隣にいたかったのだ。
そしてまた一週間が経った。季節はいつの間にか六月になり、中庭にも淡い色をした紫陽花が目立ち始めた。その日は、傘を差さなくても良い細やかな雨が降っていた。
「どうして私と仲良くしたいの?」
中庭には私たち以外誰もいなかった。その頃になると、さすがに明日佳ちゃんも折れたのか、だけどツンとした態度は崩さず、私にポツポツと声をかけるようになった。
「未来が視えるから? 私と仲良くなるのは決まってることだから?」
「ううん……」
私は首を振った。どう説明したら良いのか分からない。最近私は、極力明日佳ちゃんとの未来を視ないように心がけていた。視えようとしたら、さっと視線を逸らす感じだ。どうしてそんなことをしているのか、私にも上手く説明できない。ただ私は、彼女のことをもっと知りたいと思ったのだ。
「やりたいこととか、他にないの? 貴方……」
「小和だよ。葛藤小和」
「葛藤さん」
明日佳ちゃんはようやく顔を上げ、私の目をじっと見つめた。花のように美しく、人形のように整った顔だった。彼女の横顔以外を見るのは久しぶりだったので、私は嬉しかった。
「貴女、何かやりたいことは?」
「ううん。ないよ」
私は正直に答えた。
「だって視え透いてるんだもの。何やったって、結果はいつも同じよ。勉強にしたって、就職にしたって」
「今から勉強すれば、分からないじゃない」
「分かってるの。未来は視えてるんだから」
「……可哀想」
「え?」
「何でもないわ……」
明日佳ちゃんはそれっきり何も言わなかった。そして再び、芽が出ない花壇を整え始めた。
私はその花壇に植えられた花が、花開いた来年にはすぐに枯れてしまうことを知っていた。いつか枯れてしまう花を、今せっせと育てている明日佳ちゃんは、無駄なことをしているのだろうか。私には分からなかった。
「そっか……」
「え?」
私は不意に声を上げた。今度は明日佳ちゃんが首をひねる番だった。私はほほ笑んだ。
「ううん。何でも……。ただ、私は如雨露なんだなあ、って」
「如雨露??」
明日佳ちゃんは持っていた赤い如雨露を見て、不思議そうな顔をするだけだった。私は黙っていた。私のやりたいこと。
如雨露。
あの『考え物』とかいう怪人が出した、意味不明のなぞなぞの答えだ。
どうして邪魔だって分かってて、割って入るのか。どうして私は、邪険にされてまで、明日佳ちゃんのそばにいるのか。それは未来が、答えが決まってるからじゃない。きっとその【心】は……。
「どうしたの?」
「ううん。何でもない……」
明日佳ちゃんはまだ、不思議そうな顔をしていたけれど、私ははぐらかした。その心は、その時の感情は、私の胸だけに留めておこうと思った。
「ねえ。お水汲んでくるね」
「う、うん……」
不意をつかれたのか、明日佳ちゃんがありがと、と小声で呟くのが聞こえた。今の私には、それで十分だった。私は立ち上がり、明日佳ちゃんの手から赤い如雨露を受け取った……。
…………。
………。
……え? それから?
私と明日佳ちゃんは、その後仲良くなったのかって?
それは、今は分からない。だってその未来を、私はもう視ていないから。
でも、たとえいつか枯れるからって、今水を遣らない理由にはならない。そうでしょう?
いつの間にか、雨は上がっていた。雲の隙間から、暖かな日差しが顔を覗かせていた。私は小さな赤い如雨露を片手に、中庭を小走りに駆け抜けて行った。
《終わり》