余談 本物
代行世界……。
聞いたこともない言葉だった。俺が目を白黒させていると、男は何やら意味ありげに片目だけ瞑り、小さくため息をついた。
「ええ。並行世界の代替品です。並行世界は知っているでしょう?」
「パラレル・ワールドってことか?」
「そうですそうです。この宇宙から分岐したもう一つの宇宙……そこでは自分そっくりな人間が暮らし、自分とは全く違う人生を歩んでいるのです。『スパイダーマン』で観ました」
「ほんまかいな……」
「そして此処はそんな並行世界を代行しているもう一つの世界。いわば代わりの代わりの世界です」
「階層が多すぎて何のこっちゃ分からん」
「良いんですかぁ??」
「うぉっ!?」
ふと気がつくと、珍妙男がこちらににじり寄り、下から俺の顔を覗き込んでいた。俺は思わずのけ反った。
「そうやって何でもかんでも代行代行……代わりに何でもやってもらってちゃ……そのうち自分ではな〜んにもできなくなって、終いにはその紛い物に取って変わられるかもしれませんよ?」
「な……何だよ……」
俺は別に、代行してくれなんて頼んじゃいない。
「戻りたいですか?」
「え?」
「もし貴方が元の世界に戻りたいと願うのならば……どうぞ此れを」
そう言って男は一枚の四角い紙を差し出した。てっきり地図でも書いてあるのかと思い期待したが、名刺大の紙には右側に大きく『考え物』と書かれ、さらに踊るようなフォントで
どんなに取っても、増えていくものはな〜んだ?
……とだけ書かれていた。
「何だこりゃ?」
訳が分からない。なぞなぞ? しかし、一体何故こんなところで?
「おい……」
俺が顔を上げると、男はいつの間にか姿が見えなくなっていた。
まるで夢の中で夢でも見ている気分だった。
どんなに目が覚めたと思っても、結局まだ夢の中にいるのだ。起きても起きても、まだ何かが微妙に違ってて、もう二度と元の世界には戻れないんじゃないかという恐怖に駆られる。新手の悪夢みたいなものだ。
とにかく。此処が現実だろうが、夢の中だろうが、なぞなぞなんかしている場合ではないことは確かだ。
タクだ。
俺は汗を拭った。
アイツなら、どんなに飲んでも酔っ払わないし、何かこの件について知っているかもしれない。あの後もう一度会社に電話したが、今度は知らない奴が出た。自分の会社なのに、知らない《代行》の奴だ。タクに代われと何度怒鳴っても、全く話が通じなかった。とにかくタクを捕まえなくては。券売機に並び、急いで小銭を入れる。
「あ〜、お客さん……」
「……今度は何だよ?」
だが何度券売機に小銭を入れても、お札を入れても、戻ってくる。
「その券売機、全部昨日から《代行券売機》に変わっちゃてて……《代行通貨》しか入らないんですよ、はい」
「何だと……!?」
俺は駅員を振り返った。駅員はにっこりと笑った。
「……本当の笑顔じゃありません。《代行スマイル》です」
「知るかよ……!」
はっ倒してやろうかと思ったが、ギリギリ踏みとどまった。踵を返し、急いで来た道を引き返す。足は悲鳴を上げ、頭の奥がギリギリと締め付けられた。角を曲がった。だが……
「家が……」
無かった。
三十年ローンの、大事なマイホームが、無かった。
俺は目を見開いた。代わりに建っていたのは、前衛芸術を履き違えたとしか思えない、何とも形容しがたい奇妙な建物だった。何だろう、美術の資料集に載っている作品を全部足してミキサーでかき混ぜれば、こんな異物が出来上がるかもしれない。俺は異物を見上げ、かすれた声を出した。
「《代行家》……」
……そこで俺の肉体と頭脳は限界を迎え、道路にバッタリと倒れ込んだ。




