余談 山奥
「ん……美味い!」
がらんとした食堂に、そんな声が響き渡ったのは、もう閉店も間際かと言う頃合いだった。沙織は声の主を探して、白いエプロン姿のまま、カウンターからひょっこり顔を覗かせた。
まだお客さん、残ってたのか。
沙織は意外な顔をした。
先ほど小学生の女の子を連れた三人家族が帰って、てっきり店内には誰もいないと思っていた。鼻歌を歌いながら皿洗いをしていたものだから、ちょっぴり恥ずかしい。
よく見ると、なるほど店内の端っこに、男性客が一人ラーメンを啜っていた。顔は見たことないから、常連さんではないだろう。あんなお客さん、いただろうか? 沙織は小首を傾げた。男は箸とレンゲを両手に構え、ずるずると麺を啜りながら、その痩せこけた頬を上気させた。
「やぁお嬢さん」
男性客が沙織の視線に気づき、ほほ笑みかけてきた。彼女も営業スマイルで、少しサイズの大きめな花柄の頭巾を抑え、冷や水のおかわりに走った。
「こんなに美味しいラーメンは初めて食べましたよ」
「ありがとうございます。父も喜びます」
「世辞じゃない、本当です。みんなにも食べさせたいくらいだ」
男は目をキラキラと輝かせてそう言った。本当に美味しそうにラーメンを食べてくれる。ここまで嬉しそうに食べてくれると、何だかこっちまで嬉しくなる。沙織は頭を下げた。
「また来てもいいですか?」
やがて会計の際、言いながら、男はレジ横に置いてあった店の名刺を数枚取り、しげしげとそれを眺めた。
ラーメン・『山奥』。
それが沙織の父の営む、小さなラーメン店の名前だった。
山と山に挟まれた県境、寂れた山奥にあるから『山奥』。単純明快だ。
人里離れた秘境の地……といえば聞こえがいいが、実際には日中からタヌキやシカが徘徊するような、田舎も田舎だった。別にチェーン店でもなんでもない。有名店から暖簾分けしてもらったと言うわけでもなく、沙織の父の代から始まった、こぢんまりとした個人経営店である。
「知り合いなんかにも紹介して……」
「ありがとうございます、嬉しいです!」
蛍光灯の明かりが、男の真上でチカチカ点滅する。沙織は白い歯を見せた。今度は営業じゃない笑みがこぼれた。向かって立つと、天井にも届きそうなほど背の高い男だった。
『山奥』は、お世辞にも繁盛しているとは言えなかった。
味の方は、沙織に言わせれば、普通も普通。豚骨スープにストレートな細麺という、違いの分かるラーメン通ですら、きっと違いが分からないに違いない、極々ありふれたラーメンだった。
それに、店の立地が立地だから、客が中々来ないのである。数年前、数十キロ先の国道が整備され、めっきり客足が遠のいてしまった。今では客と言えば、近所に住む常連さんがほとんどだった。
おかげで毎月のように赤字だし、そのせいかどうか知らないが、沙織の母は実家に帰ってしまった。今では父が一人、厨房で息を巻いている。アルバイトを雇う金もないから、学校が終わったら、一人娘の沙織が手伝いに入る。とはいえ客は全然いないから、忙しいとか大変だと言うことは全くなかった。男がマスクをしながら目を細めた。
「暇すぎると言うのも、やはり考え物ですな」
「ええ、ホントに。時間が長くて困っちゃいます」
「それじゃあ、また」
一言、二言会話して、やがて男が会釈して出て行った。
黒い、サメの歯のような模様のマスクをした男だった。
ドアに取り付けられた鈴がひとつ、からん、と鳴る。外の冷たい空気が、足元に流れ込んできた。沙織は身震いした。男がいなくなると、狭い店内が急に広くなったような気がした。
「あら」
ふと、レジ前のテーブルに一枚の紙が置かれているのに気がつく。
「忘れ物かしら……」
沙織は小首を傾げ、紙を拾い上げた。それは、名刺だった。先ほどの男が置いていったものだろうか? 名刺には何故か
乗せれば乗せるほど高くなるもの、な〜んだ?
……と、なぞなぞめいたことが書かれてあった。一体何故? 今時、なぞなぞ?
沙織は名刺を眺め、しばらくその文の意味を考えたが、
「……さ、続き続き!」
特に意味もないだろうと思い、急いで厨房に戻った。
結局、その名刺はいつの間にやら何処かに行ってしまったし、件の男はもう二度と、店には顔を出さなかった。だから沙織もそれっきり、男のことはすっかり忘れた。
だけど、それからと言うもの『山奥』には、妙な客がよく訪れるようになったのだった。