第九話 中学校
……そして気がつくと、私の目の前には、和やかな教室の風景が戻って来ていた。
「は……!? あ、あれ……!?」
室内は活気に溢れ、何事もなかったかのように、生徒たちでいっぱいになっている。私は一人、扉の前に佇んでいた。慌てて教室の中を見渡す。突如現れたはずの二人組は、突如跡形もなく姿を消していた。窓の外も、青々と晴れ渡っている。
さっきのは、一体何だったの……?
軽く目眩がして、私は頭を振った。
まるで白昼夢でも見ていたようだ。もっとも『VR』自体、夢の中にいるようなものだ。だとしたら、あれは夢の中で見る夢……それにしては、何だかひどい悪夢だったような気がする。
ハッとして私は自分の右手を見た。
私の手のひらの中には、あの白い名刺がしっかりと握られていた。名刺には黒字で、こう書かれてある。
後ろにあるのに前にもあったものって、な〜んだ?
「ひ……!?」
顔から血の気が引いていくのが分かった。あれは……ただの欠陥じゃなかったのだろうか?
「宏美ちゃん」
戸惑っていると、生徒たちがワラワラと私の周りに集まって来た。
「宏美ちゃん」
「宏美ちゃん、今日も可愛いね」
「宏美ちゃん、大丈夫? 何だか元気ないよ?」
「少し休んだら?」
「あ……」
『VR』な生徒たちが心配そうに私の顔を覗き込んだ。どうしよう。こんな状況、誰に相談していいのかも分からない。一旦『VR中学校』を中断するべきだろうか?
「宏美ちゃん」
すると、聞き慣れた甘い声が私の後ろから囁かれた。
南くんだった。
南くんはサッと私の手を取って笑いかけた。
「大丈夫? ちょっと外に出て休もうよ。風に当たろう」
「……うんッ」
それで、引いていた血の気が、あっという間に私の顔に戻って来た。私たちは顔を赤らめたまま、手を握り、陽射しの差し込む廊下を歩いた。校庭に出るまで、二人とも無言だった。南くんの手のひらから、温かな体温が伝わってくる。『VR』によって作られた熱が、現実に冷えた私の心を解してくれる。
……手を離したくない。このままここにいたい。
心からそう思った。
せっかく手に入れた温かな居場所なのに、どうして離さなくちゃいけないんだろう? ずっとここにいたい。そう思うのは、悪いことなんだろうか?
校庭に出る。穏やかな春の日差しを浴び、私は目を細めた。左の手から、南くんの熱が、そして右手には、あの奇妙な男から渡された白い紙が握りしめられたままだった。
□□□
「こう言う曖昧な質問って、そもそも答えが一つじゃないんだよ。どうとでも答えられる」
校庭に出て、伝説の桜の木の下(現実にはそんなもの無かったが、拡張現実で追加購入した)で南くんに例の名刺を見せる。彼はしばらく黙った後、静かに語り始めた。
「例えば、『誕生日』とか。誕生日は過ぎればどんどん後ろになって行くけど、毎年来るよね。だから『前にもあった』」
「なるほど……!」
私は素直に感心した。南くんは頭もいい。やっぱり頼りになる存在だった。
「他にも、『昔の思い出』とか」
「思い出は『以前にもあった』……ってことね?」
「『後世』なんてどう? 漢字で書くと『後』がつくけど、意味は『ずっと先の世』……つまり時間軸的に『前方にある』って意味」
「あ、ホントだ。そう言われたら、なんだか何でもいけそう」
「そう言う奴らってさ、こっちが悩んで『誕生日』って答えたら、『違います』とか言って。あらかじめ複数答えを用意しおいて、絶対こっちに正解させないように仕組んでるんだよ。宏美ちゃんは怪しい奴に騙されちゃダメだよ」
「そうなんだ……」
私はホゥとため息を漏らした。胸のつかえが取れた気分だった。さっきまで不安で押し潰されそうになっていた私は、たちまち元気を取り戻した。良かった。さっすが南くんだ。これで怪しい奴が来ても、脳みそを食べられないで済む。
「あの、その、あ、ありがと……南くん」
風が優しく頬を撫で、DLCの花びらが舞った。南くんが優しくほほ笑んだ。
「他にも探してみようよ。答えはもっとたくさんあると思うから」
「うん……!」
それから私たちは小一時間語り合った。
それは今までのどんな時間より、淡く甘い時間になった。『答え』が合っているかどうかは、もう問題ではなかった。ただただ、二人で同じ時を過ごすと言うことが、私にはとても愛おしく、何よりも大切なものに思えた。
「……宏美ちゃん」
しばらくして、南くんが不意に私を後ろから抱きしめた。私は息を飲んだ。心臓が止まるかと思った。
「思い出は確かに、温かいかもしれないけど」
「南くん……?」
「背中を押してもらうためには、ちゃんと前を向かなくっちゃ」
「私は……」
何か言いかけて、言葉に詰まった。
ここは温かい。いつだって私を甘く歓迎して、優しく慰めてくれる。何のために? もちろん、私のためだ。私が元気を出すため、前を向くためだ。
「私は……」
後ろにあるのに前にもあったものって、な〜んだ?
ふとあのなぞなぞが思い浮かんだ。その時、何だか欠けていたパズルのピースが埋まったような気がした。そっか。そうだ。思い出は、別に後ろにだけあるんじゃないんだ。これから作っていくこともできる。温かな思い出は、帰りたい場所は何も一つだけじゃなくて良いんだ。
「……また来ていい?」
声が上ずっていた。それでも、私の目はもう前を向いていた。
「もちろん」
南くんが優しく囁いた。それから私たちは向かい合って抱き合った。思い出の中の南くんと見つめ合う。私はもじもじした。
「ね? だからお別れの前に……」
「うん」
南くんの顔がゆっくり近づいて来る。彼が私の耳元でそっと囁いた。
「……向こうでも、御利生がありますように」
「え? 今なんて?」
「何でもないよ。目を閉じて……」
「……!」
私はこそばゆくなって、慌てて目を閉じた。あぁ……神様。たとえこの世界が思い出の中、仮想現実だったとしても。私のこの想いは本物です。夢の中で夢を見るように、何が夢で何が現実なのか、一体誰が分かると言うのでしょうか? たとえ夢の中だからと言って「そんなものは愛じゃない」なんて、誰に決め付けられるものでしょうか? いいえ。愛はあります。ここで私たちは、確かに永遠の愛を誓い合っ「こォラァアアアアッ!!」「ぎゃあああああああッ!?」
突然耳元で姉の怒鳴り声がして、私は突如夢から叩き起こされた。
現実に戻ると、目の前に般若がいた。
「ナニ人の『中学校』勝手に楽しんでるのよッ!? アンタだったのねッこのッ……!」
「きゃあああああぁッ! ごめっ、ごめんなさいッ! 許してェ、お姉ちゃぁんッ!」
私はバシバシ叩かれた。バシバシバシバシ叩かれた。プリンごちそうするから! と叫んだが、あいにく般若は手を緩めてくれなかった。それでこそ般若だ。非情な女なのだ。
しばらく鬼ごっこが続いた。置き時計やらマグカップやら、ビュンビュンものが飛んで来た。やがて二人して息も絶え絶え、部屋の中は、まるで嵐が来たみたいにしっちゃかめっちゃかになった。私は痛いやら悲しいやら、もう涙目だった。
「全くもう!」
はん……姉が叫んだ。
「だからあんなに言ったのに。気をつけなさいよ! 甘い夢を見せ続けられて廃人になって、一生『VR』の世界から、戻ってこれなくなる人だっているんだからね!」
「ごめんなさい……!」
私はひたすら謝り続けた。姉はそれ以上何も言わなかった。フンッ! と力強く鼻息を鳴らし、私の手から『中学校』を奪って部屋を出て行った。一人取り残された私は、ベッドに大の字になって呆然と天井を見つめていた。ふと異変に気がついて、自分の右手を見る。
「え……!?」
私は息を飲んだ。
「どうして……!?」
そこには、夢の中で『考え物』から渡された、なぞなぞが書かれた名刺が握られていた。
□□□
それからというもの、私はさっぱり『中学校』に触らせてもらえなくなった。親にもこっぴどく叱られた。
私も私で、それ以降は何とか切り替えることに成功した。
確かに思い出は温かい。だけどどんなに良い薬も適量を超えれば、たちまち毒になってしまう。お酒や煙草と同じだ。今思うと私は中毒症状、『VR依存』のような状態になっていたのだと思う。それから立ち直れたのは、姉や、『VR』の中の南くんが背中を押してくれたからに他ならない。皮肉なものだ。私は『VR』に溺れかけ、そして『VR』に救われもしたのだった。
それから私は勇気を出して、現実の南くんにも連絡を取り、お礼を言うことにした。私がどんな夢を見ていたか、もちろんそれは絶対内緒だ。
それにしても……。
私には、未だに分からないことがある。
あの奇妙な二人組……あれは一体何だったのだろう?
本当にあれは夢ではなかったのだろうか?
あの時もし南くんが答えを教えてくれなかったら……私はどうなっていたのだろう?
分からない。『考え物』。それに『親孝行』。『VR』空間の中で出逢った謎の存在。もしかして彼らは、現実にもいるのだろうか? 私の手元には、まだあの白い名刺が残ったままだった。
《終わり》