王子と皇帝
翌日、いつもより早く目が覚めたので少し優雅に──自分で豆を挽いてコーヒーを淹れたりなんかしてから登校する。両親が必ず朝食後にコーヒーを飲む人たちだったから、自然と私も飲むようになってしまった。酸味と苦味の絶妙なバランスが、寝起きでまだ少しぼーっとする頭を優しく起こしてくれる。うん、美味しくできた。
コーヒーを飲んで、それでも普段より四十分くらい早く家を出る。自転車を漕ぎながら感じる風が気持ちいい。五月らしい爽やかな陽気も相まって、何故だか良い日になりそうな予感がする。
教室へは一番乗りだった。何なら学校へも一番乗りだったんじゃないだろうか。普段の騒がしさが嘘みたいに静まり返った校舎は新鮮で、むしろ少し怖いくらいだ。教室の窓を開けて風を浴びながら読書をしていると、しばらくして教室に誰かが入ってくる気配がした。
「おはよう」
クラスメイトに挨拶したつもりで顔を上げ、私は固まる。だって、そこにいたのは。
「おはようございます、鳳さん。お久しぶりですね」
『百合ケ咲の皇帝』こと皇琥珀が、私の目の前で穏やかに微笑んでいた。
「皇……さん」
「良かった、覚えてくれていますね」
「そりゃ、ね。去年あんな経験しちゃったら忘れたくても忘れらんないよ」
「ふふ、それもそうですね」
一挙手一投足が全て上品な目の前の女の子。てっきり私みたいに皇帝の仮面を被っているのかと思っていたのだけれど、これが皇琥珀の素の姿だと知って驚いた。何せ私なんかとは違い、昔のいわゆる華族の子孫らしい。
そういえばこの学校、世間的にはお嬢様学校という区分に入るらしい。そういった本物のお嬢様がいたとしてと不思議ではない。
それにしても、皇帝なんてあだ名が付けられている割にかなり物腰が低い。あだ名のいかつさと実際の立ち居振る舞いのギャップで風邪を引いてしまいそう。
「それで、何か用があるからこっち来たんだよね?」
「はい。少しだけお時間頂いてもよろしいですか?」
「早く着いて暇だったし、皇帝さんの命令とあらば」
「ありがとうございます、王子様」
そう言ってにっこりと陽だまりのような笑顔を浮かべた皇琥珀。どうやら即興のネタでも快く付き合ってくれるらしい。
教室では少し……とのことだったので私たちは図書室へ移動した。始業前から開館しているのかと思ったけれど、何故か皇琥珀はブレザーのポケットから鍵を取り出して扉を開けた。この学校、鍵の管理杜撰すぎない?
「さて、王子様」
私を先に図書室に入れ、後から入ってきた皇琥珀が後ろ手で扉を閉めながら私を呼ぶ。出口を塞がれた形になり、私は無意識に少し身構えてしまう。
「何でしょう、皇さん」
「……ふふ」
少しトーンの低くなってしまった声で言葉を返すと、皇琥珀は可笑しそうに声を上げた。
「これは私も悪いんですけど、お互い王子と皇帝の仮面を被ってまるで仮面舞踏会みたいですね」
上手いこと言ってやったみたいなドヤ顔をする皇琥珀。いや、上手くないよ?
「仮面舞踏会、ねぇ。素顔を晒しまくってるけど?」
「あら、それは盲点でした」
そう言ってくつくつと笑う皇琥珀。ひとしきり笑った後、一拍置いてから話を再開した。
「せっかく二人きりなんです、腹の探り合いは無しにしませんか? 私のことは琥珀と、名前で呼んでくださいな」
「ということはそんなに深刻な話題じゃない?」
「そうなりますかねえ」
「ん、わかった。私の方こそ風音って呼んでよ」
少し緊張が和らぎ、ようやく話し合いやすい空気がその場に生まれた。
「まず確認したいんですけど、風音は今年の体育祭の選抜リレーに出場するつもりですか?」
開口一番、琥珀から飛び出したのはそんな言葉だった。びっくりして何も返せずにいると、琥珀は慌てたように言葉を続けた。
「ごめんなさい、別に強制するつもりはないんです。ただ、昨年みたいな熱戦をもう一度、というか」
「……良かった」
「え?」
どうやら選抜リレーに関しては私の空回りになることはないらしい。昨年のレース結果を踏まえて琥珀が私と同じことを思ってくれていたことに安堵する。
「私も、今年も琥珀が出てくれるといいなって思っていたから」
そう言うと、琥珀の顔がぱぁっと明るくなった。
「本当ですか!? ありがとうございます」
「何でお礼?」
ただリレーに出場すると言っただけでお礼を言われる意味がわからない。素直な疑問を口にすると、次の瞬間突然空気が冷たくなった。
「嬉しいんです、リベンジの機会を与えられたことが。皇家たるもの、敗北したままというのは許されませんから」
笑顔に変わりはない。だけどどこか肉食獣のような、冷たい笑顔でそう言い放った。冷房なんてついていないはずなのに、やけに重たい冷気が肌を撫でてくる。
皇帝の素が、垣間見えた気がした。
「……っ。私だって、負けない」
「ええ、それくらいの気概でいてくれないと張合いがないですもの。それで十分です」
このまま琥珀のペースに飲まれそうだったので、私は気持ちを切り替えるように大きく深呼吸をした。
「なるほどね……皇帝ってそういうことか」
私のその呟きに、琥珀は沈黙で答えた。
「つまり琥珀は私に宣戦布告をしに来たってわけだ」
答えがないことを確認して、私は別の問いを口にする。すると、この問いに対しては思わぬ答えが返ってきた。
「ええ、それもありますけどもうひとつ」
「え?」
「むしろこっちが本題です。風音、生徒会に入りませんか?」
「…………は?」
せいとかい、という言葉の羅列が生徒会に変換されるまでに数秒要した。しかし、生徒会だと理解してなお、どうして私なのかが理解できない。
「いや、わけわからんし……」
そんな私を無視して、琥珀は淡々と説明を続ける。
「風音は生徒会役員決定までの仕組みをご存知ですか?」
「えっと、選挙で会長を決めて、他の役員は会長の指名で選ばれる」
「その通りです」
肯定してくれたところ悪いけど、生徒手帳の規則を引用しただけなので間違っているはずがない。そしてその規則を読んだ途端、私は気づいてしまった。
「てことはつまり……」
そう。会長からの指名で役員が決まるということはつまりそういうことなのだ。信じられないけれどそれしか有り得ない。
「はい。現会長の神木先輩から直々の指名です」
「いや何で!?」
もっともな疑問が、私の口から叫びとなって飛び出した。
「まあ、驚きますよね」
「驚くというか疑問しかないよ」
私は全ての説明を琥珀に求めた。曰く、こういうことらしい。
「生徒会長選挙で神木燐が選出された後、例年通り生徒会役員が指名され始めました。ですが、庶務が二人だけ決まらなかったんです。そこで副会長の春日井先輩から提案があったみたいです。『二年の皇と鳳はどうか』と」
副会長の春日井、という言葉で私は事の流れが理解できてしまった。だって、春日井先輩は──。
「絶対ことりの入れ知恵だ」
「はい、私もそう思います」
副会長の春日井雛菜先輩は、ことりの姉である。私も去年ことりの家に遊びに行った時何度か顔を合わせているため覚えられていてもおかしくない。おそらくだけど、役員が決まらないことを愚痴として零した雛菜先輩にことりが私たちのことを吹き込んだのだろう。
「ことり……そういうことは先に言え」
「本当に……後で呼び出すつもりです」
いや、だとしても神木先輩が雛菜先輩の言うことを全て聞く必要は無いんじゃないかな? そう思って琥珀に尋ねると、琥珀は困ったような笑顔で衝撃の事実を口にした。
「神木先輩は春日井先輩にゾッコンなので」
「……ふむ?」
「いわゆる『雛菜ちゃんらぶ!』というやつですね」
皇帝のセリフとは思えない言葉が飛び出して、私は呆気にとられてしまう。琥珀が語ったように神木先輩が雛菜先輩に向ける感情が本物であるなら副会長への指名も納得できるものではあるけれど、別の疑問が浮上してくるのは仕方のないことだろう。
「業務に支障はでないの?」
「さすがにお二人とも公私は弁えていますよ。なので生徒会運営に関して信頼はできます」
「……そう」
「ですので私は生徒会に加入しようかと。せっかくの機会ですし、風音もどうですか?」
確かに生徒会に入るのは悪いことではない。むしろメリットの方が大きいとすら思える。この学校の生徒会はOGとの繋がりが強く、進路選択に際してとても大きなサポートをしてくれると聞いたことがある。今後自分の将来を考える上で断る理由はない。
「…………少し、考えさせて」
だけど、頭をよぎったのは美羽の顔だった。もし生徒会に加入してしまえば、美羽と会う時間が減ってしまうのではないか。それだけは何としても避けたかった。美羽と関わる時間を、減らしたくなかった。
私の葛藤を察したのか、琥珀は穏やかな笑顔で「わかりました」と答えた。
「いずれ神木先輩から直接話があると思います。それまでゆっくり考える時間はあると思いますよ」
「うん、ありがとう」
お礼を言ったタイミングでチャイムが鳴った。どうやらそこそこ長い時間話し込んでいたようだ。
「あら、もうこんな時間なんですね。そろそろ教室に戻りましょうか」
「そだね。あ、その前に」
「……?」
「こうやって関わってるのも何かの縁だろうし、連絡先交換しようよ」
そう言うと、琥珀は今日一番の笑顔を見せてくれた。
「いいんですか!?」
「うん。もしかしたら色々連絡することもあるだろうしね」
「ありがとうございます、風音さん」
私たちは連絡先を交換して図書室を出た。それにしても、昨日の今日で連絡先を交換した人間が二人もできるなんて、考えもしなかったな。