そよ風に、うさぎは微睡む
書く時間が取れない。
ぱちぱちと瞬きをする間に美羽の表情は爛漫な笑顔に戻っていた。一瞬自分の見間違いだったのかと考えたけれど、どうしてもそうは思えなかった。視線の先では、私のそんな疑念などお構いなしの美羽がどこからか見つけてきた箒を使って屋上の汚れを掃除していた。
「先輩も手伝ってくださいよ」
「いや、掃除したところで……じゃない?」
どう考えても箒で解決する汚れではない。そう思ったけれど、どうやら違うらしい。
「私もそう思ったんですけど、ずっと晴れが続いてたおかげで乾いてるみたいで。さっと掃いたら座る分には困らないかと」
「あ、そう」
「あっちにちりとり見つけたので持ってきてくださーい」
堂々と先輩をパシる美羽に苦笑しながらも、彼女の指示に従ってちりとりを取りに行く。少し歩くだけの距離なのに、ふわり、そよそよと気持ちいい風が吹き抜ける。そんな風に乗ってほんのちょっぴり若葉の香りがして、春が終わりに近づいていることを感覚で悟る。
行く春を逃がしたくなくて、少し立ち止まって全身で風を受け止めた。
ちりとりを持って戻ると、想像以上に本気で掃除に取り組んでいたらしく、彼女が立っている場所だけ周りの地面と色が異なっていた。二人が座って少し余裕のある空間を見つめていると、美羽が自慢げに口を開いた。
「どうですかこれ。これなら座っても大丈夫です」
「すごいね……」
「あ、ちりとりありがとうございます。貰いますね」
「それくらい私が──」
「先輩にやらせるわけにはいきませんよ」
さっきちりとりを取りに行かせた人物のセリフとは思えない。虚を突かれているうちにちりとりを奪われ、美羽はテキパキとゴミやホコリを片付けていった。
「いっちょあがりです!」
「……ん、ありがと。お疲れ様」
「……っ!? ふぇ!?」
私に向かってブイサインを作る美羽が褒められるのを待つ子供みたいで、思わず彼女の頭に手が伸びてしまった。さらさらだな、という感想を抱くのとほぼ同時に美羽が驚きの声を上げて、自分が今何をしたのか理解する。
「あ、ごめ……嫌だったよね」
「いえ、その……驚いただけで嫌ではないというか」
「でも突然触ったのはほんとにごめん」
「謝らないでくださいって。むしろ落ち着いたというか……って何でもないです!」
早口でまくしたてた美羽。途中の言葉が聞き取れなかったけれど、そこには触れてほしくないようで顔を真っ赤にして首を横に振っている。その動きに合わせてぴょこぴょこ揺れる二つ結びは相変わらずうさぎの耳みたいで、思わず口角が上がってしまう。
「あ!笑ってますよね!」
「笑ってな……くもないか」
ごまかすのは無理だと開き直ってそう言うと、美羽は顔を真っ赤にして「もう!」と声を上げた。ころころ変わる表情が忙しそう。実年齢より幼く見える表情がかわいくて、私は遂に堪えきれなくなって声を上げて笑った。
そんな私を見て、美羽がぷくっと頬を膨らませて不満を向けてくる。ちっとも怖くない。だけど、体の内側が熱くなってくる。美羽の一挙手一投足全てが私の中の何かを刺激するような感覚に襲われ、私は美羽の頬に手を添えた。そうして私は、仮面を被る。
「ふぇ?」
「ふふ……かわいいね」
私のことを初心だと、普通の女の子だと言ってくれた美羽。そんな彼女の前だったら、私個人を見てくれる彼女の前ならば、私は何の気負いもなく『王子』の仮面を被ることができた。そして気づく。
何だ、あなただって初心な女の子なんだね。
膨れていた頬はいつの間にか空気が抜けて、私の前に立っているのは真っ赤に照れた一人の女の子。目があちこち泳ぎまくっているけれど、私が顔を支えているからほとんど意味がない。
数秒後、観念したのかため息をひとつ。少し潤んだ瞳で私を見つめてぽつりと呟いた。
「……百合ヶ咲の王子、おそるべしです」
「私がこうなったの、美羽が初めてだよ」
やりすぎたかな。そう思いながらそう言うと、美羽は口をきゅっと結んでから言葉を返してきた。
「出会ったばかりの年下の女の子を口説くなんて、王子様は軽薄です」
それはそうかも、と納得する。いったい何がこんな私にしたのだろう。初めて授業をサボったこと? 屋上に足を踏み入れたこと? いや、違う。そうなるきっかけを作ったのは──。
「それも全部美羽のせいだ」
「私って罪な女だったんですか」
そうして流れる僅かな沈黙。お互い堪えきれなくなって、同時に笑い声を上げた。
「いやいや、いつまで続けるんですかこれ!」
「ごめん、やめどきがわからなかった……」
「それはそうです……」
結局のところ、私も美羽も普段と違う行動に浮かれていたんだろう。こんな茶番、いつもなら絶対にありえないから。少なくとも「百合ヶ咲の王子」を意図的に演じることは初めてだったから、自分でも少し──いや、かなり驚いている。
小説の場面転換をするようにお互い深呼吸をして、スカートを汚さないように気をつけながら地面に座る。コンクリートの冷たさが伝わってきて、体が小さく震えてしまった。夏はまだ遠くにいるらしい。
「すっかり葉桜ですけど、夏はまだまだ先ですねぇ」
私が考えていたのと同じことを口にした美羽に驚いて、思わず左側に座る彼女を凝視してしまう。視線に気づいた美羽が小さく首を傾げたのが視界に入り、私には縁遠い『かわいさ』に思わず胸が高鳴る。
「な、何か変なこと言いました?」
「いや、私と同じこと考えてるなーって」
そう言いながら、頬が緩む。美羽はよくわかっていないらしく、頭の上に疑問符を浮かべているのが見て取れた。
そんな美羽の表情を記憶の中に閉じ込めておきたくて、私は無理やり話題を変える。
「そういえばひとつ聞きたいんだけど」
「何かごまかされた気がしますけど……まぁいいです。何でしょうか」
「美羽、何でここに来たの?」
ずっと引っかかっていた。百合ヶ咲高校は北棟と南棟に分かれていて、今私たちが座っているのは北棟の屋上。だけど、北棟にあるのは特別教室と2年生の教室だけで、一年生である美羽がここにいるのは少し不自然なんだ。
それに、上履きの話をした時に美羽が見せた冷たい表情。もしかしたら……そう考えて、なるべく美羽を傷つけないよう、言葉を選んで尋ねる。
「教室、というか南棟にいづらい理由でもあるの?」
その問いに、美羽は何か言い淀むように黙り込んで──鈴の転がるような明るい声で答えた。
「そんなわけないじゃないですか〜。ここにいたのは単に図書室に用があっただけですって。先輩は考えすぎです」
たった数秒、たったそれだけのやりとり。だけど未羽が隠す闇を察するには十分すぎた。ついさっき出会ったばかりの上級生に悩みを相談できるわけない。そんなこと少し考えればわかるはずなのに、私は何を聞いているんだ。自己嫌悪に陥って、言葉が出なくなる。
「……そっか」
何とか絞り出した呟きは、頭上に広がる青色が音もなく吸い込んでしまった。
気まずい沈黙が流れ、美羽の顔を見ることもできなくなる。ぼーっと目の前を見つめながら、授業をサボったことがバレた場合の言い訳を色々と考えてみた。だけどいくら考えても怒られる未来しか見えなくて、覚悟を決めて天を仰いだ。
────とんっ。
不意に、左肩に重さが加わった。驚いて声を上げそうになって、ギリギリで踏みとどまる。美羽が私の左肩に寄りかかって静かな寝息を立てていたから。お昼休みの後で、暑くもなく寒くもない程よい陽気。眠ってしまうのも仕方ない。仕方ないんだけど……。
「変な子だなぁ」
懐に入るのが上手な子だな、と思った。その一方で私と美羽の間には明らかな壁がある。この短時間で彼女に対して抱いた思いを小さく声に出す。自分で発した「変な子」という言葉がやけにしっくりきた。だけど、彼女との曖昧な距離は嫌いじゃない。理由もなく彼女のことをもっと知りたいと思った。
「ん……」
苦しそうな呻き声が聞こえて美羽の顔を覗く。嫌な夢でも見ているのか眉間にシワが寄っていた。私はそっと美羽の頭を撫でた。さっきとは違う、自分の意思で彼女に触れた。
「おやすみ、美羽」
起こさないようにそう呟くと、美羽の表情が少しだけ和らいだような気がした。