風を感じてうさぎは笑う
ゆっくり更新するつもりです。
それでも良ければお付き合い下さい。
鍵が壊れた扉を前に言葉を失う私と宇佐見。今手を伸ばせばほぼ確実に屋上に行けてしまう現状で、私たちは完全に思考停止してしまっていた。
「開いた……?」
「開きましたね」
顔を見合わせて、ようやく出てきたのはそんな間抜けな言葉。未だ動けない状況の中、唐突に宇佐見が扉に手をかけた。そのまま細い指で壊れた南京錠を掴んでその手に取る。
「ちょ、やめなって」
そんな制止も空しく、宇佐見はドアノブを握ってぽつりと呟く。
「……これ、南京錠の意味ないですよ。ていうか何に対して鍵かけてたんですかね」
「もしかして、扉そのものは施錠されてない?」
「はい、そうみたいです」
百合ヶ咲学園高等学校、女子高とは思えないほどに杜撰なセキュリティである。南京錠をかけておけば誰も開けようとしないだろう、という甘い考えが透けて見える。いや、まぁ……当然のように施錠されてると思っていたので一定の効果はあったんだろうけど。固定観念恐るべし。
そんな考えを巡らせていると、宇佐見が口を開いた。
「先輩、行ってみませんか?」
「は?」
思わず宇佐見の瞳を見つめる私。だけど、そこから読み取れたのは本気で言っているということだった。ちらりとスマホのロック画面を光らせると、表示された時間は午後の授業が開始される十分前。それを伝えようと口を開きかけた瞬間、予鈴が鳴った。
「……ほら、予鈴鳴っちゃったし教室戻らないと」
そう言って背を向けた私。一歩踏み出した私の袖が、きゅっと握られた。それとほぼ同時、小さな声が耳に届いた。
「嫌だ」
「宇佐見さん?」
「行きたく、ないです」
振り絞るような震える声に、私の足が止まってしまう。
なんとなく、この場で宇佐見を独りにしてはいけないような気がした。彼女に何があったのかまでは踏み込めない。だけど、だからといってこの場所で出逢った不思議な縁を切って捨てるような真似はできそうにない。目の前で今にも泣きだしそうな後輩を見捨てるなんて、そこまで腐った人間にはなりたくない。
私は宇佐見の方に向き直って、静かに声をかけた。
「じゃあ、サボっちゃう?」
「……っ」
そんな提案を手放しで喜べなかったのか、宇佐見は小さく頷いた。
私は友人に「体調悪いから保健室行ってる」と嘘の連絡をしてスマホをしまう。罪悪感がないわけではなかったが、そんなこと気にしていられなかった。それはそうと、チャイムが鳴るまでに先生に見つかったらどうしようとそわそわしていたのは私だけなのだろうか。
永遠にも思える十分が経過し、授業開始のチャイムが鳴った。ほっと一息ついてあたりを見まわすと、そこに宇佐見の姿はなかった。訳が分からず固まってしまう。しかし、すぐにそんな私を呼ぶ声が聞こえた。
「せーんぱい!」
声がした方を向いて、また固まった。それも無理はないだろう。何せ、宇佐見がいたのは扉の向こう――つまり屋上だったのだから。
「あんた、何やって……」
「サボるなら徹底的に、です!」
眩しいほどの笑顔を見せる宇佐見。さっきまで感じていた不安が杞憂に終わったような、そんな笑顔に安心し、思わず頬が緩んでしまう。どうしようかと考える暇も与えず手招きする彼女につられて、私も屋上へ向かう。『生徒手帳に屋上への立入禁止は書かれていない』と自分に言い聞かせ、高鳴る心臓に従って屋上へ足を踏み入れた。
瞬間、春の暖かな風の歓迎に瞼を閉じる。
風がおさまり、おそるおそる目を開けると、視界には雲一つない青空が広がっていた。突き抜けるような澄み切った青色が私たちを見下ろしていて、無性に叫び出したくなる気持ちを必死になって押し殺す。
「わぁ……」
絶景を前にしてそんな声しか出せない私に、宇佐見が現実を突き付けてきた。
「予想はしてましたけど、地面めちゃくちゃ汚いですね……」
「直前までの感動返してくれない?」
そう、宇佐見の言う通り屋上の地面はとても汚かった。誰が足を踏み入れるでもなく、長い間雨風に晒されていたのだろうし、それも仕方のないことではある。小説やアニメなどで描かれる屋上はどこまで行ってもフィクションでしかないんだなぁ、なんて考えていると、あるひとつの問題が頭に浮かんだ。視線を下げてそれがすでに起こってしまっていることを確認し、宇佐見に話しかけた。
「ねえ、宇佐見さん」
「美羽でいいですよ」
「あ、そう……。ねえ、美羽」
「はい?」
「確実に上履き汚れてるけど、どうするの?」
「…………あ」
このまま教室に戻ったとして、私たちが授業をサボったことはほぼ確実にバレてしまうだろう。それだけならまだ誤魔化せるかもしれないが、最悪の場合、屋上に立ち入ったことを気づかれてしまうかもしれない。そんなことを考えてすうっと血の気が引いていく私。そんな私に向かって、美羽は予想外の発言をする。
「上履き、捨てますか」
「……え?」
はっと顔を上げると、笑顔をうかべる美羽と目が合った。ただ貼り付けただけのような笑顔から発せられたその言葉はまさに青天の霹靂。思わず絶句していると、我慢できなくなったように笑い声を上げて美羽が言葉を紡ぐ。
「ふふっ、さすがに嘘ですよ。信じちゃいました?」
そんなことを言われたけれど、とても信じられない。美羽が浮かべたあの笑顔、その瞳だけは笑っていなかったから。
じっと見つめる私を気にも留めず、「でもほんとにどうしましょう、これ」と呟く美羽。彼女はいったい、その心の内に何を抱えているのだろうか。
大丈夫かと問えば、大丈夫ですと返ってきそうな気がして。
何かあったのか尋ねても、何も無いですと返されそうな気がして。私が何を聞いてもそんな強がりが返ってくる予感がして、私は美羽に何も言えなかった。
きっと、怖かったんだと思う。