裁判とメイドと若旦那
応接室と食堂は一階、執務室と寝室は二階、使用人の部屋は三階にあります。私が割り当てていただいたのは、廊下の突き当りにある小さめの部屋です。机の上には先日買った水差しとペンダントが置いてあります。
エルが満たしてくれた水差しの水で顔を洗い、支給されたお仕着せを着たら、お仕事の時間です。今日は廊下のお掃除をする日です。
「ルシニア」
モップを持って立ったところで若旦那さまに呼び止められました。呼んですぐ顔を引っ込めた若旦那さまに続いてお部屋に入ります。いつもより少し上等なシャツとズボンを身に着けられています。
「僕の上着を知らないかな。執務室にないみたいなんだ」
「おでかけされるのですか」
遠出をするならヴァージナルさんに予定が入るはずなので、きっと村の用事でしょう。そう私が考えた通り、若旦那さまは言いました。
「うん。粉屋のところにね」
「少しお待ちください」
上着の行方を、洗濯室で袋を数えていたスピネットさんに聞きに行きます。
「ああ、上着は玄関に。どうしましょ。一人で行かれるつもりだろうけど。ルシニア、よければついて行ってもらえない?」
若旦那さまの部屋に戻ると、タイを締めた若旦那さまが分厚い書物と筆記具を用意して待っていました。私がついていくことを伝えると、目を瞬かせます。
「ああ、ああそうだね。助かるよ。また紙を飛ばしてしまうといけない」
引き出しから取り出した羊皮紙の束を渡されます。かちゃかちゃと音をさせて玄関に向かう若旦那さまを追いかけて、筆記具を取り上げます。書物と重ねて持っているのが危なっかしかったので。
若旦那さまは大人しく筆記具を私に委ね、上着を掴みました。するすると身に着けてしまいます。シャツもタイもジャケットも、若旦那さまはお一人で着られるのです。
廊下を歩いている内から集まってきた妖精たちが、ジャケットを着た若旦那さまを祝福します。祝福できるのが嬉しくて仕方がない様子です。
「じゃあ、行こうか」
重たそうに書物を抱えた若旦那さまの後を、筆記具と羊皮紙を持った私が追いかけます。
*
粉屋は川の側にありました。水車で粉を挽くからです。
「いらっしゃい旦那様。ささ、これです」
粉屋のおじさんが嬉しそうに、水車小屋の中に若旦那さまを案内します。ぎいぎいと音をたてて動く杵の下に、石の臼が置いてあります。
若旦那さまは臼の横に置かれた箱を覗き込みました。私の肩くらいの高さがある木の箱で、ひとりでにゴウンゴウンと動いています。魔道具のようです。
「直接置いているんだね」
「小屋に入る大きさを探してきたんです。すぐ貯まっちまうから、忙しいですけどね。便利ですよ」
おじさんが箱についた取っ手を引くと、横に置かれた布袋に粉が流れ落ちました。確認した若旦那さまが頷いて、私から羊皮紙と筆記具を受け取ります。
袋を交換する回数だとか、購入費用だとかを聞いて、書類を二枚作成します。
「じゃあ、期間は来年の春までだ。減った分は補填されないから気をつけて」
「大丈夫大丈夫。前の倍、粉にしてみせますよ」
笑って言って、おじさんは書類の一枚を受け取りました。
上下する杵の動きに合わせて舞っていた妖精たちが、寄ってきて書類をつつきます。
「おっと」
「ああ、それじゃお暇するよ」
若旦那さまたちには妖精が見えませんが、羊皮紙がはためいたのを見て早足で水車小屋を出ました。妖精に特別好かれている若旦那さまが近くにいると、粉挽きに影響があるかもしれません。
「代官様!」
「旦那さん!」
外に出た若旦那さまを二人の男性が呼び止めました。どうやら若旦那さまのことを待っていたようです。
「こいつが!」
「いやこいつが!」
「どうしたんだい」
「俺の麦を横取りしやがるんです」
「いいや!横取りするのはこいつです!」
どうやら諍い事のようです。
若旦那さまに促されて、お二人が経緯を話し始めます。
「種にする麦が余ったんです。同じところにたくさん蒔くのもいけないって聞いてたんで、隣のこいつの空いてる畑に蒔かせてもらおうって」
「蒔くところがないって言うんで、いいぞと。でもそりゃ、土地は俺のなんだから、世話をして収穫するのは俺のつもりで。こいつには出来た麦を返してやるつもりで」
「俺は土地を借りるつもりで。だから耕して水もやって」
「水は俺もやってた!」
若旦那さまのお仕事は、この領地の代官です。代官というのは、徴税の管理と、諍い事の裁判が主な仕事とか。私がお屋敷にやって来てから、若旦那さまが裁判をされるのは初めてです。
「代官様!」
「旦那さん!」
今日は一度も開いていない分厚い本を抱えて、若旦那さまは言います。
「今日は、徴税法の本しか持ってきてないんだ。帰って調べるから、持ち帰ってもいいかな」
川から妖精がやって来て、本を祝福していきました。
*
お屋敷に帰った若旦那さまは部屋にこもってしまわれました。裁判のために調べ物をしているのです。
「根を詰めてらっしゃるわねぇ」
三日経ったところでチェレスタさんが言いました。
「若旦那さまは、裁判が苦手なのでしょうか」
「あら、バレてしまってるわねぇ」
干した果物の入ったクッキー生地を捏ねながらチェレスタさんは言います。
「ああいう優しい方でしょう」
棒状になった生地を四角い包丁で切ると、均等に果物の入った断面が現れました。妖精たちが厚みの揃ったクッキー生地を祝福します。
私も手伝わせていただきますが、チェレスタさんほど上手くできません。
「他の領地だとお代官様がばばーっと、その場で裁いてしまうこともあるらしいけどねぇ。必ずとことん調べるの。徴税だってそう。裁判が必要になるってことは、誰かが損するのが普通なのに、気にされるのよねぇ」
生地を並べた天板を温まったオーブンに入れると、それだけでいい香りがし始めました。
「すぐに焼けるから、持っていって差し上げて」
「はい」
*
「失礼いたします」
掃除の行き届いた静謐な室内には一体の妖精もいません。若旦那さまの一族の、若旦那さまのように特に妖精に好かれる方たちのために用意された、特別な部屋だからです。
本棚には重そうな本がたくさん詰まっています。大きな窓を背にして、若旦那さまは本の頁をめくっていました。
「ああ、ありがとう。もうそんな時間」
「紅茶とクッキーです」
「手を洗ってこないと」
「こちらに」
チェレスタさんの用意してくださった濡れ布巾を差し出します。手で食べるお菓子なので、クッキーを食べている間は本を読めません。
「判決は出そうでしょうか」
「ああ、いや。判例がないかと思って」
窓は開けません。妖精たちが入ってきてしまうので。
「もう三日も探しておられますが」
「そうなんだ」
若旦那さまはぼんやりとした様子です。よく眠れていないのではないでしょうか。
「麦をね、少し足したら、そう悪くない取り分になるんだ」
干した果物入りのクッキーを若旦那さまが口にされます。
「でもあまり、いい判決じゃない」
裁判の判決というものは、法律に則って下されるものです。しかし、すべての問題にぴったり対応する法律かあるわけではありません。そういうときは、過去の判例を元に判決を決めるのだそうです。
「こういった係争で補填を出すという判例は、ない。むしろ、余計な争いを増やしたとして両方から利益を没収していたり」
「探してやはり見つからなければ、そのようになるのでしょうか」
「そうだね」
机には分厚い本が何冊も積んであります。
「あの二人が争っているのは、僕のせいでもあるんだ」
ティーポットを撫でながら若旦那さまが言いました。
「ヒヨコ麦の。試しに育ててもらえるよう頼んで配った。そういう麦じゃなかったら余りは食べていただろう。…最初から、土地も麦も余らないように配ったらよかったんだ」
他と比べてかなり分厚いクッキーを手に取った若旦那さまは、そのままそれを口に入れました。苦労して咀嚼されて、最後は紅茶と一緒に飲み下します。
私の手伝ったクッキーです。もっと薄く焼くべきでした。
「こっちのはいつもと違うね」
反省した私に、少し不思議そうに若旦那さまが言います。
「これも好きだな」
「若旦那さま。それでは」
窓の外では若旦那さまを気遣う妖精たちが代わる代わる様子を見に覗いています。
「妖精に聞いてみましょうか」
*
お屋敷を抜け出して、私と若旦那さまは村にやって来ました。裁判を求めた二人の、諍い事の原因になった畑です。
畑には豊かにヒヨコ麦が育っていました。妖精たちが、丸く育った麦の穂を楽しそうに祝福しています。
「立派なものだな」
ヒヨコ麦の導入を決めて、育て方を調べて、領地にお触れを出した若旦那さまですが、ご自分でヒヨコ麦を育てたりはされません。間近で大きく育ったヒヨコ麦を見るのは、これが初めてかもしれません。
「ここの麦は特に育ちがいいと、妖精が言っています」
「そうなのかい」
妖精の姿が見えない若旦那さまが笑います。私の思ったことを言ったと思われたでしょう。
「同じ畑に二人がそれぞれ水をやって、きちんと麦が育つものでしょうか」
これは私の思ったことです。
「乾いた土だったのかもしれませんけど、元の倍だけ与えたらきっと枯れてしまうと思うのです」
「そう、だね。植物には、水が多すぎても少なすぎてもいけない」
「枯れていないのは、きっと、あの二方がどちらもヒヨコ麦をよく見ていたからだと思うのです」
「きっとそうだ」
畑の妖精たちがやって来て、よくアイロンのかけられた若旦那さまの上着を祝福します。
「畑の区割りはね、領主か代官が決めるんだ。親の世代から変わりないけど、隣り合った畑は隣同士協力し合える家に預けてる。仲がいいんだ。本来は。土地を借りるか、種の麦を借りるかしている分、よく見ておこうとおもったのかも」
それならば、麦が枯れず、むしろ妖精が祝福するほど育った理由もわかります。
「それなら、やっぱり損はさせたくないな。どちらにも」
「でも若旦那さま。きっと、ヒヨコ麦のために一番努力しているのは若旦那さまです」
ご自分でヒヨコ麦を育てたりはされませんが、ヒヨコ麦の導入を決めて、育て方を調べて、領地にお触れを出したのは若旦那さまです。
どの畑も収穫はまだですが、きっと少しだけ冬を越すのが楽になります。続けば、領地全体が豊かになるでしょう。
「そんなことないよ」
「妖精たちがそう言っています」
「それは…光栄だな」
若旦那さまの周りを飛ぶ妖精たちがちりちりと翅を震わせます。肯定しているのです。
「だからもし、ヒヨコ麦のことで若旦那さまの本意でない結論を出すなら、本末転倒だと思うのです」
「そう…本意でない、か」
若旦那さまの眺める畑には、他の畑より重そうな穂が揺れています。
「ルシニア」
「はい」
「連れ出してくれてありがとう」
会釈をした私のことを、妖精たちが祝福してくれました。
*
二人で畑を見に行った次の日、若旦那さまは裁判を求めた二人を集めて判決を言い渡しました。今日は、法律の本を携えています。
「判決を下す。原告、被告、双方共に、この季節、係争の元となった畑から利益を得ることを禁じ、収穫した作物は没収する。これは問題の前と後に話し合いを怠り、不要な争いを産んだ罰である」
場所は村の中央にある広場です。見物人はいませんでした。細々とした荷物を持った私が若旦那さまの後ろに控えます。
「異議申し立てはあるか」
「ありません…」
「異議ありません…」
「では、これにて裁判を終わりとする」
裁判を起こしたお二人は落ち込んだ様子です。思ったよりも重い判決が出たことで、若旦那さまがお怒りになっていると思ったようです。収穫を没収されたことよりそちらが堪えている様子。
若旦那さまが続けます。
「それとは別に、件の畑について報告を求める。他のヒヨコ麦畑と比べて大きな粒の麦が出来ている。それぞれいつどの程度の水をやったか申告せよ。どうやらこのあたりの土地では、ヒヨコ麦が元あった土地より多めに水をやった方がいいらしい。大きな粒の麦を育てる方法がわかれば、領地全体の利益となる。よって褒美を取らせる」
お二人が顔を見合わせます。理解が追いついていないようです。
「没収した収穫物と同じ量から、種にした麦を引いた分を、二人のどちらにも与えるものとする。…地代を払うか種の麦を返した後の収穫とさほど変わらない取り分になるだろう」
「代官様!」
「旦那さん!」
「見ててください。ここらで一番の収穫にして見せますよ!」
「俺だって!」
「あまり構いすぎて枯らさないようにね」
誰よりもほっとした様子で若旦那さまが笑いました。妖精たちが楽しげに今日の天気を祝福します。
こうして、私がこの領地にやってきてから初めての裁判は幕を下ろしたのでした。