妖精とメイドとお屋敷
広いお屋敷の長い廊下をモップを持ったメイドが歩いています。私です。
昼食のお片付けが終わった昼下り。大きな窓のいくつも並んだ廊下は陽の光に明るく照らされています。
「さ、はじめましょ」
肩の上に向かって話しかけます。お屋敷にいる私以外の人たちには、何もないところに声をかけたように見えるでしょう。肩に乗っていた妖精がチリチリと翅を震わせました。私にしか見えない友人です。
先導していたウィリが絨毯を持ち上げ、肩から飛び立ったエルが床に水を広げます。風の魔法と水の魔法です。
「ほっ」
モップが通ったそばからウィリが風で乾かして、押しやられた水をエルがバケツに流し入れて、石造りの廊下はみるみるうちにぴかぴかに磨き上がります。
「できあがり」
最後にモップをバケツに入れて、私は廊下のお掃除を終わらせました。掃除道具を片付けたら、おやつはチェレスタさんの作ってくれたパウンドケーキです。
*
私の働くお屋敷は、若旦那さまが代官を務める領地の端っこに建っている大きな建物です。建物の大きさに対して勤めている使用人の数は多くありません。大半の使用人は王都にいて、若旦那さまの叔父さまに仕えているのだそうです。
家族以外に住む人のいない山奥で育った私には、お屋敷のお仕事もそこでの生活も目新しいことばかりで、何よりお屋敷の人はみんな優しくて、毎日楽しく過ごさせていただいています。
「あなたは本当にお掃除が得意ね。お屋敷中の廊下が半日でぴかぴかだわ」
パウンドケーキに感謝を捧げる私にチェレスタさんがそう言いました。その周りを無色透明な妖精がくるくると舞います。パウンドケーキの出来を祝福しているのです。
「チェレスタさんはパウンドケーキ作りがとってもお上手です」
「まっ。もう一切れお食べなさいな」
妖精の祝福を代弁するとおやつが増えました。役得です。妖精は満足気にくるりとひときわ大きく回って、台所に飛んでいきました。手入れの行き届いたオーブンやぴかぴかに磨かれたカトラリーを祝福しに行ったのでしょう。
「食べ終えたら若旦那のお皿を下げてきてちょうだい。根を詰めないようにも言っておいてね」
妖精に続いてチェレスタさんも台所に消えました。今日はヴァージナルさんが市で新鮮なお魚を仕入れてきたとか。今夜の夕食も祝福されているに違いありません。
*
お屋敷には妖精が溢れています。特に多いのは掃除したばかりのお部屋。今は廊下が人気です。ぴかぴかにしたので。
しかし例外もあります。それが若旦那さまのお部屋です。
「失礼いたします」
階段を上がってすぐの扉が若旦那さまのお部屋です。本棚には重そうな本がたくさん詰まっています。
大きな窓を背にして、若旦那さまは書き物をしていました。私に気づいた様子はありません。
掃除の行き届いた静謐な室内には一体の妖精もいませんでした。私と一緒に入室したウィリとエルが翅を震わせます。
「若旦那さま」
お返事はありません。
机の上には書類が積み上がっています。そしてなんと、チェレスタさんのパウンドケーキが手つかずで残っていました。紅茶のカップも使われた様子がありません。
私は若旦那さまの横を通って窓に近づき、大きく開きました。
「わっ、わ」
ウィリの呼び込んだ風で机の書類が宙に舞います。風と一緒にたくさんの妖精が部屋に飛び込んできました。若旦那さまの周りをくるくる回って、まるで竜巻のようです。
「ああっ、あれ、ルシニアかい。どうかしたの」
「お皿を下げに参りました」
「ああ、そう。待って今」
「若旦那さま」
パウンドケーキを手掴みしようとした若旦那さまからお盆ごとお皿を遠ざけます。
「お手が汚れてしまいます。お茶と一緒にどうぞ」
「ああ、ああそうだね。そうするよ」
若旦那さまの周りを回る妖精に、若旦那さまには聞こえない言葉で呼びかけます。
『冷めた紅茶を温めなおしてもらえない?』
一体の妖精が竜巻から飛び出してきました。紅茶に火の魔法がかかって、瞬きする内に人肌くらいの温度まで温められます。床に散らばる書類を気にしていた若旦那さまですが、カップに注がれた紅茶に観念した様子で、フォークを手にしてゆったりと貴族らしい手つきでパウンドケーキを口にしました。
「…おいしい」
「根を詰めないようにと。チェレスタさんが」
「うん。参ったな。わかったよ」
拾い集めた書類を抱えた私に若旦那さまは苦笑しました。紅茶を温めた妖精が若旦那さまの頭に乗って、翅を震わせます。人懐こい妖精のようです。
「どうだろうか。慣れただろうか」
お屋敷で働く使用人の中では一番の新参者の私を若旦那さまは気づかってくださいます。
「はい。おかげさまで。みなさん気づかってくださいます」
「それはよかった」
カップを持ち上げた若旦那さまは温かさに少し驚いた様子でしたが、何も言わずにそれに口をつけました。
「若旦那さまは、またお困り事が?」
「…ああ、少しね。そんなに困った顔をしていたかな」
「少しだけ」
「ヒヨコ麦の生育がよくないらしくて」
竜巻がみょんと上に伸び上がりました。
「涼しい土地でも育つという話だったけれど、季節が悪かったのかな。暖かい日があるといいのだけど」
ヒヨコ麦というのは最近この領地に植えられはじめた作物です。食べてもおいしいですが、牛やヤギの餌に混ぜると病気をしにくくなるとか。
みょんみょんと伸び縮みした竜巻は二つに割れて、絡み合って競うように窓へ向かいます。放っておけば領地中のヒヨコ麦畑が夏のような暑さに見舞われるでしょう。
『ちょっと待って』
竜巻は窓の前で一回転して部屋の中に戻ってきました。不服そうにゆらゆらと横揺れしています。
若旦那さまは気づいた様子もなく、ため息をつきます。
「一昨日のような日和なら、上手く育つのでしょうか」
「そうだね。丘の北側に植えた分がよくないらしい」
若旦那さまのなぞる領地の地図を見ながら、揺れる竜巻にお願い事をします。
『丘の北の、この畑に、風のある春の日くらいの暖かさを』
今度こそ、勢いよく伸びた竜巻は窓の外へ飛び出して行きました。
「若旦那さま。きっと今日からはよい暖かさになります」
「え、そうなのかい」
「実家にいた頃の知恵です」
澄まし顔でそう言うと、若旦那さまは地図をじっと見て顔をほころばせました。
「それは助かる。みんな骨を折ってくれているんだ」
頭の上に残った妖精が得意気に翅を震わせました。
若旦那さまはすべての妖精から好かれています。ヒヨコ麦のことのように、少しの願いでも口にしようものならそれを聞いた妖精がこぞって叶えようとするのです。
ただしそれは妖精のこと。妖精にわかる言葉では話さない若旦那さまの願い事は願ったとおりの結果になるとは限りません。
領地は昔から妖精の気まぐれが多いことで有名だとか。それもこれも、お屋敷の庭にある大きな樹のせいです。
窓から見える立派な樹は、いつも本当にたくさんの妖精たちに囲まれています。
肩に乗っていたウィリとエルがチリチリと翅を震わせました。ヒヨコ麦はきっと上手く育つでしょう。