裏切り
――ザラストラス、離反。
その報せは私に衝撃と絶望をもたらした。
コンラート・ザラストラス。王立騎士団の同期の中で一番の剣の使い手にして出世頭。隊を任されるのも早かった。忠誠心が強く勤勉でストイック、そして誠実で優しい私の恋人。
そのザラストラスが、王宮で開かれた茶会で刃傷沙汰を起こした男爵令嬢を庇って、彼女を連れてその場から逃走したという。そして、その捜索と連れ戻しの指令が私の率いる隊に下されたのだ。
通常であれば正装で登城し、団長室にて任務を拝命するのだが、これは緊急の案件であるがゆえにそれすらも不要だとある。準備が整い次第、非番の隊員を除いた全員で出撃せよとのことだった。
「隊長、大丈夫っすか?」
指令書を手にしたまま固まっていた私に声をかけてきたのは、新しく副隊長になったばかりのケント・バルリングだった。
仕事中にそぐわないこの砕けた口調は、おそらく私を気遣ってのことだと思う。少し頭を下げて覗き込んでくる明るい茶の瞳は、軽い見た目に反して真剣だった。
五つも年下の、二十二の若い子に心配されるなんて不甲斐ないことね。私はギュッと手に力を込めて震えを押し隠した。
「……問題ないわ。各自、十分以内に支度を整えるように通達してちょうだい、ケント」
「了解!」
まだ指令の内容は伝えずにおく。やるべきことは通常の任務と変わりないのだ。説明は全員が揃ってからにしよう。
ニッと口角を上げて笑ったケントは、うなじでくくった茶色の髪を揺らして駆けて行った。まもなく宿舎中の隊員たちが装備を整えて集合するだろう。私も支度をしなければならない。幸いにも訓練に出る直前だったため、準備は最小限で済んだ。
手袋のボタンを留めていると、ふと、頭の中にコンラートの声が思い出された。
『オーディリア』
私の名を呼ぶ、低く甘い声。
「っ……、ダメよ、オーディリア。今は任務に集中しないと……」
そう思うほどに、彼との思い出のすべてが波のように押し寄せてくる。私を抱く力強い手、何度も飛び込んだ厚い胸板。雨のような銀の真っ直ぐな髪、冷たく見える琥珀色の瞳。
背筋を正した美しい所作、きびきびとした無駄のない動き、実直な太刀筋。いつ見ても真面目な表情を崩さないのに、私に視線を向けるときだけは、厳しい雰囲気が弛むところ。
私だけに向けられる、情熱的な顔……。
「どうして……コンラート!」
私たちは国を守る騎士として、同じ方向を見ていたはずだったのに。どうして事件を起こした令嬢を庇ったりなんかしたの!
同じ騎士に刃を向けて、容疑者を連れて逃走するなんて、貴方らしくないわコンラート。そんなの、裏切りよ……。
瞬間、熱い涙がこみ上げてきて手袋の上に滴り落ちた。
そう、裏切りよ……。
彼は国も、私も、裏切った。
王太子の婚約者に刃を向けた女のことを私は知らない。けど、騎士である彼が自分のすべてを捨ててまで庇うということは、よほど大切な人物に違いない。
耳許で囁いてくれた甘い言葉は、私だけのものじゃなかったのね。
「ひどいひと……」
本当は何もかも投げ捨ててしまいたい。今すぐ、床にへたり込んで子どもみたいにみっともなく泣きわめいてしまいたい。
でも、隊長である私の矜持が、下された指令がそれを許さなかった。
彼を追うのが私であることが、良いことなのか悪いことなのかはわからない。どうして私だったのかもわからない。
でも、他の誰かが彼の胸に刃を突き立てることだけは、絶対に嫌だ! それならいっそ、私が…………。
「隊長? 全員、整列しました」
「……ありがとう。今、行くわ」
ノックの音と共にケントの声がした。
私は雫を拭い去り、ツェラー隊、隊長オーディリア・ツェラーの顔に戻ったのだった。




