ハッピーエンド
アッシュの父親――ダグワーズ伯爵が、半年ぶりに家に戻ってきた。
思ったより元気そうで、何よりだ。
「ああ、あなたが亜優様か。こうして戻って来ることができたのは、あなたのおかげだ。本当に、感謝いたします」
亜優と対面した途端、ひざを折られて慌てる。
「そんなことをされると困ります」
『聖女』と呼ばないでくれたのはよかったけれど、いい年したおじさんにそんな態度をとられるほど立派な人間ではない。
未だに、黒い靄だとか魔力だとかは感じられないし。
唯一のスキルは、自分の中では使いにくい言語能力だけだ。
伯爵はアッシュに似た顔で爽やかに笑って、頭を下げてもう一度礼を言う。
そうして、亜優の後ろにいたマリンに視線を移して、そちらに向かった。
マリンは、目を真っ赤にして、彼を迎え入れる。
そんな姿を見て、素直に良かったと思える。
ただ、森が綺麗になっただとか、魔物がいなくなっただとか、周りはいろいろ言ってくれるけれど、本当に亜優の力なのか、いまいち実感がない。
かっこよさげなセリフを吐いて、闇を吹っ飛ばす……なんてことができるのかと思ったけれど、相変わらず、亜優の視界には何も映らない。
もしも靄を吹っ飛ばしていたとしても、本人には何も見えない。
周りが「おおー」と言ってくれるだけ。
それは、どうも、恥ずかしい。
そんな、CG加工前の演技ができるほど、亜優は女優ではない。
派手なことはできないけれど、周りの言うことを信じるのならば、亜優はここに座っているだけでいいようだ。
近くにいるだけで、ゆっくりと魔に侵された人たちも、魔の気配が体から抜けていくのだそうだ。
実際に、アリスの周りで倒れていた人たちは、亜優が城にいる間に徐々に回復していった。
そう聞かされても、亜優のおかげじゃないんじゃないかと、密かに思っている。
アリスがいなくなってから、彼らはしっかりと食事をとるようになって、眠ってもいる。規則正しい生活習慣こそが、回復に向かわせた一番の理由だと思う。
「亜優、ただいま」
アッシュが息せき切って門から走ってきた。
「父さん、帰ってきた?」
「うん。今到着されて、マリン様と家の中に入っていったよ」
すぐに入るのは野暮だろうと、玄関前で、少し時間を潰している。
「そうか」
そう言いながら、家の中に入るのかと思いきや、アッシュが亜優を思い切り抱きしめる。
「ただいま」
「さっき、聞いたよ!おかえり!」
抱きしめられる恥ずかしさに、少し乱暴に返すと、耳元で笑う声がする。
「相変わらずかわいいな。父さんは後回しでいいから、二人きりになろうか」
ものすごく久しぶりに会う父親を後回しって。
突っ込もうと思ったが、先ほど見たマリンとの様子を思い出して、後回しの方がいいかもと思いなおす。
「二人きりは、無理かな。お茶にしよう?」
アッシュは必要以上に亜優を褒めて、甘やかす。そして、触るのが好きだ。
亜優はアッシュにきゅっと抱き付いてから、腕の力を緩めて、彼の後ろに目を向けた。
「お客様も一緒に……っ!?」
声をかけようとしたのに、ひょいと持ち上げられて、運ばれてしまった。
アッシュがまるッと無視しているのを気がついてはいるが、さすがに、あの人数を無視するのはどうだろう。
王太子を筆頭に、名だたる貴族たちが、列をなしている。
政務はどうしたと追い返したいところだが、未だに体調不良があり、亜優の傍に居ればいるほど、回復が早いらしい。
思い込みではないだろうかと提案したいところだが。
「俺が言うのもなんだけどね?気にしなくていいから」
アッシュも、アリスに操られた。だから、操られていたことを批判はできない。
彼らもそれぞれ愛する気持ちを無理矢理アリスに向かわされていただけなのだ。愛する人がいる人はその気持ちを。いなければ、過去の記憶から。それもなければ、他人の感情を植え付けて……。
操られていた人たちの証言を聞いて、そういうことだろうと判断された。
「そもそも、召喚時の危機管理がなってない。魔物に入り込まれるなんて、どうなんだよ。やるなら、結界も張りながらやるべきだった。しかも、入り込まれて、気が付きもせずに召喚完了させて、魔物を聖女と奉るなんて。防御の術でも張っといたら違うかもしれないのに」
いろいろと物申したいことがあるようだ。
アッシュは、テラスまで歩いて、そこに用意されたベンチにふわりと亜優を優しく座らせた。
イライラした口調とは裏腹に、亜優に対する手は優しい。
少し離れた場所では、椅子が準備されて、そこにアリスの被害者たちが座る。
「ということは、あいつらがそこら辺きちんとやってくれていれば、俺は操られなかった!」
――というところに行きつくようだ。
「そうしたら、私は森に捨てられてないよ」
アッシュとは会っていなかったかもしれない。
反論しても、アッシュはふんと鼻を鳴らす。
「城に居たって、可愛い亜優を口説かないわけがないだろ。こうなるのは当然だ。俺は何があっても亜優を口説き落としてみせる」
みせられても困るのだが。
本当は、召喚なんてやったやつが悪いと、訴えようかと思った。
だけど――
亜優は、目の前に準備された紅茶に口をつけながら、ちらりとアッシュを見る。
亜優の視線に、嬉しそうに目を細めてアッシュが首を傾げる。
思いが通じてから、アッシュは暇さえあれば亜優に触れている。
今も、ベンチで隣に座り、亜優の腰を引き寄せている。
「愛してるよ」
そして、惜しみない言葉をかけてくれる。
アッシュは、多分知っているんだ。
亜優が、未だにアッシュが操られていた時の様子を夢で見たりしていることを。
別の女性のことを思いながら語るアッシュの姿なんか見たくなかった。――見たくなかったけれど、一番亜優の心に傷として残ってしまった。
それを、彼は言葉と行動で癒そうとしてくれる。
くすくすと笑う亜優を抱きしめて、アッシュは「かわいい」なんて言いながら、彼女の頭に頬を摺り寄せる。
「もう、ずっとこうしていたい」
ついに、亜優を膝に抱き上げ、頬にキスをしてくる。
「ちょっ!?人前でこれはっ!」
慌てる亜優を抱きしめて、アッシュは楽しそうに笑う。
向こう側に座っている人たちの様子なんか見られない。
恥ずかしさにむくれる亜優を見て、アッシュはその顔さえも可愛いと言う。
亜優は諦めて、アッシュの膝の上で、抱きしめられたまま、空を見上げた。
青い空。雲が浮かび、太陽が照らす。
同じ空に見えるけれど、空気が違う。
亜優は、排ガスが混ざったような空気も、懐かしさを感じて意外と好きだった。
「亜優?」
遠くを見る亜優に、アッシュが不安そうな色をにじませて、顔を覗き込んでくる。
亜優の様子に敏感なアッシュの様子に、笑みが浮かぶ。
ふっと、体の力を抜いて、アッシュの体に腕を回した。
今まで好き勝手にくっついてきていたというのに、途端に固まるアッシュが面白い。
亜優は、じんわりと幸せを感じる。
亜優の居場所は、もう向こうの世界にはなくなってしまている。
そして、ここには、しっかりと亜優の居場所が出来上がった。
亜優は笑う。
幸せだと。
アッシュの胸に頭を預けて、彼にしか聞こえない小さな声で囁いた。
「私もずっと、こうしていたいよ。……大好き」
感動に打ち震えたアッシュが涙を流したのは、見なかったことにしてあげよう。




