矛盾する愛しさ
ある日、母から手紙が届いた。
侍従がここまで届けてくれるのだが、これ以上聖女の視界に他の男が入ることをやめてほしい。
奪うように受け取って、すぐに仕事に戻るように、追い返した。
内容は、帰ってこいという知らせ。
――なぜ?ここに、●●がいるのに。
それでも、母からの手紙を無視するわけにはいかない。聖女に少々席を外す許可をいただいた。
彼女は面白くなさそうに、ふんと鼻を鳴らしただけ。
アッシュは心が砕け散った気分だった。
あの黒曜石のような瞳に冷たい目で見られたら、耐えられない。
――聖女は青い瞳だ。……覚え違いか。……まあ、いいだろう。
あちこちに散らばる、頭の中と現実のずれ。
深い思考ができなくなっている。何かを考えることが億劫だ。ただ、ただ、聖女の言うことを、愛しい彼女の言うことを聞いているだけが幸せだ。
家に行くと、見慣れない女が……いや、亜優だ。
今まで忘れていた、彼女への自分の態度を思い出す。
彼女を愛しく思っていた……?いや、違う。自分が好きなのは、聖女だ。彼女ただ一人。
聖女を脳裏に思い浮かべる。
白い肌に、サラサラの光を放つ黒い髪。驚いた顔をすると、黒い瞳が、まん丸になって愛らしい彼女。
――聖女と色が違う。驚いた顔なんて見たことも無い。
誰かが、奥の方で叫んでいる気がする。
記憶と違うのに、アッシュが愛するのは聖女だと……そこだけは、縛られてしまったように変わらない。
亜優が悲しそうに目を伏せた。
何故だか、辛くて亜優を見れない。
それなのに、近寄って慰めたくて仕方がない。
わからない。訳が分からない。
だから帰ってきたくなかったんだ!
わけのわからない矛盾は、怒りに変換された。
アッシュは怒りに支配されたまま、家を後にした。
――愛しい愛しい。 #亜優を見るたびに、聖女への愛しさが膨れ上がる__・__#。
何故、亜優を見ると、聖女を愛しいと思うのか、よく分からない。
分からないけれど、愛しい人のもとに帰らなければ。
アッシュは、城に急いで帰った。
それからは、ずっと聖女の傍に張り付いていた。
食事も睡眠もないがしろにして、彼女の傍に居た。その甲斐あって、聖女の傍に膝をつける権利を手に入れられた。
他の男がいることが気に入らなかった。
本来なら、●●は、自分だけのもののはずなのに――!
「アッシュ。私を独り占めなんかできないわ。そんなに怖い顔をしては、雰囲気が台無し。そこに居させられないわ」
「--!申し訳ありません!いいえ、いいえ!聖女様。私はあなたが気分を害することなどいたしません!」
アッシュは必死で許しを請うた。
ああ、あんなに優しい彼女に、こんな言葉を言わせてしまうなんて。テントの中で、少しだけ眠る場所を確保するだけのことを、恐縮するほど遠慮深い彼女が、アッシュを厭うている。
誰が見ても細くなったと言われる体を床に押し付けて、ぶるぶると震えた。
「ふふ。いい子ね。じゃあ、血を流して」
「はい……」
アッシュはよたよたと立ち上がって、袖を捲り上げて、そこにナイフを突き立てた。
どろりとした血が浮き出てくる。
血は、こんな風にあふれるものだっただろうか。
聖女は嬉しそうに口を近づけてくる。
この時だけが、彼女に触れられる時間。彼女の麗しい唇が、アッシュの腕に吸い付いてどろりとした血をすするのだ。
ああ、なんて甘美な時間。
「ああ。アッシュ。あなたは特に美味しいわ」
ただ、この至福の時が過ぎた後は、しばらく体がピクリとも動かなくなる。
全て、根こそぎ持って行かれたような気分だ。
しかし、それさえも、聖女の役に立っているのだと思えば、幸せで、アッシュは床に寝そべったまま意識を手放した。
そんな日々を、どれだけ過ごしただろう。
もう、昼も夜も区別がつかない。永遠に膝をついて、彼女の傍に居る。
ただ、食べられる時を待って、そこに侍っているだけだ。
そんな #幸せな__・__# 時を過ごしていた時。
――どうか、どうか、幸せに。
――ありがとう。
優しい、歌のような声が届いて、アッシュは顔を上げた。
「どうしたの?アッシュ」
聖女が別の男の血を吸いながら聞いてきた。
吸われていた男は、憎々しげにアッシュを睨み付けてくる。
それはそうだ。至福の時を邪魔されて怒らない人間はいない。
「いいえ……申し訳ありません」
そう返事をしたが、アッシュは、頭の中が、妙にクリアになったのを感じていた。
今は、何日だ?こうして過ごしてどれくらい経つ?
今まで気にもしなかったことが気になる。
聖女は、アッシュに蔑んだ視線を向けてから、また血をすすり始める。
――幸せになって。この世界で、初めて優しくしてくれた人
愛しさに、涙が出そうになった。
どうして、こんな自分に、そんな風に祈ってくれるんだ。
誰が祈っているのかが、分からない。だけど、誰よりも愛しい人。それは、聖女のはずなのに。目の前にいるはずなのに。彼女を前にするだけでは、愛しさはこみあげて来ない。
愛しさがあふれるのは――
アッシュは、立ち上がった。
聖女がその姿をちらりと見た瞬間、ノックが響いた。
「入れ」
アッシュは勝手に返事をした。
聖女以外に、この部屋で何かを考えられる状態にあるのは自分だけだと判断したからだ。
勝手に返事をした事に、聖女が眉を寄せるけれど、今はそれも気にならなかった。
侍従は、アッシュが立ち上がっていることに驚いた様子を見せるが、すぐに手紙だけを手渡しして辞去する。
リキトからの手紙だった。
亜優を、預かることになったという手紙。
亜優のことを考えると、胸に聖女への愛しさがあふれる。
何故だ。何かおかしい。
「アッシュ。戻りなさい」
聖女の声が響く。
愛しい彼女。
アッシュは全身が震えるのを我慢して、振り返らずにドアを開けた。
そのまま、すぐに馬車を準備して家に帰ったのだ。




