浄化?
大きなため息が頭上から聞こえる。
マリンが呆れて見ているというのに!
本気で逃れようと体をひねってみるけれど、させないとばかりに彼の力が強くなる。
「アッシュ!」
亜優は、怒って大きな声を出してしまう。
さっきまでは、苦しんでいたから触れさせたけれど、他に好きな人を作ってきて、捨てた女に抱き付くなんて。
――抱き付かれるなんて。どんなに辛いか分からないのか。
亜優の大きな声に、アッシュの腕の力がようやく緩む。
だけど、完全に離れることはしない。
亜優の顔を、アッシュは覗き込む。
亜優は、一生懸命涙を我慢している顔を見られたくなくて、顔をそむける。
しかし、それも許してくれなくて、アッシュは懇願するような声を出す。
「こっちを向いて。目を見ながら言いたいんだ」
今さら何を言いたいというのか。
自分のことが好きな女の泣き顔でも、見たいというのか。
もう放って置いてほしい。
一人で生きていけない女になんかなりたくない。
亜優は、アッシュに文句を言うために、彼を睨み付けた。
アッシュは、亜優からの厳しい視線に一瞬驚いた顔をして、悲しそうに眉を下げる。
アッシュが悲しそうにするのは、おかしい。亜優は、その表情にさえ怒りが沸く。
「聞くことは無い。話すこともない。私は、ここを出て行きます」
「亜優っ……!」
叫ぶアッシュの声に、別の声が被った。
「アッシュ。早いな」
声の方向に視線を向けると、リキトがのんびりと歩いて来ていた。
「早いな……って?」
亜優の方がその言葉に反応すると、リキトは意地悪そうに笑って顎をくいっと上げた。
「一応、現在の保護責任者に、俺がもらうって旨を伝えたんだ。それが、今朝の話」
今朝、連絡を聞いて、すぐにここまで来たということか?
それは、早い。聞いた途端、帰宅したような感じだろう。
「私も連絡していたのだけど、私からの連絡は見ていないのね」
マリンが苦々し気にアッシュを睨み付けている。
アッシュも分かっているのか、マリンから目をそらしてばつの悪そうな顔をしている。
リキトが傍に来て、地面に膝をついてアッシュを覗き込む。
「……今まで、お前が何をしていたか、記憶はあるか?」
真面目な顔のリキトを見返して、アッシュは泣きそうに顔を歪めた。
「ああ。失くしてしまいたいと思うような記憶がある」
アッシュは亜優を見下ろして、抱き付いていた腕を解いた。
だが、またギュッと痛みを感じたようで、亜優の手を握る。
さっきまでは亜優に触れたら痛んでいたようだが、今度は放すと痛いのか?
なんだか、都合の良いようにされている気がして、気分が悪い。
亜優の表情から、いろいろと読み取るのだろう。
アッシュは、小さな声で「ごめん」と呟いた。
「亜優……ごめんなさいね。今は、アッシュはあなたの浄化が必要みたいなの」
マリンが申し訳なさそうに、アッシュのそばについていてほしいと言う。
ジョーカ。……浄化?
亜優が何を浄化していると言うのか。
というか、そんなことをやっているつもりはないのだが。
そこに、馬車の大きな音がして、医者が到着した。
立ち上がれないアッシュは、リキトから担ぎ上げられて、情けなさそうな顔をする。
手をつないだまま、その表情を見上げて、ちょっと気分が上がった。
アッシュが手を放してくれない。
医者が到着して、客間へ入り、診察が始まる段になっても手を放さない。
医者の前の椅子に座るアッシュに手を握られて、彼の傍らに立ち尽くしている。
アッシュの母親であるマリンよりも、彼の近くにいさせて、何がしたいんだ。
手をグイッと引っ張ってみても、アッシュは亜優を見上げて不思議そうに首を傾げる。
別に君を呼んだわけではない。手を取り戻そうとしただけだ。
「手をいい加減放してほしいんだけど」
「無理」
あっさりと断られて二の句が継げない。
マリンとシェアを見ると、真剣な表情をしていて、この状態の亜優をからかおうとしているわけではないようだ。
医者はいぶかしげにしながらも、亜優の事には触れずに診察を開始する。
ようやくまともな反応が得られたと思っていると、特に突っ込みもなくマリンたちと同じように真剣な表情になってしまった。
「過労と軽い栄養失調の症状がありますね」
アッシュの痩せ方からそうだろうと予想はついていた。しかし、倒れるほどだったのに、症状として軽いと診断されるのか。
「これ以上は、神官が相当かと思うのですが」
医者が困ったように亜優に視線を走らせる。
その視線の意味が亜優には分からないが、周りの人たちは納得したような空気が流れる。
「私も、聖水を持ってはいますが……不要でしょうね」
「ええ」
アッシュがすぐに頷く。
聖水が何の役に立つのか分からないが、何か効果があるのならもらっておいた方がいいのではないだろうか。
無茶苦茶高いとか?でも、ここの家が、アッシュの体調不良に金惜しみをするとは思えない。
医者はアッシュの言葉に頷いて、少しの間、視線をさまよわせる。
「…………彼女は」
言おうかどうしようか迷って、どうしようもなくて出してしまったように、声を発する。
彼女。亜優の事だろう。
やはりこの状態は気になっていたのではないか。なにしろ、患者がずっと横に立つ女性と手をつないでいるのだ。
邪魔だったに違いない。
もっと早く言ってくれればいいのに!もう慣れつつあったではないか。
亜優が口を開こうとした途端、マリンが前へと進み出てきた。
「どうか、内密に。この後、必ず公になる事でしょうが。――息子がこうなった以上、すぐに動くつもりでおりますわ」
「……承知いたしました」
医者はマリンに深く頷いた後、亜優に視線を動かし、一番深く大きく頭を下げた。




