出て行く日
この家を出て行く日の朝。
もうすぐ、リキトが迎えに来て、亜優はこの家を去る。
亜優の荷物はそれなりに増えてしまった。数カ月は給料が出ないと言われていただいた服などが大半だ。
これから、少しずつ返していこうと思う。
そんなことをマリンに言えば、すでに不機嫌そうな顔をしている彼女が怒ってしまいそうだ。
亜優はシェアに、借用書を預かってもらった。彼も渋っていたが、自分なりのけじめだと言えば、渋々受け取ってくれた。
金額はシェアから聞いた金額だから、そもそもが甘えてしまった金額になっているかもしれない。
それさえも分からないのだ。
すみませんと頭を下げた。そして、ありがとうございます――と。
本当だったらアッシュにもお礼を言いたいのだが、彼は戻ってこないので、シェアに手紙を言づけることにする。
さあ、最後に庭の草むしりでもしようかと玄関を出たところに、馬車が走り込んで来た。
もうリキトが来たのかと思ってみていると、馬車から降りてくる男性の姿に驚く。
頭を押さえながら、よたよたと馬車から降りてくるのは、アッシュだった。
亜優の気配に気がついて、彼が顔を上げる。
アッシュは亜優を見て目を丸くする。
亜優も、アッシュの姿を見て目を丸くした。
数日しかたっていないと言うのに、彼は青白い顔で今にも倒れそうな様子だった。
前回帰ってきた時も、亜優が知っているよりも、たった数日で痩せてしまっているとは思ったが、さらにひどくなっている。
しかも、門から歩きではなく、玄関まで馬車で乗り付けるなんて。
歩くのが好きなんだと、はにかんで笑っていた彼はどうしてしまったのか。
「アッシュ、体調悪いの?」
そこに立っているのさえきつそうな様子に、亜優はどうしたのかとアッシュにかけよる。
「亜優、ここを出て行くって本当か?」
二人同時に質問をして固まる。
アッシュは、息苦しいのか、胸元をかきむしるような仕草をしている。
亜優は、アッシュを安心させなければと、急いで答える。
「はい。いつまでもご迷惑をおかけするわけにはいかないから……リキトが、家庭教師として雇ってくれることになったから。そっちにうつるよ」
だから、亜優のことはもう心配する必要はない。
いつまでも、彼に寄生していくわけにはいかない。
そう伝えたつもりだった。
なのに、アッシュは傷つけられたような表情を浮かべる。
「……そうか。いつまでも、ここに居てはくれないよな……」
まるで、亜優に居て欲しいかのような口ぶり。
亜優だって、居てもいいならば、アッシュの傍に居たいと思う。
でも、そんなわけにはいかないじゃないか。
亜優は彼の呟きは無視して、彼の体を眺めながら言う。
「アッシュ、とても痩せたね。仕事……どう?」
リキトと会ったことは先ほど伝えたので、自分が仕事をさぼりがちなこともリキトから聞いていると察しているだろう。
亜優は純粋に心配して聞いたのだが、アッシュはそうは捉えなかった。
悔しそうな表情で、ギリッと音が聞こえるほどに歯をかみしめる。
「仕事……仕事、か。そんなこと、やる時間がないんだよ。いつも、彼女の傍に居ないといけないからっ……!」
仕事を『そんなこと』と表現するアッシュに、胸の痛みを覚える。
アッシュは、仕事に悩んではいたけれど、一生懸命に隊を率いようとしていた。悩んで、卑屈になっている部分もあったけれど、それは全て己の力不足を感じてのことだ。
亜優が口にした言葉も、素直に受け取って笑い流してくれた。
余裕が無かったとはいえ、あんまりな発言をしたと思っている。リキトは眉をひそめていたし。
初めて出会った女から、けしかけるようなことを言われても、それを力にできるような人だと思っていたのに。
それを、今や放り出してしまっている。
マリンもリキトも、みんな心配している。
会って間もない亜優でさえも、アッシュが仕事に誇りを持っていたことは分かっている。身分だけだと言われたくなくて、先頭に立ち、過酷な討伐隊として戦っていた。
――なのに、どうしてしまったのか。
何度も何度も問いかけた言葉を、また、心の中で呟いた。
それは、あの聖女のせいなの?
問いかけてしまえば、彼は怒ると思い、口には出せない。彼を傷つけたくないなんてきれいごとは言わない。
自分が傷つきたくない。亜優を非難して、別の女性を擁護する姿を見たくない。
だから、亜優は話を変えた。
「ちゃんと、ご飯は食べてる?」
二番目に心配していることを聞いた。
アッシュは亜優を首を傾げて見る。
「痩せたっていうけど……そうかな。他の……だれだっけな。他の奴からも言われたような気がするけど、あまり自分では感じない」
「感じないって……」
感じられないほどの変化ではない。一月も経たないうちに、病人のようになってしまっている。
アッシュは大きな人ではなかったけれど、軍人として鍛えた体は、近くに来れば圧迫感があるほどだったはずなのに。
「こんなに痩せてしまっているのに……?」
アッシュが自分の体を見下ろしもしないから、彼の袖を捲り上げようと亜優は手を伸ばした。
「ぅわっ」
軽く、腕に触れようとしただけなのに、アッシュはおびえるように亜優から飛びのいた。
悲鳴をあげられた亜優は、目を丸くしてアッシュを見返す。
「わ、悪い」
驚いて固まった亜優に向けて、アッシュは震える声で謝る。
しかし、亜優をチラチラと見るその目には、嫌悪感が浮かんでいるようにも見える。
一体、自分は、彼に何をしてしまったのだろう。
どうして、いつからここまで嫌われてしまっているのか。
もしかしたら、聖女が亜優のことに気がついて、彼に何か言っているのかもしれない。
アッシュの様子は明らかにおかしいけれど、これ以上、亜優が介入していくわけにはいかない。
亜優は、今日からもうこの家を出るのだ。彼に関わらないように生活をしていこう。
またにじんできそうな涙を隠して頭を下げる。
「ごめんなさい。急に触ろうとして。軽率だった。……そ、そんなに嫌われたとは、思ってなくて……今日、もうここから出て行――」
「違うっ!!!!!」
大きな声に驚いて顔を上げると、アッシュが喉を押さえてうめいていた。
喉が痛いのか、息が苦しいのか。苦しんでいるのに、苦しみながら、「違う」と言いながら喉を掻きむしっていた。
「アッシュ!?」
頭を振り回して、思い切り頭を掻きむしって暴れまわるアッシュ。
暴れながら叫んでいるので聞き取りにくいけれど、大半が「嫌だ」「違う」と叫んでいた。
「アッシュ様!?どうなさったのですかっ!」
アッシュの悲鳴が聞こえたのだろう。シェアとマリンが家から走り出てきた。
「亜優?アッシュはどうしたの!?」
マリンが亜優へ問いかけるが、亜優だって分からない。突然叫び出したのだ。
「わ、分かりません。突然こうなって……」
全身をかきむしりながら叫ぶアッシュの爪に血が滲み始める。
分からないが、錯乱状態にあることは確かだ。
止めなければと、亜優は暴れる彼の腕を掴む。
「アッシュ、とにかく一旦落ち着い――」
「――ぅうわあああぁああっ!!!」




