懐かしい人
その宿屋の食堂を見ている時、見知った顔と目が合った。
「亜優じゃないか。飯か?」
女一人でなにをしているんだと、表情に表しながら、リキトが近づいて来る。
リキトは、ここで食事をしていたらしく、彼が座っていたテーブルには空になった皿がたくさん並んでいた。
何とか誤魔化したいなと思いながらも、彼はこの店の常連なのかもしれない。
それなら、亜優がここで働き始めれば、よく顔を合わせることになるだろうから、無駄なことだ。
「ここで働くことになったんです」
わざとらしいくらいの笑顔を張り付けて、亜優は答えた。
「は?なんで――……アッシュか……」
聞こうとしたところで、アッシュの状態を思い出したのか、苦い顔で黙ってしまった。
「アッシュと、何か話しているのか?」
リキトも、アッシュが何も言わずに亜優を放り出したりしないことを知っている。
アッシュは優しくて、責任感が強い人だから。
「はい。好きな人ができたと、聞きました。私は、きちんと独り立ちしないと」
大丈夫だと思って欲しい。
変な同情はいらない。
意地だけで、何も言わないでくれという想いを込めて微笑んだ。
「――聖女サマ、か」
リキトが、頭を押さえて深いため息を吐いた。
どうしようもないというように髪をかき上げ、渋い顔を見せる。
「あの野郎。訓練にもあまり顔を出さないようになってきやがった」
リキトの言葉に、今度は亜優が驚く。
ずっと家に帰ってこないから、昼は仕事で、仕事が終わった後はずっと聖女の傍なのかと思っていた。
仕事の時間まで、聖女の傍に居るのか。
「リキトは?」
聖女の傍にいたくはないのかと聞くと、苦笑いが返ってきた。
「俺は、聖女にお目通りが叶うほど身分が高くない」
直接会ったことは無いのだという。
身分が高いものや、見目麗しいものは、聖女にお目通りが叶うらしいが、リキトは範囲外だったようで。
「じゃあ、亜優はここで働くのか。他の仲間にも伝えておくよ」
リキトの言葉に、亜優は笑顔を返した。
「あ、でも、森に捨てられていたとかは、内緒にしてね」
小さな声で伝えると、リキトは「当たり前だ」と怒った顔をする。
「お前が危なくなるようなこと、俺たちがすると思うな。それなりに危ない橋をわたって、腹の探り合いだってできるんだからな?」
別に脳筋だとか思っていたわけじゃないけれど。駆け引きなどは、一番苦手な部類ではないかとは思っていた。
たった二日しか一緒にいなかったけれど、彼らともう一度会えるのは嬉しい。
『楽しみ』だと、伝えようとしたその時。
「……亜優?お前……アサト様と知り合いなのか?」
呆然とした声が聞こえた。
振り向くと、この宿屋の主人だった。
亜優が身元を明かす物を持っていないと知っても雇ってくれると言ってくれた人だ。
亜優は、身分を証明することはできない。
聖女と一緒に呼ばれた女だとバレれば、すぐに捕らえられて、今度こそ確実に殺されるだろう。
そんな怪しい女を、あまり良い給金は出せないがと、断って雇ってくれることになった。
「はい。少し前に助けていただいた方で」
リキトとの関係を説明しようとすると、とても短い時間だし、薄っぺらい。
すぐに説明が終わってしまうと思っていると、
「俺たちも助けられたんですよ。今回戻った魔物討伐隊、全員がね」
笑みを含んだ声でリキトが付け加えた。
亜優は助けてもらっただけで、助けてはいない。
リキトを見上げると、いたずらっ子のような笑みを浮かべていた。
どんなところが、と問えば、多分、アッシュの面白い姿が見れたとか、癒しだとか、そんな言葉が返ってくるだろう。
こんな軽口が嬉しくて、亜優も微笑んだ。
しかし、宿屋の主人は、真逆の表情で目を見開いていた。
「あ……ええと、討伐隊の方、全員と知り合い……?」
ちょっとした軽口のはずなのに、宿屋の主人は顔色を失っている。
「あの……?」
討伐隊と知り合いだったら、何かまずいのだろうか。
亜優よりは、ずっと身元も確かだし、人間たちの英雄のはずだ。
「何かまずいか?亜優がここで働くのなら、討伐隊のメンバーは必ずこの店を訪れるだろう。俺は間違いなく常連になるね」
リキトがおどけたように言うので、亜優も笑顔を返して、その視線を主人に向ける。
しかし、主人は、おどおどと亜優から目をそらしながら言う。
「あ~、あの、食堂はもう人手が足りていてね」
「はい。では、どこに?」
なるほど。ここは宿屋だ。食堂のほかにも働き場所があるのだろう。
部屋の掃除だろうか。
それともフロント?
彼らが来てくれるというのに食堂にいられないのは残念だが、贅沢は言ってられない。
「それで、あの、宿の方も、もう人手はいらないんだ」
「はい?」
では、どこで働くというのか。
住み込みの仕事があるという話だったのに。
「君は……あの、部屋付きになってもらおうと思っていてね」
部屋付き?部屋で監視をする役目だろうか?
いまいち言葉の意味が分からず、亜優が首を傾げていると、リキトの低い声が聞こえた。
「売る気だったのか」
――売る?亜優を?
「はっ……あの、いえ、しかし……あの、夜の話し相手として……」
夜の、話し相手。
それは、どういう仕事か……。
背筋に寒気が上ってくる。手足が震え始める。
「この場所で売春は認められていない。違法風俗業か」
「はっ……話し相手です!うちはそういうふうに斡旋していてっ……!」
リキトは主人を睨み付ける。
主人は「ひっ」と小さく悲鳴をあげて口をつぐんだ。
「詳しい話は後日聞かせてもらおう。亜優、来るんだ」
主人は、恨めし気に亜優を見上げてくる。
「こんな知り合いがいるなら先に言っておいてくれよ。身元不明な人間がまともな仕事探しなんてできるわけがないだろう」
小さな声で、亜優にだけ聞かせるように主人が呟いた。