夢見るように
「すみません、マリン様――」
少しばかり慌てていたので、ノックをしなかった亜優が悪い。
「あんなに美しい子に……初めて会ったよ」
いきなりドアを開けるなんて。
本当に、自分の間の悪さに、涙が出てくる。
きちんとノックをしていれば。
しっかりとマリンから返事をもらっていれば。
アッシュの熱に浮かされたような……恋する表情を見ないで済んだ。
彼の表情を見て、部屋の入り口で固まってしまった。何も反応ができなかった。
突然部屋に入ったことを謝罪することも、聞かなかったことにして部屋を出て行くことも、どちらもできなかった。
アッシュが、亜優に気がついて、さっと青ざめて、気まずそうにうつむいた。
しかし、マリンは逃がさないとばかりに問い詰める。
「美しい子って……誰のことを言っているの?その子のせいで帰ってこなかったというの?」
「せいだなんて……!やめてくれ。彼女が悪いわけじゃない」
マリンが少しだけ、『その子』を責める口調で言っただけなのに、アッシュはマリンを睨み付ける。
マリンを非難する口調にも、一瞬で亜優の存在を消し去ったアッシュにも驚かされる。
さっきまで浮かべていた、申し訳なさそうな表情は影も形もない。ただ、マリンに対し怒りをあらわにした。
彼の表情の変化に、この人はアッシュではないのかもしれないとさえ思った。
「彼女は、何も悪くない。自分が……俺たちが、彼女の傍に居たくて、お近くにいることを望んでいるんだ」
アッシュは、彼女のことを思い浮かべたのか、微笑みを浮かべる。
熱に浮かされたように虚空を見つめたまま、うっとりと語るのだ。
「素晴らしいんだよ。彼女に見つめられるだけで幸せに満たされる。俺は、ずっと彼女の傍に控えていたい」
これまでアッシュを問い詰めていたマリンも目を見開いて固まっていた。
「なんてこと」
小さく呟いた声が、亜優の耳に届く。
俺……たち?
わざわざ言いなおしたのだ。複数で女性を囲っているということか?
「どこのだれなの、それは?」
マリンは、表情でふしだらだと伝えていた。
アッシュは、マリンの表情に憤ったように声を荒げる。
「聖女様だ。彼女は聖女だ。清廉で潔白……彼女以上の女性はいない」
亜優の存在は、もう気にならないようだ。
亜優は、もう存在しないように視界にも入れてもらえない。
アッシュは、夢見るように微笑んでいる。
彼女の手を取る想像でもしているのか、幻を相手にするように、アッシュは膝をついて手を伸ばす。
――聖女。
真っ白なワンピースを着た、綺麗な女の子。
あの場にいた人は、全て彼女に魅了され、亜優のことは視界に入ってもいなかった。
――彼女に会った後は、アッシュもそうなってしまうのか。
亜優はぼんやりとアッシュを見つめた。
すーっと、頬を伝わる水の感触がして、慌てて踵を返した。
「失礼します」
小さな、小さな声で退室することを伝えた。
シェアだけが亜優に目で合図をしたけれど、他から返事はなかった。
振り返れば、もしかしたら、マリンは亜優を心配そうに見ていたかもしれない。
アッシュはどうだろう……。
彼が気がついてないといい。
亜優は、アッシュと想いを交わしたわけではない。
ただ、見たことがない彼の表情に、アッシュはこんな風に愛する人のことを語るのだと分かった。
その相手は、亜優ではなかっただけのこと。
精神的に追い詰められていた時に出会った女性を、好ましいと勘違いしただけの話。
亜優もアッシュも、明確な恋心は抱いていなかったのだから。
抱いていない――と、ついさっきまで思っていた。
知らずに涙が流れるだなんて。こんなになるほど好きになっていることに気が付かないなんて、とんだおまぬけだな。
亜優は自嘲気味に笑った。
その日のうちに、アッシュは城に戻っていった。
……いや、アッシュは夕食を食べ終わったらすぐに、「もう帰る」と言って城に行った。
帰る場所は、もうあの聖女様の傍なのだろう。
泣き顔を隠して、玄関まで見送りに出た。
これは、ぎりぎりのプライドだ。
亜優は、今はここでは使用人なのだ。
雇い主の息子が登城するというのに、何も用事がないと言うのに部屋に閉じこもっているわけにはいかない。亜優の立場はそうだったはずだ。
ただ、彼を一度だけ見送ったマリンの隣ではなく、他のメイドたちと同じ列に並び、同じように頭を下げた。
彼が亜優の方を見て、苦しそうな顔をしたことに気が付いていた。
彼は、優しいから亜優を気遣ってくれている。亜優が気がついていなかった恋心に、彼は気がついて、答えようとしていてくれたのかもしれない。
その前に、彼自身が本当に愛する人を見つけてしまった。
亜優は、大丈夫だと言うように彼に微笑んだ。
アッシュに、安心してもらいたかった笑顔だったのに、きっとそうできていなかったのだろう。
彼は、グッと辛そうな声を漏らして胸を抑えた後、それ以上亜優に視線を向けることなく足早に出て行ってしまった。




