春の海原
シドニーのビーチから沖へと離れた海面に浮かべたボートの上。僕は水平線に近づいた夕日を友人のリリーと一緒に眺めていた。
今、この大海にいるのは僕達だけだ。
「飛行機のチケットは取れたの?」
ふと思いついたようにリリーが言った。
「うん。ギリギリ間に合った。うっかりしてたもんだよ」
「そう……」
「うん……。それにしても綺麗な夕日だな。日本じゃこんな絶景は中々見られない」
「そう?」
「うん。でもこれで見納めか」
「日本にもいっぱいあるじゃない。夕日が綺麗な所」
母国の話題を自分から出しておきながら、僕は別れが近いのを実感して辛くなってしまった。
「そうかな……」と、やっとの思いで返した。
それっきり、お互いに交わす言葉を見つけられず、穏やかな波の音と共にじんわりと水平線に欠けていく夕日が時間を急かしている。まるで砂時計の砂が落ちていく様な……。
「リリー、あのさ……」
堪りかねて僕は友人に話しかけた。リリーはハッとして振り向いた。
「どうしたの?」
特に話題も無く呼び掛けてしまった僕は「えっと……」と迷った挙句に、
「寒くないか?」
と苦し紛れに聞くしかなかった。
「大丈夫。ありがとう」と、微笑みが返ってきた。
僕は日本のとある企業に勤めているのだが、半年前にここオーストラリアに転勤して来てリリーと知り合った。肩までの長さの黒髪と明るい鳶色の眼に、薄っすらとベージュの入った白い肌が印象深い中国系のオーストラリア人で、日本人の中でも珍しい部類だった僕の名前を中々覚えてもらえなかったのがまだ記憶に残っている。
ぼんやりとこの半年間を振り返って、リリーと同僚でいられた事に僕は感謝していた。
ただ――、
「……ねえ!」
リリーの声に意表を突かれて、僕は「わっ!」と軽く声を上げた。どうやら彼女が呼んでいたのに気づいていなかったからしい。
「大丈夫?なんか魂が抜けてたよ」
「ごめんごめん。で、どうした?」
「いや、その……辞める理由をまだちゃんと聞いてなかったから」
「ああ、それは……」
僕は口籠った。
「なんていうか、その……単純に疲れちゃってさ。色んなことに雁字搦めにされて、少し参ってしまった」
「うん……」
リリーは今ひとつ納得いかない様子だった。
「何かまずい事言った?」
「いいえ。ただ……それなら何か、言って欲しかったなって」
「えぇ?何を」
「何をって……」
リリーの声のトーンが下がって、僕は今のが無神経な聞き返しだったと気付いた。
「半年間とはいえ私はあなたの事を良い同僚だと思ってたのよ。それなのに、ほとんど何も言わずある日突然『辞めます』なんてあんまりじゃない?」
早口の語気が強まる。夕日に照らされた顔に、真っ直ぐ見つめる瞳が見開かれていた。
(そうだよな……)
自分でもそう思う。確かに、こんなにドライな別れ方をするのが胸の中に引っかかっていた気がしていた。
「ごめん。でもどう伝えればいいのか分からなかったんだ。相談しようにも、似たような状況で皆んな仕事してるからさ……」
「だったら一緒に頑張れば良かったじゃない」
「だからだよ。そんな中で不満ばかり溜め込んで挫けてしまうなら足手纏いになるだろう」
僕がそう言うとリリーは恨めしそうな眼を向けた。
鮮やかなオレンジの空の下、彼女の黒髪がサラサラと潮風になびく。
「私はこんなお別れはしたくなかった……」
半分近く海に沈んだ夕日に向き直りながらそう呟く様に言って、鳶色の眼が寂しそうにしていた。
何も言えない僕はそっと目を閉じて深呼吸した。
僕もだよリリー。本当に悪かったと思ってる。だから落ち着いたらいつかまた会おうね……。そんな風に言ってやりたかったけど、この声が震えてしまいそうな気がして言えない。
波音が重い静寂を誤魔化している。
その時だった。
ボートのすぐ傍の海面を勢いよく弾む音が響いて、僕はビクッとしながら目を開けた。
大海原を飛び上がったしなやかなシルエットが、夕日の逆光を浴びて浮かび上がる。
イルカだ。
気まずい沈黙の中にいた僕達を見かねて励ましてくれた様にも思えたそのイルカは、波しぶきを上げて再び夕日に染まった海へと戻って行った。
「今の見た!?」
顔を見合わせたリリーがそう言った。
「見たよ。すごかったな」
話す僕らの傍にいたそのイルカは、満足そうに背びれをのぞかせながら離れて行った。彼、若しくは彼女の向かう先には、仲間たちと思われるイルカの群れがいる様だった。
「ねえリリー」
イルカを見送りながら、自分でも不思議なくらいに自然に、楽に明確に、僕は大切な友人に呼び掛けた。
「ん?」とリリーは僕を見た。
夕日に照らされた顔立ちと瞳が生命力に満ちていて、美しい。
「実を言うとね、僕も引っ掛かってたんだ。こんな風に別れるのは寂しいなって……。でも皆んなはあまり気にせず仕事を続けるんだろうと思ってさ、それで良いと思ってた」
「うん……」
「リリーに対しても。まさかそんなに気に掛けてくれるとは思ってもみなかったんだ。でもやっぱり、ぞんざいが過ぎたよな……」
ごめん、と僕は謝った。
「もういいよ。わたしも少し言い過ぎたかもしれない」
リリーは笑った。明るい笑顔だ。僕はもう、自分に素直になれていた。
「こんな離れ方になってしまったけど、落ち着いたらまた会いたいと思ってる。いつになるのか分からないけど……それでもたまには、僕の事を思い出してくれるかい?」
また随分と都合のいい事を言ったもんだ。まあでも、もしかしたらこれが最後になるかも知れないし……。と、妙に清々とした気分に浸っていると、
「忘れようにも忘れられないわ」
とまた笑われてしまった。
「あなたがまた戻ってくるなら、私は待ってる……」
大海原を染めていた夕日は、気がつくと半分以上水平線の彼方に沈みかけていた。それは僕達のわだかまりが解けたのを見届けてくれたようにも見えた。
「さあ、暗くならない内に戻ろうか」
「うん。そうね」
僕はビーチに向かってボートを動かす。
リリーが遠く離れていく夕日を見つめているのが分かる。
僕もやはり寂しかったが、
『私は待ってる』と言ってくれた先ほどのリリーの声を思い出して、少しだけ心が楽になっていた。