ソゾーノヴィチ教授とブルーベルの青い花
ウィザースプーン城の大食堂には、生徒が食事をするための木製の長テーブルがある。テーブルは四つ。食堂に入って右手側から、麦の穂寮、鷲の翼寮、星の影寮、鯨の尾寮の順に置かれていて、寮ごとに木の種類が異なる。
麦の穂寮のテーブルは、赤紫褐色をしたローズウッド製。
鷲の翼寮のテーブルは、濃いオレンジ色に光るブラックチェリー製。
星の影寮は、黒々とした黒檀製のテーブル。
そして、薄い茶色の中に木目がうねるナラ製のテーブルが、鯨の尾寮のものである。
眠り姫が目覚めた翌朝。星の影寮の黒いテーブルの端っこの席で、クラリッサとアーサーが一緒に朝食を食べていた。
本来、生徒は自分の所属する寮のテーブルで食事を摂るものである。だがここは多様性を歓迎するウィザースプーンだ。自分たちのテーブルに他寮の生徒が紛れ込んでいても、その興味の程度はシャンデリアにかかった蜘蛛の巣発見時より低いくらいであった。二人はクラリッサの所属する星の影寮のテーブルに並んで座っていた。
この時間、大食堂にいることは、アーサーにとって久しぶりだった。ここ数年、寝不足の彼は始業ぎりぎりまで霙の塔の一階の床で気絶していたからである。
フォークを口に運びながら、アーサーが懐かしそうな顔をする。
「こんなにゆっくり食べるなんて、六年ぶりだね……」
「あなただけでしょう? 私は寝坊したことないんだから」
牛肉とじゃがいもを包み込んで焼いた半月型の厚いコーニッシュパイにサクサクとナイフを入れながら笑うアーサーに、クラリッサが呆れる。
コーニッシュパイはアーサーたちの故郷の郷土料理だ。あの高い丘から望む水色の夏の海や、花が一面を覆う静かな春の森に、二人はウィザースプーンへ入学してから一度も帰省していない。キャサリンが眠りに就いたのは、彼らが一年生の冬だったからだ。レッドグレイヴ校長から借りた、離れた場所を見ることのできる「遠見の鏡」でふるさとを眺めるだけでは、さすがに物足りなくなってきたところである。
アーサーが故郷へ思いを馳せる横では、クラリッサが、テーブルを回ってきた一人のスチュワードフェアリーからトーストに塗るジャムを選んでいた。そういえば、と言う。
「アイリーンたち、大丈夫かしら」
昨晩、いや今日の明け方近くに、マルグリット先生に連行されていった下級生たちのことを思い出す。特に、アイリーンと同じエルフ族のクラリッサには、オークと対峙したときのアイリーンの気持ちがよくわかるから、そう言ったのだった。それなのにアーサーは能天気に返す。
「ああ、どうだろう。寝不足なんじゃないかな。ずいぶんと大人しそうな子たちだったろ」
「私たちが校則違反をし過ぎなだけよ。──四年生の頃だったかしら? 何が『キャサリンに花火を見せよう』よ。あなたが自分勝手な悪ガキだっただけじゃない」
「ああ、『このくらい騒がしければ夢の中にまで届くかと思って』とか言ったら、先生が涙ぐんでチャラになったやつだっけ」
「本当最低よねあなたって」
かたや悪態をつくように、ありし日の思い出を語るクラリッサである。
「僕なんか可愛いほうだろ。君は流れ星を捕まえようとして、夜空から落ちて砕けたじゃないか。あれじゃ捕まるものも捕まらないよ」
「私だってまさか凍るとは思わなかったのよ……子供だったわ。──そうよ、あの翡翠の扉を開けられる三年生がいるなんて、驚いたわ。ソゾーノヴィチ教授の傑作よ?」
「賢いんだろう、君のように。遠見の鏡で、すらすら解いてる様子を見た。見事だったよ」
霙の塔の屋上へ入るための翡翠の門。そこに術を施したのは、クラリッサの属する星の影寮寮監のセルゲイ・ソゾーノヴィチ教授だった。その昔に教授本人より解き方を教わったアーサーとクラリッサは難なく入ることができるが、本来は並の魔法使い、しかも三年生などが解けるような代物ではない。
「ウィザースプーンもしばらく安泰ね……」
アプリコットのジャムが艶めくトーストをかじって、クラリッサはやれやれとため息を溢す。
そんな二人の元へ、一人の先生が近づいてきた。首から手先までを覆う窮屈そうなローブに、長いマント。全身が黒づくめである。
ずんずん歩く横顔には、サラサラした長めの黒髪から高い鼻が突き出ているのが見える。深く、消えることのないであろうシワの刻まれた眉間のすぐ下で、温かみのない黒い瞳が大食堂の隅のホコリを横目に睨みつけていた。痩けた頬に濃いくまなど、影による恩恵のほうが目立つその顔は、表情筋という言葉とはおよそ無縁そうである。
心なしか、星の影寮を除くほか三つのテーブル──麦の穂寮、鷲の翼寮、鯨の尾寮だ──に座る生徒たちが、一斉に目の前の皿に猛烈な興味を示し出した。
黒づくめの先生は、お目当ての二人のすぐ真後ろまでやって来て、止まった。
「──ミス・アイゼンシュタット」
特有の、口の中で籠もるような、聞き取りづらい低音が降ってきた。後ろから話しかけられ、その声を聞いたクラリッサは、振り返ると同時に嬉々として立ち上がった。
「おはようございますソゾーノヴィチ教授」
流れるような挨拶である。黒づくめの教授は、鉄筋でも入っているのかというくらいに首を傾けもせず、黒目だけでクラリッサを見下ろしている。
「例の生徒──ミス・ホワイトは目覚めたようですな?」
癖のある話し方だ。
クラリッサのほうは満面の笑みで、はきはき答える。
「はい教授。おかげさまで──」
「我が輩が──」
口すらあまり動かさず、ともすれば聞き取り損ねそうな、どこで息継ぎをしているのかも不明な、一本調子のしゃべり方だった。
「わが星の影寮の生徒に相応の成績を求めている……ことは理解していますな? 今からでも寮生の本分を全うしてもらえるでしょうな?」
「はい教授。もちろんです」
「──ミスター・ナゼール」
教授が急に矛先を変えた。
「へっ? あ、はい教授、なにか……」
ソゾーノヴィチ教授とクラリッサの会話を他人事に聞き流し、のほほんとしていたアーサーは、突如として睨みつけられ、座ったまま気の抜けた返事をした。鯨の尾寮の生徒は基本的にゆるい。
「次……我が輩の講義で居眠りをしたら単位はないものと思いたまえ。その絶望的な成績をカバーするものを……一つでも増やしたほうが懸命ではないのかね」
「……はい。肝に銘じます」
「まあ最も……諸君には端から大した期待はしていない。その無能さが少しでもマシになれば万々歳ですな……失礼」
ソゾーノヴィチ教授は、黒いマントを大仰に翻し、大股で去っていった。帰り道も、床の端に舞うホコリを睨みつけていた。
彼は、最も難しい教科である「幽冥学」の担当教授だ。本人の不健康そうな見た目に反して綺麗好きなことと、どの寮生に対しても風当たりが強く、自分の寮の生徒ですら贔屓しないことで有名である。
黒いマントを見送って、アーサーが肩をすくめる。
「……君のところの寮監は、相変わらず冷徹だね」
「は? 何言ってるのよ。わざわざお祝いを言いに来てくださったんじゃない。あなたの耳が節穴なだけ。しかも、聞いた? 私の成績まで直々に褒めてくださるなんて──本当、教授ったらお優しいんだから……」
クラリッサはうっとりしている。アーサーは眉を変な風に曲げた。
「なんで君ら星の影寮は、ソゾーノヴィチ教授のことがそんなに好きなんだい?」
「素晴らしい魔法使いだからに決まってるでしょ。喧嘩売ってるの? あの賢さ、冷たい瞳、抑揚のない声、綺麗な黒髪、そしてローブ……」
「服なんていつも同じじゃないか。詰襟、長袖、全部閉めたボタン、大きなマント、ブーツ……全身暗黒だろ?」
アーサーが水を差す。クラリッサがじろりと見た。
「教授が黒に込めたおしゃれを理解しない人が存在するほうが不可解だわ。だいたい、鯨の尾寮のあなたたちだって、パッヘルベル教授のことが好きなんじゃないの?」
「僕らの歳でパッヘルベル教授を好きだったら、それこそ犯罪だろ……」
鯨の尾寮の寮監のパッヘルベル教授は、女性のホビットだ。ホビット族は、作物を育て慈しむことを何より愛する穏やかな種族だ。耕すべき畑と果樹園に囲まれた里に暮らしている。何よりの特徴は、背丈が人族の半分ほどしかなく、成人していても子供のようにしか見えないことだろう。パッヘルベル教授ももちろん背が低くて童顔なので、若いを通り越して幼く見える。その上、目はくりっと丸く、髪は淡い栗色でゆるくパーマがかかっているので、余計に可愛らしい。
魔法薬草学を担当している彼女は、宿題の量も良心的で、授業は丁寧と、寮の内外でともに人気の先生である。しかし、鯨の尾寮の男連中は、幼女趣味だと言われるのを避けるため、いくら寮監のパッヘルベル教授が好きでも、おいそれと口には出せなかった。
クラリッサが座った。
「あら。すでに前科持ちのあなたがそんなこと気にするなんて」
「それは君の中でだけだろ」
「マンドレイクの子供の叫び声の乱用は、法律で禁止されてるでしょ! 表沙汰にならなくたって、法を犯してるわ!」
悪びれないようなアーサーに、クラリッサが小声できつく叫んだ。アーサーは頭を掻く。
「眠れなかったんだ……はじめは一度しか使うつもりなかった──」
「中毒者の常套句だわ」
「クラリッサ……」
彼を無視するように、クラリッサはローブの袖を探り始めた。小瓶を取り出し、紅茶に黄金色の液体をとろりと注ぐ。花園に咲く花の蜜だ。
「……副作用のことはあなただってわかってたはずよ。泣きついてきたってねぇ、いくら私でも助けられないんだから」
「……そうだね」
クラリッサがティースプーンでかき回す。ふわりと花の香りが広がる。つられるように息を吸い、アーサーが目を閉じた。頬には細く水が流れている。クラリッサはその横顔を見ていた。
「まだなんともないの?」
「……ああ。今のところは」
「六年間、海に帰ってないのよね。あなた、ものすごく干上がってるわよ。昔は床が濡れるほど滴ってたのに、今じゃ頬と髪だけじゃない。枯れすぎ」
クラリッサがアーサーの三つ編みの先をぴんと弾いた。髪の束に、波紋が広がる。
「今夜、湖の中で寝たら?」
「ああ……それはいいかも」
食事に戻る二人だ。アーサーはミートパイを切り分ける。
「あと何回ここで食べられるかな」
食事メニューの豊富なウィザースプーンなのに、フランスパン一本などで食事を済ませることが圧倒的に多い学生生活だった。
「留年すれば? 好きなだけ食べられるわよ」
クラリッサが転がるミニトマトをフォークで追っている。
「はは、このパイが食べられるならそれもいいかもね」
「私は真面目に話してるのよ」
「僕だって真面目さ──」
アーサーの冗談はときどき質が悪い。クラリッサがミニトマトを放り出し、フォークを逆手に握りしめた。
「なんのために私たちここまで勉強してきたのよ! 賢さとか、強さの意味って何? これから歩む道が一番大切なんじゃない、の!」
「──わ」
クラリッサが、なんとアーサーの手にフォークをぶすりと突き立てた。
その衝撃に、アーサーはほんの一瞬驚いて、自分の手を見下ろす──そして何事もないようにフォークを引っこ抜いた。青紫色の点が四つ、うっすらと手の甲に現れて滲んでいく。
「……クラリッサ。僕ら水中人には、痛覚がないんだよ」
「わかってるわよ。だからここまでできるんじゃない」
アーサーはクラリッサにフォークを返す。
「あなたの青い血を見てると落ち着くのよ。春が来たみたいで」
クラリッサが嫌味たらしくそっぽを向いた。
キャサリン、クラリッサ、アーサーのふるさとには、古いブナの森がある。
そこは春になると一面にブルーベルの花が咲く。ブルーベルとは、紫がかった青の、小さな花だ。薄緑の茎の先から、小さなベル型の花が鈴なりに咲く。可憐なその花は、三人にとって春の象徴だ。
高く伸びるブナの幹、合間から差し込む太陽の光、揺らめく朝靄、露の光る新芽、そして、足元を一面に広がるブルーベルの小さな花──。小道から外れ、青い絨毯に覆われた幻想的な森の中を、三人でよく駆け回ったものだった。
「君のその芸術家気質なところは本当に星の影寮だよなぁ……」
「ここまでされてへらへら笑ってる鯨の尾寮なんかに言われたくないわ」
じわじわと広がっていく青紫の斑点を、アーサーはこすった。ほかの種族には痛いはずのその傷も、水中人である彼にとってはただの模様でしかなかった。
「キャサリンには内緒にしておこう」
「言うわけないでしょう。あなたより大切だもの」
「……ときどき君が君でよかったって思うよ……」
冷めたパイを頬張るアーサー。クラリッサはフォークを掴んだまま静かになった。鈍感にもしばらく食事を続けていたアーサーだが、やっと彼女の雰囲気に気づいてナイフを置く。
「……キャサリンは戻ってきた。僕だって生きてる。やっと終わったんだよ」
「わかってるわよ」
彼女は目の前の皿を見つめたままだ。
「大丈夫さ。あと数ヶ月後には僕らは成人だ。もうあのときみたいに無力な子供じゃない」
しかし、クラリッサの黒髪が下を向き始めて、言葉だけでは慰めが追いつかなくなってきた。
アーサーは珊瑚の杖をローブから取り出し、振る。二人の周りに霧がかかった。他の生徒には、二人がただ食事をしているようにしか見えないだろう。
「……泣かないで、クラリッサ。頼むよ」
朗らかな大食堂がだんだんと墓地か教会に思えてくる。アーサーは穏やかな声のまま続けた。
「……僕がキャサリンで、キャサリンが僕だったらよかったね」
「そんなわけないじゃない。キャサリンにそんな──」
「──命を削るような真似させたくない。……うん、僕もだ」
彼の渾身のジョークはすぐにはねつけられてしまった。長い前髪ごと項垂れるクラリッサをほんの少し覗くようにして、アーサーは話しかける。
「──気づいてる? 僕のエネルギーしか入らなかったけど、キャサリンにはね、僕の声は聞こえていなかったんだよ」
「え……」
「彼女のまぶたが震えるのは、君が話しかけたときだけだったんだ」
クラリッサがまばたきをする。瞳のふちで水晶玉のようだった涙が弾け、彼女の長いまつげを小さな露で飾った。ついこのあいだまでの出来事を、アーサーは思い返しながら静かに語る。
「君は僕が彼女を助けていると思っていたみたいだけど、彼女をこの世に繋ぎ止めてるのは君だった。君の声に反応するキャサリンを見て、彼女が生きているのを確認できたから、僕は頑張れた……有り難かったよ」
そっと隣を見れば、クラリッサはもう泣き止んでいた。いや、むしろ真顔であった。彼女は口を開き、言葉を探す。
「……私は悔しかったわ、何も出来なくて。情けなかった」
クラリッサは正義感が強い。キャサリンにエネルギーを注ぎ込めなかったショックを、アーサーなどよりはるかに懸命に勉強することで埋め合わせようと必死だった。
この数年間、霙の塔の屋上の花園へ襲来するリリンやグールなどの闇の生き物からキャサリンとアーサーを一番そばで守ってきたのは、ほかでもないクラリッサである。
元来の詰めの甘さに寝不足が加わり、毎学年どの科目も進級単位がギリギリだったアーサーに比べて、クラリッサは防衛魔法学と攻撃魔法学において、六年間ずっと学年で首位の成績を修めてきた。
それでも本当は、闘うより彼女の世話がしたかった。なのに、花園に帰ればクラリッサは、キャサリンの寝顔を眺めることしかできなかった。いくら強くても、敵を防げても、肝心のキャサリンが目覚めなくては無力でしかない。何も出来ない自分を思い知らされることは、毎夜のように訪れる実戦で負う怪我よりも、痛いほどであった。
「なら、あいこだね。僕は君が少し羨ましかったから。……昨晩も、校長先生が来てくださらなかったら、僕はまた君一人に任せてしまうところだった。最後に一瞬でも、キャサリンを一緒に守れて嬉しかったよ」
アーサーが微笑んだ。オークの咆哮の衝撃波は、人族が浴びるにはきつい。キャサリンの盾になるクラリッサも、オークに対しては本能的に構えるところのあるエルフ族だ。気が気ではなかったところへ、間一髪、レッドグレイヴ校長が駆けつけて、後輩たちの前から花園の中央へ飛び込んだアーサーだった。
クラリッサは冷めたティーカップを引き寄せた。飲む前にふと、中を覗き込む──紅茶に映る自分の顔は、思えばずいぶんと大人になった。
「……早くキャサリンに会いたい」
クラリッサはぽつりと言う。
「そうだね」
頷いて、まだ腹が満たされていないアーサーはまたナイフを手に取った。
医務室を統括する校医からは、キャサリンとの面会の許可はまだ下りていない。そのときになるまで、二人はもうしばらくやきもきしながら待たなければならないのだった。