エルフとオーク
夜空から、ガラスの天井を突き破り、黒くて大きなものが降ってきた────オークだ。
あたしたちは息を呑み、ローブから杖を抜く。オークは闇の生き物だ。邪悪で、力が強く、残忍な魔法生物。人の形をしているけれど、人ならざる存在だ。
とても三年生が太刀打ちできる相手じゃない。でも自分の身を守れるのは自分しかいない……。
あたしはルジェナやロレンシオほど知識がない。ウェイウェイみたいにもともとの能力が高いわけでもないし、ヘンゼルのように得意魔法があるわけでもない。ここで一番足手まといなのは、あたしだ。
あたしは震えて、叫びたいのを堪え、逃げ出すまいと踏ん張った。
マルグリット先生も杖を取り出した。アイゼンシュタット先輩が音もなく剣を抜き、ナゼール先輩は杖を構える。「私はキャサリンを」「頼む」そう聞こえた。アイゼンシュタット先輩は花園の中へ入っていく。ナゼール先輩が静かに動いて、あたしたちの前に来た。
「下がるんだ。ゆっくり」
あたしたちは言われた通りにする。ゆっくり、後ろへ、足を引いた。
そのときあたしは気づいた。ナゼール先輩の背中が震えている。あたしたちのほうに伸ばされた指先は白かった。横顔は青ざめていた。
さっきの先生の話を思い出す。
──ミスター・ナゼールは、毎晩夜通し彼女へエネルギーを注いでいます──。
ふらふらなんだ。すでに体力を使い果たしているんだ。もしかしたらあたしたちをかばってくれているだけで精一杯なのかもしれない──。
オークは全身真っ黒で、とても大きい。体は鎧みたいな筋肉で被われている。目は血走って、突き出た顎から大きな牙がむき出しだった。天井を破って入ってきたのに、ダメージなんてないみたいだった。
ウググ、と低く唸っている。怖い。目が合ったらこっちへ飛びかかってきそうだ。こんなとき、あたしたち三年生に一体何が出来るんだろう……。
ガアアッ……! とオークが叫んだ。頼るものがこれしかないあたしは、杖を落とすまいと手にありったけ力を込める。オークは空を見上げていた。あたしたちも上を見る。
バリバリ、ガッシャーン……!
また夜空から何か降ってきた。今度のほうが風圧が凄かった。あたしたちは衝撃で後ろへ吹っ飛んだ。
花園に、銀色の生き物が現れた。大きな翼を広げている。これは、猛禽類の威嚇だ。オークに向かって威嚇している。ということは、あたしたちの味方──?
「ベルナルディータ先生……」
ルジェナが小声で言った。はっ、そういえば、ハーピーの先生がいたっけ……!
あたしは、翼を広げて威嚇しながらオークとの距離をじりじり詰めていく、銀色のハーピー(先生)を応援した。
まだ若く、翼も美しく、長い髪を全て背中に流した、迫力ある女性だ。かっこいい。
ベルナルディータ先生は、その鋭いかぎ爪で花園の床をギィィ……! と引っ掻いた。
オークが、グオオ! と野太い雄叫びを上げる。ハーピーのベルナルディータ先生が、床を蹴って突進した。
すかさずメデューサのマルグリット先生が杖を突き出し、目もカッと見開く。メデューサ族にこんな風に睨みつけられたら、石になる。普通は。
けれどオークは動きを少し鈍らせただけで、マルグリット先生の目力を跳ね返したみたいだった。でもその一瞬で十分だった。
マルグリット先生の援護の間に、ハーピーのベルナルディータ先生はオークとの間合いを狭めていて、オークが振り向いたときには目の前まで迫っていた。
ベルナルディータ先生のかぎ爪がオークを捕らえる──銀色の翼が大きくはばたく──爪がオークに刺さる──オークが叫び声を上げ、ベルナルディータ先生が負けないような大きな声で呪文を唱え出す。
オークは絶叫している。その叫び声で耳が潰れそうだった。あたしたちは必死に耳を塞ぎ、花園に倒れ込んだ。
どれくらい経っただろう──。
頭を揺さぶるような声が消え、あたしたちは目を開けた。大きな花たちのあいだから顔を出す。花園の向こうには、銀色の血を流し、肩で息をするハーピーと、蛇の髪を逆立てて杖を突きつけたままのマルグリット先生が立っていた。
花園の真ん中には、ナゼール先輩とアイゼンシュタット先輩が、何かを抱き抱えるようにしてうずくまっている。
そしてあたしたちの目の前には──なんと、レッドグレイヴ校長先生が立っていた。
あたしは腰を抜かすかと思った。校長先生をこんなに近くで見たことなんて、初めてだ。
校長先生はあたしたちを一人ずつ、キラリと光る三日月型の眼鏡の奥からじっと見て、微笑んだ──それだけで、こわばっていた体中が温められたように感じた。
校長先生は花園を歩いていった。途中、ふらふらしている先輩たちに手をかざす。やっぱりそれだけで、先輩たちは大きく息をついて、スッと立ち上がった。
校長先生は、ベルナルディータ先生とマルグリット先生のところへ行った。
先生二人が会釈をし、場所を空ける。校長先生はベルナルディータ先生の上に、手のひらから銀色の星を降らせた。ベルナルディータ先生から滴り落ちていた銀色の血が止まる。先生は翼を大きく震わせ、羽を一度逆立ててからシュッと戻した。今のは猛禽類が緊張をほぐしたりリフレッシュするときにやる行動だ。
続いて校長先生はマルグリット先生の肩に手を当てた。蛇の髪の様子が落ち着いていく。マルグリット先生は、ローブに寄ったしわを正した。
花園は静かになった。
オークは魔法の縄できつく縛られていた。あたしはオークという生き物を生まれて初めて見た。白い縄は魔法の縄で、闇のオークには致命傷を与えるだろう。
そのまま宙に吊り上げられ、オークが絶叫する。
「降ろしてください……!」
気づけば、あたしは叫んでいた。
オーク。トロールやリリンではないけれど、奴らと同じ、残忍で邪悪な闇の生き物。
でも……。
オークは、本当に悪い奴なんかじゃない。信じられないだろうけど、彼らはもともとエルフ族だ。
あたしたちエルフ族は、心を悲しみに支配されると、弱って、病んでしまう。そこから憎しみが生まれて、心が闇に染まると、オークに変わり果ててしまうんだ。
彼もかつてはエルフだったんだ。何かがあって、オークになってしまったんだ。
だから……彼が丸ごと悪いとはいえない。決してそんなことない、絶対ない。
エルフ族の掟で、オークに成り下がった者は一族から追放しなきゃならない。オークは醜く、穢らわしく、エルフとはかけ離れた、惨めな存在なのだ。──残虐で、食人で、エルフが持っていたものをほとんど忘れてしまっているから。……でも、そんなの悲しすぎる……。
あたしはルジェナやヘンゼルが止めるのも振り切って、オークのほうに駆け出していた。
先生方のあいだで縛られているオークに向かって走る。走りながら、叫ぶ。
「あなた──! 元はあたしと同じエルフでしょ!? 本当はこんなことしたくないのよね、そうでしょ? 悲しくて、寂しくて、辛くて、許せなくて、憎くて、そうなっちゃってるだけでしょう? こんなことやめて、こっちに戻っておいでよ。あたしと一緒にいよう、みんなと仲良くしよう、友達になろう……!」
自分でも滅茶苦茶を言っていると、わかっていた。オークからエルフに戻れたって話は聞いたことがない。それでも、あたしは言わずにはいられなかった。
オークを初めて見た。エルフにとって、オークになるのは魔法界で適用されるどんな罰より重く恐ろしい。あたしはショックを受けて、取り乱している。
あたしだってエルフだから、油断してたら、いつどこでこうなってしまうかわからないんだ。
オークになったらきっと辛い。マイナスの気持ちに負けてしまった心は、辛くてたまらないはずなんだ。
だから、悲しみに負けちゃいけないんだ。立ち直る力をつけなくちゃだめなんだ。
そのためにたくさんのことを学ぶ必要があるんだ。勉強して、たくさんの人と会って、知らなかったことを知っていかなきゃならないんだ。
そうして、世界と自分の心を、広い目と深い思考で見られるようにならなきゃいけないんだ。それがこの世界で生きるってことなんだ。
グルル、ウググ、と低い唸り声が響く。オークの喉の奥から聞こえてくる。黒くて大きな闇の生き物と、目が合った。先生方がオークとあたしのあいだに立つ。先生方と同じくらい近くまで駆け寄った。あたしは手を差し出して、そこから一歩進み出る。
「ね……? こっちへ来て、あたしの手を取って。大丈夫よ、さあ──」
オークが、グウウ、と唸った。
そのとき割れた天井から強い風が吹き込んで────オークが激しく雄叫びを上げた。
「下がるのよ、アイリーン!」
「いやっ……! 離して……! いやだ……!」
あたしを捕まえに来たアイゼンシュタット先輩に、後ろへ引っ張られる。あたしは悲しくてもがく。
先生方が杖を構えているのが見える。オークが死んでしまう。
「アイリーン!」
先輩の声が響く。七年生の力がどうなっているのかわからないけれど、わたしは軽々と抱え上げられた。ジタバタもがきながら、遠ざかるオークに向かって手を伸ばす。
恐ろしかった。あたしもああなる、全員に憎まれて、自分でもどうしようもなくなるまで、闇に負けてしまう──。
「アイリーン! 大丈夫だから! あなたじゃないから! あなたはああならないから! 怖くないから!」
アイゼンシュタット先輩の声が聞こえる。
オークが、おそらく最後の絶叫を上げていた。その声に頭が締め付けられるようで、あたしも叫ぶ。
もう縮こまって泣くだけのあたしを、アイゼンシュタット先輩が懸命に抱き締めてくれる。髪を撫でてくれる。温めてくれる。
先輩からいい匂いがする。この香りをあたしは知っている──花の蜜が溶けた紅茶の香りだ──。先輩の手は温かくて、心地良い。先輩の腕の合間から、先生方が見えた。
三人の杖は青白く輝き、強さを増して、一つの大きな光になった。
呪文が聞こえる。とても強力そうな呪文だった。
光がきらきらと輝く。輝きはどんどん強さを増して、花園いっぱいが眩しい光で満ちた。
オークは叫んで、嫌がっている。身悶えて、苦しんでいる。どんどん光に飲まれていって、その姿が見えなくなった。
──そのまばゆい光を見ていると、不思議と心が落ち着いてきた。
あたしは思った。オークは浄化されたんだと。あたしたちにとって悪で、本人にとっても辛い存在は、あの光で綺麗に戻るんだ。
彼は解放され、救われたのだ。
あたしは幸せだった。
オークは白い灰になった。黒い死体は残らなかった。
オークは死んでしまった。あたしは花園にぺたんと座り込んで、先輩の隣から、離れた床に積もった白い灰を見つめていた。
そのあと、レッドグレイヴ校長先生が速やかに事態を収拾した。
校長先生はガラスの天井を塞ぎ、荒れてしまった花園を元に戻した。そしてオークの白い灰を木箱にしまい、ハーピーのベルナルディータ先生を連れて姿をくらました。
あたしの隣にルジェナとヘンゼルが来てくれる。二人にあたしを任せて、アイゼンシュタット先輩はナゼール先輩のところへ戻っていった。
マルグリット先生がこちらへやって来る。
「ミス・フォースター。大丈夫ですか?」
「はい……すみませんでした」
「無事なら何よりです。校長先生がお咎めになりませんでしたので、あなたも気に病むことのないように」
あたしは嵐みたいに突然やって来てそして去っていった、怒濤の感情の反動で、ぼんやりしていた。
マルグリット先生は長く中断されていたウェイウェイとの会話を再開した。
「ミス・ワン。これはイチイ製ですか?」
「はい」
ウェイウェイがマルグリット先生にブローチを渡している。マルグリット先生がナゼール先輩に合図をした。
「では、いきますよ」
「はい」
ナゼール先輩の杖から、金色の呪文が流れ出る。
隣のルジェナがハッと息を呑んだ。
「ミスター・ナゼール!」
マルグリット先生も厳しい顔になる。
「その魔法は──」
「いいんです。……先生。僕があの日に言ったことは嘘ではありませんから」
あたしはわからなくてルジェナを見た。ルジェナが囁く。「生と死の境界を曖昧にする禁術。──自分のね」
「……先輩死んじゃうってこと?」
「さあ……そこまではしないと思うけど……」
ナゼール先輩が杖を花園の中心に向けている。アイゼンシュタット先輩がそばで見守っている。マルグリット先生が、ウェイウェイから受け取ったブローチを花園の中央に置いているようだった。花園の中心は、特に花の背が高くて、ここからじゃ「眠り姫」は見えない。
「……ではいきますよ」
マルグリット先生が杖を振り下ろした。ナゼール先輩の体が一瞬で白く燃え上がる。
「先生……!」
アイゼンシュタット先輩が叫んだ。白く燃えているナゼール先輩の体は崩壊しそうだ。
「持ちこたえなさい!」
マルグリット先生が言い放つ。あたしたちにはずいぶん無茶なことにしか聞こえない……。
マルグリット先生も花園の中央へ魔法を注いでいる。だんだん、ナゼール先輩の姿が薄くなっていく──。
そのとき、アイゼンシュタット先輩がナゼール先輩の背中に手を当てた。ナゼール先輩の輪郭が少し濃くなる。
「クラリッサ……?」
「なんで今まで思いつかなかったのかしら。私のエネルギー、あなたには入るわよね、どっちも意識があるんだから。適合しなくても無理にねじ込むわよ。なんとかしなさい」
アイゼンシュタット先輩のエネルギーがナゼール先輩へ注がれて、ナゼール先輩のエネルギーが「眠り姫」へ注がれていく──。
花園の中央が一際まばゆく輝いた。そして、ナゼール先輩が吹っ飛んだ。後ろで手を当てていたアイゼンシュタット先輩を軽々飛び越えて、ガラスに叩きつけられ、落下した。
「アーサー!」
アイゼンシュタット先輩が駆け寄っていく。マルグリット先生は花園の中央へ分け入っていた。あたしたちは迷って、「眠り姫」は先生に任せることにして、ナゼール先輩のほうに走り寄った。
「アーサー。アーサー! あなたまさかほんとに死んだんじゃないでしょうね!? 起きなさい! 起きろ! こら!」
「……息が……しにくいんだよ……」
「先輩……!」
先輩が起き上がった。よかった、無事だ。
三つ編みも顔も、干上がったようになっていた。見るからにカラカラだ。
「あなた、骨折してないでしょうね? 魔法以外で骨折ったりなんかしたら、笑いものよ」
「僕の首が曲がってなきゃどこも折れてないさ……」
けほ、と咽せりながら先輩がみぞおちを押さえる。
「……だらしないわね! しゃきっとしなさい!」
「……っ」
アイゼンシュタット先輩がナゼール先輩のわき腹を殴った。先輩は声を詰まらせて、前屈みになる。
「……本当に苦しいんだって……」
「甘えてんじゃないわよ」
そして二人は花園のほう見た。花園の中央では、一人の女子生徒が目を覚ましたところだった。マルグリット先生に支えられて、目を開け、座っている。──成功だ。眠り姫が目を覚ました。
「先輩……!」
よかったですね、と言おうとして、振り返ったあたしたちは黙った。
カピカピに乾いたナゼール先輩は、とうとう気を失ったみたいで、アイゼンシュタット先輩に担がれていたからだ。
「……先輩。力持ちなんですか?」
あたしは気になってたことを聞いてみる。
「ん、これ? あはは、違うわよ。私、物の重さを変える魔法が一番得意なのよね。身体計測で役に立つわよ」
アイゼンシュタット先輩はパチッとウィンクをして、ナゼール先輩を軽々と担ぎ、眠り姫のほうへ歩いていった。
霙の塔の屋上から、螺旋の坂道を下って、格子窓がある小部屋に降りた。一階にはちゃんと隠し扉があって、パイプを通ることなく、あたしたちは城の中まで戻ってきた。隠し扉からは合い言葉のような呪文で出ることが出来た。
塔の目の前のあの廊下には校医のドクトル・モイストが迎えに来ていて、三人の先輩たちは医務室へ行くことになった。そしてあたしたちはマルグリット先生の部屋に連行された。
あたし、ルジェナ、ウェイウェイ、ロレンシオ、ヘンゼルは、マルグリット先生の机の前に横一列に並んだ。マルグリット先生が厳しい表情を崩さずにあたしたちに言い渡す。
「ミス・フォースター、ミス・ノイマン、ミス・ワン、ミスター・ハウエル、ミスター・シュヴァリエ。あなたがたはミス・ワンが純鬼火石を持っていなかったら、処罰の対象でした。今回は運が良かっただけだということを肝に銘じなさい」
「はいすみませんでした」
あたしたちは素直に謝る。早くベッドに戻って眠りたかった。
あたしは日常のことを思った。
シンシアとエリザベスはもう寝ただろうか。リカルダはきっと夜会を楽しんでいる。プリシラは今夜迎えに行かなかったから拗ねているかもしれない。
ほんの数時間前まで過ごしていた日常が、とても遠いことのように感じた。
「では戻りなさい」
「失礼します」
ロレンシオ、ヘンゼル、ルジェナとウェイウェイとあたしは、マルグリット先生の部屋の前で分かれ、それぞれの寮へ帰った。
あたしたちは鷲の翼寮の女子塔へ帰った。三号室のドアの横に、銀色のネームプレートが一枚増えていた。アイリーン・フォースター、リカルダ・ラブ、シンシア・ウィングフィールド、エリザベス・デネット、ルジェナ・ノイマン、そして、メイユウ・ワン。これがみんなのフルネームだ。部屋の中も、五角形から六角形になっていた。
懐かしいくらいだったふかふかのベッドが待っていた。あたしの天蓋の隣には、ウェイウェイのベッドが増えている。リカルダは夜会でいないけれど、シンシアとエリザベスのカーテンはしまっている。
ルジェナもウェイウェイもあたしも、ベッドによじ登った。柔らかい布団に潜り込む。
「……心臓……」
ルジェナが何かを呟いた。もう寝たのだろうか、寝言を言うのが早い…………あれ、ルジェナって眠らないんじゃなかったっけ……。
編入生がやって来て、噂を知って、計画を立てて、真夜中に抜け出して、すごい冒険をして──あたしは今夜あった出来事を一つずつ振り返りたいと思ったのだけれど、睡魔に眠りへと引きずり込まれていったのだった。