霙の塔
夜の風は透明だ。暗闇をただ吹き進む。目を凝らして辺りを見張っていると、城を囲う森と山脈は、夜に溶け、果てなく続くようにも思えた。ぽっかりと空高く浮かぶ満月が、今が真夜中だということを示していた。
風の匂いは変わらない。風上に異変はないのだろう。問題は風下だ。耳元でビュービューうなる強風の中では己の聴覚も疑わしい。
今夜は何が来るだろう。このように風の強い夜は、必ずといっていいくらい邪悪な生き物の襲来がある。
黒髪を簪で束ねた女子生徒は、南の塔の屋根に立ち、夜空を見据えていた。
吹き荒ぶ風。特注の革の戦闘服でなければとっくに凍えている。腰に差した剣の鞘が氷のように冷えているのを、太ももの厚いはずの服越しに感じた。
風は一度、縦横無尽に吹き荒れて、向きを変えた。ふと、鼻をつく独特の匂いが流れた気がした。ほんの一瞬である。
女子生徒は塔の屋根を更に登り、てっぺんに足をかける。避雷針を軸にして敷地内を見渡した。
上空をコウモリの群れが飛んでいる──いや、違う。あれはグールの擬態だ。
女子生徒は剣を抜き、屋根に突き刺した。ブーツで刃を踏み、足場にする。
ひらひらと弱々しさを装って、グールが旋回している。何を狙っているかはわかっている。グールの体は暗く明滅して、慣れていなければコウモリの群れにしか見えない。
彼女は杖を構えた。腕を伸ばし、片目をつぶり、狙いを定める。
「──許さないわよ」
風の中でそう呟いた。
ほんの一瞬、銀色の閃光が闇を貫いた。グールは叫ぶ間もなく、ビキキ、と体を引き攣らせてから、パッと消滅した。
女子生徒はふうと息を吐く。グール一匹に、過剰な警戒である。だが彼女は、ただ一匹の闇の生き物がもたらす害悪を嫌というほど知っている。
闇の生き物にも色々いる。例えば地上を徘徊する奴らだ。
オーグルは寝ている人間を喰らう。分厚い筋肉に被われたその体には、鬱陶しいくらいに毛が生えている。巨漢で、食事に関しては残忍だが、知性を持たず自分の影にすら怯えるほど臆病なので退治しやすい。
トロールはオーグルと背格好が似ている。だがオーグルとは違って人里に下りてくることは滅多になく、大抵は山に引っ込んでいる。人だろうが獣だろうがなんでも食べる。巨漢で、粗暴で、怪力だ。毛は生えていないが、悪臭を放ち、醜い。知性が低く、警戒心や恐怖心というものを持たないため、倒れるまで執拗に襲いかかってくる。
厄介なのは空を飛ぶ連中だった。
ウィザースプーンには、地を歩く闇の生き物は滅多にやって来ない。襲撃はもっぱら空からだ。
夜の上空に現れる闇の生き物は、だいたい決まっている。グールとリリンである。
グールとは、人であれば生肉でも死体でも食べ漁る闇の生き物だ。イトマキエイのような翼を持ち、夜空を飛ぶ。体の模様が闇と月明かりにチラチラ反射するため、遠目にはコウモリの群れが飛んでいるようにしか見えない。
そして、彼女が一番敵視しているのがリリンだった。正確にはリリン・デーモンという。奴らは人の生気を食い物にする邪悪な生き物だ。その食事は、命を繋ぐために最低限の量を摂取するなどといった良識あるものではない。際限なく吸い尽くし、人間を死に至らしめる。悪しきものだ。その頭には角、背中には飛膜の翼、尻には細く尖った尻尾を生やし、骨の浮いた痩せねじくれた体をしている。
彼女は夜空を見回した。ほかに何かいないだろうか。辺りは風の音以外静寂だ。乗っている剣から下を見下ろすと、城は月明かりに照らされ、浮き上がるように白かった。この中では、三百人ほどの生徒たちが眠っている。そのほとんどが、学生の身は夜の闇に潜む外敵とは無縁だと思っているだろう。その安穏は、破られないに越したことはない。
聞こえようもない寝息に耳を澄ませるように、女子生徒は静かに目を閉じた────次の瞬間。
キィィン…………!
高く鋭い音が響いた。金属音だ。剣は一瞬にして屋根から引き抜かれ、マントが翻る。彼女は、振り向くより速く剣で背後の闇を切り裂いていた。
「……?」
しかし、手応えはなかった。屋根に降り立ち、彼女は宙に広がる闇を振り返る。
おかしい……。確かに感じたのだ、背後に忍び寄る何かの気配を。だが何もいなかった。
代わりといっては割が合わないが、遠くで別の被害者が出ていた。
二つ向こうの屋根の端。雨樋先の一匹のガーゴイルの首が、彼女の剣が放った魔力のこもった一撃によって吹っ飛んでいた。
「あっ……! ごめん……!」
女子生徒は慌てて駆け寄った。走りながら剣を鞘に収める。首なしになった哀れな白い胴体を乗り越えて、屋根の上を転がっていった石の首に追いつき、両腕で拾い上げる。
重たい後頭部に手を添え、よいしょ、とこちらを向かせると、ガーゴイルは大層迷惑そうな顔で女子生徒を見つめ返してきた。
「ご、ごめん。大丈夫? すぐ直してあげるから──」
彼女は急いで屋根の上を引き返す。雨樋まで走って戻ると、ガーゴイルの白い体が「やれやれ」と言いたげな腕組みの態度で彼の頭を待っていた。
女子生徒は杖で可哀想な石の割れ目を細かくなぞり、重たい首を白い胴体にくっつけていく。
「──はい、くっついたわ」
彼が元通りになった。ガーゴイルはゴリゴリと硬そうな音を鳴らして首を回した。
女子生徒が気まずそうに様子を伺っていると、ガーゴイルは元のように背中を伸ばし、翼を張り、雨樋に座り込んだ。
「……ふう」
女子生徒は再度軽く息を吐いた。息は白く広がる間もなく、冷たい風に持ち去られていく。
長い前髪がはためいて、視界を遮った。髪が気になりだしたら、集中が途切れてきている証拠だ。
「なんとなく……ね。今夜は囮にもならなさそうだわ。東風だからかしら……」
誰かに話しかけたわけではない。一人、無限の暗闇に呟いて、見切りをつける。
先ほど感じた気配がなんだったのかはわからない。だが無視もできない。
教授へ報告に行こう。今夜は顔を出すとも言っておいたから、ちょうどいい。それに、この剣で切れなかった何かなら、一人で出くわしたところで苦戦は必至だろう。手に巻いた包帯をチラッと見てから、彼女は屋根を一つ飛び降りる。
天に向かって突き刺すように建つ塔たちを、屋根を伝って駆けていく。誰の元へ行こう?
寮監はこの件に関心がない。六年前に協力してくれただけで有り難いくらいなのだ。あいつの寮監は、戦闘は専門外である。もう一人の寮監は、申し訳ない言い方だが、物理的には役に立たない。──となれば、残るは一人。「あの子」の寮の寮監だ。ともに見張ってもらえれば好都合。
軽やかな足取りで屋根を蹴り、両肩で風を切り、女子生徒は夜の中を走っていった。
*
夜。あたしとルジェナとウェイウェイは、鷲の翼寮の談話室で真夜中を待った。
いつも通りに見えるよう、よからぬことを企む者には見えないよう、普通に過ごす。ルジェナは勉強しているし、あたしは何か役に立つ呪文がないか、教科書をおさらいしていた。普段の勉強もこのくらい熱心にやれば、もうちょっと成績も上がるんだろうなあ。ウェイウェイは女子塔の三号室へ荷物を解きに行っていた。
一時間ほどして、ウェイウェイが戻ってきた。手に串とお菓子の袋を抱えている。チョコレートとマシュマロとビスケットだ。
甘い物は冒険の活力になる。あたしたちは暖炉の火でマシュマロをあぶった。真っ白な体が火に舐められて、一回り大きく膨らんでいくのを見守る。表面に焦げ目がついたら、急いでチョコレートを割る。ビスケットではさんで、つぶさないように気をつけながら串を抜けば、できあがり。こんがり甘くて、みよーんと伸びて、やわらかくて、美味しい。どの種族も、どこの学校でも、みんなこれが大好物だ。
真夜中近くになって、談話室からみんながいなくなった。あたしたちは音を立てないように気をつけて談話室を出る。寮母のエルハムさんの部屋には、廊下側に向かって窓の開いたカウンターがある。生徒の出入りを管理するためだ。あたしたちは寮母さんに見つからないよう、カウンターの窓の下の床を這って進んだ。鷲の翼寮の扉をそおっと開け──扉の金具がかすかにキィッと鳴った──あたしたちはドキドキしながら、扉をほんのちょっとだけ広げ、その細いすき間を息を止めて通り抜けた。
鷲の翼寮からの脱出に成功して、あたしたちは駆け足で「涙するドラゴン首の壁掛け彫像」へ向かった。涙するドラゴン首の壁掛け彫像とは、その昔に我が校の創設者である大魔法使いセレスティノ・ウィザースプーンが、死闘の末に殺してしまったドラゴンの首の真鍮像だ。当時はまだドラゴン保護法なんてなかったんだけど、ひどく悲しんだ大ウィザースプーン自ら、生徒たちが同じ轍を踏まないよう、廊下の一角に飾ったのだと聞いている。
あたしたちはとにかく急いだ。ラミアー族のルジェナは下半身が蛇だから静かだけど、あたしとウェイウェイは気を抜けない。大理石の床は滑りやすくて音も響く。あんまりうるさいと暇を持て余すゴーストが何事かと見に来るだろうから、足音をなるべく立てないようにして走る。ルジェナ、ウェイウェイ、あたしの順だ。
突然ルジェナが立ち止まった。ウェイウェイが彼女の尻尾につまづく。あたしはウェイウェイにぶつかる。その衝撃でウェイウェイがルジェナにぶつかって、ルジェナも転んだ。
「あらあらあら。大丈夫ですか?」
空中から声が降ってきて、あたしたちは上を見上げた。
ゴーストがいる。半透明で銀色に輝く、女性のゴーストだ。当たり前だけど浮いている。彼女は、玉突き事故とドミノ倒しをいっぺんに起こしたあたしたち三人を心配そうに見下ろしている。
「ごめんなさいね。驚かせてしまったかしら」
助け起こそうと手を差し伸べてくれるんだけど、あたしたち生身の者はゴーストには触れないんだよね。
「……お気遣いありがとうございます」
三人の一番下からルジェナが冷静にお礼を言う。三人の真ん中、あたしの下のウェイウェイは、初めて会うウィザースプーンのゴーストに見とれている。
「……こんばんは。カトレアのレディ。お散歩ですか?」
一番上のあたしも一応挨拶をした。彼女は髪に大きな蘭の飾りをつけているので「カトレアのレディ」と呼ばれている──そんなことは今はいいんだ。あたしたちは三人ともたぶん同じことを考えている…………彼女は味方だろうか? 真夜中に寮を脱走した不良生徒の。
「ええ、今夜は満月でしょう? いいお天気だから」
カトレアのレディは嬉しそうに笑う。今のところ、敵ではなさそうだけど……。
「あなたたちはどちらへ?」
きた。なんて答えよう?
「……ちょっと規則を破りに」
ルジェナがとんでもないことを言った! ……事実だけども。
カトレアのレディは一瞬驚いた顔をして────そしてなんとクスクス笑った。
「まあ、元気がいいのね。そう。行ってらっしゃい」
彼女は味方だった。助かった……!
「行ってきます」
あたしたちは大理石の床の上で重なったまま、三人とも顔だけでお辞儀をした。
「ごきげんよう……」
カトレアのレディはきらきらと輝きながら、暗い廊下をすいーっと移動して、角を曲がっていなくなった。
あたしたちは押し殺していた息を盛大に吐いた。
「ああ、びっくりした……!」
「優しいゴーストで助かったね……」
「あなたたち、降りてくれない?」
「あ、ごめん」
あたしとウェイウェイは、急いでルジェナから降りた。
涙するドラゴン首の壁掛け彫像に着くまで、それから数分かかった。廊下を曲がるたびに角からその先を窺って、誰もいないことを確かめてから一気に走り抜けた。
ドラゴン首にたどり着くと、ロレンシオとヘンゼルはすでに来ていて、あたしたちを待っていた。ロレンシオは前脚の太ももに短剣を、ヘンゼルは腰に小さな革のポーチをつけている。
「大丈夫か? 誰かに捕まったのかと心配したぞ」
「もう汗だくだけど、大丈夫?」
「大丈夫──たぶん」
あたしたちは額の汗をぐいっと拭った。
「二人は誰にもばれなかった?」
ロレンシオが所属する麦の穂寮の寮母は、サテュロス族のセシーリアさんだ。上半身は人間、下半身は草食獣の下肢で、頭に角を持つこともある種族の女性である。確か、生徒の出入りに神経質だったはず。
サテュロス族は、下半身の獣の種類で呼び名が変わる。ヤギの人はパーン、鹿の人はフォーン、馬の人はシノレスという分類だ。セシーリアさんの下半身はヤギなので、パーンである。
「ああ。虹の橋をかけて越えてきたからな」
さすがロレンシオ。床に這いつくばってきたあたしたち三人と逆で、天井近くを通ったんだ。心配は無用だった。
「ヘンゼルは?」
鯨の尾寮の寮母は、メリュジーヌ族のパメラさん。メリュジーヌ族の人たちは、人間の上半身にヘビの下半身、背中にはドラゴンのものに似た飛膜の翼が生えている。パメラさんは、規則違反についてある程度の融通が利くらしい。
「大丈夫。もう窓が閉まってた」
よかった。ヘンゼルは小細工とは無縁で来られたみたいだ。
「それより行こう。時間がもったいない」
「誰か塔の見当ってついてるの?」
あたしは聞いた。ルジェナとロレンシオが手を挙げる。さすがの二人だ。
ルジェナがロレンシオを見上げた。ロレンシオもルジェナを見下ろす。
「──言っていいわよ」
「お前から言えよ」
「あなたの予想なら一理あると思うもの」
「お前が俺の思いつかないことを思いついてるなら、そっちを聞きたい」
「自信のほどは?」
「聞くまでもないだろう──お前と同じだ」
「ならいいじゃない。こんなときにまで答え合わせをするつもり?」
「もしこれが実戦ならこの答えで俺たちの命運が決まるんだぞ」
二人の譲り合い合戦は終わりそうにない。
「せーので言ってよ! 時間ないんだから!」
ヘンゼルが小声で怒鳴った。どのくらいかかるかわからないのだ。できることなら夜間の外出禁止時間が明けるまでに寮に戻りたい。
ロレンシオとルジェナは頷いた。
「わかったわ。じゃあ──」
「抜けがけするなよ」
「あら。思いつかなかったわ」
「二人とも! はい、せーのっ」
あたしは二人のあいだに手を出した。声に合わせて空気を叩く。二人の口が同時に動いた。
「みみぞぞれれののととうう」
二人の答えが一致した。
「よし行こう! さあ行こう!」
顔を見合わせてまたわいわい言い合いだしそうな二人の背中を押して、あたしたち五人は「霙の塔」へ向かった。
一つ階を降りて、ゴーストを警戒しながら、遭遇しないように祈りながら、廊下を渡っていく。一番端の鎧の横から伸びる細くて狭い回廊を抜け、歴代ペガサス杯の年間チャンピオンたちが描かれたタペストリーをめくり、坂道を滑り降りた。こういった抜け道は、普段は朝寝坊して授業に遅刻しそうなときにしか使わない──あと追いかけっこで遊んでいるときくらい。しんがりを務めるロレンシオは背が高く精悍なケンタウルスなので、あたしたちは彼がつっかえていないか何度か振り返りながら、なるべく急いで抜け道を進んだ。
そうしてたどり着いた霙の塔は、ルジェナの推理通り誰も近寄らないようなところにあった。城南側の群の中でも特に目立たない。近くの廊下の窓から塔の壁を見ると、石の目がところどころ枯れた苔に被われていて、寂れた感じだった。
「……入り口は?」
塔の前までやって来て、ヘンゼルが言った。あたしたちはみんなできょろきょろと塔の壁を見回す。扉はどこにも見当たらない。
「……まあ、入り口がわかりやすいわけないわよね……」
ルジェナが何かを考えながら言う。
「試してみるか」
ロレンシオがローブから杖を取り出した。彼の杖はイチョウの木製で、芯はユニコーンのたてがみだそうだ。知的好奇心がとても強く、たまに言うことを聞かないらしい。ロレンシオはカツカツ歩いて、塔の真ん前まで行った。彼のひづめは石の上でよく響く。
「雲、晴れよ」
ロレンシオは隠れたものの姿を見えるようにする呪文を唱える。何も起こらない。
「やっぱりないのよ」
ルジェナがなんだか満足そうに頷いた。
「そうだな」
ロレンシオも平然と言う。あたしはヘンゼルとウェイウェイをちらりと見た。二人とも釈然としない表情だ。よかった、ルジェナとロレンシオが余裕そうにしている理由がわからないのは、あたしだけじゃない。
「ねえ、おいてかないでくれる?」
あたしは一応文句を言ってみる。二人は振り返りも、答えもしない。ルジェナもロレンシオも床を調べているようだった。カツカツとロレンシオのひづめが鳴る。ルジェナの蛇腹の鱗はするすると静かだ。あたしたちは足元に全然注意を払わない二人の邪魔にならないように、後ろに下がった。
「あるか?」
「ないわ」
二人の話は進んでいく。あたしたちは二人のあとについて、塔の周りを丸く囲む廊下をぐるりと歩き、目を凝らし耳を澄ませた。
「……?」
不意にあたしの前を歩いていたウェイウェイが立ち止まった。ぶつからないように、あたしも今度はすぐに止まる。
「どうしたの?」
ルジェナたちの邪魔にならないよう小声で聞いた。ウェイウェイが床をブーツのつま先でコンコン突いている。
「ねえ、ここってこれで合ってるのかな?」
「何が?」
あたしはウェイウェイの隣に立って、床を見下ろした。特に変わったところのない石造りの平凡な床だ。ウェイウェイが床のある一点をトン、と蹴る。
「聞こえない?」
「何が? ウェイウェイって耳いい?」
「あ……うん、耳はいいかもしれない。──聞いてて。ほかと違うの」
あたしは床にしゃがんでみた。ウェイウェイが脚をそっと上げ、床の石を一つ、ブーツの踵で強めに蹴った。
──ボン。
かすかに音が響いた。あたしは床に顔をもっと近づける。ウェイウェイはもう一度床を蹴る。
──ボン。
まるで空の樽を叩いたときのような音だ。……空?
「……ヘンゼル。ここどう思う?」
ロレンシオとルジェナを見守るように遠くに立っていたヘンゼルを呼び寄せる。ヘンゼルもあたしに倣って床に耳を近づけ、ウェイウェイがまた石を蹴った。耳を澄ませていたヘンゼルが目を丸くする。
「……わっ。響いてる。この下、空洞なんじゃない?」
「えー、でもこの塔に地階はないんだよ? ──ルジェナー、ロレンシオー」
あたしたちではお手上げだ。二人を呼んで音を聞いてもらおう。
──ボン。
「おお」
二人の顔が輝いた。この音はテンションが上がるものだったらしい。ウェイウェイの功績だ。
「あったわね。これよ」
「えっ、そうなの? どうやって入るの?」
さっき窓から見てわかったことだけど、霙の塔は地面に直接建っている。あたしたちが今いるここは、塔の一階をぐるりと囲む廊下だ。例えばこの廊下に迷い込んでも、霙の塔の周りを一周するだけで出てきてしまう。塔そのものに入るための扉は見当たらないから、誰もが元来た廊下へ帰ることになるだろう。そういう造りのところだ。
「壁の中へ入るためにやることは一つよ」
ルジェナが回れ右をした。ロレンシオも続く。それでは戻っていってしまうではないか。
「どこ行くの?」
「この塔に入るのよ」
「どうやって?」
「こっちよ」
あたしとウェイウェイとヘンゼルも、ルジェナについて行く。
「一番近いのはどこかしら? 地下かしら」
「だろうな。……女子じゃないだろうな?」
「今わかるわけないじゃない。なによ、男子だったらいいっていうわけ?」
「女子よりいいだろう。俺もヘンゼルもいるんだぞ」
「あら。女子のほうが多いんだから大丈夫よ」
聞いてもわからない二人の会話を聞きながら、あたしたちはとにかく歩く。階段をいくつか降りていく。地下に行くみたいだ。やがて、あたしたちは地階にある男子シャワールームの前にやって来た。ここは、主に運動部のみんなが部活のあとに使うトイレやシャワールームや洗濯室の集まる階だ。
「おめでとう」とルジェナ。
「別に嬉しくない」とロレンシオ。
迷いなくシャワールームに入っていく二人は、本当にここを目指していたようだ。残りのあたしたち三人は一旦顔を見合わせてから、誰もいない地階の廊下を念のため見回し、誰にも見られていないことを確認してから男子シャワールームに入った。
シャワールームの中には緑色のランタンがいくつもかけられていた。ルジェナとロレンシオは、扉から一番遠い壁を杖でコツコツ叩いている。
「──あったぞ、ここだ」
ロレンシオは一点を指差し、壁から離れた。緑色に反射するごく普通のタイルの壁だ。
「どっちがやる?」
「あなたでいいわよ。あたしは音を消すわ」
「そうか。頼む」
ロレンシオが杖を構える。ルジェナはあたしたちのほうを振り向いて、一緒に下がるように言った。何が始まるのだろう。わくわくしてきた。
「いくぞ」
ロレンシオが杖で宙を突く。
「貫通せよ!」
それと同時にルジェナが杖をヒューンと振った。
シャワールームのタイル壁が崩れだした。固められていたタイルがばらばらと剥がれて落ちていく。その奥の石の壁も割れていった。相当に大きな音がしそうなものだが、ルジェナが音を消す呪文をずっとぶつぶつ唱えていて、目の前の大事件はとても静かに起こっていた。
辺りにもくもくと広がっていた石の粉と煙が落ち着いた。壁は破壊され、大きく穴が開いている。あたしたちはその穴に近づいて首を突っ込み、壁の中を覗き込んだ。
壁の中の空間はとても広くて、暗くて、そして太い水道管が何本も伸びていた。城中へ水を運んでいるパイプだ。
「行こう」
ロレンシオが手を差し出してくれている。あたしたちは背が高くて力のあるロレンシオに押し上げられるようにして、ヘンゼル、ルジェナ、ウェイウェイ、あたしの順に壁に開いた穴を越え、穴の一番近くを通っていたパイプの上に降り立った。最後にロレンシオが穴を登ってきて──彼は穴の開いた壁とは反対側にあるシャワールームの扉まで一旦下がって助走をつけ、穴を一息に飛び越えてきた──全員が壁の中にやって来た。
「塞いでおいたほうがいいわよね。もし誰かが見たら大騒ぎだわ」
ルジェナが杖を動かし、さっきロレンシオが壊した男子シャワールームトの壁を元通りに直した。シャワールームの緑色の光が遮断され、あたしたちは暗い壁の中に閉じ込められる。
ヘンゼルが細くて少し短いハシバミの杖を振った。杖先に明かりが灯る。白い光だ。あたしたちもそれぞれ杖を光らせた──ルジェナは紫色、ウェイウェイはオレンジ、ロレンシオは赤、あたしは黄緑色だ。
辺りを照らしてみると、前にも右にも左にも、上にも太いパイプがたくさん走っているのが見えた。光は反射せずどこまでも届いていくようで、壁や天井は見えない。あたしたちはパイプの下を覗いてみた。下にもパイプは伸びていて、床というか底というか、そういったものは何も見えなかった。ここはまさに地下宮殿だ。
「このあとどうするの?」
途方もなく広い壁の内側を見回しながら、ウェイウェイが両手をきゅっと握り、でも紫の瞳をきらきらさせて聞いた。声がぼわんと反響する。あたしも早く歩いてみたくて、もっと大胆なことを考えると、無限の闇に向かって叫んだら返ってくるか、山びこを試してみたくてうずうずしながらルジェナとロレンシオを見た。
「空のパイプを探すんだ。今は使われていないようなやつだ」
杖に赤い明かりを灯したロレンシオが答える。
「あっちへ伸びてるパイプよ」
ルジェナが十一時の方向を杖で指して付け足す。あたしたちはお互いの背中に翼の呪文「風よ背中に根付き、その体を伸ばし大きく羽ばたけ」をかけ、シャワールームの壁に繋がるパイプから飛び上がった。
言われたとおり、空のパイプを探して飛ぶ。十一時の方向へ伸びるパイプの中から、湿っていなくて温度のないパイプを探す。あたしも一本選んで近寄り、拳でコンコンとノックした──これは冷たいから違う。それに、音が響くような感じもなかった。中は水で満ちているんだろう。
あたしたちはしばらく無言でパイプをノックした。地味で地道な作業が続いていたけれど、ここでもまたウェイウェイが耳のよさを発揮した。
「あったよー……」
ウェイウェイが下のほうから小声でみんなを呼ぶ。あたしたちは暗くて広い空間の中、杖先の明かりを頼りにそちらへ降りていった。
ウェイウェイが立っているパイプは、確かに乾いていた。触ってみると冷たくも温かくもない。そして何より、足音が響く。ルジェナが杖でコツコツ叩いて確かめた。
「……間違いないわね」
満足そうに微笑む。ウェイウェイの功績が増えて、あたしは嬉しい。
「どうするの?」
ヘンゼルは杖を高く掲げた。パイプが白く明るく照らされる。光の魔法は彼が一番上手い。
「入りましょう」ルジェナが迷いなく言い切った。「穴を開けるわよ」
またロレンシオが開けるのかと思って、隣にいたあたしは場所を空けようとした。
「ルジェナがやったほうがいい。俺は豪快すぎる。ここでは下に瓦礫を落とさないほうがいいだろう」
ロレンシオがルジェナに譲った。ルジェナはあたしとウェイウェイとヘンゼルを見る──三人とも首を振った。あたしたちにそこまでの自信はない。
「じゃあやるわね。離れてて」
ルジェナが蛇の体を高く反らせる。杖で空中に大きく円を描いた。大きな円は紫色に光りながら、ゆっくりと降りていく。そのままパイプにめり込み、シュワシュワ溶かしていった。
「消えよ!」
ルジェナが杖をピタッと止める。瞬間、円の内側が空っぽになった。パイプに穴が開いたのだ。ルジェナすごい。
あたしたちは穴からパイプの中に降りた。パイプはロレンシオが背中を伸ばしても平気なくらいに高さがある。
「行きましょう」
ルジェナはパイプを奥へと進む。あたしはルジェナの蛇の尾についていく。あとにはウェイウェイが続き、ヘンゼルがその後ろから白い光を強めた。ロレンシオは一番後ろを歩いている。パイプの丸い床はパラパラといろんな物が落ちていて、あたしは思わず気になった。
「……ここって汚くないの?」
「何百年も前に捨てられてるのよ。遺跡に汚いもトロールの鼻クソもあったもんじゃないでしょ」
ルジェナの頼もしい回答だ。
「ねぇ、ここ、声すごく響くんじゃない?」
ウェイウェイがパイプ内に重なる自分たちの声を気にしている。
「集音朝顔、耳につける?」
ヘンゼルが腰に着けていたポーチから、朝顔の花を出した。みんなで集音朝顔を耳の穴に突っ込む。この朝顔を耳につけると、小声でもちゃんと聞こえる。ただその分、大声を出すと鼓膜がとんでもないことになる。
「何年か前にあったよね。どこかの学校で、パイプを使ってバジリスクが無差別石化した事件」
ヘンゼルが囁いた。
「ああ、あったな。保護区の職員がバジリスクの卵を失くすなんてどうかしてる。だいたい数えたらわかるだろう」
ロレンシオが後ろから小声で返す。
「そんな単純な話じゃないわ、悲劇よ。六百年前に盗まれて、ずっと迷子だったんだから。可哀想に」
ルジェナが小さく呟いた。ラミアー族の彼女だから、蛇の化け物みたいに言われがちなバジリスクのことも他人事とは思えないんだろう。
あたしたちは薄気味悪さに燃え上がる興奮を押し殺して、静寂に満ちたパイプを大人しく進んだ。
パイプは何度か左右に曲がって、やがて上へ向かって直角に折れていた。きっとここから塔へ伸びているのだ。あたしたちはここから霙の塔へ登れるのだ。
「飛びましょう」
ルジェナの掛け声で、あたしたちは背中に翼がついたままだったことを思い出す。翼を羽ばたかせ、パイプの床を思い切り蹴った。パイプの中を上がっていく。上へ──上へ──上へ──。パイプはだんだん細くなっていった。そして、格子状の蓋が塞いでいる出口へ行き着いた。
ロレンシオが杖で突ついて、格子のネジを外す。ネジはくるくる回って浮いていき、外れた。ヘンゼルとロレンシオが格子を押し上げる。あたしたちはパイプの出口から這い出て、待ちに待った塔へと踏み入れた。
そこは、なんだか仮眠室のようなところだった。簡素な石造りの冷たい床に、隅に寄せるようにして薄いマットレスが畳まれている。洗面器とタオルと置き時計が転がっていて、あとは何もない。あたしたちが出てきた格子窓は通風口のようだった。ここは、さっき入り口を探したときに廊下から眺めていた霙の塔の壁の、内側だ。
「結構長かったわね」
とルジェナ。
「格子とは意外だったな。水道かと思っていた」
とロレンシオ。
「城の地下にあんなに空間があったなんて……」
ヘンゼルは少しショックを受けている。
「ウィザースプーンって面白いね」
ウェイウェイは楽しそうだ。
「ずいぶん探検しがいがあったんだね」
私はますますこの学校が好きになっていた。
塔の中には、壁に沿って巻くように、螺旋の廊下が上へと伸びていた。初めて歩く霙の塔の中を、あたしたちは上へ登っていく。霙の塔は、一階こそ廃墟のようだったけど、上階は外側ほど廃れてはいなかった。いや、むしろ快適だった。
塔の中を螺旋に登る床はおそらく石なのだ。足の裏に固さを感じる。でも、その上にはふんわりとした苔がむしていた。苔はふわふわしていて、ブーツや革靴で歩いていることが申し訳なくなってくるくらいだ。
壁にも薄く苔が生え、ところどころに小さな雫がついている。耳を澄ませてみると、苔のすき間をちろちろと水が走っているような音が聞こえた。
「……この水、下から上へ上っているわ」
ルジェナが呟いた。
本当だった。水は苔の中を重力に逆らって流れている。あたしは苔たちが喜んでいるように感じた。
「ていうか、待って。床にも水が流れてるじゃない!」
ルジェナが少し大きな声を出す。朝顔にきっちり拾われて、鼓膜が痛い。あたしたちは集音朝顔を耳から引っこ抜いた。
苔むした石の床をよく見ると、ルジェナが驚いた通り、ここにも水が逆さに流れていた。不思議な塔だ。どんな魔法がかけられているのだろう?
「……ねえ、悪魔のネジバナはいつ出てくるのかな」
ウェイウェイがみんなに聞いた。あたしはそんなもの忘れていた。みんな立ち止まり、窓もなく、いつ終わるかわからない螺旋の坂を眺める。
──キュイキュイ、キュイ。
「きゃっ」
ウェイウェイが小さく悲鳴を上げた。
「な、なに……?」
あたしたちは謎の音がしたほうに目を凝らす。
パイプと同じで塔の中も暗かったが、明らかに狭かった。一人が通るだけで横幅の埋まる螺旋の坂なのだ。あたしたちは一列になって進み、杖先にはみんな明かりを灯していた。
杖を高く掲げ、光を強めてみる。白、紫、オレンジ、黄緑、赤の五人分の明かりに照らされて、辺りが明るくなる。少し眩しいくらいで、暗闇に慣れつつある目がちょっと痛い。
──キュイキュイッ!
また音が聞こえた。
「わっ、えっ……?」
前からヘンゼルの声が聞こえる。声の調子からして、別に命の危険はなさそうだ。
「どうしたの──きゃっ!」
突然、足元に何かの気配を感じた。それは小さくて、すぐに過ぎ去った──と思ったのだが、数が多かった。
「わあ」
「なに!?」
「ふ、ふわふわしてる……!」
あたしたちは足首とふくらはぎにくすぐったさを覚えて、笑い出しそうになりながら悲鳴をあげた。朝顔を外しておいてよかった。こんなに騒いだら、鼓膜は確実に破れていただろう。
足元で、ふわふわもふもふしたものがうごめいている。あたしたちは杖を降ろして、床を照らした。
「……これ、ブルーフラッフィーボムだわ……!」
ルジェナが興奮気味に叫んだ。ブルーフラッフィーボムとは、空色のふわふわしたまんまるの鳥である。図鑑の中でしか見たことがない。森の中に棲む魔法生物で、その鳴き声と体の色による擬態の下手くそさから、乱獲され、絶滅危惧種に指定されている──はずなんだけど、なんでここにこんなにいるのだろう?
「うわあ、かわいい」
前を見るとヘンゼルが一羽を抱き締めている。
「おい、降りろお前ら。落ちるぞ」
後ろではロレンシオが背中によじ登ってきたブルーフラッフィーボムたちに困っている。
あたしも足にまとわりつく空色のブルーフラッフィーボムを抱え上げた。ブルーフラッフィーボムはとても軽かった。メロンくらいの大きさをしているのに、綿飴のような軽さだ。手がどんどんうずもれるほど、空色の羽毛はふわふわしている。
キュイキュイッ!
耳の近くで鳴かれるとにぎやかだ。ふわふわすぎて顔がどこにあるのかわからないけど、オレンジ色の小さな足は生えていた。指も爪も細くて、これで歩けるのが不思議だ。体重が軽いから楽勝なのだろうか。
しばらくあたしたちの周りを行進していたブルーフラッフィーボムたちは、また突然、一斉に、今度は塔の上へ向かって突進し、消えていった。
「終わった……?」
ウェイウェイが怖々聞いた。
「たぶんな」
ロレンシオがひづめの下を確認しながら答える。もう苔しかないから、安心して歩けるだろう。
「なんだったのかしら……」
ルジェナはぽうっとした顔で微笑んでいる。彼女は動物が好きなのだ。
「眠り姫ってブルーフラッフィーボムのことかな……」
ヘンゼルは当初の目的を忘れていなかった。
「上、行こうよ」
あたしは今夜初めてくらいに役に立つ意見を出した。
あたしたちはそれから何事もなく進んだ。途中変わったことといえば、苔がチカチカとピンク色に光ったことくらいだった。螺旋の坂道をひたすら上り、あたしたちは、とうとう坂道の終わりを宣言する扉の前にやって来た。