三人の命の行き先
風がまっすぐ吹いてくる。冷たい秋の風だ。遠い地平線から、長く一息に向かってくる。
ここは城の北。東に広がる森の梢より高い、見晴らしのよいスタジアムだ。ここに寄せる風は、遥か下の地面に生え揃う芝生を撫でるそよ風と違って、荒々しい。この場所は、ウィザースプーンの敷地の中で一番空に近い。
「ここにいた」
白い雲を眺めて、吹かれるまま風を吸い込んでいたら、空から声が降ってきた。
「──クラリッサ?」
視界はすべて天高く広がる空だ。宙に向けて聞き返す。
「我、白熊の毛皮を脱がん」
反対呪文と共に、クラリッサが姿を現した。手には杖を掲げている。さっきまでは見当たらなかった。透明になる魔法を自分にかけていたのだろう。彼女は、幼馴染みを探してここへやって来たのだ。
アーサーは、空中に浮かぶゴールポストのリングのてっぺんにいるところを見つかった。彼が見上げると、すぐ上に、箒に跨がったクラリッサが浮かんでいた。風に、外套がはためいている。
「あなたを探すために私に規則を破らせるのやめてくれない? 私は鯨の尾寮じゃないのよ」
クラリッサは箒からアーサーの隣に降り立った。授業、部活、競技以外での箒の無断飛行は禁じられている。七年生といえど規則違反だ。
「キャサリンについてなくていいのかい?」
アーサーは少し横にずれ、場所を空けた。
クラリッサは、もう一人の幼馴染みであるキャサリンが目覚めた夜から、時間の許す限り医務室の廊下に通っているのだ。
「一日中そばにいたら窮屈でしょ……。それに、面会許可もまだ下りてないもの。どのみち会えないわ」
箒を肩にもたせかけて、彼女も腰を下ろす。杖もローブの袖へしまった。クラリッサの杖はカメリア・シネンシス製だった。芯にはリュークロコッタの心臓の琴線が入っている。闇の力に耐性を持ち、攻撃魔法に優れていた。
キャサリンはまだ面会謝絶である。医務室の全権を握っているのは、校医のドクトル・モイストだ。彼女が「いい」と言わない限り、会うことはできない。
「すぐだよ。何年も待ったろ。数日なんて、あっという間だ」
「そうよね……。何してたのよ」
クラリッサはアーサーの見ていたほうを見た。
アーサーの周りに箒はない。彼は湖の水で起こした細い津波に乗ってここまでやって来ていた。水中人族は水の扱いに長けている。俊敏さには欠けるが、彼のほうは飛ぶために特別な道具はいらないのだった。
「見てた。結局、僕らは一度も競技に参加することなく終わるね」
二人が見渡す方角には、広い校庭があった。ところどころ、低く浮かんだ雲が地上に影を落としている。ここは、魔法界で一番野蛮で人気のある「アルファベットQ」という競技のスタジアムだった。
アルファベットQとは、箒に跨がって飛びながらゴールリングへボールを打ち込み、得点を競うスポーツである。
「あなたは仕方ないじゃない。体力がなかったんだから」
クラリッサは長い前髪を尖った耳にかける。風がビョオオと吹いた。
アーサーは自分のエネルギーをキャサリンへ注いでいたために、六年間、朝も昼も夜もふらふらしていた。
「君は僕に合わせてたろ。勿体なかったよ」
「毎晩リリンを退治してたんだから、十分よ。しかも最後の最後でオークの咆哮を浴びれたなんて、贅沢よね」
さすがは座学より実戦を好む幼馴染みだった。アーサーは静かに微笑む。
「……君は、Qかホーンビーストに向いてただろうね……」
ウィザースプーンには、学校行事として大々的に行われるスポーツ競技がいくつかある。
アルファベットQ、ホーンビーストゲーム、ペガサス杯、二十四時間耐久箒レース、絨毯レースだ。
どれも寮の対抗戦になっていて、四つの寮は各競技ごとにそれぞれ専任のチームを抱えている。
年末に授与される寮杯の行方を左右するのは、一年間に獲得する得点だ。それに一番大きく貢献している選手たちには、大きな人気と羨望と期待が寄せられる。ウィザースプーンにいるからには一度は参戦したいと思うのが生徒の性だ。
そのなかでも特に野蛮とされるのが、アルファベットQとホーンビーストゲームであった。
アルファベットQで選手たちは、得点を競いながら空飛ぶ弾丸を避けなくてはならなかった。弾丸を敵チームへ飛ばすポジション、得点専門の選手たちを弾丸から守る護衛要員、ゴールキーパー……。寮のシンボルカラーのユニフォームをまとい、空中を猛スピードで縦横無尽に飛びながら試合を進める選手たちは、とても格好いい。
ホーンビーストゲームとは、名の通り、角獣に跨がって戦うスポーツだ。獣上から、小さなボールをラケットで突き、地上のゴールに打ち込むのである。ホーンビーストたちによる体当たりや、角での頭突きが、攻撃手段としてルール上許可されているため、選手はよく大怪我をする。──それらは、試合後にはもちろん勲章となる。ホーンビーストの種類には、草食獣である馬タイプと、肉食獣であるライオンのタイプがいて、角の数はそれぞれにつき、一本の獣のユニコーンと二本の獣のバイコーンがいる。ゲームは草食と肉食で分かれていて、肉食獣の試合が特に野蛮で、人気も高い。
ペガサス杯では、定められた飛行距離を走破するまでの時間を競う。スピード勝負のレースだ。空中に設置されたコースを何十周もする、隔月開催の競技である。
二十四時間耐久箒レースは、規定時間内での総飛行距離を競う。スピードはもちろんだが、それ以上に耐久性が問われる。年に一度、丸一日かけて行われる。
絨毯レースとは、ペガサス杯のタイムレースと箒の耐久レースを、空飛ぶ絨毯に乗って行うものである。タイムレースのほうはペガサス杯と交互の隔月に開催され、耐久レースのほうは箒のレースと半年違いの開催だ。
このペガサス、箒、絨毯の三競技は、野蛮というよりは過酷なスポーツであった。
クラリッサはとうとう前髪を手で押さえた。風が強すぎるのだ。
袖から出た肌の白さに惹かれてアーサーが隣を見ると、彼女の手の甲が目に入った。
「君の怪我もやっと治ったね」
アーサーにとって寝不足だった六年間は、彼女にとっては生傷の絶えない日々だったのだ。
「ええ。キャサリンに会う前に綺麗になってよかったわ」
クラリッサが珍しく微笑み、前髪を押さえていないほうの手を前に伸ばした。
クラリッサの世界は昔からキャサリンを中心に回っている。それを知っているので、アーサーはそれ以上は何も言わない。
クラリッサは訳知り顔で風に吹かれている幼馴染みのほうを向いた。
「あなた、就職どうするの?」
「海へ帰るよ。仕事があるんだ」
アーサーは前を向いたまま答える。
「……私にまで隠すつもり?」
クラリッサは、そのとき一際強く吹いた、声が聞こえなくなるほどの風につられて昂ぶろうとする気持ちを抑え、冷静に話そうと努めていた。
「竜の寝床銀行で、選別の仕事がしたいって言ってたじゃない。真珠の仕分けには自信があるって、宝石が好きだって」
「懐かしいね」
アーサーが目を細める。対して、クラリッサの眉間は険しくなった。
「私は真面目に話してるのよ。それくらい初志貫徹しなさいよ」
「よく言うよ。君だって警官になりたかったのは、卒業後もキャサリンが目覚めていなかったときのために、ここの護衛になりたかったからだろう? 僕らの願いが叶った今なのに、ほかの道は模索しないのかい?」
クラリッサもアーサーも、互いの詰問へは明確には答えない。
二人の近くで風がぴゅうと鳴った。
「寿命、どのくらい残ってるのよ」
しばらく風に吹かれてから、クラリッサが質問を変えた。単刀直入な内容だが、アーサーも今度は微笑んでいる。
「四分の三くらいかなぁ。……キャサリンには内緒にしておこう」
ルームメイトのオルテンシアから聞いて、マンドレイクの叫び声は、麻薬以前に毒であると改めて認識したクラリッサである。のほほんと言ってのけるアーサーの隣で、彼女は外套の中のローブを握りしめた。
「当たり前じゃない。あなたより、あなたなんかより、よっぽど──」
いつも叩いてきた軽口だったが、その先は今言葉にならない。
アーサーはやっとまともに彼女のほうを向いた。それから、なだめるように笑った。
「もともとせいぜい八百年だ。二百年縮んだだけだよ」
「だから言ったじゃない! だから言ったんじゃない……!」
「……ごめん。君にばかり背負わせるね」
慰めようと試みたものの、いつもより失敗に終わった。
クラリッサが絞り出すように言い、アーサーは自分の首の後ろを掻いた。
「……君はキャサリンの子供、その子供、そのまた子供を見守るんだ。……それが僕らの中での君の役割だろ」
穏やかな口調のアーサーに比べ、クラリッサの顔には濃く影が差している。アーサーは彼女の目線に合うよう、背筋を少し曲げる。
「……大丈夫。キャサリンの子どもたちはきっと可愛いよ。きっとっていうか……絶対だろうけど……。それに、僕の子孫も君を大切にする」
「なんであなた自身が諦めるのよ! なんで今から諦めてるのよ! ただでさえあなたたちは私より先にいなくなるっていうのに、そんなの、そんなの……私に対する罪だわ……!」
クラリッサが怒鳴った。悲しい叫び声だった。
アーサーがため息をつく。元来、憂いを持ち合わせない彼だが、長年気に懸けてきたことがある。
「……君は、闘わなければ死ぬことのないエルフ族だ。死すべき定めの僕らとは違う、ただ一つの種族だろ。君を前線に立たせてしまって、どう埋め合わせればいいかわからない。──それに、君の本来の幸せは、僕らを見送り、続く世代も見送って、そうして長い時の中を生きていくことだろう。でも、僕らと縁を結んでしまった君の孤独は、察するに余りあるよ……」
エルフ族に戦わせることがどういうことかをわかっているからこそ、いつも心配であったし、申し訳なく思ってきた。
だがクラリッサはアーサーの懺悔を無視する。自分が言いたいことのほうが大事だった。
「私の人生から、あなたたちがいなかったことなんてなかったのに……! 私の人生にはいつも、あなたたちがいたのに……!」
瞳から涙が零れ、風に吹かれて消えた。
アーサーがそっと語りかける。
「忘れないさ、ずっと、三人とも。生きてるか死んでるかの違いだけだよ」
聞いているのかいないのか、クラリッサは宙を見つめて動かない。
「そんなに泣かないで……。僕ら、頑張ってきたじゃないか。学生生活の全てを懸けて、やり切ったんだ。報われたよ。……僕らの時間はこれからだ」
「だから何よ! あなたたちの一生なんて、あっという間じゃない! いくら愛してても、あなたたちなんてすぐ死んじゃうじゃない! 私を一人、残すじゃない……!」
不老不死であるエルフ族のクラリッサからすれば、人族も水中人族も、その一生はとても短い。だからこそ一瞬一瞬が大切なのだ。なのに、キャサリンはその貴重な人生のうち六年間も眠って過ごしてしまった。アーサーも寿命を縮めた。彼女を想っても、彼を想っても、自分本位にも、胸が締め付けられる。
エルフ、人間、水中人。彼らのように、異なる種族の者同士が縁を結ぶと、いつか必ず悲しい思いをする。定めが違いすぎるからだ。
ときにその悲しみは、種族としての本来の生き方を見失わせる。種の存続も、自身の命さえも、疎かになる。
そういったことがあるから、純血主義と称して、他種族との関わりを禁止している種族は多い。その傾向は、特に人族で顕著だ。
排他的で非情に見える純血主義だが、種族を守るための保安策でもある。
悲しみに暮れる仲間を涙の根源から隔離してやりたい、そんなものとは始めから出会わなくてよい──そう思う同族の思いは、わからないではない。
だが、涙は、全てが悪いものではない。生きる者の強さとは、悲しみを乗り越えるときにこそ発揮される。
クラリッサの涙が現れては吹き飛んでいく。
アーサーが彼女の肩へ手を添えた。
「……僕もキャサリンも、君の永い一生のなかで、いつか一つの思い出に変わる。そのときには笑顔でいてくれ。今はいいよ、僕らが拭ってあげられる。けど、一人で流す涙はきっともっとつらいよ」
「あなたに一番言われたくないわ。誰のせいだと思ってるのよ」
「──なら、僕らが生まれ変わってこられるように、祈っててくれ。いつかきっとまた生まれてくるよ。君を一人にはしない」
アーサーの言葉に、クラリッサのまばたきが一瞬止む。
アーサーがその頬へ指を伸ばすより先に、風がクラリッサの涙をさらっていく。大粒の雫が、目尻に沿って遥か後ろへと流れていった。
アーサーの頬にも水が流れているが、彼の場合は体から染み出ているただの水分だ。意味合いは違うが、アーサーが風が吹いてくる方角へ顔を向けると、彼の頬からも水が駆け、空へと去っていった。
「……昔より泣かなくなって偉いよ。でも、キャサリンの前ではもう少し堪えてね」
「──ご心配なく。目を凍らせておくわよ」
「それはちょっと……賛成できないかなぁ」
二人はスタジアムの南に建つ城を見下ろし、分け隔てなく世界を巡る風に、しばらく吹かれていた。
*
土曜日。
医務室にはウィザースプーン魔法魔術学校の七年生が三人集まっている。うち二人はクラリッサとアーサーだ。二人が一番会いたがっていた人物に、校医から面会許可が下りたばかりである。
オレンジ色の明かりに照らされ、ハッカのような匂いがしている室内には、白いカーテンで仕切られた個室がいくつも並ぶ。目当てのベッドは、その一番奥にあった。
「キャシー」
愛称で呼びかけ、クラリッサがキャサリンの手を取った。両手でそっと、優しく包み込む。キャサリンもクラリッサの手をきゅっと握り返した。そして、彼女たちはお互いの顔を覗き込む──二人とも、嬉しそうで、何かを待っているような、きらきらした表情だった。
見つめ合う二人。クラリッサの目は黒く、キャサリンの目は灰色だ。彼女たちはしばらく、互いの瞳の奥に灯る光を見つけようとするように、じぃっと覗き合った──そして、同時にクスクス笑い始めた。開けられたカーテンの近くには、慣れたような、悟りを開いたような曖昧な笑顔を浮かべ、アーサーが突っ立っていた。
クラリッサが優しく手を引いて、キャサリンを抱き寄せる。髪に挿さった簪がシャラ……と鳴った。医務室に差し込む日光が当たって、エメラルドの葡萄がきらめいている。アーサーは、クラリッサの黒髪に揺れる簪と、そのすぐそばでふんわり膨らむキャサリンの前髪を眺めていた。互いの肩に顔を預け合う二人を、どのくらいぶりに見たことだろう。
キャサリンとは噂の「眠り姫」だ。校医のドクトル・モイストから、もう起き上がることを許可されている。彼女は大きなたれ目を嬉しそうに細めている。クラリッサが、キャサリンのふわふわしたストロベリーブロンドを撫でた。
「久しぶりね」
「ええ」
「具合はどう?」
「いいみたい。ありがとう。クレアのおかげよ」
「本当? 嬉しいわ」
「……あの……僕は……?」
仲睦まじい二人の後ろから、アーサーが遠慮がちに声をかける。すかさずクラリッサが振り返り、言い返した。
「あなたなんかどうでもいいわよ、この犯罪者!」
「犯罪者……?」
キャサリンが灰色の瞳をぱっちり見開く。アーサーが「あー……」と天を仰いだ。
「こいつ、マンドレイクの子供の叫び声、密輸してんのよ」
「まあ」
クラリッサが容赦なく彼の秘密を暴露する。キャサリンの目がもっと大きく見開かれる。
「しかも中毒なのよ」
「クラリッサ……!」
言われたい放題でも止めようとはしないアーサーだが、それだけは聞き捨てならなかった。乾いたような小声で静かに怒鳴る。
「何よ。事実でしょ?」
本人がなんと言い張ろうと、若いマンドレイクの叫び声を聞き、気絶することで不眠症を解決したつもりになっているアーサーは、誰が見てもマンドレイクの叫び声中毒だった。アーサーはぐうの音も出ず、黙ってまぶたを閉じる。
「はいはい、男は出てくださーい」
更に非情なことを言われてしまう。「眠り姫」のキャサリンと六年ぶりに会話できると思ったのに、クラリッサに文字通り足蹴にされ、ベッドを仕切るカーテンの外へ閉め出されてしまった。アーサーはゆらゆらと揺れる白く長いカーテン越しに訴える。
「そんな、クラリッサ……! 僕だって話したいのに……!」
「なによ、髪を結ぶところ見るつもり? 恋人でもないくせに!」
「わ、わかった、ごめん、ごめんて……! うわ、危な──」
カーテンがほんの少しめくれたと思ったら、洗面器、石鹸、包帯、薬瓶、ピンセットと様々な物が投げつけられた。男は立ち去るしかない。
アーサーは、薬瓶が床に落ちて割れる前に赤い杖を一振りし──投げられた物たちを確保する。彼の杖は、ハナミノサカゴの背ビレの毒針を芯に持つ赤サンゴ製である。
ほっと息をつき、振り向くと、何事かと様子を見に来ていた校医が真後ろに立っていた。ドクトル・モイストは人兎族の女性である。人兎族とは、普段は人間で、皮を被るとウサギの姿になる種族だ。アーサーはへこへこと頭を下げ、腕に抱えた備品たちをまとめて彼女に渡した。
彼が医務室を出ると、「眠り姫」の見舞いに来ていたアイリーンたち三年生五人が、扉のすぐそばで聞き耳を立てていた。金髪と黄緑色の瞳で背の高いエルフの女の子、黒髪と紫の瞳でクリーム色の尻尾が九本スカートから突き出ている九尾狐の女の子、暗い茶髪に深緑色の瞳とヘビの下半身のラミアーの女の子、金まじりの栗色の短髪と緑の目をしたこれからもっと逞しくなるであろうケンタウルスの男子、そして、明るい茶髪にブラウンの目の少し背の低い人族の男子。多大なる規則違反と眠り姫事件への貢献が相殺し合って処罰を免れた、かわいい下級生たちだ。
「やあ」
アーサーは努めて明るく、爽やかに挨拶をしてみる。エルフ族のアイリーンが、チラリと医務室の奥を見て、それからアーサーを見上げた。
「……先輩。大変だったし、大変なんですね」
見栄虚しく、全部聞かれていたようだ。アーサーはふうと息を吐くように笑う。
「……いいんだ。役目は果たした。もうぐっすり眠れるよ。残ったマンドレイクの叫び声は──」
ローブのポケットから白い貝殻を取り出してみせた。
「魔法薬草学のパッヘルベル教授に引き取ってもらう」
アイリーンたちは、ずっと気になっていたことを彼に聞いた。
「──先輩。屋上で言ってた『あの日言ったこと』ってなんですか?」
アーサーは一瞬考え、ああ、と笑う。まだくまが濃かったが、その頬にはしっかり水が流れていた。
「彼女が──キャサリンがリリンに襲われたあと、食べられたエネルギーを補填することになってね。クラリッサも先生方も、何人も試したんだけど、僕のエネルギーしか入らなかったんだ。そのとき僕たちは一年生だったんだけど、僕は『自分は死んでもいいから彼女を助ける』と言ったんだ。もちろん先生に怒られたけどね。それだよ」
アイリーン・フォースターやメイユウ・ワンが真剣な顔になる。十五歳の彼女たちには、アーサーたち十九歳はとても大人に見える。
「愛してるんですね」
「愛っていうか……」
アーサーは医務室を振り返る。懐かしそうな目だ。そして独り言のように呟く。
「見殺しにする度胸がなかっただけ、かな。……当時はまだ子供だったから、諦めも悪かったよ……うん。──僕ら三人はね、幼馴染みなんだ」
キャサリン、クラリッサ、アーサーは、三人とも種族が違う。それぞれ人、エルフ、水中人だ。
いつどこで出会ったのか、定かではない。物心がつけばすでに親しかった。三人ははじめから幼馴染みだった。
年を経るにつれ、キャサリンとクラリッサの二人は更に仲を深めた。種族は違っても、女の子同士はやはり盛り上がる。しばしばアーサーが置いていかれるくらいであった。
三人が十三歳になる年、クラリッサとアーサーにウィザースプーンから入学招待状が届いた。十一歳──二人より二年早くからほかの魔法学校へと通っていたキャサリンだったが、二人と一緒にいたいからと退学し、自分からウィザースプーンへ願書を出したのだった。
人族のキャサリンがあのまま元いた学校へ通っていれば、このように眠り姫となることもなかっただろう。闇の生き物は、捕食対象であるとはいえ、束になって反撃してくる人族の密集する場所は、避ける傾向があるからだ。三人一緒の入学が決まったあの日、ただ喜んだクラリッサとアーサー。その後授業で多くのことを知って、キャサリンの寝顔に話しかけるのが辛くなったこともあった。
警官を目指すほど人一倍正義感の強いクラリッサは、夜間の戦闘以外にも、キャサリンにエネルギーを注げない自分への無力感や闇の生き物に対する憎悪に、心が囚われてしまわないよう葛藤し続けてきたし、寝不足と体力不足でいつもふらついていたアーサーは、眠り続けるキャサリンのことも戦うクラリッサのことも、どちらも心配だった。
リリンは毎晩のように現れたし、彼女がいつ目覚めるかもわからない……。心が安まる日はなかった。心労を六年抱えてきた二人は、自分たち三人の関係が友情という純粋な一言で言い表せるとは思っていなかった。
そんなことを知る由もないかわいい後輩たちは、純粋な目を向けてくる。
「捨て身で助けるのも勇気あると思います」
アイリーンの言葉に、アーサーは微笑んだ。
「無謀なのと勇敢なのは同じじゃないからねぇ……。君は鷲の翼寮かな?」
「はい」
「──なるほど。頼もしいね」
そして、アーサーは姿をくらました。これは、五年生以上の生徒が取得できる魔法で、突然姿を消したり、急に現れたりできる術である。
残された五人は見舞い品を握りしめ、緊張した面持ちで医務室へ入っていった。
*
日曜日。医務室の一番奥、面会謝絶の札が外されたばかりのカーテンに、オレンジ色の明かりが灯っている。
ベッドにいるのはキャサリンだ。起き上がっている。珍しくクラリッサの姿はない。代わりに、別の女子生徒がベッドわきの椅子に腰掛けていた。ゆるくウェーブがかった黒髪を肩まで垂らした、青い目の女生徒だ。ぱつっと張った白いシャツの胸元に、金と白のネクタイが乗っている。
サイドテーブルには、カード、花束、菓子、アクセサリーなどの品々が積まれ、小山ができていた。
小山のうち、半分は菓子である。虹色に輝く玉虫チョコレート、口に入れた瞬間に消える影サブレ、目には見えない新月カステラ、食べると首がフクロウのように二七〇度回るようになるフクロウ綿菓子、白くてまん丸で割ると中から小さな空色の鳥が現れてほんの数秒パタパタ羽ばたいたら消えてしまうブルーフラッフィーボムの卵の殻ラムネ、騶虞の肉球マシュマロ、カラドリウスの羽型のど飴、ドクドク脈打つドラゴンの心臓ガム、苦くて酸っぱい不死鳥の灰パウダー、美味しいけれど食べるとしばらく動けなくなるバジリスクの目玉グミ、カーネーションのシロップを砂糖の薄い殻で丸く包み込んだカラフルできらきらしたシュガーボンボン。どれも魔法界の人気菓子だ。
あとの半分は、薔薇のヘアオイルとツゲの櫛、ガラス瓶いっぱいの真珠の形の入浴剤、夢見糸のレースハンカチ、ミスリル製のブレスレット、鳳凰カラーのアイシャドウパレット、ユニコーンの角形アロマキャンドル、日に当てると解けて曲が変わる霜柱製のオルゴール、熟睡したい夜に役立つインスタント獏、本物の氷の塊と雪の結晶が光を散らすサンキャッチャーなどなど……。
これらはみな同級生からの贈り物である。六年前にキャサリンが襲われ今まで眠り続けていたことは、ウィザースプーンの七年生全員が知っていた。
「久しぶり。元気? ……って聞いたら、変なのかな」
「そんなことないわ。ありがとう。元気よ」
キャサリンと話しているのは彼女のルームメイト、ハル・ブライトクロイツ。鷲の翼寮の七年生だ。彼女はセルキー族である。
セルキー族とはアザラシ人間だ。主に海で暮らしている。水の中ではアザラシの姿で、皮を脱げば人間となり陸に上がることのできる一族だ。
ウィザースプーンは生徒数が少ない。一学年は四十人ほどだ。それでもキャサリンの負担を考慮し、七年生を代表してハルが一人で会いに来た。ルームメイト、ほかの寮の友人、何人かの男子生徒たちから託された見舞いの品々を持ってきていた。
見舞い品について、誰からの贈り物だとか、カードに書ききれなかったメッセージだとかの説明を終え、ハルはおもむろに大きな物を取り出した。厚みはないが、両腕で抱えるほどである。
「これ……私からのプレゼント。プレゼントっていうのもちょっと変なんだけど」
「なあに?」
キャサリンは嬉しそうに受け取った。ハルの瞳の色と同じ、真っ青なリボンをほどいていく。ハルは黙って見守る。そしてキャサリンは、覆いの布をめくった。
それは、額に入った絵だった。今から三年前、十六歳のキャサリンだった。たくさんの花の中、ベッドに横たわる自分。枕に広がる豊かなストロベリーブロンド、閉じたまぶた。
絵をじっと見つめるキャサリン。
ハルは、首元でくるんと丸まる毛先を撫でつけた。彼女の黒髪は癖っ毛である。どんなときにもあまり言うことを聞いてくれない。今も、どうしても右目にかかってくる前髪を耳のほうへ流しながら、ハルは少し申し訳なさそうに、それから照れくさそうに言った。
「描かせてもらったの、前に。クラリッサたちに頼んで、霙の塔の屋上に入れてもらったの」
ハルは美術部員である。花畑に眠る少女と聞けば、絵描きの血が騒ぐというものだ。
鷲の翼寮女子塔の一号室で、キャサリンとハルは隣同士の天蓋を使っていた。六年前の話である。ハルの天蓋には、たくさんの画材が置いてあった。
彼女は、大きな絵の具箱を持っていた。アンティーク調の木のトランクに、綺麗な巻き貝がたくさん並んでいるものだ。貝殻の中には、ありとあらゆる色の絵の具が詰まっている。
海の中にあるアーサーの家にクラリッサとよく遊びに行き、貝殻や海水など海のものに馴染みのあったキャサリン。なので、セルキー族のハルにはとても親しみを感じていた。
二人の出会いは入学式。寮分けで鷲の翼寮に決まり、ブラックチェリー製のテーブルに並んで座ったときである。寮の女子塔へ行ってみれば天蓋も隣だったから、すぐさま打ち解けたのだ。一年生の頃は、巻き貝の絵の具を使って彼女が絵を描くところをよく見せてもらった。
ハルのほうも、人族のキャサリンがウィザースプーンに来ていることがとても珍しく、そして嬉しかった。ほかの魔法族の者にとって、人族と仲良くなれる機会はそうそうない。興味津々に、自分の描く絵を見つめてくるキャサリンは、可愛かった。何より、ハルが次から次へと絵の具をすくい取ってトランクの中に放るせいで、すぐごちゃごちゃになってしまう巻き貝たちを、毎回根気よく、丁寧なグラデーション順に並べてくれる、彼女の物好きぶりが好きだった。
季節を一周巡ることなく眠りに就いてしまったキャサリンとは、秋と冬の半分しか一緒に過ごせなかった。最高学年となり、部屋は七号室に変わっていたが、ハルの隣の天蓋は、今も空いたままキャサリンを待っている。
「素敵な花園だったね。狙われてるのは大変だったろうけど……でもあんなところで眠れるなんて、素敵よ」
「……大変だったのは……二人よ……」
受け答えが曖昧になる。キャサリンは絵から目を離すことができなかった。それは単に、美しく描かれているからではない。
「私、こんな風に眠ってたのね……。ありがとう。自分じゃ見られなかったから……」
綺麗に梳かされた長い髪、整えられた前髪。日焼けの痕もない白い肌と、よく磨かれた爪。潤いのある唇に、ほんのりと染まった頬。綺麗なシーツ、そして淡い色に溢れたたくさんの花──。どれだけ大切にされていたかわかる。
「もらってくれる? いつか渡せたらって思ってたの」
「いいの……? ありがとう」
キャサリンはハルをちらりとだけ見て、かろうじて礼を言った。
今キャサリンは、人族にしては珍しいストロベリーブロンドを、黒いリボンでハーフアップに留めている。両親が入学祝いに買ってくれたお気に入りのリボンだ。昨日、クラリッサが持ってきてくれた。折れ目の一つもなく、縮んでもいない。ずっと大事に保管してくれていたのだろう。
キャサリンの大きなグレーの瞳を、ハルは懐かしい思いで見ていた。絵を見つめ、伏せているまつげは長さが際立つ。六年前に見られなくなってしまった甘いたれ目は、今やハッとさせられるほど優美なまなざしへと成長していた。
キャサリンは長いこと絵を見つめていた。ときどき指を伸ばし、表面にそっと触れる。
触ったら柔らかそうだった。少しの刺激で、さらりと落ちてきそうだった。一本一本が丁寧に描かれた、細く光る、綺麗なストロベリーピンクの髪の毛だった。
ハルは待っていた。自分が描いたものをまじまじと見えもらえるのは嬉しかったが、まだ聞きたいことが残っていた。ハルが、渡すタイミングを早まったのではと考えだした頃、キャサリンがやっと顔を上げた。
「ありがとう、ハル。大切にするわ」
「──あ、うん、よかった。……ねぇキャサリン。これからどうなるのかって、聞いてもいい……?」
「どうなるのか?」
キャサリンは、絵を布で包み直し、青いリボンをかけようとしていた。ハルもリボンの十字に交差した部分を指で押さえ、手伝う。
「あなた、六年間授業を受けてないじゃない。私たち、一緒に卒業できないの……?」
「あ、そのことね」
キャサリンが、ぱち、と手を合わせた。リボンがしゅるっと戻っていく。ハルは端っこを捕まえて引き寄せ、手際よく蝶結びにして留めた。
キャサリンが嬉しそうに話す。
「アーサーが私にエネルギーを分けてくれていたでしょう? そのときにね、彼が学んだものも一緒に流れ込んできていたの。見てきたものとか、聞いてきたこととか、授業に、宿題に、テスト勉強──彼が覚えていることだけなんだけどね。だから私、アーサーと同じくらいには勉強ができるのよ。この三日で、先生方が調べてくださったの。自分でも驚いちゃった。でもね……」
そこで彼女は、急に小声になった。口元に手を添え、灰色の瞳をきらきらさせている。これは、何かいいことを隠しているときの彼女だ。──変わっていない。ハルは懐かしく思いながら、彼女が今も自分の知るキャサリンであることに喜びを感じながら、耳を近づけた。
「あのね。先生にも話していないんだけどね」
そこでキャサリンは、ふふ、と笑った。楽しくて仕方がないらしい。ハルも、まだ何も聞いていないのに可笑しくなってきた。笑いを堪えておとなしく聞く。
「彼が一人で考えてきたこととかも、私、知ってるの。心の声とか、誰にも言ってない秘密とか、計画中の悪戯とか。私が知ってるって知ったら、彼、きっとショックで干上がっちゃうわ。だからね、みんなには内緒よ」
キャサリンが、くふふ、と笑っている。ハルは口を半開きにし、笑うかどうするか迷ったままでいた。鯨の尾寮のアーサー・ナゼールは、星の影寮のクラリッサと同じ、キャサリンの幼馴染みだ。種族も性別も違う彼が、人族の女の子に、キャサリンに、そんなに内面が筒抜けでいいのだろうか。ハルは、アーサーが不憫にも思えたし、一方ではそんなに受け入れてもらえていることが少し羨ましくも思えるのだった。
ウィザースプーンの大部分を占める人族以外の魔法族の生徒にとって、人族は特別だ。それは、校内での数が少ないからだけではない。
人族は、魔法族の中で寿命が一番短く、その皮膚や臓器や骨はか弱い。怪我や病気、老化によってたやすく壊れ、死んでしまう。
それなのに、彼らの容姿──特に目や髪において、その色彩は驚くほど豊かなのだ。彼らは、髪には日の光や闇夜を映し、瞳の中には海や新緑や満月を持つ。
短い期間しかこの世に存在しないのに、長く留め置かれるべき美しさを持って生まれてくる。
自力では、そのか弱い体を守り切れないことのほうが多いのに、繊細な美をまとって生きている。
消えやすい命に生まれながら、あっという間に朽ちると決まっていながら、そんなことをものともしないような堂々たる美の在り方に、心はとても惹きつけられる。
儚く、健気で、美しい。人族は、ほかの魔法族の者にとって、できる限り同じ時を過ごしたく、近くにいたく、いつまでも見ていたい、愛おしい存在なのである。
ハルは笑ってしまおうと決めた。海の中に住む種族のよしみで、今ここでだけでも、彼の不憫さを笑い飛ばしておいてあげよう。何より、キャサリンが楽しそうだから、一緒に笑いたい。
しばらく笑い合ったあと、肩を震わせすぎて落ちてきたストロベリーブロンドを後ろへ払いながら、キャサリンが言った。
「それでね、レッドグレイヴ校長先生がおっしゃったの。特例を設けてくださるって。普通に七年生として過ごしながら、半年間、月末の試験に合格すれば、みんなと一緒に卒業してもいいって。だからね──」
キャサリンが、青い蝶結び、ハルの革靴の先、サイドテーブルの上の見舞いの品々、そして窓のほうを順に見ていった。太陽の光が差し込んでいて、明るい。そしてハルの青い目に戻ってきて、微笑んだ。
「──だからね、私、一生懸命生きるの。これから精一杯生きるのよ」
灰色のたれ目がきらきらときらめいている。長いまつげがゆっくりと上下する。ハルは「それでいいのよ」と頷きながら、指先をキャサリンの涙袋にそっと当てた。水の中に住む種族のうち、唯一セルキー族だけが持つ特技だ。キャサリンの大きな瞳から、ころりと落ちてきた透明な雫。ハルはそれを、その指先で優しく吸い取るのだった。
*
もうすぐ二十三時。ご入浴を終えた七年生のみなさまが、バスルームから各寮へお帰りになる時間です。
われわれスチュワードフェアリーは、スチュワードフェアリーの威信に懸け、バスルームのタイルから水滴を一滴残らず駆逐するために、これからお仕事です。
わたしはクリュウ。鯨の尾寮バスルームの清掃担当です。
まだ仕事の開始には少し早いのですが、わたしはバスルーム近くの廊下の柱の陰におります。男子バスルームから出ていらっしゃる鯨の尾寮の七年生のみなさまのなかから、お待ちしている生徒さまを探しています。
一人、二人、三人、四人、五人──。男子生徒のみなさまが、出ていらっしゃいました。
人鰐族のイライアス・ケンブルさま、人虎族のネハン・シンさま、メデューサ族のサイモン・ラファイエットさま、鬼族の倉内紫苑さま、ドワーフ族のグレゴリー・ハーロンドさま──。
いつも通りです。わたしがお待ち申し上げている方は、いつも一番最後に出ていらっしゃいます。
彼は水中人で、バスルームにはとても大きなバスタブがございます。みなさまが出ていかれたあと、彼はバスタブからお湯を抜き、水を張り、一泳ぎしてから出ていらっしゃるのです。水中人族のみなさまは、そのようにして陸上での生活に対応してらっしゃいます。
しばらく経ち、バスルームの扉が開きました。わたしは柱の陰から出ていきます。
廊下の先にいらっしゃるその方の長い茶髪は、もう三つ編みに結われています。彼が歩くたび、ところどころに波紋が広がります。
何年も、黒いローブに青と銀のネクタイを締め、これからとてもお休みになるとは思えない格好で出ていらっしゃっておりましたが、つい先日から、ルームウェアにナイトガウンをお召しのお姿で出てこられるようになりました。
われらスチュワードフェアリーも、噂で聞き及んでおります。彼の幼馴染みの生徒さまが、とうとうお目覚めになられた、と。つまり、彼のお役目も終了なさったということなのです。これからはごゆっくりお休みになれるでしょう。
何を隠そうわたし、今夜はそのことをお祝いに参上しているのです。
「ミスター・ナゼール!」
お呼びすると、彼は振り返りました。床の上にわたしを見つけ、笑ってくださいます。
「クリュウ」
そして彼はしゃがんで、
「おいで」
両手を広げてくださるのです!
わたしはまっすぐに飛び込んでゆきます。
「ナゼールさま!」
「様は要らないって」
そのまま、ぎゅっと抱き留めていただくこの幸せ! ……ほかのスチュワードフェアリーに見つかれば、どれほどそしられることでしょうか……。しかし、わたしはこれこそがわたしに与えられた最大の喜びだと思えてならないのです。
ナゼールさまはいつものように微笑んでくださいました。
「ミス・ホワイトがお目覚めになりましたね! おめでとうございます!」
「ありがとう。よく知ってるね」
「城中の噂ですもの」
わたしは腕のなかから、彼を見上げます。
「今、お時間ございますか?」
「うん。どうしたの?」
わたしは隠していた花束を取り出します。青い薔薇を銀色のリボンで束ねた、大きな──スチュワードフェアリーにとっては大きいのですが、ナゼールさまにとっては小さいでしょう──花束です。
「お祝いです。どうぞ」
わたしは青薔薇の花束を差し出します。ナゼールさまは目を丸くして花束を見つめておいでです。驚いてらっしゃるようです。
「……僕に? いいの?」
「もちろんです」
ナゼールさまが、花束を受け取ってくださいました!
「ありがとうございます!」
「それ僕の台詞。どうもありがとう」
受け取っていただけた嬉しさでお礼を申し上げたところ、ナゼールさまから同じお言葉を頂戴してしまいました。
「そんな、滅相もない。わたしがお祝いして差し上げたかったのでして」
「優しいね」
それからもう一度微笑んでくださいました。
ナゼールさまは花束を眺めたあと、なかから一輪を選ばれました。青い綺麗な薔薇です。ナゼールさまはわたしにも見えるよう、腕を下げてくださいます。
何をなさるのだろうとわたしが拝見しておりますと、ナゼールさまは青薔薇に手を添えました。
薔薇が輝きはじめました──銀色の光をまとって、青い花がきらめいています。
「きれいですね……」
思わず呟いてしまいました。ナゼールさまは微笑んで、薔薇の花を茎から外します。青い花が、手のひらの上にコロンと転がりました。
「つけてくれる?」
ナゼールさまがわたしへ向かって三つ編みの先を差し出してくださいます。わたしはお申し付けの通りに、茶色い髪へ薔薇を挿し込みました。
「こっちの見頃が終わってしまったら、これを見て思い出すよ。ありがとう。大切にするね」
髪飾りをお作りだったのです。なんと雅なご趣味! そして何より、わたしなどの差し上げたものを身に付けてくださるなんて、なんて寛大な方なのでしょうか……!
「ありがとうございます……! なんとお礼を申し上げればよいのか……!」
「それは僕のほうね」
ナゼールさまは優しく笑ってくださいました。この笑顔をずっと拝見していたいと、わたし思うのです──。
「ナゼールさま。やはりお連れしていただけませんか……?」
気づけばわたしは、口走っておりました。
ご卒業後、生徒のみなさまがウィザースプーン城へご来訪なさることは、滅多にございません。わたしはナゼールさまがいらっしゃらなくなったこの城で、スチュワードフェアリーとしての誇りを失わずに従事してまいれるか、自信がないのでございます。
もちろん、その昔に大魔法使いセレスティノ・ウィザースプーンさまが、この小ささと、他者に仕えたがる習性ゆえに、ほかの種族より虐げられていたわれわれスチュワードフェアリー族を保護してくださったことへのご恩と忠誠は、忘れておりません。
ですが、城に仕えるスチュワードフェアリーのなかには、お世話をするうちに特定の生徒さまと主従関係を結び、生徒さまのご卒業とともにウィザースプーン城を出ていく者もいるのです。
そのような仲間を、なんて物好きだろう、と思ってまいりましたが、それはわたしがナゼールさまと出会う前のお話。彼と出会ってからは、わたしはナゼールさまにお仕えできたら、と夢見るようになったのです。
ナゼールさまとの出会いは、彼が入学した日の夜、入浴時間まで遡ります。
ナゼールさまが一人バスルームに残られ、まだバスタブのなかで泳いでらっしゃるのに気づかず、わたしは水の中に洗剤を投げ入れてしまったのです。
バスタブの中と申しますか、水音も立てず、息継ぎもなさらずに泳ぐナゼールさまと申しますか、その光景は、わたしの背丈ではとても見えなかったのです……。
泡まみれでバスタブから立ち上がられたナゼールさまを見たとき、わたしは呼吸が止まりました。大失態です。なんとお詫びすればよいのか……。
しかしナゼールさまは、なんと、笑ってお許しになってくださったのです──そのときに、私の宿命は決まったのでございます。
「何度も言うけど、僕の家は海の中なんだよ」
「存じております」
ナゼールさまは少し口籠もられます。
「……僕ね。もう二百年くらいしか寿命が残っていないんだ。卒業したら、海から出てこられないかもしれない。君をとても不自由にさせてしまうんだよ」
「構いません。おそばに置いていただけるなら、ほかのことは何も」
ナゼールさまがわたしの目を覗き込んでくださいます。
彼の頬にはいつも水が一筋流れておいでです。そのお姿はとても神秘的で、真剣なお話をしているはずなのに、ついつい見とれてしまいます──。
ナゼールさまが、ぷっと吹き出しました。わたしはまた間抜けな顔をお目にかけてしまっていたでしょうか……。
「ああもう。君はコウモリダコみたいで本当に可愛いねぇ」
「そうでございますか?」
ナゼールさまがお笑いになると、わたしも嬉しくなります。
「そんなに僕が…………えっと、好き……?」
「はい!」
元気よくお答えします。
「……水棲魔法の精度を上げないとな」
ナゼールさまがぽそっと呟かれました。それって、それって──。
「今度一緒に校長先生に頼みに行こうか」
「……! はいっ!」
わたしは嬉しくてピョンピョン飛び跳ねました。ナゼールさまが目を細めて、わたしの頭を撫でてくださいます。
「──ああ、そうだ」
ふと、ナゼールさまがわたしの手首を取りました。手のひらを上下に裏返し、きょとんとするわたしに心配そうなお顔でお聞きになります。
「薔薇の棘で怪我はしなかった? 大丈夫?」
ときにはお仕えする方の盾代わりになり殉職することのあるスチュワードフェアリーの怪我など、ほかにどなたがお気にかけてくださるでしょうか。
この方にお仕えできたら生涯幸せだろうと、わたしは心からそう思うのです。




