マンドレイクの叫び声
先刻、北の塔の最上階の教室で、占屍術師の模擬テストが終わった。九時から十六時までかかる試験であった。受験生たちは七時間ものあいだ、校内の喧噪から隔離された高い孤塔のてっぺんに缶詰めだった。
教室から疲れた顔の生徒が何人か出てきた。扉のすぐ前で、みんな胸に大きく息を吸っている。伸びをし、肩を揉み、首を回して、たった半日で凝り固まった体をほぐす。そして最上階から下へ向かう階段をぞろぞろと下りていった。
白い石の壁に沿って螺旋に渦を巻く階段には、小さな窓が等間隔に取りつけられている。外に広がる景色に目をやれば、太陽は黄金色の光を長く伸ばしながら、西に横たわる山脈めがけてすでに傾きつつあった。
この生徒たちは最上級生だ。
紫と緑のネクタイを緩める、麦の穂寮の生徒が三人。
腕まくりをしたローブの袖から金と白の裏地が見えている、鷲の翼寮の生徒が一人。
赤と黒のネクタイを比較的きっちりと締めた、星の影寮の生徒が七人。
青と銀のマフラーが首にぐるぐる巻きになっている、鯨の尾寮の生徒が二人、いる。
長い螺旋階段を下りきるあいだ、会話も笑顔も精彩を欠いている。挨拶すら疎かなまま、彼らは北の塔の出口で解散した。
星の影寮の塔へと伸びる廊下を、七人の生徒が歩いていく。男子生徒が四人と、女子生徒が三人だ。
行く手の先、つきあたりに、大きな扉が見えてきた。星の影寮の門である。先頭の一人が観音開きの扉を押し開ける。二枚の扉が割れた。男子生徒がもう一人進み出て、そのうちの片方を預かる。二人は扉を押さえ、待った。ほかの二人もまだ入らない。
先に女子生徒たちが入っていった。女の子というにははるかに大人っぽく、もうすっかり女性らしい三人である。彼女たちは、男子二人の前を通るとき、軽く手を上げた。普段なら礼を言う。だが今はにこやかに微笑むのも億劫だった。それに、相手のほうも気にする素振りはなく、ただ虚ろに頷く程度である。女生徒たちのあとから塔の外で待っていた男子たちも続き、扉を押さえていた二人もその手を放す。厚く重い扉はゆっくりと閉まり、音もなく全員を寮の中へ飲み込んだ。
門から談話室までの短い廊下。片側に、窓の開いたカウンターがある。中には寮母がいて、生徒の出入りを管理していた。
「七年のイハニヒ、デザルグ、ベルーナスコーニ、ケント、ゴールド、エニグマ、そしてカリスタです。戻りました」
先頭で入ってきた女生徒が立ち止まり、カウンター内へ挨拶した。膝に白い布を乗せ、刺繍をしていたらしい寮母が顔を上げる。
「──あら、お帰りなさい。お疲れさま。大変だったでしょう」
「ありがとうございます。ちょっと休みます」
会釈をし、通り過ぎる彼女。残りの六人も同じようにこっくりと頭を下げてから談話室へ向かう。
星の影寮の寮母は、ブラーク族のラティーファさん。見た目はきらびやかで、とても優しい性格の女性だ。ブラーク族とは、人間の頭、馬の体、ワシの翼、クジャクの尾を持つ種族である。
談話室は空っぽで、静かだった。下級生たちはまだ授業中である。
星の影寮の中央に位置する談話室は、円形である。三階建てで、高い吹き抜けの造りだ。
一階フロアは、広々としている。主にくつろいだり、仲間と時間をつぶすための場所だ。円い壁はそのまま上へと伸び、縦に長い窓がある。窓のガラスは湾曲しつつ、一階から三階までを貫く。今カーテンは寄せられているので、西日が差し込み、室内は明るかった。黄金色に照らされた床には、秋から春のあいだ、厚い絨毯が敷かれている。中央では大きな暖炉があかあかと燃え、よく膨らんだふかふかのソファーが周りを囲む。壁際には本棚がいくつかと、お茶やココア、コーヒー豆の缶とカップの揃ったキャビネットが並ぶ。黒檀製の黒いテーブルと椅子も数組用意されている。
二階は、いくつかの奥まったスペースに仕切られている。ここでは、金色の柵越しに一階の騒々しさを見下ろしながら、娯楽や趣味に没頭できる。蓄音機のある防音室、チェス台やビリヤード台のある小部屋、ミニシアターもある。床は、壁に沿ってぐるりとめぐる環状だ。
三階は、暗く静かだ。ひっそりとした薄暗がりのなか、燭台と望遠鏡と天球儀が置かれている。すぐ真上をドーム型の天井が覆って、屋根裏部屋のような雰囲気だった。天窓もあり、夜中にふたを開ければ天体観測が楽しめる。
吹き抜け空間の真ん中には丸い時計が浮かんでいて、どこからでも時間を確認できるようになっていた。
快適で素晴らしい塔のうち、一番の見所は、なんといっても談話室の壁だった。ウィザースプーン城は全体が石造りで、その白さが誇りである。ここ星の影寮も、塔の外側はもちろん白い。しかし塔の内側、談話室の壁は、黒かった。
床から天井まで、真っ黒な石が積み上げられている。それは綺麗な闇の色だ。そして、夜空に散る星々のように、たくさんの宝石が埋め込まれていた。色とりどりの宝石は、暖炉の炎に反射して、きらきらと輝く。寮の名にふさわしいこの壁は、寮生の自慢であった。
七人はその全てを無視して、奥へと歩いていく。談話室の先に建つのは女子塔と男子塔。二手に分かれる階段まで来て、彼らはやっと目を合わせた。
男子生徒は四人。やはりこちらも少年らしさを脱ぎ捨てた、逞しく男らしい青年たちだ。今は疲れているので、若者特有のエネルギッシュさなどは欠片も見当たらない。
もたもた歩いている彼らの頭は、前から順に茶色、黄褐色、黒、白金である。四人は全員、種族も違う。
茶髪を短く刈り上げた生徒の名前は、レックス・イハニヒ。ミュルミドン族だ。ミュルミドン族とはアリ人間のことで、普段は人間だが外殻を被ればアリになる人々である。レックスは活発で明るい青年なのだが、その表情は今は死人のようだ。
少し長めのサラサラしたイエローアッシュの頭を項垂れているのは、ジョシュア・デザルグ。彼はザントマン族、砂人間だ。体から砂を落とす体質で、歩けば足跡の代わりに黄褐色の細かい砂が残る。
彼らは、手からも自在に砂を出すことができる。ほかの種族の者がこの砂に触れると、たちまち眠りに落ちてしまう。厄介なようだが、精製されたザントマン族の砂は良質な睡眠薬にもなる。ジョシュアは几帳面な性格なので、普段はこぼれ落ちる砂を気にして歩くのだが、彼の気力もやはり今は使い物にならない。
黒髪の人物は、ヒューバート・ベルーナスコーニ。ギルタブリル族といって、サソリ人間だ。人間の上半身と、鎧のような外殻をまとうサソリの体を持っている。
彼の下半身は、夜、月明かりを浴びて蛍光を発し、闇の中に浮かび上がる。その姿はものすごく格好いい。これはサソリ特有の性質である。星の影寮の生徒は、星のまたたき、月光、燐光などの、儚げで美しい光を好む。そのため、寮内で男女問わず人気が高いのは、ヒューバートのようなギルタブリル族の生徒だった。
八本ある脚と、大きなハサミのついた長い腕は、黒々と光っている。弓なりに反った尾は、節の一つ一つが太く大きく、力こぶのように隆々と盛り上がっている。尾の先には立派な針が光っていて、もちろん毒がある。彼らの毒は、魔法界では麻酔として活用される。
傭兵のようないかつい見た目のヒューバートだが、彼は穏やかで優しい性格だ。みんなを怖がらせないよう、脱皮のたびに毒針の先端を切り落としている。優しいがゆえに文句や愚痴などは滅多に言わないが、八本脚がもつれているところを見ると、彼も確実に疲れている。
長い髪を揺らすのは、ウォレス・ケント。タルイステーグ族だ。タルイステーグは「水辺のエルフ」とも呼ばれている。
彼らは水草と仲がよく、不死ではないが不老で、背が高い。水中人やルサールカのようには水中での呼吸はできないが、空気を持ち込み、水の中にも好んで住んだりする。音楽に特に深い造詣を持ち、何事においても芸術性を重視する一族だ。自身の身なりにも気を使う者が多い。
ウォレスの自慢も、綺麗な色白の肌と、輝くプラチナブロンドである。その美しい白金の髪は、今朝もつやつやに手入れされていた。……はずだが、今日のテスト中に邪魔になったのか、今はかなり雑なポニーテールに束ねられていた。
レックス、ジョシュア、ヒューバート、ウォレスが、階段の前で一旦立ち止まる。
「じゃあな」
「お疲れさま」
「休めよ」
「夜にな」
夜、彼ら七人は今日のテストの答え合わせを約束している。
「ええ」
女生徒の中から一人が返事をした。四人は男子塔への階段を上っていった。
女生徒たち三人も、談話室を後にする。
「早くお茶にしましょ。甘いもの食べなきゃ」
「肩凝っちゃった。今夜はバスタブでゆっくり氷水に浸かりたいわ」
「疲れたね……」
彼女たちが向かっているのは女子塔の七号室。螺旋階段を上っていき、塔の最上階へたどり着く。「7」と表札の輝くドアの横の壁には、クラリッサ・アイゼンシュタット、オルテンシア・カリスタ、カノン・ゴールド、ステラ・エニグマ、シャーロット・グレッツナーと生徒名の彫られた、五枚のシルバープレートが並んでいる。
ドアを開けると、女生徒が二人、ティータイムの準備をして待っていた。
「──お帰りなさい。長かったわね」
「お帰り!」
「ただいま。お茶淹れてくれる? もうくたくたよ……」
「二人ともなんだか久しぶりに感じるわね」
「待っててくれてありがとう……」
室内は五角形。天蓋が五つ、対角に置かれていて、中は生徒それぞれのスペースだ。部屋の中央には円卓と、クッションつきの椅子がある。帰ってきた三人は、そこへ沈んだり突っ伏すようにして着いた。
「お疲れ様。どうだった?」
クラリッサが杖を銅製のやかんに向けて振った。ぐらぐらとお湯が沸き、口から水蒸気が吹き出した。クラリッサは、まずティーポットとティーカップにお湯を張る。茶器たちが温まったらもう一度杖を振り、中身を空にしてしまう。そしてティースプーンで人数分の茶葉を量り、ポットへ新しくお湯を入れ、ふたをした。
「時間がね……記述もあるから急いでも足りないわ」
編み込みをほどいているのはオルテンシア。ダークグリーンの髪がふわりと肩に落ちる。彼女は赤茶色の瞳を持つマンドレイク族だ。
マンドレイクとは、地面の中に住む種族である。地上へ出ているときには、定期的に悲鳴を上げるという習性を持つ。この悲鳴は俗に「マンドレイクの叫び声」と呼ばれ、ほかの種族の者にとって有毒だ。土に埋まることが休息になる彼女の天蓋には、ベッドではなく大きな植木鉢がある。
「実技は得意なのに。羽ペンって肩凝るわよね」
カノンが大きく伸びをした。そして肩をトントン叩く。真冬でもないのに、彼女は頬にも唇にも血の気がない。
氷の中で暮らすジャックフロスト族は、生まれたときから全身が蒼白だ。髪さえも氷河の裂け目を思わせる水色がかったシルバーブロンドで、アイスブルーの瞳はカットしたダイヤモンドの底のようにきらめいている。
彼女の天蓋では、透き通った氷のベッドが冷気を放つ。その上で丸まっているのは、彼女のペット。胸にカーネリアンでできたオレンジ色の内臓を持つ、氷のクリオネだ。今は眠っているが、起きているときには透明な翼で宙をホバリングしたりして、可愛い。
「……疲れたね……」
「ステラ、透けてるよ。しっかり」
特に大人しそうなのは、木霊族のステラ。山や森では木の姿をしているが、樹皮を脱げば人間となり自由に歩き回ることのできる一族だ。
ゴーストほどの輝きはないが、彼女の体も乳白色だ。しかも本人の気力に合わせて、透けたり半透明になったりする。夜の談話室でステラと出くわし、ゴーストと間違える下級生は多い。
オルテンシア、カノン、ステラ、そして、レックス、ジョシュア、ヒューバート、ウォレスの七人は、占屍術師、ネクロマンサー志望だ。ウィザースプーン卒業後にネクロマンサーとして就職できるよう、志望者の七年生には、この時期から国家試験の模擬テストが課される。
ネクロマンサーとは、占屍術を職業とする魔法使いのことをいう。ネクロマンシーとは数多くある教科の中でも一番難しいとされる「幽冥学」で学ぶ魔術のうちの一つだ。
寮監のソゾーノヴィチ教授に憧れがあるためか、近年、ネクロマンサー志望者には星の影寮の生徒が圧倒的に多い。セルゲイ・ソゾーノヴィチ先生は、幽冥学の教授であると同時に、傑出したネクロマンサーでもあるのだ。
茶葉が蒸らし終わった。クラリッサはみんなのカップに紅茶を注いでいく。浅く広がった形で、内側の白いティーカップだ。
「ベストドロップは誰?」
「今日はステラの番よ」
乳白色が薄くなったり濃くなったりしているステラ。隣にいるシャーロットがその背中をさすっている。
シャーロットはセイレーン族だ。人間の頭と大きな翼、鳥の脚に長い尾羽という姿で、ハーピー族とほぼ同じだ。違うところは鳥である部分の種類で、海鳥や水鳥の体を持つものがセイレーン族である。そのため彼女の後ろ足には水かきがついている。天蓋には、木の枝で編んだ大きな鳥の巣のベッドがある。
クラリッサはティーカップを振って、ステラのカップに最後の雫を切る。
ベストドロップと呼ばれるこの一滴には、味が凝縮している。これだけを舐めれば渋いと感じるが、ティーカップに落とすことで紅茶の味が引き締まるのだ。
クラリッサの淹れる紅茶は美味しい。水の扱いも、茶葉の量も、お湯の注ぎ方も上手いが、何よりは心がこもっていて丁寧だからだ。
クラリッサ、シャーロットの二人は模擬テストを受けていない。二人の進路希望は、警官と楽団員である。
「美味しい……」
「癒やされるわね……」
「いい香り……」
三人が味わうのを見てから、クラリッサも紅茶を一口飲んだ。彼女の種族はエルフ。この部屋の室長である。
「──カノン、あなたのクッキーもずっと食べたかったのよ。お願いしてもいいかしら」
「あ、私も……。……大変?」
「全然、いいわよ。待ってて。ちょうどいいからストレッチ代わりに作るわ」
みんなが紅茶を飲み干して、クラリッサが二杯目の茶葉を追加するところであった。
製菓部に所属するカノンは、菓子作りを趣味としている。普段から気分転換や試験前の息抜きなどに、ルームメイトに手作りの菓子を振る舞っていた。オルテンシアとステラの言葉を聞いて、彼女は立ち上がる。ローブからライトニングクォーツ製の杖を抜き、しゅるり、しゅるりと振った。
材料と道具が浮かび、宙で踊りはじめる。小麦粉とジンジャーパウダーがふるいを通っていく。バター、ミルク、ブラウンシュガーがボウルの中で混ざる。塩が数粒落ち、生地がまとまった。
カノンが生地の上へ撫でるように手をかざす──たちまち霜が降り、冷たく生地を包み込んだ。それから透き通った杖をスイーッと動かして、生地を薄く伸ばしていく。
そして彼女のベッドわき、製菓用品の詰まった棚に向けてヒョイッと手首を返す。空中をトコトコと、クッキー型が駆けてきた。小さく可愛い銀色の型たち。パタンと倒れ、起き上がり、生地を抜いていく。働き者である。せっせと頑張る彼らのおかげで、天板の上はすぐにクッキー生地で一杯になった。
最後にカノンが杖でクルクルと円を描く。熱くなった天板で、クッキーがみるみる焼けていく。いい匂いが立ちこめて、焼き上がった。
「いつ見ても見事よね」
「わあ美味しそう……」
「ありがとう、カノン。紅茶、入ったわよ」
「もう食べていい?」
「もちろん。いいリフレッシュになったわ──」
カノンはテーブルに戻った。
五人はクッキーと紅茶を楽しみ、そのあとめいめいの天蓋に引っ込んだ。
クラリッサは天蓋のカーテンを開け、隣のオルテンシアに話しかける。
「──オルテンシア。聞いてもいい? マンドレイク族の叫びの習性って、実際のところどうなっているのだったかしら」
隣の天蓋はまだ開いている。森の中で育ったオルテンシアは植物が好きだ。彼女の天蓋のパイプには、つるばらが巻きつき、何輪も花を咲かせている。薔薇たちわさわさと揺れ、大きな植木鉢のなかからオルテンシアが顔を出した。ふちに手をかけ、あごも乗せる。
「私たちも、定期的に叫ばないとしんどいからね。地下の防音室で、専用の瓶の中に叫んで、業者に回収してもらってるわ」
クラリッサはベッドの端に寄り、オルテンシアを見上げる。
「声の用途の詳細って?」
「そうね……癒術、犯罪捜査、占屍術、魔法生物の捕獲なんかに役立ててもらってるわ」
「たまに……闇市で取引されてるわよね」
「そうね。劇薬にも麻薬にもなるもの。欲しがる人なんて大勢いるわ」
オルテンシアは頷く。クラリッサは少し小声になった。
「──赤ちゃんの声とかはどうなるの?」
「子供の声は、そこまで害はないわ。聞いても、数時間気絶する程度ね。だから、麻酔代わりに使われるの。でも、境界魔法をかけながら使うと、やっぱり麻薬になるわ。マンドレイク族以外が子供の叫びを扱うには、免許がいるの」
「ほかの種族が麻薬として服用した場合の、正確な副作用ってわかる……?」
ためらいがちなクラリッサの質問に、オルテンシアはあっさりと答える。
「ええ。主なものは寿命の短縮、四感の喪失よ」
「……四感?」
クラリッサの目が少し見開かれ、大きくなる。
オルテンシアは指を折りながら挙げていく。
「視覚、聴覚、味覚、嗅覚よ。唯一、触覚だけは鋭く研ぎ澄まされるのよ。そよ風にすら強くこすられるようだって、よく聞くわ。そしてやがて、痛覚に変わっていくの。末期には痛みで気が狂うそうよ」
クラリッサが無言なので、オルテンシアはそのまま続ける。
「度合いは、摂取した量、期間、叫び声の主の歳によって変わってくるわ。あとは……幻覚、幻聴、夢遊、ひどくなると精神異常、異常行動、錯乱、記憶喪失よ。でも、ここまでくるともう中毒ね」
「なら、禁断症状……とかもあるのかしら」
クラリッサが長い前髪をゆっくりと耳にかける。
「あるわ。自傷行為よ」
オルテンシアの口調はいたって明るい。星の影寮の生徒たるもの、この程度のことでは動じない。
──だが、ルームメイトが眉を寄せて考え込んでいれば、気になる。
「……どうかしたの?」
急に心配そうな顔になったオルテンシアに、クラリッサはパッと毛先を払う。
「──いいえ。みんな大変なんだなと思ったの。就職活動、まだ純血主義は根強いじゃない?」
「そうよね……種族の違いがなんだっていうのかしら。デリカシーのない面接官なんて、いくらでもいるもの。──頑張りましょう、お互い」
「ええ」
オルテンシアは植木鉢に引っ込んだ。こんなに疲れているときには午睡に限る。カノンとステラは、もううたた寝に入っていた。
シャーロットは、消音呪文をかけてサクソフォンの練習をしている。彼女のベッドの枕元には鳥の卵を模したサイドランプが転がっていて、ぼんやりと優しく光っていた。
「ばう!」
天蓋の向こうで、子犬の鳴き声がした。オルテンシアのペットのケルベロスだ。名前はトール。「大きくなあれ」という願いを込めて名付けたのだと、以前オルテンシアが言っていた。彼女のロサ・カニーナ製の杖で遊んでいるのだろう。オルテンシアはトールがじゃれたらモクモクと煙を噴き出すよう、杖に呪文を仕込んでいる。
ケルベロスとは、頭が三つある犬、三頭犬だ。成長すると部屋がまるまる埋まるほど巨大になるが、トールはまだまだ子犬だ。オルテンシアがとても可愛がっていて、濃いグレーの毛並みはいつもつやつやしている。
ザントマン族の砂から作られる睡眠薬には、副作用がない。アーサーがそれを使えたらよかったのだが、不運なことに体質に合わなかった。まだ彼が寮で寝ていた頃の話である。一度服用してみたところ、丸一日眠りこけてしまったのだ。授業はおろか、夜すら逃しそうになって、気づいたクラリッサが彼のルームメイトに事情を話して引きずり出してもらい、かろうじて間に合ったのだ。二人のあいだでは、キャサリンを優先すべきとの了解があった。それでマンドレイク族の叫び声に切り替えたのである。仕方がなかったとはいえ、賛成できたものではなかった。
クラリッサはベッドに横になり、天蓋を見上げた。──その前に、髪から簪を外す。銀の小枝に、エメラルドの葉と葡萄が実った、綺麗な簪だ。目の上に持ってきて、角度を変えて眺める。窓から射し込む黄金色の光が、丸いエメラルドの中を通ってきらきらときらめいた。
これをくれた幼馴染みの片割れに、明日小言を言わなくてはならない。
鯨の尾寮、男子塔。十四号室。
六角形の部屋に生徒が六人、思い思いの格好でベッドに寝転がっている。
時刻は真夜中の二時。いい加減に眠らないと、明日に響く時間だ。
「シオン。レンバスまだ残ってるか」
「あるよ」
シオンと呼ばれた男子生徒が、二つ隣の天蓋へ、薄い小麦色の焼き菓子を放った。背の高く、肩幅の広い男子生徒が手を伸ばしてキャッチする。レンバスとはエルフ族の伝統食で、一口で空腹が満たされ元気になれる、不思議な焼き菓子である。
「腹減った。今何時だ……朝飯まで長げぇな」
「じゃあ寝ろよ」
「とりあえずレンバス食って考える」
大きく口を開け、鋭い歯でレンバスをかじる生徒。
彼の名前は、イライアス・ケンブル。大潮の夜にワニへと変身する、人鰐族の青年だ。遠く南半球にある大陸の出身で、実家からの仕送りはない。
体格のいいイライアスは、食べる量も多い。休み時間都度の食事では足らず、よく軽食を頼んでいるので、厨房のスチュワードフェアリーとは一番仲が良い。
彼はレンバスをかじりながら、もともと縦長の瞳孔をさらに細めた。
「シオンはいいなあ。エルフ族から人気があって。レンバス食べ放題じゃん。これ超旨ぇ」
「食い物か? 女子だろ、女子。エルフの女の子、みんな綺麗じゃん」
イライアスの横、シオンのすぐ隣の天蓋から、突っ込みが入った。
黒髪に褐色の肌、しなやかな筋肉に白いランニングシャツがよく似合う、人虎族のネハン・シンだ。着替えの途中である。人虎族とは、普段は人間だが皮を被れば虎になる一族だ。
「エルフだけじゃないだろ。ほとんどの種族から人気がある」
ネハンの反対側の天蓋からも声が上がる。
メデューサ族の、サイモン・ラファイエットだった。深い二重、大きな目の青年だ。髪の毛は何匹もの短い蛇たちで、サイモンになでつけられてオールバックにされた姿勢を、いつも忠実に守っている。
「お前らどこのコが一番羨ましい? 同族は抜きな」
サイモンがみんなに聞いた。シオンを除く全員が考え込む。
「そうだなあ。俺、『ヴァルキリー』って結構好み」
「『セルキー』。出るとこ出てるし、むっちりしてていい。……でもヴァンパイアのウエストの細さも捨てがたいよな」
「俺はケンタウルス。特に鹿のコ。潤んだ目がヤバい」
「お前らなあ……」
シオンがため息をつく。
彼のフルネームはシオン・クラウチ。鬼族である。東の端の国出身で、正確には倉内紫苑と書く。ウィザースプーンのなかでも特に珍しい種族の青年だ。
珍しいということだけでなく、シオンはその外見の良さから、どの種族の女子からも人気があった。イライアスが今食べているレンバスも、五年生のエルフ族の女の子からのプレゼントである。
確かに、金色に光る黒髪は、すれ違えば見惚れる。切れ長の目元と黒い瞳は、男子生徒の群れの中にいれば、そのむさくるしさを忘れられるくらいに涼しげだ。
そして頭に生える二本の角は、彼がその細身の体にまとう穏やかな雰囲気とはほど遠い、研ぎ澄まされたサディスティックな一面を連想させるようで、本人のあずかり知らないところで熱視線の的になっている。
「アーサーは?」
サイモンが、シオンの天蓋で一緒にベッドに横になっていたアーサー・ナゼールに聞いた。
アーサーは少し体を起こす。反動で、前髪に波紋が広がった。その頬にはいつものように水が一筋流れている。
「僕はほら、許嫁がいるから。そういう話題は」
シオンがぷっと吹き出した。アーサーのジョークは唯一シオンにだけは受けがいい。
「おいー、逃げんなよ!」
「そうだぞ、つまんねーじゃん。お前も言え!」
イライアスとネハンが枕を叩く。
アーサーは「うーん」と考えた。
「クレアとキャシーは、美人だし可愛いよ」
答えを聞くやいなや、イライアス、ネハン、サイモンの三人とも、枕を放り、壁へ投げ、ベッドに叩きつける。
「うざすぎる!」
「身内の話すんな!」
「お前ら石にしてやろうか!」
「ははは」
イライアスとサイモンのあいだ、残った一つの天蓋からは、ずっと低音のいびきが響いている。
焦げ茶の髪を枕に押しつけ、ぐっすり眠りこけているのは、ドワーフ族のグレゴリー・ハーロンド。彼は、同じドワーフ族の女子にしか興味がない。もっと言うと、ホビット族に負けず劣らず「花より団子」な種族だ。ホビット族ほどではないが、ドワーフ族も成人しても人間より少し背丈が低い。
六人のなかで一番まともで、夜は眠るものだと、グレゴリーだけが知っている。精悍な顔立ちと、分厚く屈強な体の持ち主で、筋肉好きの女子からの支持は多い。
「俺もう寝っから。騒ぐなよ」
「お前が一番うるせぇよ」
「はいはい消灯消灯ー」
イライアス、ネハン、サイモンも寝る宣言をした。ついでに部屋のランプも消され、十四号室は暗くなる。
シオンの天蓋では、アーサーが起き上がった。
「──もう寝る?」
シオンが、いなくなろうとする長い茶髪を垂らした人影に向かって小声で話しかけた。
アーサーが振り返る。
「──どっちでも。まだ起きてようか?」
「久しぶりじゃん。アーサーが部屋にいんの。もう少し話そう」
アーサーは戻ってきて、天蓋のカーテンを内側から閉じた。
シオンは枕を占領しているペットのイヴを、クッションを敷いたバスケットにそーっと移動させる。イヴは白い鎌鼬だ。長く柔らかい体を丸め、鎌のように鋭く反り返った大きな爪を暗がりの中でときどき光らせながら眠っている。
二人とも、ベッドの上にあぐらをかいて座った。
「なあ、練り切り食べる?」
「ネリキリ……なんだっけ」
「甘くて柔らかいやつ。俺の故郷の菓子」
シオンがナイトテーブルの引き出しから四角い箱を取り出した。アーサーが杖の先に小さく明かりを灯す。ブルーグリーンの光だ。ふたを開けると、花の形をした色彩鮮やかな菓子が並んでいた。
アーサーがまじまじと見つめる。
「……久しぶりに見た」
「だろ? ──好きなの選んで」
「いいの? わー……どれにしよう……」
アーサーの視線が箱の中をさまよう。シオンは嬉しそうに見守る。
シオンの隣は、アーサーの天蓋だ。中には、ベッドの代わりに猫足のバスタブが置かれている。アーサーのような水中人族は、水の中で眠るからだ。
だがもう何年も、水は抜かれたままだった。夜、アーサーが十四号室に帰ってくることは年に何度もなかった。事情を知っていても、隣のシオンは寂しく思っていたものだ。
日に日に目の下のくまが濃くなるルームメイトのことは心配していたが、まさか彼がマンドレイクの叫び声という麻薬に手を出していたとは露ほども知らないシオンである。──ルームメイトに被害者を出さないよう、霙の塔の一階の床で寝起きしていたアーサーの長年の労力は、報われていたといえる。
彼の天蓋には、ほかにもいくつか私物があった。真珠を一粒乗せた白いイタヤ貝。「太陽の砂」とも呼ばれるカルカリナの殻を敷き詰め、小さな流木とシーグラスを数片突き刺したボトル瓶。半透明な薄い貝、カピスを連ねたウィンドチャイムならぬウォーターチャイム。水中人族らしい雑貨である。
アーサーは、箱のなかのネリキリ菓子から、薄い紫色の花びらが五枚広がったものを選んだ。
「これは?」
「桔梗。初秋の花だよ」
シオンのほうは、ピンクと黄色と黄緑色のモジャモジャしたものを摘まみ上げる。
「それは?」
「きんとんそぼろ。山を表してる」
「へぇ。鬼族はセンスがいいね」
ここで品よくフォークなどは出てこない。男子たるもの、直接かじればこと足りる。──菓子職人が泣くというものだ。
ネリキリの、やわらかく押しつぶれていく舌触りと静かな甘みは、眠る前の糖分補給にぴったりだった。
こうして、男子生徒たちの夜は更けていく。