他人の作品を読む → 異物を飲みこむ
他人の作品を読むっていうのは、異物を飲みこむこと……という考え方。
ほら、カプセルってあるじゃない、お薬が入ってるやつ。あんな感じで、なかになにが入ってるかわからないものを水で胃に流しこむ感じ。それがうまくいかないと喉につかえたりもするのだけど……
作品を「読みこむ」となると、それは「咀嚼→消化」という流れにもたとえられるけれど、それには段階ってものがあって、あせってはいけないと思うんだ。
まず、それが「異物」であることの認識からはじめなければならない。
それは、むずかしくとらえると「個の尊重」みたいなところから入るのだろうけれど、まあ単に、「自分とは違う世界」というような感覚でもいいのかな。その認識がなくて、「わかるわかる」「おいしいよね」から入ってしまうと、それはちょっともったいないかな。
人間だから、「食べ物はよく噛んでから飲みこみなさい」って教わるけれど、動物の種類によっては胃に入れてからまた口に戻して、ゆっくり消化するものだってある。石を飲みこんで、お腹のなかですり潰すものもある。作品に関しては、人間もそれでいいと思うんだ。
たとえば、一行読んで、一話読んで、一章読んで……あまり内容がつかめなかったとする。そこで、「わからない」と投げ出す人もいれば、「ちょっと待てよ」と読みかえす人もいる……と思うけれど、ひとつのかしこいやり方として、「とりあえず先を読む」っていうのを選択してみる。
そうして、先を読んでなにか得るものがあったなら、あなたはダチョウだ(つまり、胃のなかですり潰した……というたとえ)。そうして、先を読んでから「ちょい待てや」と前へ戻ってまた読んで、前とは違った見方が発見できたのなら、あなたはウシだ(これも、たとえ)。
人間は、食べ物を噛まずに飲みこんだらよくないのだろうけれど、作品だったらいいんじゃないかな。ほら、カプセルみたいにね。……得体のしれないものを飲みこむ。早く効果がほしいからって、開けて飲んだりはしないでしょう。
それから、「異物」なのだから当然といえば当然なのだけど、すべてを消化して吸収できると思うのは、ちょっと傲慢。食後のご飯茶碗に米粒が残っていないとしても、ぬめぬめしてるでしょ。それ、潰れてても、残ったご飯粒だから。
ちょっと汚い話になるけれど、「肥溜め」ってあるよね。あれはつまり、栄養が残ってるってこと。人間が吸収できなかった残りがあるってこと。でもそれは、ごく自然なことなんだと思う。
作品から得るものっていうのもおなじで、すべてを消化しようとか、「理解しよう」なんて思うのはちょっと違う気がする。はじめから、そんなことはできないと思ったほうが健全かな。わかりきった気になるというのは怖いことで。
理解(このことばもあまり好きじゃないけれど)というのは完遂するものではなくて、「深める」ものだと思ったほうがいい。もちろん、ある程度まで読みこむとそれ以上は……という限度はあるのかもしれないけれど、でも、時間を置いてから読みかえすと、また違った気づきがあるかもしれないし……、とにかく、終わるものじゃないという考え方。最終的に決まった形に落ち着くものじゃないという考え方。
なかなか吸収できなかったものでも、肥料として頭の片隅に残っていて、別の作品を読み解く肥やしになる。そうしてふと思い出して、またその作品を手にとってみて……ということもある。異物同士の共通項を探してみるのも、それはそれでおもしろい。
みたいな感じかな?
要は、他人の作品を読むのにあせる必要はないってこと。「ちょっと待って、わからないんですけど、置いてけぼりー」って、そんなでもいいってこと。上等だってこと。読み続ければ、わかるかもしれないし、いまいち読みこめなかったと感じても、なにかしら残るものはあるかもしれない……、そんな感じ。
異物を飲みこむこと、その楽しさがわかれば、読書は一段とおもしろくなる……かもしれない。