scene−1
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都会の大通りに面した高層ビルの2階。
正面の窓が床から天井まで全面ガラス張りになっているフロアには人気ハンバーガーチェーンの店がテナントとして入っている。
窓に面したカウンター席からは、外の景色が一望できる。
美穂はこのカウンター席の真ん中に座って、歩道を歩く人々の姿を眺めるのが好きだった。
今日は黒のパンツスーツに白いブラウスを着ている。
カウンターの上には、いつもと同じようにアイスコーヒーとアップルパイを乗せたトレーが置いてある。
トレーの脇には、アルミ製の灰皿が、細めのメンソールタバコから白い煙をゆらゆらと登らせている。
薄いピンク色のマニキュアを塗った爪を携えた細い指がタバコを取り上げ、美穂の口元へ運んでいった。
美穂は深く煙を吸うと、一瞬、息を止めてから少しずつ煙を放出した。
「!」
突然、美穂の黒くて大きな瞳が、通りの向こう側の一点を捉えた。
「また来てる。」
そこには、ボロボロのジーンズに革ジャンを着た少年がギターを抱えて立っている姿があった。
このところ、毎週、金曜日の夕方には決まって現れる。
「あったまきた!人が知らないと思って、いい気になって!」
美穂はアイスコーヒーのカップからストローを引き抜くと、一気に口へ運んで飲み干した。
食べかけのアップルパイはティッシュに包んでバッグに放り込んだ。
トレーをブースに戻すと、階段に向かって歩いていった。
一月ほど前、会社の同僚に尋ねられた。
「弟がいるの?」
美穂は、両親と高校生の妹の4人家族だった。
「いないわ。」
そう答えたけれど、どうしてそんなことを聞かれたのか気になった。
「ねえ、私に弟がいたらどうなの?」
「あのね、最近、四丁目の交差点のところでストリートライブをやっている男の子がいるの。その子が美穂にどことなく似ているって噂が流れていて…」
「なーんだ、そんなこと?」
美穂は、興味なさげに、話しを切り上げたが、後輩の若い女の子の間ではけっこう評判になっているらしかった。
「四丁目の交差点か…」
そこには美穂のお気に入りのスポットがある。
「ちょっとだけ見物してみようか…」
美穂は仕事帰りに、お気に入りの場所から窓の外を眺めていた。
色々な役者たちが色々な衣装をまとってそれぞれの役を演じている…
美穂にはそんな風景が面白くて時間を忘れた。
2日ほど空振りに終わったあと、目当ての少年が現れた。
ボロボロのジーンズに、夏だというのに、革ジャンを着込んでスポーツキャップを目深に被った少年はギターケースからフォークギターを取り出した。
「!」
美穂は目をこすって、少年が取り出したギターに意識を集中させた。
「私のギター!」
そのギターには、人気ロックグループ“万葉集”のスタッフステッカーが貼ってあったのだ。
高校生の頃から“万葉集”のファンだった美穂は、その影響でギターを始め、大学時代にはコンサートスタッフとして“万葉集”のツアーに同行した。
ステッカーは、その時に女性ヴォーカルのあすかから直々に貼って貰ったものだった。
そして、そのギターには“万葉集”のメンバー全員のサインがあった。
美穂は立ち上がって階段を駆け下りた。
「あいつ!」
通りにでたときには、少年の廻りを人の群が覆っていた。
美穂は群の外から少年の名前を叫んだ。
「みゆきー!」
その声は、廻りの喧噪と、少年を覆う群の手拍子や声援にかき消されて少年に届くことはなかった。
美穂はビルを出て、横断歩道を渡ると、交差点の向こう側でギターの音合わせをしている少年に近づいた。
音合わせに集中していた少年は、美穂に気付かなかった。
美穂は少年に近づくと同時に、スポーツキャップのつばに手を掛け、一気に帽子をはぎ取った。
すると、帽子の中から長い黒髪がふわっと舞い降りてきた。
少年は、驚いた表情で美穂をみた。
「お姉ちゃん!」
美穂は親指と人差し指で少年のあごを掴むと、少年の目を睨み付けてこう言った。
「美幸、一体どういうつもり?そのギター、なんで、あんたが持ってんの?」
「ごめんなさい。ちょっと借りてる。」
「まあ、いいわ。ギターは減るもんじゃないから。でも、あんた、いつの間にギター弾くようになったの?しかも、ストリートなんてみっともない真似…」
美幸は美穂から帽子を取り戻すと、頭に被せて髪の毛を中に押し込んだ。
「あすかに会ったの。お姉ちゃんがいないとき、家に来たんだよ。」
「あすかが?」
「うん、お姉ちゃんがいなかったから、すぐに帰ったけど、その時あすかが私に言ったの。“いい声ね。あなた、その声があれば、いいヴォーカルになれるわよ”って。」
美穂は驚いた。
あすかが自分を訪ねてきたこともだが、あすかが妹の才能をたった一度会っただけで見抜いたことに。
一時はミュージシャンを夢見たこともあった美穂には、美幸の声が羨ましくてたまらなかった。
「いいわ!一曲、聞かせなさいよ!」
美幸は頷いてギターを抱えた。
そして、“万葉集”のバラード曲、『穏やかな風に抱かれて』のイントロをギターで奏で始めた。
ギターの腕前はまだまだだ。
美幸が歌い始めた途端、美穂は前身に鳥肌が立つのを覚えた。
美幸の透き通った声と歌唱力、リズム感は絶妙にバランスが取れていて、今までに聞いたことのない独特の唄い廻しが新鮮だった。
しばらく聞き入っていて気が付かなかったが、いつの間にか、美幸の廻りには人の群が溢れていた。
美穂の会社の後輩たちの姿もあった。
そして、何より驚いたのは、美穂の隣にあすかが立っていたのだ。
ノーメイクでサングラスをかけていたが、間違いなくあすかだった。
あすかは、美穂が自分に気付いたと分かると、ウインクしながら囁いた。
「美穂ちゃん、久しぶりね。あの時は楽しかったわね。あなた、ギターをや辞めてしまったのね?」
「…」
美穂は言葉がでなかった。
ウチのギタリストが辞めることになったとき、あなたを誘いにいったのよ。あなたはいなかったけど、あの子にギターは辞めたと聞かされてがっかりしたわ。でもあの子の声を聞いた途端にビビッと来たのよ。」
「…」
美穂は返す言葉がなかった。
ギターを辞めたのも、音楽を諦めたのも、全て自分で決めたことだ。
後悔はしていなかった。
しかし、今、目の前でチャンスを掴もうとしている妹の姿を見て、目頭が熱くなった。
「行こう!」
あすかがそう言って、美穂に向かって微笑んだ。
美穂は、美幸のそばに行くと、美幸からギターを取り上げた。
その拍子に、美幸の帽子が宙を舞い、長い髪が風になびいた。
集まっていた人の群れからどよめきが起こった。
「女?の子…」
今まで、少年だと思っていた、この歌い手は女の子だったのか…
道理できれいな透きとおった声をしていたわけだ。
美穂がギターを弾き始めると、あすかも帽子を取って、美幸と一緒に歌い始めた。
集まった人々に間に悲鳴とも思える歓声が飛び交った。
「“万葉集”のあすかだ!」
「あすかが来てるぞ!」
四丁目の交差点は、一瞬にしてライブ会場になってしまった。
美穂の会社の後輩たちが、目を丸くしてみているのが分かった。
美穂はギターを弾きながらも、「明日、みんなに何て言おうか…」
一瞬、そんなことを考えていたが、すぐに忘れてしまった。
こんなに気持ちがいいのなら、続けていればよかった…
そんなことを思っていると、あすかが美穂にささやきかけた。
「今からでも遅くはないわよ。」
そして、美穂の中で何かがはじけた。
一年後、“万葉集”のライブ会場…
ライブもいよいよ大詰めになっていた。
「さあ、今日は、みんなに報告したいことがあるんだ。私の妹たちがもうすぐデビューすることになったんだ。みんな応援してくれる?」
観客席からは、突然のニュースに大騒ぎになった。
「今日、ここに来てるんだ!紹介するよ。M&Mの二人だよ!」
大歓声の中、二人はステージへ飛び出していった。
スポットライトのまぶしさが、とても心地よかった。