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「タトエバ」理論  作者: 鏡春哉
9/21

弐 清瀬④

 暗闇の中。敷き布団の上で眠る幼女から、女は手を離した。それまで苦しそうに悶えていたのに、今はもう、健やかな寝息が聞こえてくる。

「……どうしても、私のもとから離れてくれないのね」

 幼女の寝顔の前で、女は項垂れた。まだ二十代前半という若さにもかかわらず、その顔は疲れ切ってしまっていた。

 画面が真っ黒になったスマホを取り上げ、意味も無く眺める。また連絡を入れても無駄か、と、あった位置に戻した。

 仕事も恋愛も、どうしてこうも上手くいかないのか。

 女は徐に立ち上がった。覚束無い足取りで、台所へ向かう。

 もう、何も考えたくなかった。ぐちゃぐちゃになったものから、一刻も早く解放されたかった。

 女は引き出しの中から何かを取り出す。それは、月の光を怪しく反射した。


 ピーンポーン


 突然のドアフォンに、女は身を固くさせた。片手に持っていた物を、両手で強く握る。

 ドアフォンは、さほど間を空けずにまた鳴った。

 女は出るつもりはなかった。今さら出たところで、何かが変わるとは思えなかった。

 ドアの向こうにいる人物はドアフォンでは無駄だと思ったのか、直接ドアを叩き始めた。居間の奧で眠る娘が、不意に起きてしまいそうなほど大きな音だった。

 それでも女は、動くつもりはなかった。煌めく刃を首筋に当てる。

 ひやり、と、気持ちのよい感覚がした。しかし、心臓はバクバクと音を立てている。

 女はぎゅっと目を瞑った。

 その時。

 鍵の開く音がした。女は瞼の筋肉を緩め、別の感情で鼓動を早まらせた。

 この部屋の合い鍵を持っているのは、大家だ。だが、大家が無闇にプライベートな空間に入ってくるはずがない。

 もう一人、此処の合い鍵を持っている人物が居た。

 自分の彼氏だ。

 このアパートは合い鍵を無断で複製することを禁止されている。だから、大家に頼み込んで作ってもらったのだ。そしてそれを、彼に渡している。

 しかし、彼は今日、別の用事で来られないと言ったのだ。

 ならば、薄いドア一枚の向こうにいる人物は、一体誰なのか。

「泥、棒……?」

 自分に向けていた包丁の刃先を、ドアの方に向ける。恐る恐る近付いていくと、ドアは全開になっていた。月の光が直に差し込んでいる。

 女は動きを止めた。娘とは違う、荒々しい息遣いが後方から聞こえたのだ。目が乾燥することも厭わず、女は目を剥いたまま、息を殺した。いつ振り返ろうかと、決めかねる。

 ガタ、と何かが動いたような音が聞こえてくる。女はそれを合図に、勢いよく振り返った。そこに突っ立っている人物の顔も碌に見ず、刃先を向けて突っ込んでいく。

 生暖かいものが、顔に掛かった。

「はす……み…………」

 女ははたと、我に返った。聞き覚えのある低音。近くに感じていた体温が、次第に遠退いていく。時間差で、どさりと鈍い音が鳴った。

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああ!」

 女は赤く染まった凶器を投げ捨て、頭を抱えて蹲った。女の叫び声は止まらない。

 床に倒れ込んだと思われた男は、単に尻もちをついただけだった。痛む腹部を押さえながら女の元に近寄っていく。

「大丈夫だ、羽澄! 俺は生きてるから、落ち着け!」

 叫び声が止む。ぼさぼさになった髪の毛から、正気を取り戻した瞳が覗いていた。

「秀、治? 生きてるの?」

「あぁ、生きてる」

 女はボロボロと涙を流し始めた。それを見た男は、少し前にも同じような表情を見たような気がした。

「ご、ごめ、ごめん、なさい……。あな、あなたを、刺しちゃう、なんて……」

 男は女を抱き締めた。それ以上は、何も言わない。

 奥の方から、ごそごそという音がした。それに気付いた男は、音のした方を向いた。

 小さな女の子が、目を擦りながら立っている。

 この時男は、抱えていたはずのものがなくなっていることに気が付いた。

 女の子はトテトテと足音を立てながら、二人の元へやって来る。そして満面の笑みを浮かべて、二人に抱きついた。

「パパ、ママ……、だいちゅき」

 子どもの腕に、力が籠もる。男と女は、互いに目を見合わせた。

 暫く時が停止したように思われたが、次第に二人の表情が崩れていく。

 男は柔和な笑みを浮かべて、こう言った。

「羽澄、結婚しよう」

 女は涙目で頷いた。


 * * *


「い、いい話だぁぁぁぁぁああああああ!」

 何処から取り出したか分からない、真っ白なハンカチで目頭を押さえるユカリ。GDMの画面から顔を遠ざけた二人は、感慨深い思いに浸っている。

「いい話ではあるけど、浅間、傷は大丈夫なんだろうか……」

 同僚の身体を労る清瀬。楠木はそれを鼻で笑った。

「生きていると本人が言ったのだから、大丈夫だろう。……それより、GDMにはこの様な動画まで記録されるのだな」

 ユカリの方を向いて言う。ユカリは一頻り鼻をかんだ後、「そうだよ」と言った。

「予定外の魂分離は、要観察になるんだ。でも、もうその心配はないだろうね」

 楠木は、ふむ、と考え込む。

「ならば、その画像はもう必要ない、そういうことだな?」

「? どうだろ。一応上には報告してるから、別に俺が持っとかなくても良いとは思うけど」

 楠木は卓袱台に肘をつき、片側の頬を支える。

「なら、消去しろ」

「は?」

「は?」

 一人で何かに浸っていた清瀬も、楠木の言葉に反応した。

「何故ですか? わざわざそんなこと、しなくっても」

「そうだよ。折角良いお話だって言うのに」

 楠木は冷たい視線を二人に送った。

「お前達にとっては、『良いお話』なのだろう。だが、当事者にとっては人生の転機にもなる出来事だ。そう不躾に、第三者が介入して良いはずがない」

 楠木の発言に、ユカリはぷっくりと頬を膨らませた。

「そう不躾に、夏蓮さんは俺の過去に介入してきた気がするけど?」

「あれは私も当事者だったから、問題はない。しかし今回は、半分巻き込まれて、半分関係のない事件だった。故に、関係のない方はさっさと忘れ去るべきだ」

 ユカリは「はいはい、そうですかー」と不満そうにしつつも、GDMから動画を消去した。

「え、じゃあ、巻き込まれた方はどうするんですか?」

 清瀬が純粋に疑問を投げ掛けた。楠木が嫌な笑みを浮かべる。それだけで、清瀬には容易に想像がついた。

「勿論、徹底的に分析するのだ。このために、関係ない方の動画も見たのだからな」

 清瀬とユカリは、呆れ顔で楠木を見た。

「そゆ事。……第三者は介入すべきじゃないって言ったのに、夏蓮さん、結局動画見てるじゃんって、ツッコもうと思ってたのに」

 カチカチと、蛍光灯の光が点滅した。楠木は満足げに口角を上げている。

「それで、巻き込まれた方というのは、真奈美ちゃんが生霊化したことについてですか?」

 清瀬が話題を戻した。楠木は頷きながらも、「それと、あともう一つ」と言う。

「生霊化した幼女が、何故うちに来たのかについてもある」

 淡々と述べる楠木。清瀬は納得顔で「はぁ、確かに、何故でしょう」と呟いた。ユカリも不思議そうな顔をする。

「確かに謎だね。別に夏蓮さんと親しかったわけじゃないんでしょ?」

「あぁ。……面識は無きにしも非ずだったが、それだけで逃げ場のカテゴリーにされる程相手をした覚えはないしな」

 再びカチカチと蛍光灯の光が点滅し、居間の電球が一つ切れた。三人は上を向き、切れた電球を見る。他は白々と輝いているのに、一つだけ、生気を失ったように暗みを帯びている。

 惚けた空気の中で、清瀬が息を呑んだ。

「そうか。一人だけ、違ったんだ……!」

 楠木は横目で清瀬を見た。

「ま、詰まる所、そういう事だったのだろうな」

 清瀬はキッと、楠木を睨み付けた。

「分かってたんじゃないですか! なのにどうして、問題提起しちゃってるんですか!」

 楠木はへらりと彼の視線を受け流した。

「そんなことを言っている折、まだ気づいてないか。因みにユカリはもう、気付いているぞ」

 清瀬は言われるままユカリを見る。ユカリは不気味なくらいにニコニコしながら、人差し指を上に向けている。

 清瀬は今一度、天井を向いた。そこにあるのは、切れて暗くなった電球だ。

 清瀬は徐に顔を赤くした。

「……つまり」

 一度大きく息を吐き、落ち着きを取り戻そうとする。しかし、楠木に対して大人な対応を取る事は出来なかった。

「僕に電球を替えろって、暗に言いたかったわけですか! なら、普通に言ってくださいよ! やりますから!!」

 楠木が素っ頓狂な顔をした。その表情を見て、清瀬も幾分か感情が収まる。

「普通に言って、お前はやるのか」

 清瀬は半眼になった。

「普通、言われたらやりますよ」

 楠木も半眼になった。一度清瀬から視線を逸らし、ユカリを見る。ユカリは肩を竦め、溜息をついていた。楠木はもう一度清瀬を見る。その時の表情は、人を憐れむようなものだった。

「何ですか」

「いや、お人好しな奴だな、と思ってな。まぁ、せいぜい人に騙されない事だな」

 清瀬は口を尖らせた。

「さて、冗談はこれくらいにして、本題に入ろう」

 楠木が軽く流したのに対し、清瀬はぶつくさと文句を言う。しかし、楠木が一々そんな言葉に反応するはずもなかった。

「何故あの幼女は、うちに転がり込んできたのか。否、何故あの幼女は、生霊の姿でコミュニケーションのとれる人物を探したのか」

 楠木は頬をついている手の人差し指で、自身の頬を軽く叩きながら、言葉の順番を考えた。

「そうだな。取り敢えず、昨夜、清瀬が帰ってからの出来事を話しておくか」

 楠木の語りに、ユカリが付け加える形で話が始まった。


 ――清瀬が帰ってから暫くすると、あれ程張り付いていた幼女が呆気なく楠木から離れた。幼女はキョロキョロと辺りを見回した後、楠木の方に向き直った。

「あのお兄ちゃんは、帰っちゃったの?」

 楠木が肯定すると、幼女はホッとしたように胸を撫で下ろした。

「あのお兄ちゃん、マナのこと、見えてたよね」

 楠木は再度肯定した。そしてふと、何故清瀬が帰ってからこの幼女は喋り出したのだろうかと疑問に思う。転じて、そもそも何故、出会った時点で口を開かなかったのかという考えが浮かんだ。楠木は答えを出せないまま、幼女を見据えた。

「お姉ちゃんも、マナのこと見えてるよね」

 楠木は、この幼女にはユカリが見えていないのだろうか、と頭の片隅で考えながら、三度肯定する。幼女はもじもじしつつ、次の言葉を口にした。

「マナね、おうちから出してもらえないから、どうやったらお外に出られるか考えてたの」

 幼女は至って真剣な顔をして話す。楠木はそれをしかと聞きつつ、浮かんだ疑問についても考えていた。

 この幼女には、誰でもいいから、取り敢えず誰かに話したいことがある、という事までには考えが及んでいた。しかし、楠木は幼い子どもを題材にした小説を書いたことがないし、身近にいても関わりを持ったこともなかった。故に彼女の心情をどうしても理解できなかった。

 楠木の事情など構いもせずに、幼女は話を続ける。

「そしたらね、ちょっと前にね、夜になって、眠ったら、お外に出られるようになったの」

 ウフフと、幼女は笑う。可愛らしい、ぷっくりとした手でジェスチャーをする。

「こうね、お空をびゅーんって飛べるのよ。それでね、夜は真っ暗なのにね、明かりがいっぱいついてて、とってもキレイだったわ」

 楽しそうに話す幼女。ユカリが楠木の隣で宙に浮かび上がりながら、よっぽど、話す相手が居なかったのだろうなと、幼女を不憫に思った。

「あのね、お外の明かりはね、道だけにあるんじゃないんだよ。マナね、気付いたの」

 幼女はきらきらと眼を輝かせた。楠木は早く本題に入らないものだろうかと、半ば悶々としていたが、幼女の純粋さに対して、文句を垂れることが出来なかった。

「明かりの一つ一つにはね、人が住んでいるのよ。一人ぼっちの人もいっぱいいたけど、ママがいるところもあったの。マナ、いいなーって思ったの」

 楠木は目を細めた。重くなりつつあった頭が、一気に冷めていく。

「あ、それとね、他にもあるのよ。街の方に行ったらね、もっとすごかったの。あのね、夜なのにね、いっぱい人がいるの。大人の人たちよ。なんだか、楽しそうだったわ」

 幼女が付け加えた瞬間、楠木は眉根を寄せた。その様子を見たユカリは、話の本筋がずれたのだなと気付く。けれども、幼女には見えていないらしいユカリからしては、どうすることも出来なかった。大人しく楠木の隣に座って、彼女と同じように幼女の話を聞いた。

 それから何時間も、夜の街の様々な初体験に感動した幼女の話が、延々と続いた。


 楠木の眠気に限界が来た頃、窓からは日が差し始めていた。幼女はそれを見て、小さな口を両手で押さえた。

「いけない! もう、帰らないと! 起きる時間になっちゃう!」

 意識が半分抜けかけた楠木を置いて、幼女は帰っていった。

 楠木は最早機能していないに等しい思考回路をしつつも、幼女の心情について漸く悟った。その後、事切れるようにして楠木は倒れ込んだ。ユカリは楠木を運ぶことはできないので、彼女にそっと、布団をかけてやった――


「えぇっと……、心情を悟った、と言うのは?」

 話が一段落着いたところで、清瀬が気になったことを問うた。楠木は表情を変えずに、淡々と答える。

「何故、幼女はすぐに話し出さなかったのか。答えは簡単だ。警戒していたからなのだ」

 この返しに、清瀬は腑に落ちない表情をする。

「でも、真奈美ちゃんに出会ったとき、楠木さんが声を掛けたら、べったりとくっついて来たんですよね?」

 楠木は首を縦に振り、「あぁ、そうだ」と言う。

「それはくっついて来ただけだ。存在していることに気付いてくれたという、束の間の安心というものだろう。……だが、それと、事情を話すとは訳が違う。幾ら誰でもいいから誰かに話したいといっても、限度があるだろう」

 これには納得がいったのか、清瀬は軽く頷く。

「確かにそうですね。僕だって、知らない人に何もかも話せるわけではありませんし」

「だよねー。俺も話すとなると、ちょっと警戒しちゃうよ。少しくらいは、どんな人なのか見てからにしたいよね」

 ユカリが胡座をかいた体勢で、深く頷いた。二人が理解したところで、楠木が話を進める。

「ただ、昨晩の段階では、何故清瀬が帰ってから幼女が口を開いたのか、そこまでは分からなかった」

 この問いには、清瀬もユカリも感銘した。

「本当だ。僕にも真奈美ちゃんは見えていたんだ。なら、コミュニケーションを取る対象と見なしても悪くはないはずだ。なのに何故……。僕はそんなに、彼女を不快にさせるような態度をとっただろうか……?」

 ぼそぼそと呟く清瀬。ユカリの方は、何となく理解している程度で、確信までには至っていなかった。楠木が頬杖をつく。

「この疑問については、夕方頃の会話で解消した。……取り敢えず、続きを話そう」


 ――楠木が寝落ちてから、起床するまでざっと十時間。楠木は誰かに身体を大きく揺り動かされ、目を覚ました。

「誰、だ……。ユカリ、か?」

「冗談! 俺じゃないよ! 俺に、夏蓮さんを揺り起こす勇気はないよ!?」

 甚だ情けない宣言を耳にしながら、楠木は体を起こした。ユカリではないならいったい誰だと頭を掻く。

 その正体は、すぐに分かった。

「お姉ちゃん。もう、夕方なのに、まだ寝てるの? お姉ちゃん、にーと、なの?」

 楠木に衝撃が走る。

「お前、帰ったのではなかったのか」

 幼女はニッコリ笑い、「うん、一回帰ったよ」と悪気なしに答える。楠木は頭痛にでもなりそうな思いがした。

「昨日、大事なことだと思ってお前の話を聞いていれば……。どうでもいい話ばかりされても困る」

 幼女は、楠木の言葉で泣き顔になった。

「どうでもいい、話、だったの?」

 沈黙。楠木は溜息をつき、首を横に振った。

「……今日も来たという事は、本当に話したい事を話せていないからだな。さっさと話せ。これでも私は忙しい人間なのだ」

 幼女に「にーと」呼ばわりされたことを根に持っているのか、楠木は不機嫌丸出しの表情で幼女と対峙する。幼女は笑顔に戻った。

「そうなの! マナね、お姉ちゃんみたいな人、探してたの。お空を飛べるようになったのはいいんだけどね、みんな、マナのことが見えてないみたいなの。声をかけても、全然気づいてくれなかったの」

 幼女は少し寂し気な顔をする。またもじもじしながら口を開いた。

「だから、一回しか話した事は無かったけど、お姉ちゃんの所に来てみる事にしたの。そしたらね、お姉ちゃんがマナに声をかけてくれたからね、お姉ちゃんとなら話せるって思ったの」

 楠木は、この幼女は聡い子だと思った。通常なら結果しか話さず、皆、訳が分からずに混乱してしまうだけだというのに。この幼女の話し方はとても順序立っていた。昨夜の事は別だけれども。楠木は黙って続きを聞いた。

「あのね。マナね、ママのこと好きなの。でもね、ママのこと、取ろうとする人がいるの」

「取ろうとする人?」

 本題に入って初めて、楠木は話に割って入った。幼女は「うん」と頷く。

「しゅーじ、っていう人。ママね、その人のことが好きなの。その人もね、ママのこと好きなの。だから、マナね、いらない子なの」

 楠木は時折階下のお宅へ足を運ぶ男のことを思い出していた。楠木が外を見る機会はそう大してないのに、その男の事を高確率で見かけるため記憶として残っていたのだ。

「でもね、マナね、やっぱりママのこと好きなの。だから……」

 幼女は一度俯きがちになった。しかし、すぐに顔を上げる。

 その瞳に、迷いは見受けられなかった。

「しゅーじに、いなくなってほしいの」

 ユカリは思わず歯を噛みしめた。楠木は、楽しそうにクスリと笑った――


「――浅間に、居なくなって欲しい!?」

 楠木達の語りが終わると、清瀬が素っ頓狂な声をあげた。突然の叫び声に、楠木は顔を顰める。彼女は溜息を吐いてから、口を開いた。

「違う意味でとるなよ? ……あの幼女が言いたかったのはつまり、浅間と母親に別れて欲しいということだろう」

 違う意味の方で捉えていた清瀬が、ホッと安堵する。心なしか、首筋に冷や汗をかいているようだった。一人で勝手に安心している清瀬の隣で、ユカリも話に入ってきた。

「え、じゃあさ、真奈美ちゃんが清瀬サンを避けた理由って、やっぱり……」

 楠木は目を細め、ニタリと口角を上げる。

「そうだな。まぁ、そういうことだったと言うことだ」

 恒例の如く話に置いて行かれた清瀬が、どういう事だと楠木をじっと見詰めた。楠木は頬杖を付いていた手を離し、気怠そうに清瀬を見返した。

「そろそろ、清瀬の勘の悪さには飽きてきた頃なのだが……」

 気乗りのしないような表情をして、楠木は今まで忘れ去られていた机上のコップに手を伸ばした。キンキンに冷えた中身の液体と、淀んだ空気の温度差によって、コップの表面には水滴が出来てしまっている。楠木は手のひらが濡れることも厭わず、一口お茶を飲んだ。

「勘が悪くてすみませんね! 本当に、分からないんですよ!」

 清瀬は憤りながらも、ポケットからハンカチを取り出し、楠木に手渡す。殆ど無意識な行動だった。楠木はと言えば、素直にそれを受け取り、濡れた手を拭いた後清瀬に返した。ハンカチをそのまま返されることに、特に不快感を覚えることはないらしい。清瀬はきれいに畳んでポケットに戻した。ユカリはこの光景を見て、吹き出しそうになるのを堪えていた。

「ほんと、不思議だよねー。俺らと清瀬サンとでは、気が付くポイントが違うのかなー?」

 口元をにやけさせ、肩を震わせながらユカリが言う。清瀬はこの言葉の本意が分からずに、ユカリに対して不可解な表情を向けた。

「気が付くポイントって……?」

 ごほん、と楠木が一つ、咳払いをした。清瀬とユカリが彼女の方に顔を向ける。

「その話はもう良い。悟らせようとしたところで、普通に話した方が早いことが分かった」

 楠木の言葉に、清瀬が「何ですか、それは」と愚痴を言う。楠木は構わず本題に戻った。

「それで、だ。あの幼女が清瀬を避けていた理由だが、これも至極単純な話だった」

 楠木は無表情のまま、次の言葉を告げた。

「要は、()が駄目だったのだ」

 不満そうにしていた清瀬が、ぽっかりと口を開け、目を瞬いた。ユカリは思った通りだったからか、満足そうな表情をしている。

「もっと砕けて言えば、男がトラウマだったと言えば分かるか?」

 暫くパチクリと目を開けていた清瀬が、ようように言葉を氷解していった。

「そういう、事か……! 真奈美ちゃんは、浅間を嫌悪していたんだ。その延長線上で、男というカテゴリーが苦手、いや、警戒に値する存在だったんだ!」

 漸く理解したか、と、楠木は再び溜息を吐く。

「でも、やっぱり分かりませんね。浅間は真奈美ちゃんを嫌うどころか、好意を抱いていたんですよ? なのに何故、浅間を受け入れなかったんでしょうか……」

 口元に指を当て、深く考え込む清瀬。それを見た楠木は、呆れた顔をする。

「そう何でもかんでも考え込もうとするな、清瀬。そうでなくても、お前の思考はショート回路なのだ。ヒートアップして回路が壊れるだけで、何も得られまい」

 思考の海から無理矢理戻ってきた清瀬が、頬を膨らませて楠木を睨んだ。

「どうしてそう、口が悪いんですか! まるで考えたって意味がないって言われているように聞こえるんですが!!」

 楠木は表情筋を動かさず、目だけを細めた。

「全く、お前の言う通りだ。……こんな話、考えなくても感情論だけですぐに分かる」

「そだね。誰だって、自分のプライベートな空間に、ズケズケと他人に入ってこられるのは嫌だもんね。夏蓮さんが良い例だよ。最近はあんまり発狂しないけど、最初はほんと、ヤバかったよねー。今でもあの時の光景が脳裏に蘇ってくるよ」

 ユカリがすかさず例えを挙げたことで、清瀬が混乱に陥ることはなかった。清瀬は納得の表情でぶつぶつと呟いている。

「そうか。つまり、真奈美ちゃんにとっての浅間は、母親との共有スペースの中で、異物な存在だったという訳か。それで、不快を露わにした、と」

「それだけではないだろうな。私的空間に侵入された上に、母親の関心を九割方奪われてしまったのだ。恋愛となると仕方ない部分も生じるが、幼女にとっては一溜まりもない話だったろう。特に幼児期には、親からの愛情が不可欠になる。幾ら浅間が幼女に対して愛情を向けていたとしても、本望の人から貰えなければ、全く無意味だ」

 楠木が付け足した言葉に、清瀬は呆けた顔をして頷いた。

「確かに。……そういえば真奈美ちゃん、母親から虐待されていたんですよね。これも、浅間をますます嫌う原因になったんでしょうか」

「……清瀬サンってさ、気付かないわりに良いとこ付いてくるよね」

 横目で清瀬を見るユカリ。清瀬は口を尖らせた。

「良いところを付くって、何が。僕は疑問に思ったことを口にしただけだが」

 沈黙が流れる。気まずいと言うよりも、哀れみの含まれた空気だった。

 沈黙を破ったのは、楠木だ。

「ユカリが言っているのは、詰まるところ、『その通りだ』と言うことだ。これは私の憶測に過ぎないが、恐らくあの母親は、浅間が来るまではある程度幼女に対して優しく接していたのだろう。先程のGDMの動画にもあったが、母親は仕事でも上手くいっていなかったらしいな。それに加えて恋愛も思い通りに行かないとなると、相当ストレスが溜まっていたのではなかろうか。間接的ではあるが、その原因にもなる幼女に対して、嫌悪感を抱くのも無理はない」

 清瀬が目を見開いた。

「だから、真奈美ちゃんは母親を浅間に取られた、と思ってしまったんですね! 浅間が来たことで、彼女のたがが外れてしまったから。真奈美ちゃんに対する態度が変わってしまったから。真奈美ちゃんはそれを、浅間が原因だと考えたんですね。それで、彼にいなくなって欲しい。楠木さんにそう伝えたんですか」

 単になかなか気付かないだけであって、清瀬には理解力はあった。楠木はそれを、自分の中だけで「鈍感」と表現した。しかし口に出すと話が進まないので、からかいたい気持ちを抑えて、「そういうことだ」と頷いた。

 清瀬はまだ、首を傾げていた。

「ところで楠木さん」

 そう話題転換をする清瀬。楠木も首を傾げる。

「真奈美ちゃんが虐待されていることには、いつ気付いたんですか? さっきの話の中にはそれらしき話はなかったように思うんですが」

 楠木は暫く目を瞬いた後、「あぁ、それについてなら」と答え始めた。

「幼女が最初にくっついて来たときだな。剥がそうと服を引っ張った時に、ユカリが痣を見つけたのだ」

 楠木はユカリに目配せをした。ユカリは頷き、彼女の言葉を継ぐ。

「夏蓮さんがあまりにも強く引っ張るから、それを止めようと思って真奈美ちゃんに近付いたんだよね。そしたら、背中にたくさんの痣と傷があってね。これは、ちょっとヤバイやつなんじゃないのって話になったんだよ」

「つまり、比較的早い段階で、既に分かっていた、と言うことか?」

 清瀬の問い掛けに、ユカリが「そうだね」と答えた。

「それから、急いで報告書の詳細を読んだんだ。そしたら、下の階の赤塚羽澄さんについて、色々書いてあったんだよね。虐待のこととか、それまでの経緯とか、彼氏が浅間秀治サンだっていうのとか、その人もこれに何らかの関係があるって事とかね。それで、浅間サンについて調べたら、なんと、清瀬サンの同僚じゃあないかーってなって……」

 口を開けて聞いていた清瀬が、徐にその唇を動かした。

「それで、昨日、楠木さんは僕に言いに来たんですね! あの時は気が動転していてあまり疑問に思っていなかったんですけど、正直、話したこともないのに何故知っているんだろうって思ってたんですよ」

 蟠りが消え、清瀬は満足そうな顔をした。次いで、楠木が口を開く。

「まぁ、そうだな。お人好しの清瀬なら、同僚の相談くらいになら、乗っていそうな気がしたからな。案の定だったというわけだ」

 楠木の「お人好し」というワードで、清瀬は切れた電球のことを思い出した。買い出しに行かないとな、と思いつつも、どこか歯痒い思いをしていた。

「ただ、お前が事情を知っていた場合、電光石火の如く当事者を連れてきそうな予感がしたから、こちらも少し焦ったな。幼女がいつ用件を話し出すかさえ予想の付いていない段階だったからな。だがまぁ、結果オーライと言ったところか」

 楠木はにやにやと笑った。清瀬はバツが悪くなって縮こまった。そこでふと、清瀬は九時過ぎ頃の、楠木との会話を思い出した。

「あの、楠木さん。そのわりにはさっき、『遅い』って文句言ってませんでした?」

 縮こまっていた清瀬が、恐る恐る反撃に入る。楠木は徐に立ち上がり、ノートパソコンの置いてある机に向かった。引き出しを開き、中から棒キャンディーを取り出す。包装用紙を取ってごみ箱に捨て、肌が露わになったキャンディーを口に放り込む。

「うむ。ブルーベリーミントヨーグルト味もなかなかパンチがあって美味いな」

 清瀬は半目になってその光景を見ていた。ユカリも笑いを通り越して呆れていた。楠木はキャンディーを口から出し、考えついた言い訳を始めた。

「用意を終えるのに、そこまで時間がかからなかったのだ。それよりも予想外だったのは、良い子なら爆睡している時間に清瀬が帰宅してきたことの方だ」

「生霊の真奈美ちゃんには関係なくないですか?」

 楠木は不快感を隠しもしないで、反論する。

「魂に時間の概念を当て嵌めたところで、意味が無いのは高が知れている。それよりも、もうすぐ日付が変わりそうなことを危惧すべきだろう」

 楠木はあからさまな態度で顔を逸らし、手に持っていたキャンディーを口に含んだ。

 清瀬は自分の時計を見て、楠木の言い分も尤もだと考え直す。同時に、他人の家にこんなにも長く居座っても良いものだろうかと、不安になり始める。しかし、清瀬は楠木の言ったとある言葉について、どうしても訊きたいことがあった。

「えっと、あのー、楠木さん?」

 清瀬が顔色を伺うが、楠木は沈黙を押し通す。

「『用意』って、一体何をしたんですか?」

 それでも執拗に黙りこくるので、さすがにユカリが代弁を始めた。

「用意って言っても、大したことじゃなくってね。下の階を偵察したら、赤塚さんが浅間サンに連絡を取ってるのが見えてさ。そこで彼が今日、赤塚さん家に来ることが分かったんだ。……だから、清瀬サンが無理やり連れてくるとは、俺はあまり思ってなかったんだけど」

 清瀬は再び縮こまった。そういう意味で言われたのなら、少し強引な誘い方だったのかもしれないと、清瀬は顔を赤くした。

「でも、もしかするとって、夏蓮さんが言ったものだから、取り敢えず仕掛けてみたんだよ」

「仕掛ける?」

 清瀬は楠木の方を向いた。楠木は未だに喋るつもりはないらしく、つんとして棒キャンディーを舐めている。

「うん。赤塚さんからの通知が浅間サンのスマホに入らないよう、ブロックしておいたんだ。あ、これはちゃんと上に申請してやって貰ったから、違法じゃないよ」

 ユカリは腕でバツの形を作る。清瀬は「そうか」と頷いておく。

「そしたら案の定、清瀬サン、連れてきたじゃないかって感じなんだよね。さすが、猪突猛進男。見習いたくはないけど尊敬はするよ?」

 馬鹿にされているのか否か、よく分からない言い様に、清瀬は反論の言葉を思いつけなかった。故に、ユカリの良いように言われたまま、話は進んで行く。

「でね、夏蓮さんと打ち合わせしたタイミングでブロックを外してもらったんだ。そのタイミングっていうのが……」

「浅間が状況をよくよく理解し、悩みが消えかかった頃あいだ」

 清瀬とユカリは楠木を見た。しかし彼女はこのフレーズを自分で言いたかっただけらしく、再び黙り込んだ。ユカリが話を続ける。

「これで浅間サンが動くかな、って思ったら、予想外のことが起きたんだよねー」

 清瀬は目をぱちくりとさせた。

「予想外って、幼女がどこかに飛ばされそうになった事か?」

 ユカリは顔を顰め、「まぁ、その話ではあるんだけど」と歯切れ悪く言う。

「真奈美ちゃん、あの時昇天しそうになってたんだよ。状況からして分かるでしょ、清瀬サン」

 清瀬は赤塚が娘に手を掛けていたくだりを思い出し、納得する。

「そうか、あれはそういう事だったのか」

「そういう事だったの。だから俺、慌てて様子を見に行ったんだからね。でも俺が止められるわけでもないから、必死に真奈美ちゃんの肺に空気を送り込んでたんだよ!」

 ユカリは「大変だったんだから!」と頬を膨らませている。

「……ほーう。あのポルターガイスト、意外と役に立つのか」

 楠木がまた、会話に入ってきた。彼女は食べ終わったキャンディーの棒をごみ箱に捨て、本格的に戻ってくる。楠木は優しい視線をユカリに向けた後、二人に向けて話し始めた。

「実のところ、母親が娘に手を掛けるというのは、予想外ではなかったのだ」

 一瞬にして、ムードが壊れる。清瀬とユカリは揃って眉根を寄せた。

「それ、早く言ってくれないと。もしかしたら真奈美ちゃん、死んでたかもしれないよね」

 清瀬も隣で同調している。楠木は本領を発揮し始めた。

「それはない。弱いが、弱いからこその使い道がある事くらい、分かっているからな。ユカリなら何とか持たせてくれるだろうとは思っていた」

 楠木に信頼されていたことを知るユカリ。彼はどう返せばいいか分からず、口を尖らせた。

「い、今更そんなこと言われても嬉しくないし。って言うか、そこまでが用意のうちだったって事だよね。ほんと、夏蓮さんって際どくて危ない人だよね!」

 楠木は笑っただけだった。一旦大きく息を吐き、雰囲気を一新する。

「さて。これらを考慮すると、ただのすれ違いが大事になってしまったという事件だったわけだ。赤塚は仕事も恋愛もうまくいかないと言った。故に、娘に八つ当たりをしていた。しかし娘は、それが浅間のせいだと思っていた。そして浅間はなかなか気が付かなかった。……なんと愚かな事か。他人を巻き込んでまで。いや、巻き込まなければ露見していなかったのかもしれないな。だからある意味では、幼女が生霊化したのは妥当な訴え方だったのかもしれない」

 楠木はそうやって話をまとめ、立ち上がった。

「これでこの件は終幕だ。とっとと帰れ、清瀬。あ、明日も夕飯は頼んだ」

 酷い言い様にもかかわらず、楠木は図々しい発言をする。清瀬は軽く溜息をつき、「分かりました」と言いながら立ち上がった。同時に、どこかからフィヨッという高い音が鳴り響いた。清瀬はすぐに、浅間の忘れていった鞄に目を向けたが、音の根源はどうやら楠木のスマホらしかった。楠木は画面を操作しつつ、顔を顰めた。

「本当に、とばっちりだったな。締め切りが明日とか、私を殺す気か」

 それが担当編集からの通知であることを悟った清瀬は、今回ばかりは楠木に同情した。浅間の荷物を持って、律儀に「お邪魔しました」と言ってから、清瀬は楠木宅を後にした。

 その後、スマホから顔を上げた楠木は、いつもとは違う笑みを浮かべていた。


「まぁ、良いか。神は降臨しているのだから」


 その様子を見たユカリは、胸が高鳴るような思いがした。


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