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「タトエバ」理論  作者: 鏡春哉
7/21

弐 清瀬②

 ぎりぎりの時間で仕事場に着いた清瀬は、机にトートバッグを置くと、ホッと一息吐いた。それを見た同僚が、満面の笑みで清瀬に近付いてきた。

「いつも三十分前には必ず来るのにな。珍しく寝坊でもしたか」

 浅間秀治。二十六歳。清瀬とは大学時代からの付き合いである。今こそ清瀬をからかっているが、執拗に関わりを持とうとはしない。そんな、竹を割ったような性格をしている。笑顔も清々しく、浅間は男女問わず人気のある好青年だ。

「僕が寝坊をするわけがない。幼少時からこの方、六時半以降に目が覚めたことはないんだ」

 清瀬はトートバッグの中からものを出しつつ、返答する。浅間は苦笑した。

「何度聞いても怖いな、その習慣は。じゃあなんだ、準備に時間が掛かったとか?」

 清瀬は今朝方の出来事を思い出し、不快を露わにした。その表情を見た浅間は、「あ、訊いちゃ駄目な奴だったか」と引こうとしたが、清瀬は否定した。

「いや……、何というか、だな。アパートを出る前に妙な光景を見たというか、何というか」

 暫く浅間は清瀬を見詰め、納得したように息を漏らした。

「そうか、そうか。朝っぱらから隣人さんが何かしでかしたのか」

 清瀬は眉根を寄せ、口を窄めた。浅間は、これは図星だな、と思いつつ、清瀬が口を開くのを待った。

「……有り得ない光景を見てしまったんだ。あんなずぼらな人なのに、ひと、なのに……!」

 口にする事への恐怖か、清瀬はふるふると震えだした。浅間は、これはヤバイやつだなと早めに判断を下し、話題転換をした。

「そ、そう言えば! この前俺、内定貰ったんだよね」

 急な話に、清瀬は目を見開く。つい先程の話題は、すっかり抜け落ちてしまったようだ。

「内定……? 企業にでも就職したのか?」

「あぁ。サプリメントの会社の研究開発部にな」

 清瀬は未だに目を瞬いている。

「驚いた。大学院まで行ったものだから、博士号もとって、このまま大学での研究を続けるつもりなのかと思っていた」

 浅間は「そんなこともあったなぁ」と後頭部を掻く。

「でも、もともと企業に就職するつもりだったしな。ずるずると此処にいるのも怠慢な気がして、就活を始めてたんだ」

「そうだったのか……」

 度肝を抜かれたような感覚に陥っている清瀬は、しばし動きを止めていた。

 浅間はこの話題も唐突すぎたかと思い始めていたが、清瀬は徐に破顔した。

「良かったじゃないか。夏真っ盛りにと言うのは何だか微妙だが、念願の企業就職だろ」

 思ったより優しい反応だったからか、浅間は安堵した。

「そうなんだよ。ほんと、真夏なんだよな。環境が良ければいいけど」

 この研究室に、幾人かM大の学生がやって来た。二人の会話はそこで途切れる。

 それからは、どちらも研究に没頭した。


 日が傾き始めた頃。清瀬は本日二度目の伸びをした。予定よりも早く作業が終わったため、清瀬は帰宅の準備を始めていた。

 ごそごそと清瀬の動く様子に気付いた浅間。彼は椅子の背もたれに深くもたれ掛かかりながら、清瀬に話しかけた。

「もう帰るのか」

「あぁ。後は半日待つだけだからな。レポートは家で書こうと思ってる」

 返事を聞いた浅間は、わざとらしく咳払いをした。清瀬は訝しげに眉根を寄せる。

「と、言うことは、この後の予定はないんだな?」

 清瀬は首を傾げるも、素直に肯定する。浅間は安心したように言葉を続けた。

「なら、ちょっと付き合ってくれないか」

 浅間は真顔だった。正直の所、清瀬は早く帰りたいという気分だったのだが、深刻そうな雰囲気に、思わず彼の誘いに乗ってしまった。

 浅間が仕事を切り上げるまで暫く待ち、それから清瀬らは大学を出た。辺りは暗みがかっており、空は橙色から紫まで、幻想的なグラデーションとなっていた。西の空には、一際明るく輝く金星が見て取れる。

 浅間は大学近くのバーに清瀬を連れてきた。地面に置いてある看板を見ると、『Anemone』と書かれている。その文字の下に、何か気になる用語が書かれていた気がしたのだが、看板を見たのが一瞬過ぎて、清瀬には把握しきれなかった。

 店内に入ると、温かい色の明かりで店内が照らされており、落ち着いたバーの雰囲気が醸し出されていた。清瀬は周りを見たい衝動を抑えつつ、浅間に付いて行った。

 カウンター席に近付くと、この店の店主らしき女性が手を振った。

「久しぶりね、秀治君。就活の方は上手くいったの?」

 浅間は微笑み、挨拶を交わす。

「お陰様で」

 浅間は此処の常連で、傷心した日には決まって此処で酒を飲んでいる。その事を知っている店主は、浅間の本題には触れなかった。代わりに背の高い浅間の影に隠れてしまっていた、清瀬へと目線を向け、話しかける。

「こちらは見ない方だけれど。もしかして、秀治君の後輩かしら?」

 此処が公共の場であることも忘れ、清瀬は不快の表情を露わにした。女店主は目を見開き、浅間を見る。浅間と言えば、清瀬が知らない人に会う度に言われるこのフレーズに、思わず苦笑していた。

「俺の同期ですよ、ミシルさん。こいつ、背丈のこと結構気にしてるんで、あんまり突かないでやってください」

 ミシルと呼ばれた女店主は、「まぁ」と口に手のひらを当て、ニッコリと笑った。

「ごめんなさいね。あ、今日は良いカクテルがあるのよ。飲んでみる?」

 清瀬は諦めた様子で、カウンター席を眺め始めた。此処でも浅間が解説する。

「すいません。こいつ……、清瀬って言うんですけど、清瀬は酒もちょっと、ね」

 三人の間で気まずい空気が流れた。ピンポイントで傷を負わせてしまったミシルは、清瀬にどうフォローすればいいのか、経営者でありながらさすがに術を失ってしまっていた。

 この雰囲気を破ったのは、浅間だった。彼は苦笑いをしつつも、「隅のテーブル席、使わせて貰いますね」と指差しながら言った。ミシルも気を取り直したらしく、笑みを浮かべた。

 二人は席に座り、一旦落ち着きを取り戻す。

「俺が清瀬に相談しようと思って此処に来たのに……。どうして俺が仲を取り持っているんだろうな……」

 清瀬は浅く溜息を吐いた。

「無茶を言うな。こういった小洒落たバーとか、そういうのには入ったことがないんだ」

「そう言えば、ファミレスに入ったのも、大学生になって始めてとか言ってたっけな」

 当時の記憶を思い起こしたのか、清瀬は恥ずかしそうに目を逸らした。浅間は少しばかり気持ちが和らいだ。

「なぁ、浅間」

 暫くして、清瀬が口を開いた。何事かと、浅間は清瀬を見る。

「このバーは何故、男しかいないんだ?」

 キョロキョロと頭を動かすことは自粛しているにしろ、瞳はキョロキョロと泳いでいる。浅間は今頃気付いたのかと思いつつ、素直に答えた。

「あぁ、それはな。此処がメンズバーだからだよ」

 面白いくらいに動いていた清瀬の瞳が、不意に停止した。次第に眉根が寄っていく。

「メンズ、バー?」

「そう、メンズバー。……そう警戒しなくても良いと思うぞ。俺だって、雰囲気が好きだからこの店に通ってるだけだし」

 清瀬は納得したのか、「そう言うことなら」と受け入れた。確かに、嫌な雰囲気のする店ではなかったからだ。そこで、清瀬ははたと気付く。

「え、って言うことは、あの店主も……?」

 浅間は苦笑するだけだった。清瀬はそれを、肯定の返事と受け取った。

 会話が途切れたときに、ミシルがお盆を持ってテーブル席にやってきた。

「さっきは本当にごめんなさいね、清瀬さん。これ、お詫びって言ってもちょっとあれだけど……」

 そう言ってテーブルに置いたのは、新鮮な色をしたオレンジジュースだった。清瀬は店主の正体に半ば動揺しつつ、子ども向けらしきジュースを見て、半ばやり切れない気持ちを抱いていた。このまま悶々としているのも大人げないので、清瀬は精一杯の笑みを浮かべて「ありがとうございます」と礼を言った。

 ミシルはホッとしたらしく、続けて浅間の前にコップを置いた。

「あなたはいつもので良かったわよね」

「あぁ、どうも」

 それがどういう種類のものであるかは清瀬には分からなかったが、取り敢えず酒であることは認識できた。そして、此処で酒を飲むと言うことは、それなりの悩み事があるのではないかと、清瀬は身構えた。

 ミシルが去った後、浅間は酒を一口飲んでから本題を切り出した。

「プライベートな相談事になるんだが……」

 そう言った浅間は、研究室を出る前に浮かべていた表情と、同じ顔をしていた。清瀬は真面目くさった表情で次の言葉を待つ。

「去年くらいから付き合い始めた彼女がいるって、清瀬には話してるよな」

 清瀬は首を縦に振った。それを見た浅間は、さらに続ける。

「その彼女がさ、なんか、最近おかしいんだ」

「……恋愛事情というものはよく知らないが、それは浮気か?」

 浅間は無言で首を横に振った。清瀬は首を傾げる。

「それとはまた、ちょっと違うんだよ。……彼女がバツイチの子連れって話はしたっけ?」

 清瀬は「いや」と否定した。

「そうか。……彼女とは、合コンで出会ってな。その時に一回離婚の経験があって、二歳の……今はもう三歳だが、娘がいるっていう話を聞いたんだ。でも、俺の経験した中で、一番意気投合できた人だったんだよな。だから、子持ちでも良いからって事で付き合い始めたんだ」

 清瀬は純粋な眼を浅間に向け、親身になって耳を傾けている。

「実際にその子に会ってみてね、えっと、真奈美ちゃんって言うんだけど、とっても可愛いんだよ、それが。ますますこの人とならって思うようになった」

 次の言葉を言おうとした浅間が、徐に表情を無くした。

「でも最近、彼女の様子がおかしいどころか、真奈美ちゃんの様子までもがおかしいんだ。何だか思い詰めてるような表情をするんだ。何度か聞いてみたんだけど、頑なに口を開いてくれなくってね。その頃からかな。真奈美ちゃんから避けられるようになったんだよ」

 浅間は深く溜息を吐いた。額の前で指を組み、俯く。

「何かした覚えはないんだ。だから余計、何で避けられているのかが分からない。……真奈美ちゃんは俺のことが嫌いになったのかな」

 今にも泣き出しそうな声だった。清瀬は、未経験者なりにも、浅間がどれだけ二人のことを愛しているのか、手に取るように分かった。それ故に、身勝手なことは言えないと思った。

 清瀬はしばしば考え、口を開く。

「……一つ一つの事象は至って簡単なものだ。つまりそれが複雑な事象になった場合には、必ず何らかの原因がある。だから、意味も無く嫌われるようなことはないはずだ」

 浅間は顔を上げた。清瀬は構わず言葉を続ける。

「だが、浅間は何かをした覚えはないという。……知らないところで原因になっている可能性もあるけれど、此処は彼女さんから直接聞くのが一番妥当だと思う」

 正論を言われ、浅間は悲しそうな顔をした。

「まぁ、そうなんだけどさ。……彼女がきちんと答えてくれるとも限らないだろ」

 言われて、彼女の様子も変だと浅間が言っていたことを思いだした。清瀬は、身勝手なことを言えないと分かっていながら、無意識に言ってしまった事に決まりの悪さを覚えた。思考が煮詰まり、黙り込む。

「……悪いな、清瀬。こんな辛気くさい話に付き合わせて」

 動かない清瀬を見た浅間は、悲哀の表情のまま笑みを浮かべた。

「自分で相談事とか言っておきながら、要は誰かに話したかっただけかも知れない。でも、何となく気持ちが軽くなったのは事実だよ。聞いてくれてありがとな、清瀬」

 そう言って、浅間は伝票を持って立ち上がった。そこには、「オレンジジュース」の文字は記されていなかった。

 清瀬はストローに口を付け、一口飲んでみた。

 美味しいと言われればそうなのだが、氷が溶けて、少し間抜けた味になってしまっていた。


 浅間がいなくなってから程なくして、清瀬は店を出た。陽はすっかり落ちていた。道を照らしているのは、街灯と住宅の明かりだけだ。

 清瀬はトレンチコートを羽織っていながらも、なお寒気を感じていた。指先を擦り合わせつつ、自宅のあるボロアパートへと向かう。

 店からアパートまで、さほど距離はなかった。大学からも近いという事で便利な場所に立地しているものの、清瀬はこれから先、自ら利用することはないだろうと思った。酒が飲めないというのもあるが、一番は、あまり外出したくないと言うところにある。

 アパートに着くと、今朝降りてきた階段を上った。上りきってから、B201、B202と木製のドアの前を通り過ぎていく。三つめのドアを過ぎたとき、清瀬は自分の家の前に、誰かが立っている事に気が付いた。

 上Tシャツ、下短パンと、お馴染みの隣人だ。ただ、今朝見たTシャツとはまた別の柄のものを着ているので、掃除の後にでも着替えたのだろうかと清瀬は思った。

「こんばんは、楠木さん。何か用ですか?」

 楠木は無表情を決め込み、仁王立ちして清瀬を見下ろしている。まるで、察しろとでも言っているようだった。そこで清瀬は、何か変わった事はないかと楠木を観察した。

 異変はすぐに分かった。

 楠木の首もとには、小さく短い腕ががっしりと回されている。腰の辺りには、足が絡みついていた。極めつけに、背中の方から小さな顔が覗いている。

 清瀬は息を呑んだ。

「その子、は……。楠木さんの、隠し子ですか!」

 楠木は半眼になった。

「何がどうなればそう言う結論に至る。よく見てみろ」

 清瀬は、どうしても、普通はそう考えるだろうと不満に思いつつ、言われた通りじっくりと見た。清瀬は、再び息を呑んだ。

「え、透けてる!?」

 楠木は伏せ目で清瀬を見下ろしただけで、回れ右をした。それから彼女は透けた子どもをおぶったまま、清瀬を自宅に招き入れた。

「清瀬サン、久しぶり!」

 楠木宅の居間では、元地縛霊のユカリが宙を舞っていた。

「久しぶり、ユカリ君。君はあまり変わりがないようだね」

 ユカリはえへへと茶目っ気たっぷりに笑う。その隣では、不機嫌絶頂の楠木が棒のように突っ立っていた。清瀬は慌てて彼女の用件を訊く。

「そ、それで、その幽霊の……。女の子でしょうか。その子はどうなさったんですか?」

「どうにもこうにも、私が知りたいところだ」

 楠木はおぶった幼女を剥がそうとした。しかし幼女は楠木の背中にべったりとくっついて、頑なに離れようとしない。それが機嫌の悪い原因なのか、楠木は朝とはまた違った不快の表情を露わにしている。

「俺的には、懐かれたって感じがするんだけどねー」

 元々幽霊であるためか、ユカリは関係なさそうに喋る。楠木はますます顔を顰めた。

「何が悲しくて懐かれなければならない。断じて、私は何もしていないぞ」

「え、でも夏蓮さんが最初に話しかけたよね?」

 楠木は口を閉ざした。今一度幼女を引っ剥がそうとするも、幼女の吸着力は凄まじかった。楠木は引き剥がす事を諦め、渋々卓袱台の前に座り込んだ。清瀬も彼女に倣って、正面の位置に座る。ユカリはその間に座った。

「取り敢えず、詳しく話してください」

 呆れ口調の清瀬。楠木は初めからその気だったらしく、自分から話し始めた。

「清瀬が行った後にユカリが来てな。憎たらしい事に終始私の掃除する姿を眺めていたのだ。幽霊調査隊に昇進したのなら、もう少し使える奴になっていると思っていたのだがな。何が悲しくて、あんなへなちょこポルターガイストを見せられなければならなかったのだか……」

 流し目でユカリを見る楠木。ユカリは両手を合わせて「ごめんってー」と謝っている。清瀬は、一応手伝おうとは試みたのだなと、ユカリに感心していた。

「結局、ブロック塀の掃除を終えたのは、五時過ぎ頃だった。あの大家、やたら査定が厳しいのだ。ほんのちょっとの汚れにも、目ざとく文句を言ってくる。もう、二度とやらない」

「……楠木さん、論点がずれてます」

 清瀬の一言に、楠木は一つ、咳払いをした。

「それで、だ。晴れて自宅に戻ったと思えば、この様だ――」


 ――掃除を終えた楠木は、慣れない事はやるものではないと後悔しつつ部屋へ戻っていた。遠出をしていたわけでもないので、相変わらず鍵は開けっ放しだった。ユカリはその事を未だに心配しているが、当の楠木が今さら習慣を直すとも思えなかった。

 家に帰ってきた楠木は、風呂場に直行した。軽くシャワーを浴び、汗にまみれた体の汚れを洗い流す。その間、ユカリは楠木の着替えを用意していた。洗面所の近くに設置された押し入れを開き、なるべく差し障りのなさそうな服を選ぶ。ユカリがポルターガイストを使えないと言っても、それは威力のあるものであって、決して使えないわけではなかった。ものを動かしたり、浮かせてゆっくり運んだりする程度なら、出来るようにはなっていた。

 楠木はものの五分であがり、さっさと着替えを済ませた。風呂場から出て来た楠木の後ろについて、ユカリも一緒に居間へと向かう。そこで、二人は有り得ない光景を見たのである。

 体の透けた幼女が、居間の真ん中に突っ立っている。

 ユカリはパニックになって、調査報告書をばらまきながら幼女の資料を探す。楠木はと言えば、何処かで見た事があるような、と思考を巡らせながら、鍵を開けておいたのはまずかったか、と別の事も考えていた。

 幼女は二人の姿を見ても、変わらず無表情のままだった。仕方がないので、楠木が「誰だ、不法侵入者」と、幼児相手でも容赦のない言葉遣いで声を掛けた。

 すると、幼児は花を咲かせたような笑みを浮かべ、楠木に抱きついたのだ。

 そして。

 今に至る――


「すみません。話を聞いても、ちょっと内容が掴めませんでした」

 清瀬は苦笑いを浮かべながら楠木を見る。

「しょうがないよー。ほんとに夏蓮さんが話した通りなんだもん。当事者であるこっちだって未だに把握しきれてないんだよ?」

 楠木の代わりに、ユカリが応える。彼までもがそう言うのなら、本当の事なのだろうと清瀬は割り切る事にした。

「つまり、楠木さんは、この異常事態について僕に相談がしたかった。そういう事ですか」

「違う」

 話し終えてから黙っていた楠木が、即刻清瀬の言葉を否定した。清瀬は、「なら、何なんですか」と不満そうな顔をする。楠木は真顔で胸を張った。

「把握しきれていないとは言え、清瀬が帰ってくるまでに何ら進展がなかったわけではない」

 楠木は、幼女に抱きつかれた以降の話を始めた。


――幼女が抱きついたまま離れないので、楠木は渋々そのまま仕事を始める事にした。ノートパソコンの電源を点けたあたりで、ユカリにストップをかけられる。

 ユカリは報告書の中から幼女に関する資料を見つけたらしく、それを楠木に見せた。

「一応あったんだけどね……」

 歯切れの悪いユカリ。楠木は「何か問題でもあるのか」と尋ねる。ユカリは暫し唸った後、不可思議な点を口にした。

「幽霊だけど、幽霊じゃないっぽいんだよねー。この報告書にも幽霊認定の判子が押されてないし。でも、見た限り、幽霊なんだよねー」

 楠木も一緒くたになって、首を傾げる。楠木は報告書と幼女を交互に眺めながら、今になって漸く、ある事を思い出した。

「あ、この幼女、下の階の家の子どもだ。最近見た覚えがある」

 ユカリが顔を歪めた。

「え、じゃあこの子、まだ生きてるって事?」

 楠木は視線を逸らし、「どうだろうか」と呟く。

「最近と言っても、一ヶ月以上は前の話だからな。病気なり何なりで死亡している可能性も捨てきれない」

「でもこの子、幽霊じゃないよ?」

 沈黙。二人の意見は、一致していた――


「……つまり、その子は生き死にしているっていう事ですか?」

 楠木とユカリが半眼になって清瀬を見詰めた。清瀬は眉根を寄せる。

「……背丈が低いと、思考までもが低迷するのか?」

 楠木のからかいに、清瀬は一瞬にして顔を真っ赤にした。耳の先まで赤みを帯びている。

「だったら何なんですか! 二人して分かった風に言わないで、普通に教えてくださいよ!」

 楠木は深く溜息を吐き、駄目だこれはと額に手のひらを当てる。ユカリもうんうんと頷いている。一人だけ置いて行かれるような雰囲気に、清瀬は不満を露わにしていた。

「生き死にではない。この幼女は、生霊、つまり、生きた身体から幽体離脱した、所謂魂だけの存在、と言う事だ。故に死んでもいないのに、幼女は霊体を有しているわけだ」

 清瀬は間抜けな顔をして、楠木の考えを聞き入れた。しかし、一つ疑問が湧くのである。

「でもそれなら、別に生き死にでも良くないですか?」

 楠木とユカリは、二人して首を横に振った。

「さっき俺が階下に見に行ったんだけどね。この子、別に病気でも何でもなかったよ」

「見間違い、とかではないのか?」

 ユカリは不愉快な表情をし、唇を尖らせた。

「間違ってるわけないじゃん。この装置でも、この子は正常値が出てるんだもん」

「装置……?」

 ユカリはズボンのポケットから、タブレットのような機械を取り出した。彼はそれを起動させ、清瀬に見せる。

「幾ら幽霊同士だからと言って、全部が全部幽霊だって分かるわけじゃないんだよ。だから、そういう時用に幽霊調査隊全員に持たされてるのが、これ。GDM……、『Ghost distinction machine』の略なんだけどね……」

「幽霊鑑別機?」

 清瀬が訳した言葉に、ユカリは「そうそう」と肯定した。

「GDMはいろんな機能があってね。幽霊の有無もそうだけど、生死とか、病気の有無とかも分かっちゃうんだよ。それに、GDMの判定は絶対なんだ。間違えるはずがない」

 断定した言い方に、清瀬は口を噤むしかなかった。ここぞとばかりに楠木が割り込む。

「此処で、何故私たちが清瀬を巻き込んだのか、という問いに戻ってくる」

 清瀬は楠木を見た。楠木はユカリから一枚の資料を貰い、それを清瀬の目の前に置いた。

 清瀬は目を剥いた。

 その資料には、目の前の幼女の写真が載っているばかりか、彼女の名前まで記されていた。


――赤塚真奈美(・・・)、と。


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