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「タトエバ」理論  作者: 鏡春哉
6/21

弐 清瀬

『タトエバ』




『僕が隣のあの人だったら』


* * * * *


 ジリリリリリリリリと、目覚まし時計が耳元でけたたましく鳴った。その音を不快に思うこともなく、パッチリと目を開ける。さほど間を置かずに起き上がり、律儀にベッドを整えた。それから部屋のカーテンを全開にし、窓を開ける。爽快とまでは言わないが、朝の清らかな空気が室内の滞った空気を一新する。

 清瀬は大きく伸びをし、キッチンへ向かった。

 トーストにスクランブルエッグといった簡易的な朝食を作った後、ゆっくりと食し始める。幼い頃から躾けられてきたのだろう。一口ごとに三十回以上噛んでは飲み込む。お陰で食べ過ぎる事はないが、少ない量で済んでしまい、今の細々とした体型に至る。

 洗い物もきっちりと済ませ、次は洗面所に向かう。歯を磨くなり顔を洗うなり、身だしなみを整えるなりする。しかし残念なことに、自分自身の気分がさっぱりしても、陰気くさい印象が抜け落ちることはなかった。

 寝間着から普段着に着替えると、仕事場に持っていくものの準備を開始する。ノートパソコンは勿論のこと、調べた資料や過去の記録なども次々とトートバッグに詰め込んでいく。このトートバッグは、清瀬が小学六年生の頃、家庭科の授業で自作したものだった。可愛らしいパステル調の色合いで、ポイントにゆるふわなアルパカが描かれている。何がどうなってこの柄の生地を選んでしまったのか。清瀬は何かの手違いだと思い込んでいるが、今となっては最早謎の領域である。

 一通りの作業を終えると、清瀬は部屋の全体を見渡した。やり残したことはないなと確認しつつ、先程開け放った窓を閉じて施錠した。

 その後、お気に入りの白衣に腕を通し、その上から薄手のトレンチコートを羽織った。トートバッグを肩に掛け、定位置にある鍵を手に取った。

 今日も、上機嫌に家を出る。鍵掛けを怠らず、しっかりと閉まったのを確認した後、ドアから離れる。――隣の誰かさんとは違って。

 アパートの側面に設置された階段を使い、階下へ降り立った。そこで清瀬は、近くから水の音がするのを耳にした。敷地を囲う、ブロック塀の外側の方からだ。清瀬は訝しげに思いながらアパートの敷地を出た。そこで目にしたのは。

 上ぶかぶかのTシャツ、下短パンの隣人が、ブロック塀に向かってホースで水を噴射している姿だった。地面にはバケツ、ブラシ部分が緑色のデッキブラシ、その他諸々の掃除用ブラシが転がっている。その隣でとぐろを巻いているホースの元を辿ってみると、大家の家の外にある、小さめな水道の蛇口と繋がっていた。

「何やってるんですか、楠木さん」

 朝の挨拶をすることも忘れ、清瀬は目の前の人物に問うていた。彼の声掛けにより漸く気付いたのか、楠木と呼ばれた女は徐に振り返った。いつも以上に不機嫌そうな目をしていたが、清瀬を見て少しばかり表情を良くした。

「清瀬ではないか。出勤か」

「はい、そうですけど。……って言うか、質問に答えてくださいよ」

 調子としては、いつもと同じらしい。楠木は相変わらず人の話を聞かない。

 楠木は清瀬の姿をじろじろと見た。ホースから水が出しっぱなしであることも忘れて、執拗に見詰めている。

「何、ですか」

 さすがに恥ずかしくなってきた清瀬が、耐えきれなくなって口走る。楠木はそれでものんびりと、「うーむ」と唸ってから口を開いた。

「いや、この夏真っ盛りな日に、よくそんな暑苦しい格好が出来るなと。もしや、清瀬の肌は温度というものを感じないのか?」

 言われてトレンチコートを掴んだが、清瀬は反論しなかった。

「冷え性なんですよ。昼間はいいけど、朝とか夜とかはちゃんと厚着してないと、夏場でも凍えそうになるんです」

 楠木は興味深そうに「ほーう、そういうこともあるのか」と呟いた。清瀬は顔を顰める。

「それで、楠木さんは何をしているんですか。水の無駄遣いしてないで、さっさと答えてくださいよ!」

 再び一旦停止する楠木。水の地面で弾ける音が、虚しく響いている。

「……見ての通り、苔だらけのブロック塀掃除だが、何か?」

 信じられない話だった。確かに見ただけで判断できる光景ではあるが、あの楠木が。あの散らかし部屋の主である楠木が。天変地異が起きても動きそうにない、あの楠木が。

 何故公共の場の掃除などしているのか。

 清瀬は、本当の意味で天変地異が起こってしまうのではなかろうかと戦いた。手始めに、槍の雨でも降ってきそうだ。

「な、なな、何があったら、そうなるんですか!」

 分かりやすく混乱する清瀬を見て、楠木は面倒そうに頭を掻きむしった。

 途中でその手を止め、嫌な笑みを浮かべる。

「私とて、時には善行をも為すのだよ。このおんぼろアパートも、正面が綺麗だったら幾分かはマシになるだろう?」

 楠木の言い分は尤もだったが、清瀬はどうも震えが止まらなかった。その時。

 バシーーーン!! と、清々しい音が鳴り響いた。清瀬は頭を混乱させたまま、ロボットのようにぎこちなく音のした方を向いた。

「嘘を吐くな! それよか、手ぇ止めてないでちゃっちゃと掃除せんかいっ」

 こぢんまりとはしているが、背筋のしゃんと伸びた老婆が、楠木の隣に立っている。その手には、巨大な張り扇が。背中を叩かれた楠木は、恨みがましい目で老婆を見た。

「いい加減暴行罪で訴えるぞ、ハリセンばあさんよ。私は暴力反対主義者なのだ」

 老婆は腕を組み、ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。沈黙が暫く続く。耐え性のない清瀬は、無関係にも関わらず口を挟んだ。

「……大家さん。さすがに、手をあげるのは僕もどうかと思うんですけど」

 大家と呼ばれた老婆は、しわくちゃになった顔に、さらに溝を作った。

「時代錯誤なんて言う暇があったら、あんたも手伝ったらどうだね」

 このアパートの大家が強気な性格であることを思い出した清瀬は、無言で首を横に振った。大家は半眼になって清瀬を見据える。

「なら、さっさとお行き。水がかかっちまうよ」

 そう言って楠木に目配せをした大家は、楠木の雑な手つきに、再び渇を入れた。

 そろそろ行かなければ遅刻しかねなかったので、清瀬は適当なところで抜けようと考えていた。その折に、何故此処で立ち止まったのかを思い出す。

「えっと、その。これだけは訊かせて欲しいんですけど」

 遠慮がちな声だったが、しっかりと二人の耳には届いていたようだった。元から冷めた目をしている楠木と、楠木のせいで不機嫌になっている大家の視線は、やけに威圧的だった。清瀬は負けじと口を開く。

「何故、楠木さんがブロック塀の掃除をしているんですか?」

 瞬間、楠木からの視線は断ち切られ、訊くなとでも言うように掃除を再開した。デッキブラシを構え、長い腕で力強く塀を擦る。一連の様子を見た大家が、些か満足そうにして清瀬の方に向き直った。沈黙を決める楠木に代わって、大家が清瀬の問いに答える。

「自業自得だよ、こいつの。……最近のことだがな。訳あり物件なのに、どうして家賃を引き下げないのかと食ってかかってきてな」

 清瀬は察した。これは確かに、楠木に過失がある。

「何様のつもりだっていう話だ。でもまぁ、事情が事情だからなぁ。だから、此処の掃除をやるっていう条件付きで家賃を引き下げてやったのさ」

 その事情というものが何なのか。清瀬は次いで発生した疑問を解消したかったが、押し黙ったまま作業をする楠木の前で、不躾に訊くことも出来なかった。

 清瀬は「はぁ、そうでしたか」とだけ返し、はたと、時間を確認した。大家は察しがいい人のようで、何も言わずにそっぽを向いた。清瀬は会釈をした後、アパートを去った。


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