壱 楠木夏蓮 終
薄暗い部屋の中で、カタカタと規則的な音が鳴り響く。時折不気味な笑い声が轟く。そしてそれを遮るように、連打されるドアフォン。途中からドアを叩く音に変わっても、超人気売れっ子小説家、楠木夏蓮は無視し続けた。
「先生ぃぃぃいいいい! 返事してくださいよぉぉぉぉおお! せめ、せめて、安否の確認だけでもぉぉぉおおおおおおおおおおおお!」
意識的に聴覚を閉ざし、執筆活動に勤しむ。返事をしないのは、半ばからかっているだけだった。いつものように居留守を使っていると、そういう日に限って非日常が起こるのである。
叫び声が止まったかと思うと、カチャリ、とドアの解錠音が響いてきた。楠木は違和感を覚える。続いて、ドアの開くような軋んだ音がした。楠木は転じて、耳を澄ませた。堂々と中に入り込む足音と、自信のなさそうな不規則な足音、その二つが聞こえてきた。その音は、どんどん楠木の方へ近づいてくる。
居間に姿を現したのは、何故か楠木の担当編集だけだった。楠木は苛立たしげに言い放つ。
「不法侵入罪で訴えるぞ、柳井」
柳井と呼ばれた楠木の担当編集は、辛辣な言葉に体をぶるぶると震わせた。
「僕はその対象にならないんですか、楠木さん?」
柳井の後ろから、幽霊騒ぎの件から二週間、ずっと顔を合わせていない清瀬が現れた。楠木は半目になって「例外などない。その躊躇いのなさには感心ものだがな」と低い声で呟いた。
「作者が発狂するなら、その担当編集もなかなか五月蠅いんですね」
近所迷惑であった事を自覚した柳井は、「すみません……、ご迷惑をおかけしました」とへこへこと頭を下げた。清瀬は眉根を寄せ、言葉を続ける。
「それでですね。楠木さんに鍵を返し忘れている事を思い出したんですよね」
清瀬は握っていた鍵を楠木に返した。当の楠木は鍵を貸していた事をすっかり忘れていたのか、呆けた顔をして清瀬を見詰めていた。
「後、担当編集さんを困らせないであげてくださいよ」
一番言いたい事を言い終えたからか、清瀬は大きく息を吐いた。その言葉に関しては、楠木から返事があった。
「小説なら書き終えている。そこのUSBメモリに入っている。勝手に持っていけ」
顔を青白くしていた柳井が、みるみるうちに生気を取り戻した。
「ああああありがとうございます! きちんと本にさせていただきます!」
柳井はUSBメモリを手に取り、まるで壊れ物を扱うかのように鞄に仕舞った。勢いよく頭を下げ、「それでは失礼します!」と嬉しそうに去っていった。彼の後ろ姿を見届けた清瀬は、些か心残りを感じていた。
「日頃の楠木さんの態度が目に見えるようですよ……」
哀愁漂う清瀬を無視し、執筆活動を再開する楠木。しかしこう言う時に限って、非日常は重なって起こるのである。
「どっもー! 元気だったぁ?」
久しぶりに聞いた声。清瀬は勿論、楠木も手を止めて声のした方へ振り向いた。
「ユカリ君! どうしてまた、此処に!?」
清瀬の疑問は尤もな事だった。成仏したはずの地縛霊が、再び現れるなどあるはずがないのだから。ユカリは片方の手で後頭部を撫でた。
「いやー、俺もびっくり。どうやらこの地区の幽霊調査隊に任命されちゃったみたいでね」
「ゆ、幽霊調査隊…………?」
「んー、よくは知らないけど、成仏できずに地上を徘徊する幽霊の調査をする係っぽいよ?」
ユカリは飄々とした顔をして言う。イマイチ彼への信用度を上げられないのは自分だけだろうか、と清瀬は怪訝に思った。それ程、楠木は無表情を決め込んでいた。
「って事で、これからも宜しくお願いしまっす!」
びしっと敬礼するユカリを見た清瀬は、先程の疑念が一気に払拭されてしまったのか、思わず吹き出して笑っていた。この部屋の主、楠木も、楽しそうに微笑んでいた。
開け放たれたドアの向こうから、温かい、春風が吹き込んでいた。
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『タトエバ、私が神だったら』
『棒キャンディーの味のバリエーションをもっと増やして、一日を四十八時間にして、棒キャンディーをもっと普及させて、自由の意義を定義して……そして』
『覆水を盆に返す!』