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「タトエバ」理論  作者: 鏡春哉
4/21

壱 楠木夏蓮④

 翌日。今日も天気は良いらしく、窓から真っ白な日差しが入り込んでくる。楠木が普段この朝日を見る事はないのだが、今日はある特殊な目覚まし時計のせいで目覚めることとなった。

 ドアフォン連打だ。

 昨日の今日で、頻繁に来訪者が来るなと寝ぼけた頭で考えていると、目の前に反転した幽霊が現れた。

「おっはよー、夏蓮さん。起きて早々悪いけど、あの五月蠅いの、止めてくれない?」

 楠木もいい加減煩わしくなってきたのか、二つ返事でベッドから起き上がった。大きく欠伸をし、目を擦りながら玄関へ向かう。やはりドアスコープを覗くことはせずに、即解錠した。楠木が力を加えずとも、勢いよくドアが開かれる。

「何ですか、これは!」

 小柄な黒髪男、清瀬が突き付けてきたのは、昨晩楠木がポストに入れたメモ用紙だった。

「『最後の審判の時は来た。天国へ行くか、地獄へ堕ちるか。それは、お前の身長が百六十五センチ以上かそれ未満で決まるのである』って一体何が言いたいんですか! 嫌がらせですか」

 まだ意識が朦朧としている楠木は、もう暫く目を擦りつつメモ用紙を眺めていた。

「あぁ、それはな。そうやって書いたら来るだろうと思ってな。だがこんな朝早くに来ることは予想外だった」

「でしょうね! じゃなくて、呼び出しなら普通に呼び出してください。一々癪に障るような真似をしないでくださいよ」

 楠木はニへーっと笑った。

「ならば、杓に触らなければいい」

 意味不明な返答に清瀬は混乱した。楠木の頭上に腕と頭を乗せたユカリが、ニヤニヤしながら「漢字変換、漢字変換」と連呼する。清瀬はごちゃごちゃになった頭の中を一度白紙に戻し、落ち着いて考えた。 次第に、清瀬の頬が紅潮していく。

「ふざけないでください! それよりもさっさと用事を終わらせてください」

「あー、悪い悪い。取り敢えず上がれ。ユカリの死因が分かった」

 さらっと重大なことを言う楠木。先程まで怒りを露わにしていた清瀬が、ころりと表情を変えた。ユカリも驚いているのか、楠木をまじまじと見詰めていた。

 三人が卓袱台を囲んで座ると、我慢しきれなくなった清瀬が楠木に尋ねた。

「は、早いですね。もう分かったんですか?」

「何事も早期解決が一番良いだろ」

 楠木はひらひらと手を振った。暫くして、真面目な表情に変容する。

「それで……。ユカリの死因は、ベンゾジアゼピン系薬剤の過剰摂取による副作用だ」

 楠木の一言に、化学に準じる清瀬が異常なほどの反応を見せた。

「ベンゾジアゼピン系薬剤って、普通に使われている睡眠薬じゃないですか! 何故……」

 清瀬は途中で口を噤んだ。どことなく、思い当たる節があったからだ。清瀬は視線を楠木からユカリへと移動させた。彼は押し黙ったまま、視線を逸らしていた。

 この反応を待っていたのか、楠木は徐に口を開く。

「ユカリが主に使っていたのは、ベンゾジアゼピン系薬剤であるジアゼパムだろうな」

 ユカリは片方の眉をぴくりと動かした。不機嫌な表情で楠木を見据える。

「俺が自殺したって言いたいの?」

 楠木は首を横に振った。

「寧ろ、利用されたと言いたい。お前、生前は重度の不眠症だったろう」

 ユカリは何も言わなかった。楠木はそれを肯定の返事と受け取った。

「症状を自覚したのは中学校三年生の夏。初めはさほど気にはしていなかったが、入眠困難が続いて疲労し、病院へ受診。結果、不眠症と診断される。当時は非薬物療法、リラクゼーション療法といったものから始めたが、受験勉強に対するストレスが日毎重なることから、なかなか上手くいかなかった。そして四ヶ月後、医者は薬物療法に切り替えたのだな?」

 なお口を開こうとしないユカリを見た後、楠木は今の状況に困惑している清瀬に「ベンゾジアゼピン系薬剤について説明しろ」と言った。清瀬は突然話を振られて頭を白くしたが、すぐに我を取り戻した。清瀬は一つ、咳払いをする。

「ベンゾジアゼピン系薬剤は、不眠症のために処方される最も一般的な薬です。イオンチャンネル型受容体であるGABAA受容体は、そのサブユニットとベンゾジアゼピン結合部位が結合することによって、塩化物イオンの透過性を高め……」

 片手で額を抑えた楠木は、すぐさま清瀬の説明を止めた。清瀬は突然、楠木のもう片方の手によって口を塞がれ、一瞬だけ呼吸の方法を忘れそうになる。楠木の手から解放されるや否や、清瀬は早速抗議に取りかかった。

「何するんですか! 人が気持ちよく説明している時に……」

「そうだな。清瀬に説明を頼んだ私が悪かった。要は、長期服用は依存性を高めるから、医療方針無しに漫然と続けるのは良くないと言いたかったのだ。止める場合には徐々に減量していかないと、不眠症を治すどころか症状を悪化させてしまうという事もある」

 漸く楠木の言った「説明」の意図に気付いた清瀬は、顔を赤らめた。楠木は構わず続ける。

「薬物療法に変えたにもかかわらず、あまり改善はしなかったのだろう。故に薬の長期服用を避けるべく、死ぬまでの四年間ずっと、薬を止めたりまた始めたりと繰り返していた。つまりジアゼパムには大層お世話になっていたわけだ」

 楠木は長い腕を組んだ。

「ここからが漸く本題だ。私は昨日M大に行き、そこで部室棟を見てきた」

「……待ってください。M大は個人カードがないと建物内には入れないはずなんですけど」

 不審がる清瀬に、楠木は「今は気にする話ではなかろう」と一蹴し、話を再開した。

「それで、ユカリがパズル研究同好会に所属していたと言ったから、例外なくその部室も見てきた。幸いなことに、この同好会は七年前の時点で潰れていた」

「……どこが幸いなんだよ。思いっきり俺が原因じゃん」

 ずっと押し黙っていたユカリが、思わず呟いた。楠木は「原因は知らないが、証拠が動いていないから調査がしやすかったのだ」とユカリの不満をも一蹴する。その後、卓袱台の下から一冊のノートを取り出した。ユカリはそのノートに見覚えがあるのか、目を見開いていた。楠木は目当ての頁まで捲り、開いて二人に見せる。

「パズル研究同好会活動日誌。略してパズ研日誌。この日誌は日毎に部員内で回して書く、所謂交換日記のようなものだ。少人数の同好会故に親睦を深める方法として使われていたわけだな。そしてこの右ページ側は、ユカリが入会してから程なくして書かれたユカリの日記だ」

 幽霊であるユカリにも恥じらいはあるのか、内容を読み上げようとする楠木を止めるべく、彼女の腕を引っ張った。しかし、ここは楠木の方が一つ上手だった。掴まれていない方の手でノートを持ち上げ、朗読を始める。

「『五月十八日。新入部員の千歳縁です。新入部員は最初に自己紹介をするのが恒例だと言うことで、始めに書いておきたいことがあります。自分の名前はよく「縁起が良い」って言われるんですけど、全くそんなことはないです。流行りの病気には大抵罹るし、体は弱いし、取り分け不眠症には困ってます。縁起が悪いったらないです。括弧笑い。このパズ研には、友人の篠田経由で興味を持ちました。運動部のように激しく体を動かすこともないし、その上自分の得意分野を最大限に使えるから良いなと思いました。実際にここ数日の活動はとても興味深かったので、これからも楽しくやっていきたいと思ってます』」

「……千歳縁。『ユカリ』は本名だったんですね」

 楠木の朗読が終わると、清瀬が早速呟いた。清瀬は予期せずも人の名前を当てた楠木に、得体の知れなさをますます感じていた。

「清瀬サン、普通そこじゃなくて、日記の内容に興味を持つものでしょ。まぁ夏蓮さんに名前を当てられた時には、びっくりしたって言うのも嘘じゃないんだけどね」

 清瀬の言葉で恥じらいが一気に冷めたユカリが、清瀬にツッコミを入れた。そして、二人の会話をまるきり無視した楠木が割って入って来る。

「この日誌には他にも詳しくユカリのことが書かれている。また、これは交換日記故に、部員なら誰でも読むことが出来る。すなわち、ユカリが不眠症である事は、周知の事実となったわけだ。これから分かることが幾つかある」

 楠木の言わんとすることを察した清瀬が、ハッとして顔を上げた。

「ユカリ君は他殺。そしてその犯人は、ユカリ君の不眠症に必要以上に反応した人物……」

 ここまでヒントが出てくると、さすがのユカリも気が付いたようだった。何も言わずに呆けた顔をしているユカリを見て、楠木が清瀬の言葉を継いだ。

「同好会に入会してから文化祭までの間に、親しくなった人物でもある」

 楠木はさらに限定して言った。清瀬はその限定の意味を考え、高校時代からユカリの友人である篠田雄生が対象から外されている事に気付いた。それが何故かは、訊かずとも分かった。

 ユカリから篠田と不仲になったという発言はなかった。否、親友でありながら篠田に関する事を殆ど口にしなかった。それは生前の、大学時代のユカリが、篠田よりも別の人間に関心を持っていた事を意味する。そしてその人間こそが。

「藤岡明里。文学部心理学科三年」

 楠木は冷ややかな目付きでユカリを見据えた。彼は息を呑んで次の言葉を待った。

「否。本名、笹倉美由里。当時二十七歳」

 ユカリが顔色を変えた。

「彼女の職業は、詐欺師だ」

 昨日とは比べものにならないくらい、部屋の空気は凍てついていた。しかし楠木は、場違いにも笑みを浮かべている。

「ユカリ、お前は良いカモだったのだよ」

 フルフルと、首を振るユカリ。その手は小刻みに震え、戦慄く。

「まんまと騙され、踊らされ、嘲笑されていても、お前は何も考えずに受け入れた」

 否定の動作が激しくなった。ユカリは唇を噛み締めた。

「そして、呆気なく死んだのだ」

 プツリ、と何かが切れたような音がした。今まで勢いに呑まれていた清瀬が我を取り戻す。

「楠木さん! 何が何でもそれは言いすぎです! 例え藤岡明里が詐欺師だとしても、ユカリ君が被害に遭っているのは間違いじゃない。だから、責めるんじゃなくて……」

 冷ややかな視線が清瀬に突き刺さる。今までのへらりとしていた態度から一変して、楠木はまるで地獄の底から湧き出てきたような怒りを纏っていた。清瀬は否応にも口を噤むしかなかった。

「誰が。いつ。どこで。ユカリを責めた?」

 恐怖。畏怖。戦慄。そんな言葉がねっとりと宙を舞う。楠木は鋭い瞳を清瀬に向けた。

「事は……。一つの事象によって揺さぶられる。しかし、揺さぶられた者がそれをどのように受け取るかによって、事の運ばれ方は異なってくる……」

 楠木はそこで口を噤んだ。どこにあるか分からない時計の、秒針の進む音が聞こえてくる。

「あぁ、そうか」

 ユカリは少し寂しそうに、悟った顔をして言った。

「俺は殺されたんじゃない。たった一つの企みを見抜けずに、事故死したんだ」

 楠木は頷き、同じく卓袱台の下から大量の資料を取り出した。それは全て、笹倉美由里に関する資料だった。

「その通りだ、ユカリ。お前は藤岡……笹倉に好意を抱いていたのだろう。笹倉はそういった男をターゲット層とした詐欺師だ。故に別の案件でも被害者が出ている。だが、ユカリのように死亡者の出た案件はなかった」

 資料を手に取って眺めていた清瀬も、納得の顔をしていた。

「本当だ。それにこの詐欺師、自分の仕業だと分からないよう、どれも被害者の持ち物を使って犯行に及んでいるし、金品も怪しまれない程度に持ち去っていたみたいだ。人の記憶以外からは形跡すら残さないなんて。実に、巧妙だ……」

 二人が理解した所で、楠木はやっと、ユカリ死亡までの経緯を話し始めた。

「文化祭後の打ち上げ。それが詐欺師の下した決行の時間だったのだろう。ユカリが酒に強いにもかかわらず、寝落ちた原因。それすなわち睡眠薬。お前が常に所持していたジアゼパムに相違ない。それを知っていた笹倉は、薬をユカリのコップに入れたのだ」

「アルコールと併用してしまった訳か。道理で、記憶に障害を来していると思いましたよ!」

 清瀬はユカリの抱いていた疑問をここで解消した。楠木はそれを肯定し、話を進める。

「睡眠薬を酒と併用すると、副作用がより強くなる。恐らく笹倉は、それを知らなかったのだな。予定通りに眠りこけたユカリを、笹倉は介抱する形で打ち上げから抜け出した。そのままユカリの住むアパート、つまり今の私の部屋に、表向きとしては正当な理由で侵入する事に成功したのだ。ユカリをベッドに寝かせ、自分は部屋の物を物色して金目の物を盗んだ。そこまでは良かったのだろうが、恐らく誤算があったのだろう。例えば、頭痛に耐えかねたユカリが起き上がってきた、とか」

 意味深に告げる楠木。残念ながら何も覚えていないユカリには、よく分からなかった。

「睡眠薬はユカリが中三の頃から服用していたのだ。その薬に体が慣れてしまっている事は容易に想像がつく。とは言え、完全に目が覚めたわけではなかっただろう。しかし、睡眠薬に関する知識が足りない事に加え、犯行に及んでいた笹倉は焦ったのだろう。後ろ暗い事をしているのを自覚していたわけだ。冷静な判断ができなかったとしてもおかしくはない。故に、笹倉は過剰な睡眠薬を、さらにユカリに飲ませたと推測できる」

 楠木の推理を聞いて、清瀬は顔を青くしていた。

「そんな恐ろしい事を……。つまり、笹倉と言う詐欺師は、ユカリ君が息を引き取るとは思いもせずに、逃げ帰ったという事でしょうか」

 楠木は横目で清瀬を見て、「だろうな」と答えた。

「ユカリが死んでしまったこと以外は、笹倉がいつも使う手口の犯行だった。だから、確実に物は盗まれていたものの、簡単な調べでは気付かれなかったのだろう。ユカリの死因は睡眠薬過剰摂取による自殺で片づけられていた」

 楠木は清瀬の元にあった資料を手繰り寄せ、その中から一枚の紙を抜き出す。そこには確かに、「死因、自殺」と書かれていた。

「こんな事になっていたなんて……。ユカリ君はこの取り扱いを知っていたのか? あぁ、そうか。地縛霊だから分かりようがないか……」

 清瀬は悲哀の表情を浮かべつつ、ユカリの顔を覗いた。ユカリは何とも言い難い表情をしていたが、清瀬の問いかけに答えた。

「いや、知ってたよ。俺が自殺扱いされてたって事は」

 清瀬は目を剥いた。楠木は目を伏せただけだった。

「俺が死んでから二週間半くらいかな。両親と、篠田がこの部屋にやってきたんだ」

「君の、高校時代からの友人の……?」

 ユカリは清瀬が呟いた言葉に頷いた。

「やけに早く捜査が打ち切られたなって思ってたら、篠田たちの会話が聞こえてきたんだ」

 その頃にはもう、ユカリは地縛霊としてB205号室に居座っていた。事情の掴めていなかったユカリは、彼らの会話から事情を把握したのだ。

「篠田がさ、俺が自殺するなんて、有り得ないって言うんだ。俺、びっくりしちゃったよ。自分でも自殺した覚えなんかなかったからね。両親の方は俺の体が弱かったからって、結構普通に受け入れてた。なんか、笑っちゃうよね」

 ユカリはどこか遠くの方を見ながら、言葉を続けた。

「篠田はそれからも直々此処に来たんだけど、あいつには俺が見えなかったらしくてね。声を掛けても目の前にいても、全部素通りされちゃうんだ。『俺は此処にいるよ』って言ってるのに、さ……。そのくせ、『縁が自殺だなんて、嘘だ。』って言い張るんだ。ほんと、どうすればいいんだよって感じだった」

 ユカリは疲れた笑みを浮かべて、楠木と清瀬の方に焦点を戻した。

「二年くらいはしつこく探ってたみたいだけど、大学卒業が近づいてくるとそう言う訳にもいかなくなったんだろうな。多分、割り切ったんだと思う。篠田が卒業しただろう年以降は、めっきり来なくなった。それからもう、結構経っちゃってるからね。……忘れられた、とまでは言いたくないけど、俺のことは篠田の中で遠い記憶の産物になってるんじゃないかな」

「七年前が二年、と考えると、今は二十七歳か」

 楠木が視線を天井に向けながら言う。

「そうだね。俺だって生きてたら、夏蓮さんと清瀬サンよりも年上だったんだよ。絶対、会社の働き盛りだったはずなんだ」

 ユカリはそこまで言って、大きく息を吐いた。

「って言っても、もうどうしようもないんだけどねー。でも、本当に自殺じゃなくてよかったよ。事故死っていうのも何だかかっこ悪いけどさ。自殺よりはマシだったかも」

 いかにも諦めたような言い方に、清瀬が反応した。

「何故そんなことを言うんだ。もっと、事故の原因になった人物に対して憤るべきだ」

 擁護するような言葉に、ユカリはやれやれと首を横に振った。

「憤ったところで何になるのさ。俺はもう、幽霊なんだよ? 清瀬サンみたく霊感のある人じゃないと、見えないんだよ?」

「楠木さんは霊感が無くても見えている」

 ユカリは顔を顰めた。

「この人は例外なんだけど。悔しいけど、俺にすら理由が分かんないくらいの例外。普通、こんな事は無いから。特に、この啓蒙思想のご時世にはね」

 ユカリが言い切ると、清瀬は黙り込んだ。楠木は首を傾げ、暫く沈黙したままでいる。ユカリはこの空気の中で口を開く勇気はないらしく、卓袱台の前で正座をして俯いた。

 カチカチと、無機質な秒針音が響き渡る。一度だけ、ピピッと別の音が鳴った。九時を知らせる音だった。

 その後も、静寂が楠木宅の居間を支配する。

 この重たい沈黙を破ったのは、清瀬だった。

「あの……。ちょっといいですか」

 二人の視線が清瀬に向く。清瀬は軽く息を呑んで、口を開いた。

「さっきの話に戻るんですけど。笹倉はどのようにして逃げたんでしょうか。楠木さんの話からすれば、笹倉は此処に入り込んでいるんですよね。でも、鍵が無いと開けっ放しになってしまいます。……この資料には、部屋の中に鍵があるにもかかわらず、鍵は閉まっていたと書かれているのですが。まさか、合鍵を持っていたんでしょうか」

 楠木はニターっと口角を上げた。

「清瀬のくせして、冴えた思考回路をしているな。……私もその点について補足しておこうと思っていた」

 そう言ってズボンのポケットから取り出したのは、楠木宅、このB205号室の鍵だった。比熱の小さい金属塊が、卓袱台の上で冷ややかな光を反射しながら存している。

「これが、どうしたんですか?」

 鍵を置かれただけでは話の分からない清瀬を見て、楠木は溜息をついた。

「合鍵と言えば、今清瀬が持っている物も合鍵の一つだ。だが、私が持っているのはオリジナルキーだ」

「……えっと、つまりユカリ君が合鍵を渡していた、と言うわけではないんですね?」

 清瀬は訳が分からずに頭を抱えた。隣ではユカリも理解できずに首を傾げていた。

「渡してないよ。っていうか、このアパート、合鍵作るの厳禁だもん」

 清瀬が目を瞬いた。ユカリも、自分で言って気が付いたようだった。

「あれ……? じゃあなんで、夏蓮さんは合鍵持ってんの?」

「禁止されているんですよね?」

 一瞬にして楠木がターゲットになる。当の本人は詫びられる様子もない。

「私の意志ではない。ただ、鍵のかけ忘れが多いと大家に口うるさく言われていたにもかかわらず直らなかった結果、向こうが勝手に鍵を閉めるようになってな。幾度か締め出される羽目に遭ったのだ。その度毎に大家の家に顔を出すと、毎回毎回煩わしいと理不尽な事を言われる始末だ。そこでまたも向こうのとった策が、私に合鍵を持たせる事だったらしい。五つも押し付けてきた。外に持ち出すだろう持ち物に入れておけと言うのだ」

 楠木は当時のことを思い出したのか、肩を竦めた。

「そう言うわけで、私は今、合計六つの鍵を持ち合わせている。大家控えの鍵を合わせれば、この型の鍵は全部で七つ存在することになるな」

「何それー。大家からの信頼度低すぎでしょ、夏蓮さん。……ん? でも、三週間前までは清瀬サンの部屋に住んでたんだよね?」

 ユカリの尤もな疑問に、楠木はさも当たり前のことかのように答えた。

「故に三週間前、新たにこの部屋の鍵の複製五つを、オリジナルキーと共に持たされた」

 清瀬が合点のいった顔をした。

「だからか! 大家さんに『合鍵はいるか』って言われたのは!!」

 楠木が部屋を替えたことにより、B204号室の合鍵が有り余ってしまったのだ。それ故に大家はあっても困る鍵を清瀬に持たせようとしていたが、必要ないと感じていた当時の清瀬にあっさりと断られていたのだった。

「……だから、私を訳有り物件に押し遣ったのは間違いだったのだ。様を見るがよいわ、大家め。家賃は下げるべきなのだ」

 根に持っているものが復活したのか、楠木は愚痴りだす。ユカリは慰めんばかりに楠木の近くに寄って行った。

「まぁまぁ。夏蓮さんが此処に来なかったら、俺、死因すら分からずに地縛霊続けてただろうし。本当、夏蓮さんには感謝だよ」

 楠木は冷めた目でユカリを見たが、怒りは静まったようだった。ここぞとばかりに清瀬が割って入る。

「それより、いい加減説明してくださいよ。どれだけ脱線すれば気が済むんですか!」

 言われて思い出したのか、楠木はいつもの表情に戻った。

「あぁ、そうだな。確か、ユカリが合鍵を渡していないという話まで言ったな」

 二人は同時に頷く。楠木は何処から話そうかと考え、肩掛け鞄から別の物を取り出した。机上に置いたのは、可愛らしい一枚のメモ用紙だ。それを鍵の横に並べる。清瀬とユカリは覗き込むようにしてそれらを見た。

「『文化祭で必要なものの確認』と、この鍵とに、何の関係が?」

 清瀬の発言に、楠木とユカリが半目になった。

「……さすがに、これは俺でも分かるんだけど」

 ますます混乱する清瀬。ユカリは慈悲故か、メモ用紙の下部を指さした。そこで漸く、清瀬も気が付いたようだった。楠木は眉を顰めていた。

「注意散漫なくせに、よく研究員になれたものだ」

 清瀬は恥じらいから、楠木から視線を外した。楠木はと言うと、そんな清瀬の心情にお構いなく話を戻した。

「もう分かっているだろうが、つまりは鍵番号がポイントだったわけだ」

 楠木は細長い指で鍵を裏返す。英数文字の羅列が、今度は大文字のアルファベット四文字になった。

「この話は知ってる。鍵番号と企業名が分かれば、鍵本体が無くても複製可能なんだよね。……ここは『MIMA』の鍵を使ってたんだね」

 ユカリの呟きに、楠木はニタリと嫌な笑みを浮かべた。

「そうだ。詰まる所、笹倉は鍵を盗んだのではなく、鍵番号と企業名を控えていたのだ。これなら、本人が気づくことなく、また騒がれることなく鍵を複製することができる。……裏もきちんと取れている。M大付近の鍵屋を調べたところ、七年前の九月に、この番号の鍵を複製しているという事実が存在した。恐らく笹倉は、合鍵が貰えない事を知ってから、何とかして合鍵を手に入れようとしたのだろうな。そして、用が済んだら何処かに捨てて帰ったのだろう」

 楠木は楽しそうに語る。

「実に巧妙だとか言われておきながら、証拠を残していくとはな。肝心な所でミスを犯すとは清瀬以上に注意散漫だ。目の前の事しか見ずに、未来に目を向けないのは単なる三流詐欺師だ。聞いて呆れる」

 クツクツと喉の奥から笑い声を出す。

 清瀬は、楠木の言葉にどうしても納得がいかなかった。

「でも実際のところ、笹倉の犯行は成立してしまっています。その点から見れば、巧妙に逃げ切っていると言っても過言ではないはずです。今更掘り返したところで、犯人は、もう……」

 清瀬が言い終えると同時に、フィヨッと高い音が鳴った。楠木はズボンのポケットからスマホを取り出し、親指で操作をする。徐にへらりとした笑みに戻り、「丁度良い」と言った。

「カクさんから朗報だ」

「核酸……? |デオキシリボ核酸(DNA)の、核酸?」

 いきなりの事で思わず口走ってしまう清瀬。楠木とユカリが哀れむような顔で彼を見た。

「清瀬サン。何でもかんでも化学用語と関連付けない方が良いと思うよ?」

 言われて、某時代劇の登場人物を思い出す。同時にスマホの向こうの「カクさん」像を思い浮かべたが、清瀬の想像力では成し得なかった。

「カクさん曰く、笹倉美由里は詐欺罪で服役中だそうだ」

 清瀬とユカリは目を見開いた。期待していた反応に、楠木は満足そうに微笑む。

「完全犯罪と言う言葉がこの世に存在している。しかし完全犯罪を完全に遂行できるのは、おおよそ初犯だけだ」

 頬杖を付き、神秘的な青い瞳を二人に向ける。

「前例が無い故に初犯は慎重になる。だが一度成功してしまうと、人間とは気が緩んでしまうものなのだよ。これなら次も上手くいく、とね。その油断が重なれば、当然綻びも出てくる」

 目を伏せ、楠木はふっと笑った。

「それがユカリの件では、まだ気づかれない程度の綻びだったのだろう。まぁ、メモ用紙を残していく程度では分かるはずもないか。本当に、パズル研究同好会が廃部になっていて良かった」

 ユカリがじとっとした目で楠木を睨んだ。楠木はそれを完全に無視する。

「しかしなぁ。これはただただユカリが不運だとしか言いようがない。が、結局笹倉は逮捕されている。所謂、身から出た錆と言うやつだな。この件も、赤裸々に話してやれば懲役年数が増えるかもしれないなぁ」

 ニターっと嫌な笑みを浮かべる。清瀬は暫く楠木の腹黒さを実感していたが、次第に疑問が滲み出て来た。

「って、カクさんって何者ですか!? どうやったらそんな情報が!?」

 ユカリも同じ事を思っていたのか、清瀬の横でうんうんと同調している。

「警視庁の警官だ。ちょっとした知り合いなのだ」

 何でもない事のように言う楠木。ユカリが「夏蓮さんって、小説家だよね……?」と楠木夏蓮と言う人物に対して不安を抱く。楠木は背筋を伸ばし、二人を見下ろした。

「別に誰と知り合いでもいいだろう。……それよりもユカリ、良かったな」

 唐突に話を振られ、ユカリは少しだけ呆気に取られた。しかし、すぐに笑みを浮かべる。それは、今まで二人に見せた事のない、心からの笑みだった。

「うん」

 再び二人の会話から置いて行かれた清瀬が、楠木に説明を求める。

「端的に言えば、ユカリの望みが叶った、そういう事だ」

 清瀬は「いや、それは分かるんですけど……」と言いながらも、まだ腑に落ちない点があるらしい。楠木はさらに詳しく言った。

「つまり、ユカリの中で渦巻いていた蟠りが消えた。もっと言えば、自分の死亡原因となった犯人が、野放しになっていない事を知って安心したのだ」

 清瀬は納得した顔をして、ユカリのいる方を向いた。そして、目を見開く。

「あれ、いない」

 部屋中を見渡してみても、どこにもユカリの姿を捉える事が出来なかった。まるで、そこには初めから幽霊というモノなどいなかったかのように。

「一件落着だ。これでお前も満足だろう。早く立ち去れ。邪魔だ」

 急に冷たくなった態度に文句を言おうとしたが、途中で清瀬の本来の目的を思い出した。

「そ、そうだった。この解決は楠木さんが発狂しないためのものだった!」

 清瀬は、椅子に座って小説を書き始めた楠木に向かって、一礼した。その後、そそくさと部屋から出ていった。ドアの閉まる音が響く。

 静寂。楠木はタイピングの手を止めて、清瀬の去った方向に目を遣った。片手で机の引き出しを開け、ラップで包装されたピンク色の棒キャンディーを取り出す。ラップを剥がしてゴミ箱に捨て、僅かに小さくなった球形の飴玉を口に含む。彼女の口の端が満足そうに上がった。


「神は降臨した」


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