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「タトエバ」理論  作者: 鏡春哉
3/21

壱 楠木夏蓮③

 楠木のトンデモ宣言から二時間が経とうとしていた。

 あれから楠木は、ユカリから一頻り情報を得た後何処かへ行ってしまった。取り残された清瀬とユカリ。清瀬の左手には、楠木宅の合い鍵が握られていた。

 清瀬は床に転がる本から目当てのものを探しては、溜息を吐く。

「無用心にも程があるだろうが……」

 思わず漏れ出た声を聞き取ったユカリが、ユラユラと清瀬に近づいてくる。

「夏蓮さん、鍵のかけ忘れよくあるよ? でも一度も被害に遭った事がないんだよねぇ」

 ユカリはのんびりとした口調で言ってみたが、清瀬に全く効果はなかった。寧ろ気に触ってしまったようで、清瀬は眉間に皺を寄せていく。

「それもあるが、そうじゃない」

 ユカリも溜息を吐いた。

「分かってるって。今日会ったばかりで信用に値しない男に合い鍵を渡した事に、だよね。でもまぁ、清瀬さんは何もしないから結果オーライなんじゃない? 例え何かあったとしても俺の目もあるから、状況は把握できそうだし」

 清瀬は左手を開き、銀色の光沢を放つ鍵を見詰めた。そしてまた、大きく溜息を吐く。

「楠木さんは、いつ頃帰ってこられるか分からないと判断したから僕に鍵を持たせた。それはユカリ君が中から鍵を閉められないからだ」

「通り抜けるからね」

 目当ての本を見つけた清瀬が、埃を被ったその表紙を一撫でした。露わになったタイトルには、「幽霊と記憶」と書かれていた。何故楠木がこの様な本を持っているかに関しては、楠木が出て行く前にほんの少しだけ話があった。彼女曰く、デビュー作の年にホラーもののラノベも書いていたとの事。それは止まらない映像を沈めるために書いた物であるために、投稿はしなかったという。因みにその作品を読みたければ、戸棚の左から二番目の引き出しに仕舞ってあるから勝手に読めとの事だった。故に、清瀬はそれを取り出してから作業に移っていた。

 清瀬達が任されたのは、地縛霊についての調べ物だ。こんな事になっているのは何故かと問われれば、ユカリを地縛霊から解放するための知識が必要だからだと答えよう。

「そもそも、ユカリ君が生前の事を覚えてさえいれば、こんな事にはならなかったのに。もしも僕が悪い輩だったら、鍵を複製されて悪用されていたところだったんだぞ」

「それは心配のしすぎだって。そういうのは『杞憂』って言うんだよ。……全く。無茶ぶりもいいところだよ? 死んだ直前のことは覚えてないってさっきから言ってるのに。死因すら俺にとっては謎なんだから」

 ぷっくりと頬を膨らませるユカリの傍で、清瀬は頁をパラパラと捲り、高速で読み飛ばしていく。目は活字を追いながら、口を開いた。

「それは君が死ぬ前に飲酒していたからだろう。……しかし、君がギリギリ成人しているとは思わなかったな」

 ユカリは怒った表情をした。胡座をかいたまま空中をくるくると回る。

「人を見た目で判断するなって言ったのはどこの誰だよ」

「そう言う意味じゃない。大学生や高校生は見分けがつきにくいと言っているだけだ。僕はそれで日頃苦労しているからな」

 ユカリは動きを止め、床に着地した。

「日頃苦労しているって、まるで大学生を相手にしているような言い方だけど。まさか大学の関係者だったり?」

「M大学で化学系の研究をしている」

 ユカリは目を大きく見開き、口をムニョッと尖らせた。

「M大ってそこの!? すごーい! そこの化学研究所はクオリティが高いって有名だよね。へぇ、世間って狭いなぁ。……でも研究者なのに霊感強いってのも何か変だな」

 腕を組み、M大の方を向いて頷いている。それを上の空で聞いていた清瀬ははたと気付く。

「ユカリ君はM大の学生だったのか?」

 ユカリはM大のある方角を向いたまま、目線だけを清瀬に寄越した。

「まぁね。経済学部だけどキャンパスは理学部と同じだから、そこに通ってたよ。……って言うかさっきも言ったし、俺がここに住んでた理由でもあるんだけど。聞いてなかったの?」

 言われて気付いたのか、清瀬は「そうか」と呟いた。同時に、動かしていた手を止めた。

「ここだな。えぇっと『地縛霊と記憶について。地縛霊とは自分が死んだことを受け入れられなかったり、自分が死んでしまった事を理解できなかったりして、死亡した時にいた土地や建物から離れずにいるとされる霊のこと。この類の幽霊が、死んだ事を受け入れられなかったり、若しくは死んだ事に気付いていないものもいたりするのは、それは、死と対面した記憶が存在しないからだ。それ故に現世に留まるのを当然の事と思ってしまう。しかしその当然だという思いが仇を為し、いつまで経っても地上を徘徊することとなる……』」

 文章を読み終えた清瀬は、慣れないことをしたせいで幾度か咳をした。その後、沈黙が訪れる。暫く、清瀬が本の頁を捲る音だけが室内に響く。

 数分経ってから、漸く清瀬が口を開いた。

「……嘘だろ。地縛霊と記憶との関係が説明してあるだけで、対処法はまっさらだぞ」

「単なる紹介本だったんじゃない?」

 二人して、今日何度目かの溜息を吐いた。

「また一からやり直しか。正直この中から目当ての本を探し出すのは骨が折れる。整理くらいして欲しい……。駄目だ、楠木さんにそんなことを望んでも無意味だ」

 清瀬は楠木と今日の午前中に出会ったばかりである事を、早くも忘れそうになっている。それ程今日は、いろいろなことがありすぎていた。

「ごめんなぁ、清瀬サン。俺がポルターガイストくらい使えれば楽だったのにねぇ」

「その話に関しては深く掘り下げない事にする」

 拗ねたような顔をする清瀬。ユカリは声を立てて笑った。清瀬はますます顔を赤らめる。清瀬はもう一度本の山に赴き、一つ一つ探し始めた。その後ろではユカリが暇そうにぷかぷかと浮いている。再開数秒後。清瀬は動きを止めた。徐に立ち上がり、ユカリを見据える。

「ちょっと待て。もう探さなくても良いかもしれない」

「……何? ネットで調べた方が楽だって事に漸く気付いたの?」

「違う。対処法が分かったんだ。後、楠木さんがユカリ君に訊いた事の意味も」

 ユカリは「訊いた事ぉ?」と首を捻らせる。

「楠木さんが出て行く前にユカリ君に尋ねた事だ」

 ユカリはその時のことを思い出したのか「あぁ」と声を漏らす。しかしその話の意図までは掴めていなかった。清瀬はユカリの方に向き直り、正座をする。

「もう一度、大学での事、それから死ぬ少し前に何をしていたか詳しく話してくれないか」

「えぇ! さっきと同じ事をまた言わないといけないの!?」

「頼む! さっきは本を探し始めていて、あまり聞いていなかったんだ」

 清瀬に頭を下げられ、さすがに恐縮したユカリは「仕方ないなぁ」と素直に話し始めた。

「俺がM大の経済学部に所属していた事はもう言ったよね。で、サークルの方はパズル研究同好会所属。この同好会はマイナーで、一年は俺、二年は篠田雄生、青葉呉葉、三年は藤岡明里、竹内海斗、四年は本橋加奈の六人だけが所属してた」

「多いのか少ないのか、イマイチよく分からないな」

 ユカリは半眼になって「口挟まないでくれる?」と文句を言った。清瀬は口を噤んだ。

「……俺と篠田は高校時代からの仲で、浪人した俺は篠田に誘われて入ったんだ。まさかの新入生は俺だけだったけど。でも、マイナーだからこそ良いところもあったよ。まず、先輩がめっちゃ優しい。特に部長の本橋先輩は凄い。パズルがド素人の俺にやり方を丁寧に教えてくれたり、歴史を話したりしてくれてさぁ。本当、あん時は良い時間を過ごしたよ。あ、でも青葉先輩と竹内先輩に関しては二人とも兼部しててね、あんまり部室に顔を出さなかったから、よくは知らないかな」

 二度目にはなるが、七年前の記憶を思い起こすのはやはり楽しいらしい。相当充実したキャンパスライフを送っていたに違いないと清瀬は思った。

「でもパズ研で一番凄かったのは藤岡先輩だな。テレビに出てもおかしくないくらいの美人でさ。そうだな。夏蓮さん級にスタイルとルックス良かったよ。夏蓮さんに足りないお色気を足したらどんぴしゃ。そんな人がなんでパズ研にいるんだよって話だけど、これは好みの問題だからね。先輩はパズルが好きだからあの同好会に入った。そこがまた良かったよなぁ」

 きっとユカリは藤岡に好意を抱いていたのだろうが、それよりも例に挙げられた楠木の事を思うと、清瀬は笑いを堪えるのに必死だった。彼女に色気が足りないことは確かだ。彼女ほど猫に小判という言葉が合う人はいなかった。

「で、本題ね。俺が死ぬ直前、と言うかその日の夜、同好会のみんなで文化祭の打ち上げがあったんだ。なかなか盛大に盛り上がったものだから、その勢いで行くことになったんだよな。それに関しては別に恨んでないよ? 楽しかったし」

「つまり、酒を飲んでからの記憶がない。もっと言えば、家に帰ってきた時の記憶がない」

 ユカリは真面目な顔で頷いた。

「うん。どうやって帰ってきたのかも分からない。もしかすると、知らないうちに死んでしまったから家に帰れてないのかも、とかそう言うことも思ってたんだけどね……」

「地縛霊である自分が、その考えを否定した」

 清瀬が代弁した言葉を聞き、ユカリは少し悲しそうな顔をした。

「体が弱いはずなのに、何故か酒には強かったし。あの時は帰りのことも考えてセーブして飲んでた。だから酒のせいだったとは言い難い。なら、どうして記憶を失ってしまっているかが分からない」

 清瀬はぱちぱちと瞬きをした。

「本当に、酒に強いのか?」

 疑われたユカリは、不服そうにしながらも肯定した。

「ビールは勿論、カクテル、日本酒、焼酎、ウイスキー、などなど。これよりも度数の高い酒とかも飲んでみたことあるけど、全っ然平気だった」

「ユカリ君、結構チャレンジャーだな」

 酒を全くと言っても良いほど飲めない清瀬は、首筋に冷や汗をかいた。

「まぁ、自分がどこまで平気か知りたかったっていうのもあったしね。だから、ますます記憶を失った意味が見いだせない」

 清瀬は暫く考え込み、状況を整理した。頭の中には、様々な事象がやって来ては通過し、流れて来ては去っていった。その間、無意識に散らかった本を片付けてしまっている事は、ユカリ以外誰も知らない。最後の一冊を本棚にしまった所で、清瀬はユカリに焦点を合わせた。

「きっと楠木さんは、ユカリ君が死んだその日、帰ってきてから何が起こったかについて目を向けたんだ。だからやっぱり、対処法としてはこれで合っている……」

 ユカリと清瀬の視線が重なった。

「これって何だよ」

 一人だけ理解できていないユカリはプクリと顔を顰めた。清瀬は真面目くさった顔をした。

「死を受け入れられない地縛霊。つまり、この世に未練を持っている者の霊ということ。ここでは、死んだ理由を知りたいという未練を差す」

 清瀬は確信した目付きで言い放った。

「ならば、ユカリ君を地縛霊から解放するためには、ユカリ君が亡くなるまでの経緯を解明してやれば良いということになる」


* * *


 楠木は一人で落ち着いて調査が出来るように、適当な調べ物を清瀬に押しつけた。その後、目的地へ向かおうと肩掛け鞄に手を掛けた時だった。楠木の帰りが遅くなった場合、どうすればいいかと清瀬がしつこく尋ねてくるものだから、楠木は思いつきで合い鍵を渡した。後から鍵を開けたまま外出する場合もあった事を思い出し、渡す必要はなかったかと考え直した。しかし、あの律儀な男が無用心な真似をさせるはずもないので、鍵は渡しておいて正解だったかも知れない。そうやって過去の自分を正当化した。

 楠木は清瀬とユカリと別れてから、真っ先にM大へ向かっていた。道中、鞄から取り出したスマホを操作しつつ、呑気に歩いていった。

 M大に着く頃にはスマホからの情報も十分に得られ、入る前にスマホを鞄に戻した。楠木はキャンパス内の地図には目もくれず、短パンのポケットからカードを取り出した。そして何食わぬ顔をしてドアの前のセキュリティー装置に翳す。自動ドアは疑うことなく開かれた。

 楠木は建物の中を堂々と歩き回った。特に同好会やサークルの多い部室棟は入念に見て回った。ある程度見当を付けながら中に入り、人がいれば適当に交わしつつばれない程度に室内を調べた。そのような事を続けること数十回。やっとの事で目当ての同好会の名が目に入った。

『パズル研究同好会』

 取り敢えずノックをしてみたが、返事はなかった。楠木は顔をにやけさせながら中に足を踏み入れた。瞬間、妙に違和感を覚えた。

 壁に掛けられた写真。机の上に積もった異様な高さの埃。閉じられたカーテン。蜘蛛の巣。錆びた知恵の輪。壊れたチェス。色がばらばらなルービックキューブ。やりかけのジグゾーパズル。近くに落ちていたファイルを手に取ってみると、ファイリングされたクロスワードパズルや魔法陣、虫食い算など数多のパズルがあった。しかしどれも、七年前より後にファイルされたものはなかった。

 何かに気付いた楠木は、もう暫く中を散策する事に決めた。ものを上げたりずらしたりしてみる。本棚に整理されたファイルやパズルの本も隈無く見当した。

 カーテンの隙間から差し込んでくる光が弱くなってきた頃、楠木は立ち上がった。床にべたりと座っていたものだから、埃が舞うわ、服に付着するわで大変な惨事になっていたが、当の本人がそれを気にするはずもなかった。

 楠木が動いたことによる風圧で、机の上から紙が一枚、ひらりと床に落ちた。楠木はその微かな動きを見逃さなかった。屈んで腕を伸ばし、落ちた紙を拾い上げる。

 ハート模様がやたらあしらわれたピンク色のメモ用紙。良く見える位置に「文化祭で必要なものの確認」と丸い文字で書かれている。その片隅には、同じ筆跡の文字が、二行に渡って極めて小さく書かれていた。一行目は大文字のアルファベットで「MIMA」の文字。二行目は十一文字の英数字が羅列されている。

 楠木ははたとして右手をズボンのポケットに突っ込んだ。硬い金属質の物が指先に触れた。そのまま取り出し、それを凝視した。

 程無くして満足した楠木は、埃まみれのまま部室から脱出した。幸いなことに、辺りに人の気配はなく、楠木は怪しまれることなく大学を去ることが出来た。

 彼女の肩掛け鞄には、拾ったメモ用紙と一冊の薄いノートが入れられていた。


 楠木が次に向かったのは、M大の近くに位置する行きつけのバー、『Anemone』だった。夕方に開店するこのバーの店主とは、顔見知りである。勿論店主は楠木の性格を熟知しているので、埃まみれで入店した彼女を即座にバックヤードに押し込んだ。

「やだ、もう! 夏蓮ちゃんったら! 久しぶりに会ったと思えば……。一体どこに行けばこうなるの!? はっ、まさか。夏蓮ちゃん家がこんな事になっている訳じゃないでしょうね!」

 高い声で文句を言いつつも、キビキビと埃を払う店主。因みに彼は男だ。

「全く! まぁーたこんなに危ない格好をして。いつか食われちゃうわよ!」

 彼は所謂、オカマ、またの名をゲイである。つまり、彼が経営するこのバーは、ゲイバーなのである。今まで黙って綺麗にされていた楠木が、漸く口を開いた。

「ミシル。今、ちょっと面白いことをやっているのだ」

 ミシルと呼ばれた男……オカマは、少しばかり警戒した。

「夏蓮ちゃんの言う『面白い』は、大抵『危険』な事ばっかりじゃない」

 伏せた目で楠木を見詰める。元々このオカマは美形で、線も細いため、特に目の余るような光景にはならない。慣れている楠木なら、なおさらの事だった。

「さぁ。場合によっては危険かも知れないが、今は不思議とそのような気は起こらないのだ」

 変わらない楠木の対応に、ミシルはクスリと上品に笑った。

「いっつもそうよね。でもいいわ。夏蓮ちゃんが強運の持ち主だって事は知ってるから」

 楠木も笑みを浮かべた。悪魔のような黒い笑み。まるで今から危険な話でも打ち明けるかのように、楠木は唇をミシルの耳元に近づけた。

 話を聞いたミシルは少し思考を巡らせると、すぐに笑顔に戻った。

「えぇ、その事なら知ってるわ。でもあんまりいい話じゃないわね。……実はうちも被害に遭ってるのよ。うちって言っても、うちの常連さんが、だけどね」

 ミシルはミシルで際どい真っ赤なドレスを着ている。ミシルは近くにあった椅子に座ると、美しい四肢を気怠そうに動かし、頬杖をついた。

「多分、夏蓮ちゃんの予想通りだと思うわ」

 橙色の光に照らされる薄暗いバックヤードの中で、ミシルの鋭い瞳が浮かび上がった。

「あれは詐欺師よ。それも、とても巧妙な、ね」

 楠木の口元が、妖しく光った。


 ゲイバーから出ると、辺りはすっかり闇に塗れ、蛍光灯の白々しい光が虚しく光っていた。

 ミシルの計らいで上カッターシャツ、下デニムのズボンに着替えた楠木に、目を付けるような不届き者は一人もいなかった。春の夜はまだ寒さが残り、薄手のカッターシャツでは少し物足りなかったが、体感温度が鈍感な楠木にとっては、特に問題にはならなかった。

 当の楠木はミシルから新たな情報を手に入れたことで、上機嫌で帰路についていた。ゲイバーからボロアパートまでさほど距離はなく、すぐに見慣れた建物が見えてきた。視力と勘の良い楠木は、夜道にかかわらず堂々と道路の真ん中を歩いた。

 アパートに着くと、側面に設置された階段から二階へ上がった。少し広めの廊下をスキップで進む。三つのドアを過ぎ、四つ目のドアの前まで来ると、ふと足を止めた。ドアフォンの上には、B204の数字と、清瀬と書かれたプレートが貼ってあった。台所の窓からは明かりが溢れている。家に戻ったのか、と楠木は頭の片隅で思った。肩掛け鞄から簡易的なメモ帳を取り出し、何やら書き付けた後、郵便ポストに入れた。その後、隣のB205号室に向かった。

 楠木宅も電気が点いていた。ユカリに対する清瀬の計らいだった。楠木は肩掛け鞄の中から鍵を取り出し、ドアノブに差し込んだ。右に一回転捻り、鍵を引き抜く。ドアを開けると、ユカリが玄関に座って待っていた。

「おかえり、夏蓮さん!」

 そんな言葉を言われたのは、いつぶりだろうかと楠木は考えた。考えても出てくるような答えではなかったため、すぐにその考えは掻き消した。

「ただいま。ずっとここで待っていたのか?」

 ユカリは立ち上がると、その拍子で宙に浮かんだ。

「いや。清瀬サンが帰って、ちょっとしてから。そんなに長くは待ってないよ?」

「そうか」

 短く返事をして、楠木は玄関の戸を閉めた。靴を脱ぎ、家に入り込む。

「それにしても夏蓮さん。いつ着替えたの? 行く前はそれで外に出ても大丈夫なのかっていうくらいの格好をしてたのに」

「そんなに微妙な服装だったのか?」

 ずんずんと居間の方へ進んでいく楠木の後ろを、ユカリがユラユラと付いていく。

「微妙って言うよりも寧ろ、際どい、かな。夏蓮さんが気にしてないことは百も承知だけど、夏蓮さんを見る赤の他人は滅茶苦茶気になるだろうね」

「そういうものなのか」

「そういうもんだよ」

 肩掛け鞄をベッドに放り投げた楠木は、卓袱台に桜色の棒キャンディーが置かれていることに気が付いた。それはラップで包まれ、メモ用紙の上に置かれている。そのメモ用紙には「ティッシュの上に直接置くな。汚い」と書かれている。楠木は思わず吹き出した。

「あ、それね、清瀬サンがやってくれたんだよ。『どうせ後で食べるつもりなんだろ』って不服そうに言ってたけど、なんだかんだ言って面倒見いい人だよね」

 楠木は棒キャンディーを掴み取ると、辺りを見渡した。片付けられた部屋が目に入る。楠木はフンッと鼻を鳴らし、笑みを浮かべた。

 楠木は無言のままノートパソコンのある机まで近付き、引き出しを開いた。大量の棒キャンディーの中に、ラップ仕様になったキャンディーを大切に仕舞い込む。

「え! そこに入れんの!?」

「明日食べるからな」

 ユカリは楠木の奇行動に、頭を悩ませた。

「せめて、机の上に置いとくくらいにしとこうよ」

 ユカリの言葉に意味を見いだせない楠木は、ただ首を傾げただけだった。


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