壱 楠木夏蓮②
所変わって、楠木宅の居間。楠木、清瀬、ユカリの三人が卓袱台を囲んで座っている。
玄関先での一騒動から、それからまた一悶着あって、今に至る。もう少し詳しく説明するとすれば、その原因は清瀬にある。ある事に気が付いた清瀬が気を動転させ、文章にならない言葉を発しながら騒ぎ立てた。近所迷惑を気にしたユカリが一旦落ち着かせようと、清瀬を家に上げる事を楠木に提案したのである。
「それで、発狂の原因は何だ」
淡々と尋ねる楠木に対し、清瀬は眉根を寄せた。
「あなたには一番言われたくないですね、その言葉。でも、今はそれどころじゃないです」
正座をして幾分か落ち着きを取り戻した清瀬は、一息吐いてから次の言葉を口にした。
「諸説はあるかも知れませんが、大抵、幽霊というものは霊感のある人が目にしますよね」
楠木とユカリはコクコクと頷く。
「つまり、僕と楠木さんには霊感があったから、ユカリ君が見えた訳だ」
楠木は同じようにコクコクと頷いた。しかし、ユカリは首を横に捻った。
「え? 確かに清瀬サンからは強い霊感を感じるけど、夏蓮さんからは全くだよ?」
結論に行き着く前に、理論を覆される。清瀬は頭を抱えた。
「そんな事、どうして分かるんだ?」
「んー、何故かは俺にも分かんないけど、分かっちゃうもんは仕方ないよなー。それが幽霊ってもんじゃないの?」
軽い返事に信用度を下げつつも、こんな所で嘘を吐く必要性もないだろうと清瀬は考えた。暫く考え込み、「仕方ない、まとめて考えよう」と呟く。その後、再び話し始めた。
「結論から言いますね」
清瀬は卓袱台に両手をつき、楠木を見据えた。彼女は半ば心此処に非ずという表情をしているが、清瀬は負けじと眼力を強めた。
「霊感無しで幽霊は見られない。ましてや、霊感のある人でさえ幽霊に触れる事は出来ない」
楠木とユカリは互いの顔を見合わせる。楠木は徐に動き出し、ユカリの頭を撫でた。肩を掴んで揺らし、片方の腕を持って振り回す。満足いくまで戯れた後、二人は静かに座り込んだ。
「見えるし、触れるぞ?」
「えぇ、そうですね。でも見ませんでしたか? 振り回されている間、ユカリ君は物に当たりそうになる度に通り抜けていましたよ。それにほら、この通り」
清瀬は右腕を伸ばし、ユカリの肩を掴もうとする。しかしその行為は為されることなく、呆気なくユカリの体を通り抜けた。腕を上下しても、その状況が変わる事はなかった。
「確かに通り抜けているな。気が付かなかった」
「ほんとー。ナチュラルなボディタッチだったから俺も気付かなかったなぁ」
楠木はユカリのあちこちを触り、ユカリは楠木や物のあちこちに触れた。本来感覚がないはずのユカリでさえ、しっかりと楠木に触れることが出来ている。どうやら、楠木とユカリ同士では触れ合うことが可能らしい。
「だが、清瀬。決して有り得ないわけではないだろう? 例外も存在するはずだ」
意外と幽霊の肌触りを気に入ったのか、楠木はユカリに抱きつき、頭を撫で回す。ユカリは耳まで赤くなって、目を右往左往させていた。
「そそそ、そうだよ! 実際、触れてるんだしね! あ、後、夏蓮さん、ち、近いです……」
僅か数センチの距離にあった楠木の顔を押し退ける。楠木は顔をキョトンとさせ、素直にユカリから離れた。緊張から一気に解放されたユカリは、安堵した後、久しぶりに人と触れ合ったなと感慨に耽る。
「そう、ですか。原因が不明な点は煮え切れないところですが、事実は事実ですし……」
未だ納得のいかない表情をする清瀬も、目の前の例外な事象を渋々認めた。それを見た楠木は、卓袱台に頬杖を付いた。
「それ以上に、私にも気になる事があるのだが。なぁ、ユカリ」
突然名前を呼ばれて、ユカリは急速に意識を現実に引き戻された。
「な、何?」
「私はユカリを見ることが出来る。しかし、此処へ越してから三週間、一度もお前を見たことがない。それは何故だ? お前曰く、今の私にも霊感はないのだろう?」
そもそも霊感のない楠木が、今日突然幽霊が見えるようになった、というのはおかしい。質問の意図に気が付いたユカリは、一旦頭の中で言葉を選んでから、口を開いた。
「えーっと、それはね」
ユカリは頭をポリポリと掻いた。
「単に隠れてただけ、かな」
楠木と清瀬の冷たい視線がユカリに突き刺さる。ユカリは冷や汗をかくような気分を味わった。清瀬からはともかく、楠木からの視線はなかなか痛かった。
「いや、別に遊んでたわけじゃないよ!? 七年前の時点でこの部屋に入居する人なんていなかったんだ。だから三週間前夏蓮さんが突然やって来て、こっちだってびっくりしてる。それにもし霊感のある人だったらって思うと、俺の姿を見て騒がれるのも嫌だったし……」
言葉の語尾を小さくしていくユカリ。清瀬が首を捻りながらユカリを凝視していたからだ。
「霊感のある人と無い人とは、分かってしまうものなんじゃないのか?」
「……分かるって言ってもね。それとなく近づいて、それとなく雰囲気を理解するってだけだからさ。それに夏蓮さんの場合、霊感無いって分かっても安心出来なかったし」
今度は、楠木が「安心できないとは?」と、首を傾げた。
「見えていないはずなのに、俺の通った後をキョロキョロ見るわ、突然後ろを振り向くわ、本当は気付かれているんじゃないかって気が気じゃなかったんだよ」
楠木は苦い顔をするユカリを見詰め、「そういえばそんなこともあった気がするなぁ」と呟いた。清瀬はユカリの説明を聞いて、合点のいった顔をしていた。
「そうか。やはり、以前の楠木さんでもユカリ君を見ることは可能だったんだ。つまり、姿を見られる事に怖じ気づいた君が、三週間ずっと楠木さんの視線から逃げていた訳だ」
ユカリは「そう、そう」と肯定した。
「って、いやいや、待って! 怖じ気づいてないって! 騒がれるのが嫌だっただけで」
必死な顔で訂正を入れるユカリを見て、清瀬は溜息を吐く。
「……なら、楠木さんの得体の知れなさにたじろいだユカリ君は、隠れて過ごすことを決意した。これで万事解決だな?」
「何も解決してないよ!? 恐怖の原因が俺自身から夏蓮さんに移行しただけじゃないか!」
「ユカリが姿を現すこと自体を躊躇っていたのだから、根本的に言えば正しい表現だろう」
楠木にも言われ、ユカリは言い返す言葉を失ってしまった。口をぱくぱくと開閉させ、遣り場のない思いを頭の中でぐるぐると巡らせる。
「でも、楠木さんも楠木さんですよね。三週間も同じ部屋にいたのなら、気付いていても良かったはず。相当鈍感だったのなら話は別ですが」
言いたい気持ちを図らずも清瀬が代弁してくれたことで、ユカリの顔に活気が戻ってくる。
「そうだよ! いっそのこと気付いてくれたって良かったじゃないか!」
転じて非難の対象になった楠木は、目を伏せ、眉根を寄せる。
「無理を言うな。今の今まで、私の概念の中に幽霊というモノはこの世に存在していなかったのだ。それを、何だか様子がおかしいからと言って、安易に幽霊と関連づけられるわけがなかろう。私の気のせいだった、と丸く収めてお仕舞いなのは目に見えているはずだ。それともなんだ、ユカリは私に何かを求めていたのか?」
正論を突きつけられたユカリは、自分の安直な発言に気付いて反省した。口を噤み、目線を斜め下に向ける。清瀬の方も楠木の言い分を納得したのか、押し黙った。
「まぁ、いい。お陰で私のもとに神が降臨してこない理由が分かった」
「は?」
真面目な顔でとんでもない事を口走る楠木に対し、清瀬は目を大きく見開いた。一方、三週間の間に何度もこの呟きを聞いてきたユカリは、また始まったな、と苦笑していた。
「一人だと思っていた部屋に、実はもう一人いた。その把握と事実のギャップから、私の中に神は降りてこなかったのだ!」
「待ってください。初めの方は分かるんですけど、最後の『神が降りてくる』って何ですか」
「詰まるところ、私はそれを認識したのだから、今度こそ集中できるという事!」
「楠木さん! 質問の答えになってないです!」
抗議する清瀬をよそに、楠木はふらりと立ち上がる。そのままノートパソコンの載った机に向かった。その行動に意味を見いだせない清瀬は、ただただ楠木の後ろ姿を見詰めるだけだった。ユカリは苦笑いを止めることが出来なかった。
「清瀬サン。今の夏蓮さんには何を言っても無駄だよ?」
楠木に気を取られていた清瀬が、ユカリの方を向いた。
「どういう事だ?」
「まぁ、見ていたら分かるよ」
ユカリはそう言って、楠木を指差した。清瀬はそれに従って暫く楠木の様子を観察することにする。理解するまでに、さほど時間はかからなかった。
椅子に座った楠木は、その後ろ姿こそ西欧人のようにスラリとして美しいのに、時々猫背になったり体を激しく動かしたりとやたら奇行が多い。何やらパソコンに向かって何かを打ち込んでいるようだが、そのタイピングの間隔は呆れるほどに短い。そして。
「違ぁぁぁぁぁあああああああああう! 何故だぁぁぁあああああ! 降ってこない! 降臨しない! 吹き抜けない! まどろっこしい! 何が原因だ! いい加減んっ……」
ダンッと机に足をぶつけた。楠木は声にならない悲鳴をあげ、椅子ごと後ろに倒れ込んだ。頭が床に激突し、鈍い音が鳴る。一部始終を見ていた二人は、さすがに楠木の安否を確かめるべく、彼女に近づいた。
「大丈夫!? 夏蓮さん!」
「大丈夫ですか!」
頭を打った楠木は少しの間顔を顰めていたが、次第にその皺は引いていった。楠木が目を開いたところで、二人は安堵の溜息を漏らした。
清瀬は屈んでいた体を起こして、パソコンのデスクトップに目を遣った。案の定、並んでいる文字の列が目に入る。しかし、その内容が頭に入ってきた時、清瀬は息を呑んだ。
「この小説の作風……、まるで夏野水蓮の作品のようだ…………」
パソコンにしがみつきながら清瀬が呟く。その後ろには、満足そうに頷くユカリの姿が。
「そうなんだよー。実は夏蓮さんってね」
清瀬はユカリの声を聞き、ゆっくりと後ろへ振り返った。倒れたままの楠木をちらりと見た後、ユカリを見据える。ユカリは年相応の、悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。
「今をときめく、超人気売れっ子小説家の、夏野水蓮先生なんだよ!!」
薄々気付いていた清瀬は、面と向かってそうだと言われ、認めざるを得ない状況に陥っていた。夏野水蓮の作品は清瀬も愛読している。不思議さを醸しつつも、読者に訴えかけるような力強い作風に引かれて、ファンになった。それ故に、どうしても、今目の前で倒れている奇怪人物が作者だとは思いたくなかったのだ。
楠木がのそりと起き上がった。後頭部を押さえつつ、机の引き出しに手を伸ばす。机の前を陣取っていた清瀬を押し退けて、引き出しを開いた。中から、大量の棒キャンディーが露わになる。楠木はその中の一つを手に取り、引き出しを仕舞った。包装を解くと、濃い桜色の、球形のキャンディーが出て来る。楠木は包装紙をゴミ箱に捨て、キャンディーを口に含んだ。
清瀬はこの光景に目を剥いていた。特に、机の引き出しから棒キャンディーが出て来たところに。そして、やはり思うのである。
何故こんな輩に、あんなにすばらしい小説が書けるのか、と。
けれども、辻褄の合う所もあった。超人気小説家であるにもかかわらず、夏野水蓮という人物は一切表に出てくる事がなかった。一時期、夏野水蓮は架空の人物ではないかと騒がれるほど、その実体は謎だった。しかし、何年経っても衰えることのない作風。毎度毎度斬新さを募らせて、読者に飽きさせないアイデア。相変わらずの気紛れな発売日。酷い時には二年以上も新刊が出版されなかった時もある。それ故に、読者達は口を揃えて言うようになった。
天才は奇人である、と。
清瀬はもう一度楠木を見た。どうしようもなく、有り得そうな話だった。
「あぁ、生き返る。クリームストロベリーサワーリトルチェリーブロッサム味は新作にしてはなかなか良いな。舌の上がホップステップジャンプするようだ」
本当に、切実に、有り得そうな話である。清瀬は観念したかのように俯いた。
「…………やっと意味が分かった」
沸々としたオーラを身に纏う清瀬。ただならぬ雰囲気を感じ取ったユカリは、思わず楠木の腕を掴んだ。清瀬は徐に顔を上げ、熱のこもった鋭い視線で楠木を射抜く。
「あの傍迷惑な狂気じみた叫び声は、スランプが原因だったんですね!?」
三人の間に横たわる時が、完全に止まった。手から力が抜けたユカリは、口をあんぐりと開けている。楠木は咥えていた棒キャンディーを落とした。こつん、ころんころんっと、それは清瀬の足下まで転がっていった。清瀬はキャンディーを拾い上げると、ズボンのポケットからハンカチを取り出して、床の汚れた部分を拭き取った。次いでゴミ箱を探し、桜色のキャンディーを捨てようとする。
その手を止めたのは、我に返った楠木だった。
「待て、待て。それは今一本しかないのだ。全部食べる!」
「床に落ちたものですよ? 一度汚れた食べ物を口に含むんですか?」
楠木は頬を膨らませた。珍しく感情を表に出している。
「水で洗えば済むことだ」
そう言って清瀬からキャンディーを奪い取り、洗面所の方へ消えていった。数十秒後、楠木はそれを咥えて戻ってくる。
「そーいへはきよせ。すらんふがなんやらほいっへいはな」
キャンディーを咥えたまま言うため、何を言っているか聞き取れない。清瀬が眉間に皺を寄せると、楠木はキャンディーを口から出してもう一度言った。
「そう言えば清瀬。スランプが何やらと言っていたな。だがな、それは断じてスランプなどではない」
清瀬は眉根を寄せたまま、口も歪める。しかし、大人しく楠木の言葉を待った。
「単に、神が降臨してこないだけだ」
「だっから、何なんですかそれは! 楠木さんこそ宗教に入っているんじゃないですか!?」
楠木に苦情を言いに来た時のように、清瀬は顔を紅潮させた。そんな清瀬に、背後からユカリが声を掛ける。
「清瀬サン。俺も憶測でしか分かってないんだけど、どうやら『神が降臨する』って言う言葉は、アイデアが閃く時に使ってるみたいだよ」
清瀬はギロリと黒目を動かした。気の毒そうに清瀬を見るユカリの姿が目に入る。
「つまり、スランプなんだな?」
「うん、スランプだね」
清瀬は半目になった。赤らんでいた顔も、元の白い顔に戻った。清瀬は新作のキャンディーを堪能する楠木を見て、結論に至る。
「要するに楠木さんが発狂しないためには、スランプに陥らなければいい。そして今、スランプから脱却するためには…………」
清瀬は大きく息を吸い、深く吐き出した。黒い瞳を楠木に向ける。
「僕とユカリ君が、この部屋から出ていけば良い。そう言う事ですね?」
「夏蓮さんが集中できるような別の場所を探すって言う手は無しなの?」
即座に突っ込まれる清瀬。しかし、今度は自分の意見を曲げることはしなかった。
「それが無理だから、自分の部屋でやるんじゃないのか? よく、慣れた場所でないと集中できないという人はいるだろう。その類だと僕は思ったんだけど」
言われてみて、ユカリも納得した。
「確かに、別の場所で集中できるなら、とっくにそこへ行ってるもんね」
頷くユカリ。不意に、その動きが止まった。「でもさ……」という否定の言葉が漏れる。
「今まで自分の部屋だったのは、今の清瀬サンの部屋だよね」
ユカリの言わんとすることを察した清瀬は、眉根を寄せて大きく首を横に振った。
「冗談じゃない。僕がどれだけ苦労して部屋に荷物を運び込んで、その上整理したと思っているんだ。今更もう一回引っ越せなんて受け入れられるか!」
「じゃあ、俺のポルターガイストでも使ってみる?」
ユカリは右手の人差し指を上向きに差し、くるっと捻った。すると、ユカリの目の前にいた清瀬と楠木の髪の毛がふわりと揺れた。
「…………それだけか?」
「…………面白くないな」
清瀬の言葉に乗じて、これまで黙っていた楠木も正直な感想を口走った。ユカリは焦りながらもう一度指を動かしたが、何度やっても同じ事しか起こらなかった。
「あっれ、おっかしいなー? 幽霊と言ったらポルターガイストの筈なんだけど」
無意識に溢れた言葉に、清瀬も楠木も呆れ顔を浮かべた。
「まさか、使ったことがないのに提案してきたのか?」
清瀬の非難がましい目線に、ユカリは絶えきれなかった。
「だ、だってぇ。使う機会無かったし! あ、でも使えない訳じゃないっぽいよ?」
「どこがだ! そんなので、よく引っ越しの手伝いを申し出たな! ちょっとした風しか起こせないのに、ましてや家具なんてなおさら動かせないだろうが!」
尤もな発言にユカリは縮こまる。ここぞとばかりに、楠木はユカリを抱き寄せた。
「まぁまぁ、そこまで批難してやるな。ユカリはユカリなりに気を遣って言ったのだ」
「か、夏蓮さぁん……」
奇人が一瞬にして救世主に見え始めたユカリは、楠木に尊敬の目線を送った。一方で、清瀬は歯軋りをし、怒りを彷彿とさせている。
「楠木さんがユカリ君に肩を持つとは……。予想外ですね……」
感情を押し殺すように、清瀬は呟いた。しかし、楠木の反応は薄かった。
「別に、肩を持ってなどいない。ただ、ちょっくら気になったことがあるのだ」
意味深な言いように、清瀬の怒りが幾分か和らぐ。それを見た楠木は、焦れるほどの時間が経った後に口を開いた。
「清瀬は私を黙らせるには、清瀬とユカリがこの部屋から出ていけばいいと、手っ取り早い方法を持ち出した。だがしかし、ユカリはその意見が採用される前に話を遮った。つまり、ユカリはまだ何か隠している、と言うことだ。まぁ、粗方予想はつくが、此処は本人から聞くのが一番良いだろう。ユカリ、そろそろ話せ」
話を振られたユカリは、渋々楠木から離れた。大人しく卓袱台の前に座る。楠木と清瀬も同じように座った。暫くユカリはもじもじと俯いていたが、意を決したのか、勢いよく立ち上がった。ベランダに続く南側の大窓に近づく。ユカリは腕を上げ、窓に触れようとした。この行動を見た清瀬は、どうせ通り抜けるだけだろうと不機嫌そうにしていた。楠木は黙っていた。
ユカリが窓に触れた瞬間のことだった。触れた部分から、青い静電気のようなものが飛び散った。同時に爆風が巻き起こり、周囲に散らばっていた本が舞い上がった。
清瀬は顔を引きつらせ、何食わぬ顔をして戻ってくるユカリを見ていた。
「な、何だ、今のは!? ……ポルターガイスト、ではないよな」
「ないない。単に出られないだけだよ」
思い通りの展開だったからか、楠木は口の端に笑みを浮かべた。
「そうだな、出られるわけがない」
二人の中で会話が成立している状況に、清瀬だけが置いて行かれる。清瀬は勢いよく楠木の方を向いて、「どういう事ですかっ」と説明をせがんだ。
「ん、つまりはこういう事だ。七年前に此処で死んだ人間がいる事は話したな? その死んだ人間が今此処にいるユカリである事も、容易に想像がついているはずだ」
清瀬は肯定した。
「何故死んだのかまでは分からないが、死んで地縛霊になったと考える事は可能だろう」
清瀬は欠けていたピースが揃い、然るべき位置に当て嵌まったかのような顔をした。
「だから、ユカリ君はこの部屋から出られない。もっと言えば、僕の考えた方法は適用出来ない。そう言うことですか!」
楠木は満面の笑みを浮かべていた。
「合ってはいるが、少し違う」
楠木の言葉に、清瀬はともかく、事情を把握しているはずのユカリでさえも顔をキョトンとさせた。楠木は二人の反応が面白いのか、ますます悪魔みたいに卑屈な笑みを浮かべる。
「結局は、私が集中できる方法は清瀬の考えた案しかない。ならばやることは一つ」
楠木は両手を広げ、まるで選挙の演説者のように懐を開いた。
「ユカリを地縛霊から解放してやればいいのだ」