甘くて苦い君の赤
バレンタインですねーっ! 無縁ですけどー!
今回はバレンタインに乗じて、初恋愛モノを書きました。うっわ〜下手くそ〜って思うかもしれませんが、大目に見てください。
『美味しい』は、『甘い』とイコールだ。
苦いのとか渋いのとか、そういうのはいらなくて、甘いことが大切。ケーキだって紅茶だって、チョコレートだって同じ。美味しいのは、ミルクとホワイト。
私はキャンディのようにそれを包む赤い包装をゆっくりと開けて、指で一口大のチョコレートを取り上げた。
ツヤツヤした、丸いチョコレート。かすかに香る、甘い匂い。私は、それをそっと自分の口に入れる。常温で保存しておいたチョコレートはすぐに溶けて、舌の上に甘みが広がる。
最後に、体温で溶けた指のチョコレートを舐めて、私はようやく息をつく。ミルクチョコレートの赤い包装紙が一つ、テーブルの上に増えた。
「やっぱり、こうでなきゃ」
そう、美味しいというのは、甘いとイコールだ。それは何にでも同じことで、当然、血だって甘い方がいいに決まっている。
私はもう一つ、チョコレートを取り上げた。缶の中に入った、赤い包装紙。それをそっと開いて、幸せの塊を口の中に入れる。
ふいに赤い夕日が差し込んできて、缶に赤い光が反射した。チョコレートが溶けていく感触を味わいながら、ぼんやりと思う。
──なんて、美味しそうな赤。
夕陽のような赤い色をした血は、きっとすごく甘くて、最上のチョコレートのような味がする。
*
目の前の透明なビーカーに、一滴の雫が落とされる。
雫は小さな波紋を起こして、ビーカーの中の液体を一瞬、真紅に染めた。赤い色はふわっと広がって、彼がガラス棒で軽く混ぜただけで消えた。
「宮野さん、そっちの試薬、そのビーカーに入れてもらってもいいかな」
私は頷いて、彼の言った通り、別のビーカーに試薬を落とした。それもまた、一瞬ビーカーの中を真紅に染めて消える。私は、たったそれだけの光景に、自分でも驚くほど魅了されていた。──いや、その光景だけに、じゃない。
私の視線は、無意識のうちに、私の横でビーカーを見比べる彼の、滑らかな首筋に吸い寄せられている。他のひととは違う、そのまっさらな肌の奥にはきっと、もっと魅惑的な赤が流れているのだろう。柏崎透。その名の通り、透き通るような黒い目が、私の目とあって、彼は微笑んだ。
「ありがとう、宮野さん。助かったよ」
彼の笑みを見ると、甘いチョコレートを口に含んだ瞬間のような高揚感が私の中を駆け巡る。私はそれを隠すように、精一杯の笑顔で答えるのだ。
「どういたしまして」
目を覚まして早々、私は自分の頰に触れて、その熱を確かめる。
どうやら、透君の夢を見たらしい。私はつい枕に顔を埋めた。
近頃、透君の夢を、よく見るようになった。それも、私が恋い焦がれてやまないあの首筋と、チョコレートを食べるような甘い血の想像を強調させるような形で。自分の妄想が具現化しているようで恥ずかしい。
枕の上で首を捻って、時計を見る。朝六時半。そろそろ、兄さんが起こしにくる。
私はゆっくりと起き上がって、部屋を出た。
ドアを開けると、正面には兄さんが立っていた。黒い髪に黒い瞳。シャワーでも浴びたのか、髪が少し湿っていた。
「おはよう、兄さん」
「おはよう、緋奈。もうご飯は作ってある。一緒に食べよう」
兄さんはにこやかにそう言った。
「ちょっと、顔洗ってくるね」
私は洗面所に向かった。冬の冷たいタイルの床は、目を覚ますのにはちょうどいい。水道をひねり、水をしばらく出してお湯に変わるのを待つ間、私は鏡で自分の姿を確かめた。
色素の薄い、染めたような長い茶髪は、天然パーマのせいで少しうねっている。同じ茶色い目は、透君の透き通るような黒い目とは違う。そんなに目立つような顔でもない。
「よし、今日もオッケー。普通の人間、だよね」
私は鏡に向かって笑ってみる。牙が伸びてる、ということもないようだ。人一倍八重歯が長いのは、外見的特徴唯一の遺伝だ。
顔を洗って洗面所を出、私は急いでテーブルにつく。甘いミルクティーが、私の朝の定番。兄さんはそれを分かっていて、必ず作ってくれるけれど、たまに砂糖を入れ忘れるからいけない。
ミルクティーを飲みながら、私はテレビを見た。
『明日はバレンタイン! みなさん、チョコレートの準備は万全ですか?』
どうやら、チョコレートの特集らしかった。
「なるほど、世間はバレンタインかー」
兄さんは新聞紙を広げながら呟いた。
「緋奈は毎日バレンタインみたいなものだな。あれだけチョコレートを食べてるんだから」
「バレンタインはチョコレートを食べる行事じゃないでしょ。女子が、好きな男子にチョコレートをあげる日なの」
「緋奈はあげないのか? チョコレート」
私は首を振る。好きな男の子なんていない。その血に焦がれているひとはいるけれど。
「兄さんは、チョコレート食べる? 兄さんが食べるなら、作るけど」
「お前が作ると甘ったるくなりそうだからパスだ。俺は大人だからな、甘いだけのは好きじゃない」
「ふーん」
私には、兄さんの嗜好が少し分からない。甘いのはあんなに美味しいではないか。苦みや渋みのない、純粋な甘み。
「ところで、緋奈」
食事を終えて立ち上がろうとした私を、兄さんが呼び止めた。
「──〈間守り〉が、近頃吸血鬼を狙っているらしい。気をつけろよ」
珍しく真面目そうな兄さんの言葉に、私はうんと頷いた。
「お前の学校にもいるかもしれない。絶対に、人前で血を舐めたりするな。あと、間守りの紋章があるやつには絶対近づくなよ。お前の好きそうな赤くて甘い血を持っていても、だぞ」
「はいはーい」
人前でなんかするものか。透君の首筋を見ても我慢できる私が、他の人の血を、欲望に負けて舐めるなんてことは絶対にしない。私は赤くて甘い血しか飲まないのだから。私は二つ返事を返して、朝食を終えた。
私がこの学校に通っているのは、学校を間守りたちから身を隠す隠れ蓑にするためだ。
本来吸血鬼である私は、人間のように勉学に励んだりしなくたっていい。血を吸えさえすれば生きていけるし、私みたいな人間の血が入った吸血鬼は、普通の食事もできる。それに、私は人間要素の方が強いから、血を吸った相手が吸血鬼になっちゃう、なんて面倒なこともない。
しかし、私たちのようなモノを良しとしない人間は少なくないようだ。私たち人ならざるモノは、間という、この世とあの世の狭間みたいな場所から来たモノで、こちらの世界の生き物に害なすこともあるからだ。
間守りは、そういう間から来たモノを抹消するという人間の組織だ。間から来たモノならば、何であろうと抹消する。私もその血を引く吸血鬼、例外ではない。迷惑な話だ。
私は踊り場に立ち止まってため息をついた。
最近は、その間守りがこの辺りで私たちを嗅ぎ回っているとかで兄さんが警戒していて、長らく鮮血を口にしていない。チョコレートの食べ過ぎは、これに起因しているのだ。
「赤い血──」
今朝の夢がフラッシュバックする。赤く染まった試薬。透君の滑らかな首筋。
あの首筋に牙をたてたら、きっと皮膚は簡単に破れて、赤くて甘い血がたっぷり流れてくるんだろう。それを飲んだら──。
「宮野さん?」
急に声をかけられ、私は驚いて肩を震わせた。
声をかけて来たのは透君だった。いつも通り、滑らかで柔らかそうな首筋を晒し、黒い透き通るような眼で私を見ている。
「そこ、寒くない?」
私は言われて初めて、踊り場の窓が開いていることに気づいた。寒さを感じないのは多分、身体の熱のせいだ。
「う、うん、私、寒いのは平気なんだ」
慌てて取り繕う。寒いのは全然好きじゃないけれど。
「そうなんだ。僕は、寒いのは嫌いだな」
そう言って、透君はこちらにやってきた。心臓が、聞こえるんじゃないかってくらいに脈打っている。
私は、さっきの言葉が聞こえていたらどうしようとか、透君の首筋が見えていることとかで、気が気じゃなかった。今の今まで考えていた透君の首筋が、驚くほど近くにある。触れるほどの距離。
透君は、私の横をすり抜けて、私の背後にあった窓を閉めた。
そういえば、風邪が流行るからとかで、休み時間は換気をすることが徹底されているのだったな、とか、どうでもいいことがぼんやりと頭に浮かんだ。
「これでよし」
透君が窓を施錠して、柔らかな笑みを私に向けた。その笑みを見た私は、ここにいてはいけないと、直感的にそう感じた。いろんなものが爆発する前に、ここから離れなければ。
「ごめん透君、私、行くね」
私は早口にそう言うと、くるりと踵を返し、階段を降りようとした。
その一歩目が、滑った。
身体が大きく泳いだ。
とっさに手すりに手を伸ばすも、手は虚しく空を切って、私は衝撃に備えてぎゅっと目を瞑った。
刹那、空を切ったはずの手を、誰かが掴んだ。
驚いて目を開けると、透君が私の手を引く、まさにその瞬間だった。
私の身体は踊り場の方にぐっと引き寄せられ、入れ替わるように透君が身を乗り出した。
慌てて手を引こうとしたが、透君は私の手を離した後だった。
透君はそのまま、階段を転がり落ちた。
「透君!」
私は階段を駆け下りた。
幸いなことに、透君は気を失ってはいなかった。透君はすぐに起き上がった。けれど、その右手は額を抑えていた。
私がそれに気づいた直後、透君の長い指先から、赤い雫が滴った。
「あ……」
血。赤い血。透君の──。
「いたた……」
透君の指の隙間を、赤い血が伝い落ちる。床のタイルの上に、赤い雫が滴る。透君の制服の白いシャツの襟が赤く染まる。首筋に、一筋の血の雫が流れる。
「宮野さん、大丈夫だった?」
私は呆然とその様子を眺めていたが、透君の言葉に、はっと我に返った。
「私なんかより、透君、頭から、血が」
「ちょっと切っただけだよ。顔だから大げさに見えるだけ」
透君は私に笑いかけた。頰を流れる血のせいで、痛々しく見えた。けれど同時に、吸血鬼の私には、たまらなく甘い、美味しそうな血の匂いもして、私はそれを指ですくい取って舐めてしまいたいという衝動を抑えるのに必死だった。
私は自分のポケットからハンカチを取り出した。できるだけ血を見ないように、それで透君の額の傷を抑える。
「ごめん透君、私のせいだ」
私は俯いた。下を向くと、透君の血のついた手が見えた。私はもう、どうしたらいいのか分からなかった。
騒動を聞きつけてか、近くの教室のひとが集まって来た。すぐに学校保健医の先生が来て、私は透君に付き添う形で保健室に入った。
ガーゼと包帯の応急処置を施された透君は、病院に行った方がいいかもしれないという保健医の言葉に首を振った。透君は自分より私の怪我を心配し、私が何もなかったことを知ると、保健医の勧めでしばらく横になっていることになった。
私は授業に行けばよかったのだが、ついさっき見た綺麗な赤い血と透君の怪我が合わさってか、頭が熱を出したときのようにふわふわして、身体が重かった。保健医も私が保健室にいることを許し、私は横になっている透君のそばで、大人しく座っていた。
私の手には、先ほどのハンカチが握られていた。
やっぱり、私は吸血鬼なのだ。
指の隙間から滴る鮮血。真っ赤で綺麗な血。夕陽の色のような、透君の血が、これにはついている。それからは、私が好むミルクチョコレートのような、甘ったるい匂いはしなかった。いつもの私なら、こういう血は舐めない。
でも、これは透君の血だった。
私は、保険医が出て行った隙に、そのハンカチをそっと舐めた。
それは、私が初めて味わう、甘くて苦い血だった。
彼の血は、これまでに舐めて飲んできたどんな血よりも、美味しかった。ただ甘いのではなく、私が避け続けてきた、苦味を含んだ血。これまで舐めてきたどんな血よりも、苦くて甘美な味。そう、ビターチョコレートのような。
私は酔ったようになって、もう一度、ハンカチを舐めた。甘みはあっけなくすぐに消えて、苦みがかすかに広がった。
彼の血の余韻が消えると、私はゆらりと立ち上がって、透君が眠っているベッドのカーテンをそっと開けた。
そこには、無防備に首筋を晒した、負傷した透君が眠っている。あの首筋に噛み付いて血を吸えば、こんな至高の血を得られる。それも、たくさん。
私は透君の首筋に手を添えて、血を吸うときのように牙を立てようとした。けれど、私はそれができなかった。
──ダメだ、できない。
彼の首に牙を立てることは、彼の皮膚に穴を開けることだった。そこで私は、これまでの生で初めて、血を飲むことを躊躇った。
──血を飲んだって、それは、透君を傷つけるだけだ。
誤魔化すように、私は透君の首筋に添えていた手で、眠っている彼の頰を少し撫でた。
──こんなこと、透君以外、しない。
私は透君から離れて、静かにカーテンを引いた。
まだ、口の中に彼の血の味が残っている。
私はベッドの側の椅子に座って、深いため息をついた。
──そっか。私は、透君の血だけに焦がれていたわけじゃなかったんだ。
ただひたすら、透君の血に焦がれているつもりだった。けれど、私が本当に焦がれていたのは、透君自身だったのだ。だから、彼の首筋を他のひととは違うと感じたのだ。
私は両手を頬に当てた。冷えた指先が気持ちいいほど、顔が熱くなっていた。
授業終了のチャイムがなってすぐ、保健医と共に一人の生徒が入ってきた。
「宮野さん、体調はどう?」
そう言って私の前にしゃがみこんだのは、隣のクラスの時田深雪と言う女子生徒だった。
「大丈夫、ありがとう」
私は彼女に頷いてみせた。彼女と話すのは初めてだ。なぜ彼女を知っているかといえば、彼女が透君の幼馴染だから。
「透は……そこで寝てるの?」
彼女はそう言って一つだけ閉まったカーテンを指した。私はもう一度頷く。
時田さんはそのカーテンに近づくと、静かにカーテンを開けて、透君を少し揺すった。
「透、師匠が迎えに来てる。起きられそう?」
すると、その声で目を覚ました透君が、時田さんを見上げた。
「師匠か……。怒ってた?」
「機嫌は悪くなかったよ。透を心配してた。でも、あっちに支障が出たら怒るかも。……ほら、起きて」
彼女は私が知らない透君を知っているようだった。師匠。ふたりの間には、師匠という繋がりがあった。私は二人の様子を見ながら、無意識のうちにハンカチを握りしめていた。
透君はゆっくりと起き上がると、ベッドから降りて、保健医が持っていた荷物を受け取った。その間も、時田さんは彼のそばでその様子をじっと見守っていた。
「今日はごめんね、宮野さん。ハンカチ、汚しちゃって」
透君は去り際にそう言った。
帰り、私はスーパーのある一角に立っていた。
兄さんと二人暮らしの私は、家事を半分受け持っている。買い物をして夕食を作るのは、私の仕事。私は、その買い物に来ていた。
兄さんと私は、本当の兄弟だ。けれど、兄さんは私より吸血鬼の血が濃く出ているせいで、スーパーの肉売り場なんかはそっちの本性が現れてしまう。だから、比較的人間に近い私が買い物をするのだ。吸血鬼も楽ではない。
私は一通り買い物を済ませて、レジに並ぼうとしていた。しかし、あるコーナーが、私の目を引きつけて離してくれない。
それは、製菓用の材料を売る特設コーナーだった。赤く塗装された、バレンタイン仕様のカートの上に、板チョコレートやクーベルチュールチョコレート、ココアパウダーなんかがずらっと並んでいる。心なしか、チョコレートの甘い匂いもした。
「バレンタイン、か……」
私は、チョコレート菓子は一通り作ることができた。自分のためによく作るから、覚えている。
──私も、作ってみたら、変わるかもしれない。
恋愛小説とかはほとんど読まないし、恋愛経験もないから、私ができることと言ったらこれだけだった。チョコレートを作って渡す。
「今日のお返しもしなきゃいけないよね。怪我、させちゃったし」
自分に言い聞かせるように口実をでっち上げ、私は一人頷く。私は手前にあるチョコレートに手を伸ばした。
ホワイト、ミルク、ビター。私の手は、その間で止まった。
いつもの私であれば、間違いなくミルクを選んでいただろう。もしくはホワイト。しかし、私は今日学校で舐めた、あの苦みが忘れられなかった。
私はビターチョコレートを手にとった。そして、それを数枚カゴの中に入れて、ラッピング用の箱なんかを買い、バターを買い足して、そそくさと家に帰った。
夕食を急いで作って、キッチンの片付けを済ませ、お風呂に入ってから、私は再びキッチンに立った。
テレビを見ながら歯を磨いていた兄さんが、いつもと様子の違う私を見て「どうしたんだ」と訊いた。
「チョコレートを作るの。今日、私の代わりにクラスメイトに怪我をさせちゃったから、そのお詫びに」
私はエプロンの紐を縛りながら答えた。手を念入りに洗って、お湯を沸かし始める。
「へーえ、緋奈がチョコレートをねえ」
兄さんは面白そうににやにや笑って、歯ブラシを咥えたまま、私の手元を覗き込んだ。その目が、ちょっと大きくなる。
「お前、買うチョコレート、間違ってないか?」
「違うって、ビターを買ったの!」
なんとなく恥ずかしくなって、私は板チョコレートの上に覆いかぶさるように身を乗り出した。
「ますます怪しいなぁ」
兄さんは私の顔をじっと見つめた。
「まあ、せいぜい頑張れよ。精一杯、美味しいやつを作ってやるんだな」
「言われなくても、そうするよ」
私が言い返すと、兄さんは口をゆすぎに行ってしまった。
「さて」
私は材料を一通り並べた。作るのは、トリュフだ。純粋にチョコレートの味を楽しむならトリュフがいい。だって今回は、ビターチョコレートで作るのだから。透君の血の味と同じ、苦いチョコレートで。
ラッピングを終えたのは、十二時を少し過ぎた頃だった。
私は目の前に置かれた綺麗な赤色の箱を眺めて、ため息をついた。
これを明日、今日のお礼として透君に渡そう。きっと受け取ってくれるはずだ。だって、口実上、これはバレンタイン仕様の、ただのお礼だから。
私はそれを冷蔵庫にしまい、すぐに眠りについた。
けれど翌朝、学校に透君の姿は無かった。
怪我が悪化してしまったのかもしれない。病院に行くのを頑なに拒んでいた彼の様子を思い出しながら、私は休み時間の廊下を、隣のクラスへと歩いた。
本当は、彼女に聞くのは気が引けたけれど、他に透君の事情を知っていそうな人を、私は知らなかった。思えば、透君は、クラスではあまり目立つ方ではない。
「あの、すいません。時田さんいますか?」
教室の入り口で話し込んでいた女子に声をかけると、「今日は深雪、休みだよ」という返事が返ってきた。
「どうして休んだんですか?」
「さあ。家の事情っぽいけど。あのウチ、しょっちゅうあるよ、そういうこと」
私はバッグの中に入っているチョコレートのことを思い浮かべた。今日中に渡してしまわないと、チョコレートはもちろん、そこに込めた諸々もダメになる気がした。
「そうですか……」
私は肩を落として教室に戻った。意気消沈したまま、席に着く。そのとき、ちょうどバッグの中でケータイが鳴った。
急いで見ると、それは透君からのメールだった。
それを開いて、私は一瞬で固まった。
『今日の放課後、ここに来てくれるかな?』
そのメッセージに添付された画像は、簡単な地図だった。どうやら、小さな公園のようだが、この地図からでは、詳しいことは分からない。でも、随分と入り組んだ場所にあるみたいだった。
一体どういうことかわけも分からずに、私はそのメッセージを閉じた。
けれどとにかく、これは絶好のチャンスだ。チョコレートを、透君に渡すことができるのだから。
放課後、私はチョコレートがバッグに入っていることをしっかりと確かめて、その場所に向かった。
地図を辿って、寒い中を歩く。バレンタインだというのに、冷たい雨が降っていて、私は赤い傘を差しているせいで、指がかじかんだ。透君は、怪我をした身体で、こんな寒い中で待っているのだろうか。そう思うと、早く行ってあげなくてはいけない気がして、私は早足になった。
十分ほど歩いて、着いたのは寂れた公園だった。錆びた遊具が少しあるだけの、周りをフェンスで囲まれた、人目につきにくい小さな公園。私はそこに入ると、ベンチに座る人影を見つけた。
私は駆け寄って、精一杯笑って話しかけようとした。
「透く──」
けれど、ベンチから急いで立ち上がったのは、透君ではなかった。
「宮野さん?」
そこにいたのは、時田さんだった。驚きを隠しきれないと言った表情で、私を呆然と見ている。傘がないのか、服の肩が少し濡れていた。
「なんで、時田さんがここに……」
雨の中を歩いて来たせいで湿ったスカートの裾が、冷たかった。私は自分の冷えた指が震えていることに気づいて、手をぎゅっと握った。
「そんな、まさかそんなことって」
時田さんが動揺した眼差しで私を見る。動揺しているのはこっちだ。
「透君は、いないんですか?」
私は彼女に訊いた。声まで震えそうになるのを、なんとか堪える。
「透は、さっき『探してくる』って言って、ここを出て行ったけど──」
「じゃあ、探して来ます」
私は時田さんの言葉を遮って駆け出した。もう聞きたくなかった。
バカな想像をして、浮かれていた自分がたまらなく嫌だった。チョコレート? そんな甘い夢、見なければよかった。こんな思いをするなら、初めから……。
私は公園から走って、少し離れた電柱の陰で立ち止まった。
傘の端から、雨水が滴り落ちる。濡れたスカートの裾からも、水が滴り落ちた。
私はバッグを開けて、チョコレートの箱に触れた。自分で選んだ、鮮血のような真紅の箱。いっそ、ここで地面にぶちまけてしまいたかった。
──いらないよね、こんなの。
私がその箱を掴んで地面に投げつけようとした瞬間、ケータイが鳴った。
「電話……」
私は赤い箱をバッグに押し込み、ケータイを取り出した。かけてきたのは、兄さんだった。
本当は、電話になんか出たくなかった。誰にも、何も言って欲しくなかった。けれど、兄さんが電話をかけてくるなんてことは滅多にないから、つい通話ボタンを押した。
「もしもし、兄さん」
『緋奈、今、どこにいる!』
兄さんの声は、こちらの心臓が跳ね上がるほど切迫していた。
私はそれにおされて、急いで電柱から離れた。電柱に書かれた住所を読み、兄さんに伝える。
「新町四丁目の、公園の近く」
『公園っていうのは、フェンスに囲まれたやつか?』
「うん」
すると、兄さんが一瞬、声を失った。そして次の瞬間、兄さんは叫んだ。
『そこから離れろ! 早く、帰ってこい!』
「ここから離れろ?」
私が眉をひそめて訊いたとき、変な音と共に、何かが私の身体を通り抜けた。
私は全身に力が入らなくなって、そのまま道の真ん中に倒れた。
『緋奈!』
その声を最後に、ケータイは地面に落下して沈黙した。
私は、私の身体から何かが流れていくのを見た。赤くて、甘い匂いがして、温かい、私の血だった。
衝撃で少し飛んだバッグから、赤い箱がのぞいている。私の血は、その色とよく似ていた。
「……嘘だ」
透君の声だった。その声は、今、私を貫いた何かが飛んできた方向から聞こえてきた。
「宮野さん……」
私はうつ伏せのまま血の海に沈みながら、透君の方を向いた。
「透君」
透君は頼りない足取りでこちらに歩み寄り、私の横にかがみ込んだ。
「そんな、宮野さんだったなんて」
そう言った彼の手から、見たことのない道具が落ちた。そこには、くっきりと間守りの紋章が刻まれていた。
そうか。そういうことだったのか。
彼が探しに行っていたのは、『宮野緋奈』ではなく『吸血鬼』だったのだ。透君には、私に吸血鬼の気配が付き纏っているように見えたから、私を呼び出して、吸血鬼を抹消しようとしていたのだろう。兄さんは、それを伝えるために電話をしてきたのだ。
師匠や、時田さんは、きっと間守り関係で繋がりがあるのだろう。だから私には、まだ。
──渡さなきゃ。
私は力の入らない手を精一杯動かして、バッグの中の赤い箱を取り出した。
「透君、これ、昨日のお礼だから……」
透君は目を見開いてそれを受け取った。赤い箱。真紅の箱。透君の血と同じ、甘くて苦いチョコレートが、入っている箱。
「美味しいと……いいんだけど」
私は力の限り、笑ってみせた。血まみれで泣いている女子なんて、透君には似合わない。だからせめて、笑っていなければ。
口の中に、少し血が入る。
──多分、透君の次くらいに、甘いな。
*
『美味しい』は、『甘い』とはイコールではない。
もちろん甘いのは好きだ。純粋に、夢を見ているような気分になれるから。けれど、時には苦味も必要だ。チョコレートだって、血だって。
私はキラキラした赤い包装紙に包まれた、丸いチョコレートを取り上げた。
ゆっくりと包装を解いて、中のチョコレートをじっと見つめる。
ミルクチョコレートよりちょっと濃い色の、ツヤツヤした丸いそれを、私はそっと口の中に入れる。常温のチョコレートは舌の上で溶けて、少しの甘みと苦味が口の中に広がる。
最後に、体温で溶けた指先のチョコレートを舐めて、私はようやく息をつく。
「こういうのもアリ、かも」
この味を知ることができてよかった。
あの日、少しだけ舐めた夕陽の色の赤い血は、ちょっと甘くてほろ苦い、最上のチョコレートの味がした。