「侃」は古典SFファンの心をくすぐるか
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侃、という漢字が好きだ。
理由は、マイクスタンドに向かってスピーチする火星人みたいだから。
「えー。みなさんはじめまして、火星人です」 > 侃
「このたび地球を侵略することになりました」 > 侃
「逆らわず、大人しく征服されて下さいね☆」 > 侃
ああ可愛い。少しなら征服されてもいいかな、と思うほどに可愛い。
フレドリック・ブラウンの名著「火星人ゴーホーム」なんて、「合←侃」というタイトルでも通じてしまうのではないかと思う。
なぜ「侃」が火星人? と思われる方のために書いておくと、昔は、火星人=タコ型生物というイメージが強かったのだ。「SFの父」と呼ばれるH・G・ウェルズが、「宇宙戦争」でタコ型の火星人を出したせいだと言われているし、原型はすでにあったという人もいる。
私はウェルズを(多分)読んだことがないので、その辺りは語れない。
しかし、火星人をタコ型として書いているSFは、それほど多くない。
ブラッドベリの「火星年代記」も、ハミルトンの「キャプテンフューチャー」も、寺沢武一の「コブラ」も、火星人はタコじゃなかったと思う。
前述の「火星人ゴーホーム」は、緑色の小人だったはず。
その後は、「火星人なんていない」という考えが主流になったので、書かれることもなくなった。
話は変わる。
私のパソコンは三年ほど前に買ったものだが、半年もしないうち、少しずつ壊れ始めた。
修理しないと、と思いながらも面倒で、放置していたら無償修理期限が切れた。
買い替えるか、と思いながらも面倒で、方向違いの努力で乗りきっている。
F8キーが効かないため、半角カナ文字は、入力モード切替で打っている。
数字キーは半分死んだ。数字も死んだが、キーに対応する「&」「%」「ー」などの記号も死んだ。「僕の大好きなトランペット」状態に近い。あっちは全部の音が出てないが。
このように半死半生の状態だったが、最近は「Ctrl」キーの効きも悪くなり、七死三生といったところ。
変換も怪しくなった。普段使わない文字が、なぜか真っ先に出てきたりする。
しかも不思議とエロ系が多い。
「成功」と打てば「性交」。「父親」と打てば「乳親」。「メイン系」が「メ陰茎」と出て来た時は、机に額を打ちつけた。
私がいない隙に、誰かこのパソコンをいじっているのではないだろうか。たとえば、乳親とか。
今日、「かつ」を変換した。自分の求めていたものが、「勝つ」か「且つ」かは忘れたが、出てきたのは、
「贏つ」
なんですかこの文字。初めて見ます。
漢検三級すら受からないであろう私が、「贏」などという字を求めるわけがありません。
調べてみると、「勝つ」「利益を得る」「余る」などの意味を持つ言葉らしい。他にも「羸、蠃」など、似たような漢字がいくつかあった。
おそらく部首は、「亡」+「口」の上の部分だろう。
「……ボーロだな」
と勝手に部首名を決めてみたが、それじゃ駄目だろうと思い調べたところ、
贏の部首→貝
羸の部首→羊
蠃の部首→虫
下半分の、「月」と「凡」に挟まれた文字が部首だった。
全然知らなかった。漢字の国の人なのに。
漢字の世界は奥が深い。
過去から現代にいたるまで、多くの人々が、その不思議さや優美さに魅了されてきた。
漢字辞典を開くたび、見たこともない文字が目に飛び込んでくる。
見知った漢字も、その成り立ちは意外なものであり、新鮮な驚きを与えてくれる。
ふと気付くと、漢字辞典という森の奥深くまで入り込んでいる。
これ以上進むのはマズい。
本能は、そう伝えている。
後ろを振り返ると、ずいぶんと遠くなった入口が、小さな丸い光となって見えている。
それは、平凡ながらも安らかな人生の象徴であり、社会の一員としてまあまあ楽に生きられるという保証でもある。
「アイツ、付き合い悪いよね。今日も漢字だって」
と同級生に陰口を叩かれることもなければ、
「ねえ。自分と漢字のどっちが大切?」
と恋人に詰め寄られることもなく、不良化した息子に、
「アンタが可愛いのは自分と漢字だけだろ!」
とゴミ箱を蹴りあげられる人生にもならず、
「……漢字ばかりじゃなくて、私も見てよ」
と娘にほろほろ涙をこぼさせる事態も回避できる。
(今なら引き返せる)
そう思いつつも、目は森の奥から離せない。
(もうちょっとだけ。あと一歩だけ。大丈夫、すぐ戻るから)
しかし、にじるようだった足取りは、次第に軽く、迷いのないものへと変わっていく。
口からは感嘆の息が洩れ、目が興奮に輝きはじめる。
この森の、なんとすばらしいこと。愛らしいこと。
吊り目の「黑」(黒)、垂れ目の「卷」(巻)。
今では固く目を閉じる「塁」が、勇ましく「壘」!と目を見開いている様には、思わず笑みがこぼれた。
生贄が羊なら、「羊」に「我」で「義」。牛なら「犠」。「我」が「のこぎり」の意を持つとは意外だった。
見よ、「靈」(霊)という字の厳かさを。自然とひざまづき、手を合わせたくなる衝動にかられるではないか。
夢中になって漢字を追う足を、叢が切り裂くのに、もはや気付くこともない。
酔っ払ったような足取りで、ふらふらと奥へ奥へと進んでいく。
口元から漏れる笑いだけが、よだれのように後へと残される。
そして漢字辞典は、自らゆっくりと頁を閉じるのだ。
迷い子を、優しく抱きしめるように。
漢字。それはあまりにも魅力的で、業の深いもの。
一度囚われたら、抜け出すことは難しい。
って、何の話をしていたかというと、「侃」という漢字が可愛くて好きです、ということでした。
後半は全然意味がありません。単なる脳味噌の暴走です。ごめんなさい。
最後まで読んでくださった方(いるのかな?)、本当にありがとうございました。
小説を書くはずが、「贏って何?」と調べていたら、こんな時間になりました。
メモ代わりに、エッセイにしてみました。