覚醒 フローラル
王子と『ハガネ』は『次元ミズスマシ』に翻弄されていた。奇怪昆虫人の中でも彼は、次元を越えての攻撃を得意とする特殊な能力を持つのだ。いきなり背後に現れて跳び蹴りをしたと思うとまた別の次元に消えていく。とらえどころのない攻撃だった。『ハガネ』も王子もこれには閉口した。『ハガネ』は『次元ミズスマシ』があらわれそうな空間に向かっていつでも拳を打てるように構えていたが、裏をかかれてしまう。とうとう『ハガネ』は『次元ミズスマシ』に首筋を噛み付かれてしまった。にやりと笑って彼は勝ち誇っていった。
「俺の次元攻撃をかわせるものなどいやしないのさ、ハッハッハ」
彼の姿がまた空間に消えていった。
『次元ミズスマシ』は人間界との間にある、『次元の谷』という空間を自在に泳ぐ特殊能力を持っている。この空間は時間の流れる川のようなものだ。それは王国側から人間界へと凄まじい早さで流れている。その川をさかのぼり王国内に入るには、人間界からは丸一日かかる。その逆は一時間程度で済む。簡単に言うと王国での一日は人間界のおよそ一ヶ月、人間界の十年は王国では三百年となる。『マンジュリカーナ』が人間界で十年過ごす間に、王国ではすでに三百年も経っているのだ。それを同期させ身体を維持しなければ、異界に到着した瞬間その肉体は滅んでしまう。それが『メタモルフォーゼ・プログラム』の中にあるコマンドのひとつ『シンクロナイズ』だ。それに似たシステムを『次元ミズスマシ』は持っている。そのうえ『次元の谷』を自在に泳げる、自由な場所に現れることが可能なのだ。
「恐ろしい相手だ、王子。加勢する」
『バイス』が王子に近づき背中合わせになった。
「すまん、俺の後ろの目になってくれるか?」
「もちろん、そのつもりだ」
『次元ミズスマシ』が王子の背後に現れた。してやったりと牙を剥いた彼は、思いもかけない『バイス』の拳に捉えられそうになった。
「ヒョッ、危ないとこだった……」
『次元ミズスマシ』は再び姿を消した。二人は決め手がないままだった。突然地面から腕がにゅっと出てきて王子の足をつかんだ。それを引いて王子を転ばすと彼は素早く細身の剣を振りかざした。
「とあっ」
『バイス』の足が剣と彼のアゴを一緒に蹴り跳ばした。しかし次の一撃は、またも空を切る。突然現れては一撃離脱、この繰り返しだ。
「さすがは『バイス』なかなか手強いわい、しかし勝つのは俺だがな。おや、あれはなんだ?」
『次元ミズスマシ』は、『次元の谷』に紛れ込む漂流物や時の流れに逆らいながら、こっちに向かってくるものを見つけた。近づくにつれそれが虹色に輝きはじめた。
「あ、あれは……」
空中では二匹のチョウが争っている。執拗な『ブラック』の攻撃パターンは、由美子のそれと寸分違わない。それを知った彼女は思った。母が何故『青龍刀』を退け、『ブルー・ストゥール』に変えたのか。ようやく巫女たちがひとり、またひとりと意識を取り戻した。
城を出発した時、由美子にはわからなかった。しかし今、目の前にいるのは本当の『リンリン』ではない、彼女が心の奥底で由美子に叫んでいるのだ。
(助けて、由美子、ごめんね、私を殺して……)
由美子はその心を知った、全ての武器はもう必要ない。そんなものでは、『ブラック』から『リンリン』を到底解放できないことに由美子は気付いた。
「私には、あなたの武器は効かないわ。何度やってもね」
確かに、空気と戦っているようで全く『ブラック』の攻撃は由美子には効かなかった。しだいに『ブラック』は焦りだした。由美子は自在に『ブルー・ストゥール』を使い飛び回っていた。天を見上げた『ダゴス』にはそれが真っ青なアゲハに映った。
「まさに、フローラル。まるで『スカーレット』を見ているようだ」
『ラベンデュラ』の霊力でやっと立ち上がり、『スカーレット』は心の中で由美子に伝えた。
「武には限界がある、さらに強い武器、強力な技、それが現れればさらにそれを越えなければならない。しかしたった一つ、変わらず強いものがある。それが愛というもの。相手をいつくしむ心があるかないか、それが一番大切なのよ、由美子。それこそ本来のフローラルの姿、気がついたのね、由美子」
由美子の瞳を見ているうち『ブラック』は次第に心の中が熱くなってきて、ついに言葉が出た。
「助けて、由美子」
由美子はにっこり笑って、彼女の手を取り、『ブラック・ダーク』を自分の胸に突き刺した。
「な、何をするの?」
「もう、戦わないでいいのよ。あなたの勝ちだから」
そういうと由美子は胸に刺さった『ブラック・ダーク』を抜いて投げ捨てた。落下した『ブラック・ダーク』は地上に突き刺さった。ミヤマカラスの身体が再び『リンリン』に戻る。由美子の翼は抱き寄せた『リンリン』の重みに絶えきれずに池に降下しはじめた。慌てて『リンリン』は叫んだ。
「放して、あなたまで水面に叩き付けられるわ」
「あなたには、まだしなければならないことがあるでしょう、死なせやしないわ」
由美子はそう言うと羽根に変形していたストゥールを再び長く青い布にして、抱き合ったままの二人を包み美しい青いまゆにした。
「これで少しは衝撃が和らぐわ、後は信じることね、彼らが間に合うことを」
二人は飴色のタガメが池に入るのを見た。もちろんそれは、ようやく再生した少し短い左手を懸命に動かす『スタッグ』だ。
「すまんが背中を借りるぞ、『スタッグ』」
返事も聞かず、背中に飛び乗ったのは『ドモン』だ。落下点にたどり着くと、仰向けになった『ドモン』が、八本の足でまゆの衝撃を殺して器用に受け取った。




